気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1947年3月28日 社会調査について、性病との戦い、春の訪れ


マス・オブザベーションの二月・三月期の速報を私は興味深く読んだ。この組織が最初に姿を現してからちょうど十年が経ったようである。最初、どれほどの敵意で迎えられたかを思い出すと実に興味深い。例えばニュー・ステイツマン紙では激しい非難がなされ、そこでストニアー氏はマス・オブザベーションの特徴は「象のような耳、大股ののろまな歩み、鍵穴を覗き込むことで常に痛む目」であるだとかそういったことを断言していた。もう一人の批判者はスティーブン・スペンダーだ。しかし全体的には、マス・オブザベーションやその他の社会調査に対する反対の声は保守的な意見を持つ人々から上げられている。彼らは多くの場合、大衆が何を考えているのか探り出そうという考えに本心から憤慨するようである。

なぜかと問われた時に概して彼らが言うのは、何も興味深いものは見つからない、いずれにせよ知識人であれば誰でも世論の主要な動向がどのようなものかはいつでも十分にわかっているということだ。また、社会調査は個人の自由を阻害するもので、全体主義へ向かう最初の一歩であるという議論もある。デイリー・エクスプレス紙は数年の間、こうした方針を取っていて、情報省によって設立された小さな社会調査の部署を笑い者にし、「クーパーダフ・クーパー(一八九〇年二月二十二日-一九五四年一月一日)。イギリス保守党の政治家。一九四〇年から情報省大臣を務める。詮索屋スヌーパー」とあだ名してその存在を消し去ろうとしていた。もちろんこうした反対の声の背後には、多くの問題で大衆の感情は非保守的であると露呈することに対するもっともな恐怖が横たわっていた。

しかし中には人々が何を考えているのか政府が知りすぎるのは悪いことだと心から感じている者たちも確かにいたようだ。これは政府が世論を教化しようと試みた時にそれを厚かましいと感じる者がいたのとちょうど同じである。実際にはこの両方のプロセスが実行に移されなければ民主主義は実現しない。民主主義が可能となるのは立法者と行政官が大衆の欲すること、そして理解を期待できることを知っている時だけなのだ。現在の政府がこの最後の点にもっと注意を払っていれば、その広報のいくらかは違ったものになっていただろう。マス・オブザベーションは先週、白書で経済状況に関する報告を発表した。当たり前のことだが、行政の発表に飛び交う抽象的な言葉や言い回しは多くの一般市民には何の効果も及ぼさないことを彼らは発見した。多くの人々は「アセット」という言葉にさえ困惑し、それが「アシスト」と何か関係していると思ったのだ!

マス・オブザベーションの速報にはその調査員が用いる方法についていくらかの説明があるが、非常に重要な点については触れていない。社会調査がどのように資金調達しているのか、そのやり方だ。マス・オブザベーション自体は書籍の出版や、政府や営利団体のための特定の仕事の請け負いによる自転車操業的なやり方で運営されているようである。出生率を扱った調査など、その最も優れた調査のいくつかは広告事業組合のためにおこなわれている。このやり方の問題は、一部の裕福な大組織がたまたま興味を持ったテーマについてしか調査がおこなわれないことだ。わかりやすい例で言えば反ユダヤ主義である。私が思うにこれは一度も調査されていないか、非常におおざっぱなやり方でしか調査されていない。しかし反ユダヤ主義は全くのところナショナリズムという現代の大きな病の一変異体なのだ。私たちはナショナリズムの本当の原因についてわずかしか知らないが、さらにもっとよく知ればそれを治療するための手段をもしかすると見つけられるかもしれない。しかしいったい誰が徹底的な調査にかかる数千ポンドを負担するだけの十分な興味を持つだろうか?


何週間かにわたってオブザーバー紙で、国防軍での「完璧な外観」の徹底についての投書のやり取りがあった。最新号には「徴集兵」というペンネームの何者かからの興味深い投書が掲載されていて、彼やその同僚が真鍮製品を磨いたり、手押しポンプのゴムホースを靴磨きクリームで黒く塗ったり、箒の柄を剃刀の刃で削ったりといったことにいかに時間を浪費させられているかを述べている。しかし「徴集兵」は次のように続けているのだ。

将校(少佐)が性病に関する王立軍規則の所定の読み上げをおこなった際に、彼はためらうことなくこう付け加えた。『こうした病気にかかっていても何ら恥じることは無い――ごく自然なことである。ただし治療のためにすぐに報告することを忘れないように』

