気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1944年3月31日 「戦争犯罪者」の裁判


先日、私はある記者会見に出席した。そこで「著名な法学者」と評される、ある新たに到着したフランス人――フランスにいる家族のために彼は自分の名前や素性を明かせなかった――が最近おこなわれたピュシューピエール・ピュシュー(一八九九年六月二十七日-一九四四年三月二十日)。フランスの実業家、政治家。ヴィシー政権で内務大臣を務めた。の処刑に対するフランス人の見方を説明した。彼が明らかに身構え、イギリス人やアメリカ人に対してピュシューの射殺を強く弁解する必要があると考えているように見えて私は驚かされた。彼によると、ピュシューは政治的理由ではなく「敵国協力」というフランスの法律では必ず死刑となる通常の犯罪行為を理由に射殺されたのだそうだ。

アメリカ人の特派員が尋ねた。「下級公務員――例えば警察の警部補――の場合でも敵国協力は同じように犯罪になるのですか?」「全く同じです」フランス人は答えた。彼はフランスから到着したばかりで、おそらくはフランス世論の代弁者と見なしてよいだろうが、実際のところは死刑に処されるのは最も活動的な敵国協力者だけであると考えるのが一般的だろう。仮にそれが本当に起きていたとして、どんな大規模な虐殺であろうとその大部分は罪人による罪人の処罰だろう。一九四〇年にはフランス人口の大部分が多かれ少なかれ親ドイツであり、ドイツ人たちがどのような人々か気づかない限りはその考えを変えなかったことに関しては多くの証拠があるのだ。

ピュシューのような人々を自由にすべきだとは私も思わないが、極めて無名な売国者で同様に処刑された者は一、二人のアラブ人を含めてごくわずかしかおらず、この裏切り者への復讐や敵の捕縛という仕事全てが道徳的にも戦略的にも疑問である。問題は、もし私たちが現時点で多くの小ネズミをあまりに多く撃ち殺しすぎれば、時が来た時に大物に対処するだけの気力が無くなりはしないかということなのである。それぞれの国に数百から数千はいる責任ある人物を処刑しないままでファシスト体制を完全に壊滅できるとはとうてい信じられない。しかし偽善的な裁判と冷血な処刑によって世論が既にうんざりしてしまって真に罪に問われるべき人々全員が最終的に罪を逃れる可能性は多いにあるだろう。

実際、先の戦争ではこれが起きている。当時を知る者の中で、この国で抱かれていたドイツ皇帝カイゼルへの熱狂的な憎しみを憶えている者がいるだろうか? 今回の戦争でのヒトラー同様、彼は私たちの抱えるあらゆる苦難の原因だと考えられていた。捕縛されれば彼がすぐさま処刑されるだろうことを疑う者はおらず、問題はどういった方法でそれをおこなうのかだけだった。油での釜茹でと車裂きのどちらが好ましいかを入念に論じる雑誌記事が書かれていたのだ。王立美術院の展覧会は地獄に落ちたドイツ皇帝を描いた信じがたいほど下品な寓意画でいっぱいだった。そうして最後はどうなっただろうか? ドイツ皇帝は退位してオランダへ亡命し(一九一五年に「癌で死にかかっていた」にも関わらず)その後、ヨーロッパで最も裕福な人間の一人として二十二年を生きたのだ。

他の全ての「戦争犯罪者」も同じである。なされた全ての脅迫と誓約が過ぎ去った後、裁判にかけられた戦争犯罪者は一人もいなかった。正確に言えば、一ダースかそこらの人々は裁判にかけられて懲役刑を言い渡されたがすぐに釈放された。そしてもちろんのことだがドイツの軍人階級の壊滅に失敗したのも連合国側の指導者の意図的政策によるものだった。指導者たちはドイツでの革命を恐れ、一般の人々が感じていた嫌悪感がそれを可能にする助けとなった。彼らは復讐できる時になると復讐を望まなかったのだ。ベルギーでの残虐行為、キャヴェル嬢イーディス・キャヴェル(一八六五年十二月四日-一九一五年十月十二日)。イギリスの看護師。第一次世界大戦中、両陣営の兵士を差別なく救ったが、ドイツ軍に捕らえられて処刑された。、警告無しに旅客船を沈めて生き残りに機銃掃射を浴びせたUボートの船長たち――どうしたわけかそれらは全て忘れ去られた。一千万の何の罪もない人々が殺された後では数千の罪ある者をさらに殺そうとする者はいなかったのだ。

