バートランド・ラッセルの論理学, ハンス・ライヘンバッハ

第Ⅳ節


ラッセルの主張は、論理学と数学が同一であること、もっと正確に言うなら、数学が論理学の一部であることを示したということである。このテーゼの証明は二段階を踏んで行われる。第一段階では、正の整数、つまり自然数の定義を与え、それによって、「すべての」や「存在する」などの演算子を含む純粋に論理的な概念だけで自然数が表現できることを示す。次に第二段階で、他の数学者たちが発展させた理論と対応する形で、数学全体が自然数の概念に還元可能であることを示す。

この理論が極めて重要なことは明白である。もしこれが正しければ、数学全体がごく単純な論理的概念だけを含む論理学の言明に還元可能になるのである。複雑な数式をそういう単純な概念に翻訳するのは、人間の技術的能力の限界のため実現できないが、原理的にはそういう翻訳ができるという言明は、驚くほど深遠な論理的洞察を表すものである。数学と論理学をこのように統一することは、ボーアの原子理論による物理学と化学の統一に比せられる。ボーアの場合も、化学反応を陽子や電子だけを含む量子的なプロセスに実際に翻訳することはできないので、その結果は原理的にしか言えない。彼が科学者と哲学者の双方から賞賛を得た理由は、ラッセルの数学の論理的理論と同じで、最終的にはそういう統一があるのだという事実を示したことだった。

さて、私はここで、第二段階についての議論へ踏み込むつもりはない。数学を自然数の理論に還元できることは、大部分の数学者が可能だと認めている。ラッセル自身が与えたこの理論の面白い変奏に、無理数を有理数のクラスとして考えるものがあるが、これの原理全体は、彼が第一段階で行った分析の範囲内から導ける。そこで私たちは、これと関連する抽象の原理について見るとしよう。

では早速、第一段階の検討に踏み込もう。ラッセルの数の定義は、「同数」の概念は数の概念に先行するという事実の発見に基づいている。これは、カントールの集合論において既に予期されていた発見である。カントールの集合の同等性の概念を使って、ラッセルは二つのクラスの要素間に一対一対応がつけられるなら、そのクラスは同じ数を持っていると定義した。例えば、ブラウン、ジョーンズ、ロビンソンから成るクラスを考えると、このクラスは、ミラー、スミス、クラークから成るクラスと同じ数を持つ。なぜなら、この二つのクラスの要素間には一対一対応をつけられるから。ここでラッセルは、ブラウン、ジョーンズ、ロビンソンから成るクラスと同じ数を持つ全てのクラスのクラスを、数3を構成するクラスだと考えた。従って、数はクラスのクラスということになる。

一見すると、とても単純な論理的要素のように見える数という概念を、物理的な事物のクラスのクラス、あるいは全体の全体などという複雑な概念として解釈するのは、奇妙に思われるかもしれない。クラスのクラスは、非常に多くの見知らぬ対象まで含む概念だからである。しかしラッセルは、この定義が数に必要とされる性質をすべて与えることを示した。例えば「この部屋には三つの椅子がある」と言うとき、私たちが言いたいのは、その椅子のクラスと他のクラス、例えばブラウン、ジョーンズ、ロビンソンのクラスの間に一対一対応の関係が存在するということである。この関係は、次のように言うこともできる。もしブラウン、ジョーンズ、ロビンソンが椅子に座れば、余る椅子はなく、かつ全員が椅子に座れる。クラスのこの性質こそ、私たちが「このクラスは数3を持つ」と言うことで表現するものである。そして、ある性質を持っているということは、あるクラスの要素であるということに翻訳可能であるから、この性質はまた、椅子のクラスは、上の定義によって数3と呼ばれるクラスの要素である、という言い方もできる。