言及されている他の馬鹿馬鹿しさの中で、陸軍制度の中にわずかに存在する賢明なもののひとつ――つまり性病に対する率直な態度――に反対するのを奇妙に思ったと私は言わざるを得ない。私たちが梅毒や淋病を撲滅できるとしたら、それはそれら病から罪悪の烙印スティグマを取り除いた時だろう。私の記憶が正しければ、一九一四年から一九一八年に全面的徴兵制が導入にされた時、人口の半数近くが何らかの形で性病にかかっているか、かつてかかっていたことが明らかになり、これに驚いた行政当局はいくつかの予防策を取った。戦間期には一般市民に関して言えば性病との戦いは棚上げされていた。すでに感染した者の治療には予算がつけられていたが、「早期治療センター」設立の提案は陸軍内では清教徒たちによって抑えつけられていたのだ。そして再び戦争が起き、戦争では必ず起きる性病の増加が続き、この問題を解決しようという試みが再びなされたのだ。保健省のポスターは実に腰の引けたものだったが、もし軍事的必要性でおこなわれたものでなければ、それでさえ信心ぶった連中からの激しい抗議を呼んだことだろう。

神の厄災であると考えて他の全ての病気とは完全に異なる分類にしている限りはこうした病気を解決することはできない。それによる避けがたい結果が隠秘といんちき療法である。また「清廉に暮らすことこそが唯一本当の治療である」といった言葉はたわ言である。私たちが暮らすような社会では不特定多数との性行為や売春は必ず起きるのだ。そこでは人々は十五歳で性的に成熟するが二十代になるまでは結婚しないように言われる。徴兵制と労働力移動の必要が家庭生活を壊し、大都市で暮らす若者は知り合いを作る標準的なやり方を持たない。人々をさらに道徳的にしてもこの問題は解決できない。予測可能な限りの将来にわたって彼らはたいして道徳的にならないだろうからだ。その上、性病患者の多くは自身ではいわゆる不道徳な行為をおこなっていない夫や妻なのだ。唯一の賢明な方法は梅毒や淋病はたんなる病気であって、仮に治療できなくとも予防は可能であり、それにかかっても別に恥ずかしくもないと認めることなのだ。間違いなく信心ぶった連中は金切り声を上げるだろう。しかしそうすることで彼らは自分たちの本心を吐露してしまっているのだ。そしてそうなれば私たちはこの邪悪の一掃にわずかばかり近づけるに違いない。


ここ五分の間、私は窓から公園を見つめ、春の訪れを告げるものがないか鋭い目つきで探し続けていた。雲には薄いまだらがあってその向こうにうっすらと青色が見え、シカモアの木はつぼみのように見えるものをつけている。とはいえまだ冬は終わっていない。しかし心配は無用! 二日前、ハイド・パークを入念に調べた結果、私は間違いなくつぼみをつけたサンザシの茂みを見つけたし、歌っているとは言えないまでも何羽かの鳥たちがオーケストラのチューニングのような音をたてていたのだ。いずれにせよ春は近づいていて、最近、囁かれている、これは次の氷河期の始まりなのだという噂には何の根拠も無い。三週間もすればカッコウの声が聞こえてくるだろう。いつもであれば四月十四日頃に鳴き始めるのだ。そしてさらに三週間経てば青空の下で日光浴をし、手押し車で売られるアイスクリームを食べ、次の冬のために燃料を蓄えておくことも忘れてしまうだろう。

ここ数年、春を讃える古代の詩がどれほどふさわしいものに思えたことか! 燃料不足など無く、一年中いつでもほとんど何でも手に入れられた時代には持たなかった意味をそれらの詩は持つようになった。春を祝う文章の中で私が最も好きなのはロビン・フッドのバラッドの一つの始めにある二つの節であるように思う。現代的に綴ると以下のようになる。

若枝が伸び、草地が青々となった時
葉は大きく長く
美しい森を歩くのは実に楽しい
小鳥の歌に耳を傾けながら。

ウッドウェールは歌い止むこと無く
小枝に座って
大きな歌声でロビン・フッドを目覚めさせる
彼の横たわる緑の森で。

しかしいったいウッドウェールとは何なのだろう? どうやらオックスフォード辞典はキツツキのこととしているようだが、キツツキは特筆するような歌鳥ではない。もっとそれらしい鳥が特定できないものかどうかは興味のあるところだ。


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