偶然にも私たちの手に落ちたファシストや売国者を私たちが銃殺しようがしまいがそれ自体はおそらくたいして重要ではないだろう。重要なのは復讐や「処罰」は私たちの政策とは無関係だし、さらには私たちが夢見るものでもないということなのだ。今までのところ、この国における今回の戦争の多少ましな特徴のひとつは憎悪感情が極めてわずかしか存在しないことだ。前回見られた馬鹿げた人種差別主義は存在しない――例えばドイツ人は全員、豚のような顔をしているといった主張はされていないのだ。「フン族Hun」という言葉さえたいして広まっていない。ほとんどが亡命者である、この国にいるドイツ人たちはあまり良い扱いは受けていないが、前回のような卑劣な迫害は受けていない。先の戦争では、例えば、ロンドンの通りでドイツ語をしゃべることは非常に危険なことだった。哀れなドイツ人の営む小さなパン屋や床屋が暴徒の略奪を受け、ドイツ音楽の人気は落ち、誰も「ドイツの犬」を欲しがらないせいでダックスフンド犬さえほとんど姿を消していた。そしてドイツ再軍備化に対する初期のイギリスの態度の弱々しさはこの戦時の愚行と直接的な関係を持っているのだ。

憎悪は政策の根拠とはなり得ないものであり、実に興味深いことに、過剰な強硬姿勢だけでなく過剰な宥和姿勢も生み出すことがある。一九一四年から一九一八年の戦争でイギリスの人々は恐ろしい憎悪の狂乱へと追い立てられた。十字架に張り付けにされたベルギーの赤ん坊だとか、死体からマーガリンを作っているドイツの工場だとかいった荒唐無稽な嘘を与えられていたのだ。そして停戦となるやいなや自然な感情の急変に苦しむことになり、それは帰還した兵士たちによってさらに強められた。イギリスの兵士たちの常で、彼らは敵に対して心からの感嘆の念を抱いていたからである。その結果が一九二〇年頃から始まってヒトラーが完全に権力の座に就くまで続いた大げさな親ドイツ的な反応なのだ。そうした期間、全ての「進歩的」意見(例えば一九二九年以前のデイリーヘラルド紙の適当な号を見ると良い)はドイツには戦争責任は無いという信仰箇条を抱いていた。トライチュケハインリヒ・フォン・トライチュケ(一八三四年九月十五日-一八九六年四月二十八日)。ドイツの歴史家、政治家。ベルンハルディフリードリヒ・フォン・ベルンハルディ(一八四九年十一月二十二日-一九三〇年七月十一日)。ドイツの軍人、軍事歴史家。、汎ゲルマン、「北方」神話、ドイツ人が一九〇〇年以来進めてきた「来たるべき日Der Tag」についてのあからさまな大言壮語――これら全ては何の意味も持たなかった。ベルサイユ条約はこれまで世界が目にした中で最大の恥ずべき行為であり、ブレスト・リトフスク条約第一次世界大戦中の一九一八年にロシア・ソビエトがドイツ側と単独で結んだ講和条約。ドイツ敗戦後に破棄された。について聞いたことのある者は少なかった。これら全てはあの四年間の嘘と憎悪の大騒ぎの対価だったのである。

一九三三年以降のファシストによる侵略の時代に世論を目覚めさせようと試みた者は誰であれ、あの憎悪の後遺症がどのような物だったかを知っている。「残虐行為」は「嘘」と同義であると見られたのだ。ドイツの強制収容所についての話は残虐な話であり、従ってそれは嘘である――平均的な人間はそう判断したのだ。ファシズムは言い表せないほど恐ろしいと公衆に理解させようとした左派は過去十五年間の自分自身のプロパガンダと戦うはめになった。

これこそ――仮にそうできてもピュシューのような人物を救おうと私が思わないのにも関わらず――「戦争犯罪者」の裁判を目にした時に私が喜べない理由だ。とりわけ相手が全く取るに足らない犯罪者で、証言者が怒りをかき立てる政治演説を許されている場合にはそうである。さらにドイツの分割や数百万のドイツ人に対する強制労働だとか、ベルサイユ条約での賠償金がバス運賃に見えるような賠償金を負わせようという計画に関わっている左派を見るとますます悲しくなる。こうした報復の白昼夢は、一九一四年から一九一八年のそれと同様、全て現実的な戦後政策を難しくするだけのものとなるだろう。もし今「ドイツに代償を払わせよう」という観点で思考すれば、一九五〇年には自分がヒトラーを称賛していることに気づくはめになる可能性が高い。重要なのは結果であり、今回の戦争で私たちが望む結果のひとつが二度とドイツに戦争を起こさせないことなのは間違いない。それが無慈悲と寛容のどちらによって最もうまく達成されるかは私にはわからない。しかしいずれにせよ自身が憎悪に感化されることを許せばそれがより難しくなるであろうことは確信している。


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