まず最初に、ラッセルが論理学の分野に足を踏み入れた当時の同分野の歴史に関わる範囲で、状況を概観しておこう。西洋思想を2千年間にわたって支配してきたアリストテレス論理学は、ついに記号論理学によって乗り越えられた。新しい論理学を作ったのは、ブール、ド・モルガン、パース、ペアノ、カントール、フレーゲ、シュレーダーといった人々である。現代論理学の時代を拓いたブールの仕事からは既に50年を経過していたが、重要な一般的認知を勝ち得るほどの新しいアイデアはまだ生まれていなかった。新しいアイデアは、大体どれも数学者グループの私的な産物で、彼らの哲学的バイアスのせいで数理論理学の領域に閉じ込められていた。指導的な哲学者たち、あるいはもっと適切に言うと、哲学の椅子を占有していた連中は、そうした数学者のアイデアには目もくれず、アリストテレス論理学が超克されたことも、数学的記法が論理学を改善できることも信じない有様だった。ラッセルは、28歳のときに上記の人々の著作を読み、1900年にパリの論理学会議に参加した。彼はそこでシュレーダー、ペアノ、クーチュラたちに出会った。数年後、彼は『数学の原理』を執筆し、さらに後にはホワイトヘッドと共著で『プリンキピア・マテマティカ』を著した。この本の出現をもって、現代論理学の第2期が始まったと見なされている。第2期――それは、様々な出発点と論理計算が一つの記号論理学の包括的体系へと統一された時期である。だがなぜこの著作が画期的だったのだろうか?
ラッセルの著作が新しい時代の始まりを告げた理由は、幾つかある。まず第一に技術的な理由。旧来の記号体系を超える数々の改善がなされた。そして第二に、彼が数学全体を論理学に含むという主張と記号論理学の創始を結びつけたことである。このアイデアは常に論争の的であったし、論理学者だけでなく数学者をも興奮させてやまなかった。そして第三に、ラッセルが、彼の著作において入念に厳選された表記法を作家としての見事なスタイルと一体化させ、あらゆる陣営の哲学者の注意を記号論理学に向けさせたことである。それによって初めて、記号論理学は一般的に受け入れられたのである。