この本の目的は、様々な見解を明確にし誤解を正す機会を作るために、哲学者と批判者の間で――好意的なものにせよ、そうでないにせよ――とにかく議論を始めようというものである。白状してしまうと、このプログラムは、他の多くの哲学者の場合には歓迎すべきものなのだけど、いざこの巻に自分が寄稿するとなるとけっこう難しい。バートランド・ラッセルを他の哲学者と分かつポイントは、彼が自らのアイデアを表明するときに常に持ち合わせていた明晰性である。従って、さらに明晰に説明することはお呼びでない。それはもっと異なる種類の哲学のためにとっておくべきである。実際、あまりに曖昧な述べ方のために、どんな学派であれ自分好みの見解に合わせて解釈できる哲学も存在する。多くの哲学者が重要なのは、そのアイデアの重要性のためというよりは、アイデアを表明するときの曖昧さのおかげである。私としては、より厳密かつ一貫的に定式化すれば、そんなアイデアの説得力など消えうせてしまうと信じたい。バートランド・ラッセルは、断じてそんなたぐいの哲学者ではない。彼は、哲学者が、明晰性と説得力、綿密な分析と謎めいた信託の言葉を拒否することによって成功しうるという好例を示してくれた。従って、彼の哲学を後世が利用するために、論敵が批判を加えてより啓発的なものにした第2版を用意する必要などほとんどないと思われる。さらに、この文章を書いている筆者がそういう目的に一層不向きな理由がある。それは、筆者が自らをラッセルの論敵とさえ感じておらず、むしろ彼の基本的な見解についてはほとんど同意しており、彼の本を読むと常に得られた導きと啓蒙に深く感謝しているという事実である。そんなわけで、この論文がこの巻の一般的な目標に寄与するためには、別のプランを採用するよう努めねばならない。つまり、ラッセルが現代論理学に対して行なった貢献を要約することである。そうすれば、ラッセル氏は、私が不完全な要約をしたり強調するポイントを間違えたりした場合、都度まちがいを指摘してくれるだろう。それに加えて、氏のアイデアの起源についての質問にも答えてくれれば、現代論理学の歴史について価値ある情報を得られることも期待できる。そしてそれらを終えた最後にも、少なくとも幾つかの論点については、読者にも魅力的な哲学の果実を供せられるぐらいの意見の相違が残っていると考える程度には、私は楽観的である。その果実こそ、哲学的論戦である。