この数の定義は、ラッセルによって論理学の画期となった抽象の原理の具体的な応用例である。抽象によって性質を定義することは、普通、関連する対象間の共通性質を抽出する規則として解釈されてきた。ラッセルは、「これこれの諸対象が共有する性質を考えよ」という規則がいかがわしい形式であることを理解していた。彼はこの規則を「相互に所与の関係を持つ全ての対象から成るクラスを考えよ」という規則で置き換えたのである。つまりラッセルの共通性質の定義は、内包的というよりもむしろ外延的である。ここにも外延性の公理が作用していることが見てとれる。ラッセルは外延的な定義以上のものは不要であることを示したのだ。共通性質について言いうることは全て、ある物がそのクラスの要素であるという言明によって置き換えられる。例えば、「緑」が何を意味するかを述べるためには、私たちは緑色の対象を指差して、「もしこれと同じ色を持っているなら、その物は緑色である」と定義すればよい。従って、「緑」という語の意味は、「これと同じ色を持つ物のクラスの要素であれば、その物は緑色である」という言明によって定義可能である。この種の定義に現れている抽象の原理は、オッカムの剃刀の応用であることが分かる。もし私たちが「緑」という語を、定義されたクラスのメンバーシップから区別しようとするなら、それは「不必要な実体の増加」であろう。これと同じ意味で、ラッセルの数の定義は、オッカムの剃刀の標準的な応用例である。

抽象の原理は、問題となっている性質を決定する際に物理的対象を指示する。従って、上のような数の定義は、一種の直示的定義である。例えば私たちは、数3を定義するために、ブラウン、ジョーンズ、ロビンソンのような対象を指し示し、「私たちはこのクラスの数を3と呼ぶ」と言う。ところがラッセルは、直示的ではない数の定義も与えている。そこで私たちは、その定義の本性を分析せねばならない。

数1の論理的定義は、次のような形式になる。

(F ∈ 1) = Df (∃x)(x ∈ F ) • (y)[(y ∈ F ) ⊃ (y = x)]

この定義の言わんとするところは、もしクラス F が、F のいかなる要素も F の要素と同一であるような要素を持つならば、クラス F は数1を持つということである。同様にして、クラス F が数3を持つということを、次のように書くことができる。

F ∈ 3 = Df(∃x)(∃y)(∃z) • (x ∈ F ) • (y ∈ F ) • (z ∈ F ) • (x ≠ y) • (y ≠ z) (x ≠ z) • (u)[(u ∈ F ) ⊃ (u = x) ∨ (u = y) ∨ (u = z)]

この定義も、物理的対象を直示的に指示していないので、やはり論理的定義である。確かに、この定義は三つの記号、すなわち存在量化子を含んでいるので、三つの物理的対象を外延的に表している。しかし、この定義はそれらの対象を指示しているわけではない。なぜなら、定義の中に現れる記号について語っていないからである。例えば、私たちが「緑」という語を常に緑色のインクで書いて、「緑とはこの記号の色である」と言うような場合は話が別である。この種の定義は、定義の中に現れる記号の性質を指示しているので、直示的定義になる。

ラッセルの論理的定義の成果を明確に理解するために、彼の数1の定義について考えてみよう。この定義においては、「1」という語の意味は、「性質 F を持つ物が存在する」という術語を含む別の幾つかの術語の意味に還元されている。私たちがこの定義を理解しようとするなら、「性質 F を持つ物が存在する」という文の意味が分からなくてはならない。これはラッセルの意味での原始的術語である。いま、この術語が実際に「1」の意味を含んでいることは明白である。例えば、私たちは、バスケットの中にリンゴが一つしかない場合でも、「バスケットの中にリンゴが一つある」という文が真であることを、間違いなく知っている。やろうと思えば、少なくとも二つの対象が考えられているときにのみ存在言明が真になるように存在量化子を定義することもできる。私たちが存在量化子を適用するときには、これが「存在する」という言葉の普通の意味でないことを知っていなければならない。従って、「少なくとも一つ」という術語の意味は、ラッセルの数1の定義に先立つものである。といっても、循環定義にはなっていない。なぜなら、定義が示すように、1の意味は、原始的術語のかなり複雑な組み合わせによって与えられるのであり、「少なくとも一つ」はその組み合わせの一構成要素に過ぎないからである。

