不可解な遅延の後、王立出版評議会はその仕事に着手している。何らかのはっきりとした結論にたどり着くまでには長い時間がかかるものと思われるし、その成果が実行に移されるまでにはさらに長い時間がかかるだろう。それでもやはり、今こそ社会主義化された経済で自由な出版を維持する上での問題について議論を始める時であるように私には思われる。なぜなら、それらが現実のものとなる前に私たちがその困難さに気づかなければ、この国の出版の最終的な状況は必要以上に悪いものとなってしまうからだ。
燃料危機の間、私は政府広報のまずさについて何人かの人々に語ったが、そのたびに返ってくる答えは、現在の政府はその統制下に表現のための組織をほとんど何も置いていないというものだった。もちろん、それは正しい。次に私は「デイリー紙を買収してはどうだろう――それを政府の組織として運営してみては?」と聞いてみた。この提案は決まって恐怖の声で迎えられた。どうやら出版業の国有化は「ファシズム」ということのようだが、一方で「出版の自由」はごく少数の大富豪が何百というジャーナリストに意見を偽るよう強制することを許している。しかし今のイギリスの出版界にどれほどの自由があるのかという問題については触れないことにしよう。問題は、もし国有化へと向かう現在の動きが続いたら最終的に何が起きるのかなのだ。
その主要な組織が続いていく限り、遅かれ早かれ出版業が国有化されることは確実であるように私には思われる。集産化された経済のまっただ中で、まるで自然保護区のように私企業の大きな一画が存在し続けることは難しいだろう。しかしこれは全ての表現の伝送経路が最終的には官僚の統制下に入ることを意味するのだろうか? もし最も関係が深い人々が自分たちの運命に無関心であれば、そうした事態は実に容易に起きるだろう。十分に想像できることだが、新聞や定期刊行物、雑誌、書籍、映画、ラジオ、音楽、演劇、そうしたもの全てが一緒くたにされて巨大な美術省(名前はなんでもよいが)の指導下で「組織化」されるのだ。これはあまり嬉しくない展望だが、前もってその危険に気がついていれば回避できると私は信じている。
出版の自由とは何を意味するのだろうか? 少数意見を印刷物にしておおやけに配布することが容易かつ違法でない時に出版は自由なのだと私は言いたい。イギリスはこの点においてはほとんどの国よりも幸運であり、この幸運の一部は大規模な商業出版業界に存在する多様性のおかげであると言って差し支えないだろう。その数は少ないにせよ、主要な日刊紙には政府が統制する報道機関が持つであろうものよりも多くの色合いの違いが含まれている。それでも少数意見の一番の守護者は独立系の週刊新聞や月刊新聞、書籍出版社である。そうした伝送経路を通してのみ、誹謗中傷や暴力扇動でないあらゆる意見を確実に耳に届けることができるのだ。従って、どのようにかはともかく大手出版が国有化されることが確実なのであれば、前もって次のような原則を定めてはおけないだろうか? 国有化は「大企業」に分類される出版社にのみ適用され、小規模企業についてはそのままにしておくのだ。
多くの新聞系列の所有者が資本主義者であることは明らかである。小規模出版社、あるいは月刊雑誌の所有者兼編集者も厳密に言えばそうだろう。しかし両者を同じように扱わなければならないわけではない。大規模土地所有の廃止において、小自作農や園芸農業家の数エーカーの土地を取り上げる必要が無いのと同じことだ。少数派出版社が存在し、道は険しくとも存続を期待できる限りは根本的自由は守られるだろう。しかしその第一歩は、国有化は避けがたいと理解して、それに応じた計画を策定することなのだ。さもなければ特に関係する人々、つまりジャーナリストや芸術家、役者といった人々はその時が来た時に交渉力を失い、あまり食欲をそそらない美術省が彼らの多くを飲み込んでしまうだろう。
最近、非常に発行部数が多いある新聞の編集者と話をしたのだが、この編集者は、今のところ自分の新聞はその販売だけで十分に安定してやっていけていると私に語った。彼が言うには、新聞の置かれた状況が改善されるまで、つまりずっと出費がかさむ戦前と同じ紙面の厚みに戻るまで、この状態は続くだろうとのことだ。それまでの間は、広告は収入源として副次的な重要性しか持たないだろう。
