バートランド・ラッセルの論理学, ハンス・ライヘンバッハ

第Ⅲ節


それではこれから、ラッセルが記号論理学に貢献した技術的改善について手短に説明しよう。

まず最初に触れなければならないのが、ラッセルが導入した命題関数という概念である。もちろん、文法的な述語をクラスと見なす考えはずっと古いもので、アリストテレスまで遡るし、ブールの論理代数もこれを広汎に応用している。だがラッセルの命題関数という概念は、クラスの概念を関係の概念にまで拡張した。それによって、数学的なアナロジーを日常言語により密接に対応させることができるという利点が得られたのである。この日常言語に対する密接な関係が、ラッセルの論理学が持つ強みの一つである。この強みは、また記述関数の理論にも見られる。ペアノが導入したイオタ記号を使うことで、ラッセルは定冠詞「the」や類似の不変化詞を理解する方法を示してみせた。そしてさらに、ペアノの表記法を、高い完成度を誇る一般的な統語論へ発展させたのである。ラッセルの概念を使うと、驚くほど言語の論理的本性が理解しやすくなる。私も、多くの論理学の授業で、ラッセルの論理学があげる効果を目の当たりにしてきた。記号論理学は、言語構造を明晰化することによって、生徒たちの心の中に眠っていた論理的能力を呼び覚ますのである。

次に取り上げるべきは、ラッセルが実質含意の使用を決意したことである。実質含意は、長い間ややこしい問題をはらむ種類の含意として知られていた。確かに、パースは、セクストス・エンペイリコスを引用しつつ、この実質含意という関係が持つ利点を見抜き、その本性を指摘した最初の人物である[1]。彼は、この含意の奇妙な結論が決して間違いではありえないことを示して実質含意の使用を正当化した。しかし、この種の命題操作を使うことで論理学の全体系が整合的に展開しうることを発見したのは、ラッセルをもって嚆矢とする。彼は、満足のいく論理学を作るためには、この点において日常言語と[論理学との間の]意味対応を放棄せねばならないことを理解していた。つまり、彼は初めて意識的に外延的な論理学を作ったのである。ラッセルは「『雪は黒い』は『砂糖は緑色だ』を含意する」のような命題を臆せず使用した。なぜなら彼には、ここで使われる『含意する』という語の意味は明確に定義できて、それゆえ最初は不合理に見えようとも本当は合理的な論理計算を導けるということが分かっていたからである。彼は日常言語によりフィットする概念の構築を極力後回しにしたが、それは、論理学が拡張されれば、もっと複雑な関係を導入することで、論理学の枠内でそれができるかもしれないと期待していたことによる。ラッセルの形式含意は、この道程の足掛かりである。彼は、この一般化された含意にさえ制限をかけることを率直に言明していたが、形式含意の方が普通に含意ということで意味されることとより密接に対応していることを理解していた。この路線の発展は、後に、メタ言語を使うことで適当な含意を定義できるというカルナップの発見に引き継がれ、そしてさらに、私が、トートロジー的な含意からより一般的な、自然法則に対応するような含意が導かれることを示した[2]

外延的操作の利点は、トートロジーの概念を定義できることである。トートロジーを真理表に基づいて形式的に定義するアイデアはウィトゲンシュタインのものと見なされてきたが、ラッセルが常にこの事実を明確に理解しており、これを論理式の定義に使っていたということを、私は全く疑っていない。[トートロジーの]論理式が表す必然性は、その論理式の構成要素たる命題の真理値が何であろうと真になるという事実から導かれる。論理命題のこのトートロジー的な特徴は、反対にそれが空虚である理由も表している。だから、ラッセルは論理式が何も語らないことをいつも力説していたのだ。同時に彼は、だからといって、この結論から論理学が余計なものになることはないと知っていた。本当は逆で、科学的思考のあらゆる形式において論理学が使われているのは、論理学が空虚であるという事実による。そうでなければ、経験的な仮定に論理式を追加することは許されないであろう。論理的な式変形は、秘密裏にそうした仮定の内容を増やすことなしに、仮定に内在する意味を明らかにしているのである。しかも、トートロジー自体は空虚であるが、ある論理式がトートロジーであるという言明は空虚ではない。そのため、複雑で新しいトートロジーを発見することは、常に論理学者と数学者にとっての課題であり続けるだろう。数学史とは、そうした予期せぬトートロジー的な関係をどんどん明るみに出していくことで、その内容の証明を表すものなのである。

ここで、ラッセルの推論と含意の区別についてコメント加えておきたい。ラッセルが『プリンキピア』を書いた頃は、まだ現在で言う言語のレベルの違い(これについては後で取り上げる)は知られていなかったが、彼は明確に推論と含意は論理的本性を異にするということを見抜いていた。含意は命題同士をつないで一つの新しい命題を作る操作であるが、推論は命題に対して行なわれる手続きを表している。ラッセルは、推論は式の中に述べることはできないと強調したが、推論を下図のように伝統的なスキーマで記号化したため、少し逆説的に見えかねない結果を招いた。

p supset q
p/q

今の私たちは、この正しい形式化は、このスキーマはメタ言語に属すると考えることだと知っている。つまり、推論は対象言語の言明においては与えることができず、メタ言語においてのみ可能なのである。後に与えられることになるこの形式化が、既にラッセル独自の、論理において形式化可能な部分と不可能な部分の区別において予期されていた。本稿のプログラムにはつっこんだ歴史的研究は入っていないので、ラッセルが記号論理学に対してなした技術的貢献については、ごく僅かな卓越したポイントしか触れることができなかった。論理の基礎についてのラッセルの見解についても分析しなければならないのだが、しかしその問題に立ち入るには、その前に論理学と数学の関係についての彼の理論を、まずは概観しておく必要がある。

原註

[1]C.S.パース『著作集』, ケンブリッジ, 1932, Vol.Ⅱ, p.199.

[2]ただしこの結果はまだ公表していない。


©2006 ミック. クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 表示 4.0 国際