ここで、ラッセルの自然数の定義を、ペアノの公理的定義と比較してみよう。

ペアノは有名な五つの公理において、自然数の形式的性質を述べた[3]。彼の公理群は、「最初の数」と「後者(successor)」という二つの未定義概念を含んでいる。ペアノはこれらの公理を使うことで、自然数が何であるかを定義した。彼の定義は再帰的定義であり、従ってこの定義は、もしあるものが二つの基礎的概念から公理が述べる規則に沿う形で導けるなら、それは自然数である、という風にパラフレーズできる。周知のように、ペアノの定義は、実際の自然数によって与えられる定義よりも広い解釈を許す。例えば、後者を適切に定めることで、偶数の全体もペアノの公理を満たす。ゆえに、ペアノが定義した系列(series)には、[自然数より]もっと一般的な数列(progression)という名前が与えられている。この結果から、全ての公理的定義や暗黙的定義の場合と同様、形式的体系とその解釈を区別しなければならないということが分かる。

このことは、幾何学を例にとると分かりやすいかもしれない。ヒルベルトがやったようなユークリッド幾何学の公理的構築は、基礎概念の全ての内的性質を網羅しているわけではないが、形式的体系を現実に適用するためにはそうした概念の対置的定義で補完する必要がある。例えば、直線を光線、点を物質の微小な部分、合同を固体の振舞いの中に見られる関係として解釈するなどしてヒルベルトの体系に対置的定義を使うと、物理的幾何学が導かれる。この形式的体系は他にも多くの解釈の余地を残すが、他の解釈は私たちが物理的幾何学と呼ぶものを与えないのである。

同様に、自然数列を表すようなペアノ体系の解釈は、数ある解釈のうちのたった一つだけである。ここでも、ペアノ体系に解釈を与えるラッセルの定義が問題になる。ラッセルの定義は、数1と後者関係を定義するために使うことができる(定義を明確にするためには、ここで、ペアノが使った数0ではなく、1を使うのが分かりやすいかもしれない)。後はペアノ公理に任せれば、全ての数がラッセルの意味でクラスのクラスになることが導かれる。こうして得られた体系を、ラッセルの解釈におけるペアノ体系と呼べるだろう。私たちがあらゆる局面で応用できるのは、この体系なのである。

ラッセルは、ペアノの定義と自分の定義を数学的帰納法の原理の議論において結びつける必要があることを認識していた。この原理は再帰の原理とも呼ばれ、有名な n から n + 1 への推論で使われるもので、多くの数学の証明に応用されている。もし数1が特定の性質、例えばある等式を満たすという性質を持ち、かつ、数 n がこの性質を持つならば数 n + 1 もこの性質を持たねばならないことが示された場合、私たちは全ての数がこの性質を持つことが証明されたとみなす。ではこの推論の妥当性はどうすれば知られるだろう? 私たちが実際に行なう推論は有限回のステップに限られており、無限回のステップを踏むことはできない。従って、この意味で帰納法は全ての数に拡張できるわけではない。そのため、ポアンカレなどは数学的帰納法の原理は総合的ア・プリオリな性質を持つと考えていた。この問題に非常に単純な解決を見つけられると見抜いたのが、フレーゲとラッセルだった(二人は独立に解決へ辿り着いた)。その解決とは、この原理は自然数の定義の一部を構成するものと考えなければならない、というものである。帰納の原理によって、ある数列はこの性質を持たない別の数列から区別されるのであり、この性質こそが、ずっとラフな言い方で「全ての要素の数は無限だが、数列の各要素は有限回のステップで到達できる」と言われる特徴を表すものである。