もしそうなのであれば――そして多くの新聞が今のところ広告無しで存続できると私は信じているが――今こそ特許薬への全面的な対抗運動の時ではないだろうか? 戦前は、特許薬に対して大々的な攻勢を仕掛けることは全く不可能だった。なぜなら、その内幕を暴くはずの報道機関は特許薬の広告でその生計の一部を賄っていたからだ。手始めにどこかの野心的な出版社が今では手に入れにくい非常に愉快な二巻からなる本「秘密の治療薬」を探し出して、再版してくれないものだろうか。私の記憶が正しければ、これはイギリス医師会――ともかく、どこかの医師協会だ――によって、第一巻は一九一二年頃に、第二巻は一九二〇年代に出版されたものだ。内容は既存の特許で守られた薬品の簡素なリストで、主張されている効能、成分の分析結果、原価の見積もりが記されている。論評は非常にわずかで、ほとんどの場合では必要とは言えないものだ。私がはっきり覚えているのは、一般向けに一ビン三十五シリングで売られている「疲労回復」薬の原価が半ペニーと見積もられていたことだ。
どちらの巻も一般の人々にはたいした反響を呼ばなかった。先に示した理由から報道機関は実質的にどちらの巻も無視し、今では私が何年も目にしないほどこの二冊は手に入れにくいものになっている(ついでに言えば、もし読者の中にこの本を持っている者がいれば私は喜んでそれを買いたい――特に第二巻だ。そちらの方が手に入れにくいように思う)。再出版されるなら、この本は改訂する必要があるだろう。特定の病気について治すと主張することは現在は法律で禁じられているからだ。とはいえ多くの新しい種類のごみくずが市場に出回っているのだが。しかし古いものの多くもまだ残っている――これは重要な点だ。自分ののどに流し込む代物の性質と本当の原価について人々がより明確な知識を持てるようになれば、特許薬の消費を減らすことは可能なのではないだろうか?
数週間前、トリビューン紙で、ある投書者が、なぜ自家用のタバコの栽培と加工が許されていないのだろうと尋ねてきた。私が考えるに実際にはやってみればできるはずだ。それを禁じる法律はあるが厳格に施行されているわけではない――ともかく、自分でタバコを栽培し、さらには市販品のようにそれを加工している人々を私は確かに知っている。私も以前ちょっとやってみたことがあるが、非喫煙者からしてみれば完璧な出来のタバコだったように思う。イギリス産タバコで厄介なのはマイルド過ぎてほとんど味がしないことだ。私が思うに、これは日光が不足しているためではなく土壌の問題だ。しかしどんなタバコでも無いよりはましだし、そのためにイングランド南部で数千エーカーを犠牲にすれば今年起きる可能性のあるタバコ不足の間の助けとなるだろう。しかも一銭もかからず、国からなんら歳入を奪わないのだ。
南太平洋のソロモン諸島やニューヘブリディーズ諸島で使われているピジン英語(あるいは「ビーチ・ラ・マール」語)についてちょうど読んでいたところだ。これはさまざまな言語や方言で話す住民のいる、多くの島の間で使われている補助言語だ。わずかな語彙しかなく会話に必要な部品の多くが欠けているので、驚くほど回りくどい使い方をしなければならない。例えば飛行機は「鳩と同じように飛ぶものに属するランチボート」と呼ばれる。バイオリンは「白人がその腹をこすりながら仲の良い仲間と歌う小さな箱」と表現されている。掲載されている他の引用から判断して、非常に高等なピジンであるように見える文章を紹介しよう。ジョージ六世王の戴冠式を伝えるものだ。
ジョージ王、彼は死んだ。第一の息子エドワード、彼は着衣を望まなかった。第二の息子、彼は望んだ。主教は新王とたくさん話し合った。彼は言った。「人々全員と仲良くやっていけますか?」。王は言った。「はい」。その後、主教とたくさんの政府の役人と商店主と兵士と銀行店長と警官の全員が立ち上がり、歌い、トランペットを吹いた。終わり。
同じようなピジンは世界の別の地域にもあって、そのほとんどはそれほどひどいものでもない。いくつかの例で、それらを最初に作り上げた人々は被支配民族は滑稽な話し方をするべきだという感情に影響を受けていたようである。しかし何らかの種類の補助言語が必要不可欠である地域もある。そして実際に使われている倒錯した言葉を見るとベーシック英語にはどれほど多くの利点があるかがわかる。