この概念をラッセルの定義に使うためには、帰納法が可能なのはひとえに再帰的定義が持つ、ある特異性のおかげだということを認識する必要がある。ペアノの体系は三つの基本的な概念「最初の数」、「後者」、「自然数」を含んでいる。だが未定義概念なのは最初の二つで、「自然数」はその二つを使って定義される。従って、対置的に定義する必要があるのは最初の二つだけであり、三つ目の概念の解釈は与えられた二つの対置的定義を形式的体系と結びつけることで決定される。言い換えれば、体系に属する物理的対象の全体は、二つの基本的概念を解釈することによって再帰的に定義される。

この点を明らかにするために、有限数に限定した簡単な例を考えてみよう。まずはじめに、一匹のピンク色の羽を持つオスのハエがいるとする(アダムと呼ぼう)。そして、ピンク色の羽を持つハエの子供は父親と同色の羽を持つという一般的な法則があるとしよう。このとき、「アダムから導かれる同色の一族」という術語を次のように定義する。

  1. アダムはこの一族に属する。
  2. この一族に属する任意のハエのオスの子供は、父親と同色の羽を持つ。

一族全体を決定するには、この二つの定義だけで十分である。そしてこの全体こそが、私たちが「アダムから導かれる同色の一族」という名前を与えたものである。ある段階でピンクの羽を持つオスの子孫がいなくなったり、そもそもオスの子孫が生まれなくなることはありうるから、おそらく一族は有限であろう。しかし、一族全体に対して直接的な定義――つまり、アダムとの関係を調べずとも個々のハエがこの全体に属するか否かを決定する定義――を与える必要はない。これと同様の意味において、自然数の全体も、最初の数と後者関係が定義されて、帰納の公理によって全体への限定が付け加われば、すぐに定義される。

ラッセルの数の定義によって与えられたペアノの公理の解釈は、妙な特性を持っている。つまり、幾何学を物理的に解釈する場合と違って、ペアノの未定義概念を経験的術語に帰さないのである。私たちがラッセルの数1の論理的定義を使うとき、ペアノの体系には何ら新しい概念は付け加わらない。数1の論理的定義で使われている概念はすべて、ペアノの形式的体系でも同様に使われている。例えば、数列の各要素は一つ、かつただ一つの後者を持つという言明を形式化すると、存在量化子の後に全称量化子と同一性記号を使う数1の定義と同じやり方で書ける。従って、ペアノの体系のラッセル的解釈は、論理的解釈と呼ぶべきものであり、経験的解釈とは区別せねばならない。

このため、ラッセルの数の定義はペアノの体系の解釈ではなく補完と見なすことができる。彼の数1の定義は、簡単にペアノの五つの定義に第6の定義として追加できる。同様に、後者関係の定義も純粋に論理的な方法で表現できるし、それを7番目の公理として追加できる。こうして完全なものとなったペアノの体系では、もはや「最初の数」や「後者」は未定義概念ではなくなる。こうして、ペアノの体系はその暗黙的定義の体系としての特徴を失うのである。最初の五つの定義に使われていたときは、この二つは6番目と7番目の公理で言われていることの省略形として存在していたに過ぎない。それどころか、無限公理以外のペアノの公理を証明することさえ可能である。無限公理は数学全体を展開する前に含意項(implicans)として書かねばならない条件であろうから、数学は究極的には含意の体系として考えられるのだ。

以上より、自然数の論理的定義を与えられるというラッセルの主張は正しいと思われる。また、数学で使われる数1の意味は彼の定義に表現されており、ペアノの五つの公理において暗黙的に定義された術語と見なされている間は、数1は完全には定義されていなかったという主張も正しいと思う。このことは、ペアノの五つの公理が、系列の各要素は一つ、かつただ一つの後者を持つという言明において、ラッセル的な意味での「一」の完全な意味を使っているという事実からも明らかである。この表現の形式化において、ラッセルの「一」の定義で使われている全ての意味が必要とされていることが見て取れる。この結果を使うことで、形式主義者の解釈にはラッセルの数が暗黙的に含まれていると言うことができる。つまり、「一番目の後者」、「二番目の後者」、「十二番目の後者」等々の表記にラッセルの数が現れているのである。形式主義者がペアノの公理を算術に応用するとき、彼らが使っているのは未定義の要素ではなく、こうした後続数である。ラッセルが言っていることはただ、これらの数は体系の未定義要素の解釈のために使われるべきだ、ということである。これを拒否することは、ただの逃げ口上であろう。

ここで、物理学に算術概念を応用することに関して一言付け加えておきたい。形式主義者には、この応用を、経験的な対置的定義に基づく幾何学の応用と同じタイプのものだと見なす傾向がある。最初にこの概念を打ち出した人物はヘルムホルツである[4]。彼は、例えば加算の概念は様々な物理的演算によって現実化することができると説明する。ただし私たちは、その演算が本当に加算が満たすべき性質を備えているか否かをチェックしなければならない。例えば、リンゴが一つも入っていないバッグをリンゴの入っているバスケットに加える場合、この演算は算術の加算の特徴を持っている。逆に水素分子と酸素分子を高温で混ぜ合わせる演算は、加算の性質を持たない。なぜなら、これらの分子は原子に分解して水分子として結合するので、水素分子と酸素分子の和が水分子の数にならないからである。この概念は、算術の基本要素に関する経験的な対置的定義は不要であるという、算術の論理的解釈と矛盾するような印象を受ける。

私が思うに、この矛盾は次のようにして取り除ける。私たちはしばしば、経験的なタイプの対置的定義を使うことでヘルムホルツの意味での算術を応用している。しかしそれ以外に、ラッセルの意味での純粋に論理的な応用も存在する。それは、算術の演算子が対象の物理的変化に関わらない場合にのみ与えられる。例えば、7個のリンゴに5個のリンゴをラッセルの意味で加えることは、5個のリンゴのクラスと7個のリンゴのクラスがそれぞれ個別的に存在する限りにおいて、この二つのクラスは12個のリンゴを含む一つのクラスとして考えられる。ラッセルの加算の概念は、結合されたクラスが物理的プロセス――例えば、先の二つのクラスが与えられたときに、リンゴを一つの同じバッグに入れるというような――の結果であるときに有効か否かを述べるものではない。そういうプロセスにおいても算術的加算について語りうると言うのは、ヘルムホルツの方である。その場合、私たちは算術的加算の記号を論理的には未解釈のまま残し、代わりに経験的なタイプの対置的定義を使うことで加算を解釈している。数演算の論理的定義は、物理的変化が伴わない限定的なケースの経験的定義として見なすことが可能なのである。論理的定義は物理的な仮定に依存しない。なぜならその応用は、演繹論理学の全ての言明がそうであるように、空虚だからである。ゆえにそれが導くのは言明の論理的変換に過ぎない。算術の実用的価値は経験的なタイプの対置的定義との頻繁な結びつきから得られるのは事実だが、しかし、純粋に論理的な数の定義がなければ、そのような定義は役に立たないことも確かであろう。上記のような場合、私たちは、経験的に定義された加算は論理的に定義された加算と同じ結果を導くと言う。もし数が論理的定義が与える意味で使用されていなければ、算術を物理的演算に応用することはできないだろう。この事実を指摘したことが、ラッセルの論理学が持つ歴史的意義である。

原註

[3]少なくともこれは、現在の私たちにとってのペアノの公理であり、フレーゲとラッセルの仕事を基礎としている。ペアノ本人は、自然数を第三の未定義概念と考えていた。どうやら、全ての公理を総合的なものと見なしていたようである。

[4]H.V.ヘルムホルツ『数と集合の認識論的基礎づけ』(1887)。シュリック-ヘルツによる再刊『ヘルムホルツ認識論集』(ベルリン, 1921)p.70.


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