バートランド・ラッセルの論理学, ハンス・ライヘンバッハ

第Ⅴ節


さて、そろそろラッセルのタイプ理論を論じなければならない。自らを含まないクラスのクラスについての二律背反を発見した後、ラッセルは関数の関数、またはクラスのクラスのあまりに無制限な使用は矛盾に行き着くことを悟った。そこで使用を制限するために導入されたのが、タイプの規則である。

この理論の基本的なアイデアは、言語表現を真と偽に分類するだけでは不十分で、無意味(meaningless)という第三のカテゴリーを導入せねばならないという点にある。私が思うに、この洞察は現代論理学の最も深遠で透徹した発見の一つである。その内容は、言語を使い物になる体系にするためには、構文的規則の集合――今ではカルナップが生成規則(formation rule)と呼んでいるもの――を明示的に述べる必要があるということであり、作られる言語を矛盾から解放するのはその規則を構築するための行動指針である、というものである。ある表現が「本当に」有意味であるか否かを問う必要はない。ある種の表現が矛盾を導いたなら、それで意味欠如の十分条件になる。私は常にタイプ理論をこの観点から把握している。タイプ理論とはつまるところ、言語を整合的に保つための道具である。以上がこの理論の正当化であり、これ以上のものはありえない。

ラッセルは、タイプ理論を発展させる過程で、分岐タイプ理論に加えて単純タイプ理論という第二の形式を導入した。単純タイプ理論の内容は、関数はその変項より高次のタイプであるというもので、このことから自分自身を含むクラスは定義できなくなる。この単純な規則はほとんどの論理学者が賛同していて、また現在のことろ、より若い世代の論理学者もこれをごく自然なものと感じており、ほとんど自明の規則と見なすようになっている。偉大な発見の運命とは皆そういうもので、最初に発表されたときは人工的で洗練されていると感じられたのが、時が経つにつれ、なぜ最初からそれが分からなかったのか誰にも想像がつかなくなる。「真理が勝利を得るのは、パラドックスとして非難されるか、瑣末なこととして軽視される無限に長い二つの期間に挟まれた、ほんの束の間だけである」――そんなことを言ったのはショーペンハウアーだったが。

反対に、分岐タイプ理論は論理学者の側から強い反感をもって迎えられた。この理論に従えば、全てのタイプは異なるオーダーの関数へと分割され、しかも各オーダーはその変項よりも低いオーダーしか含むことが許されない。ラッセルは、この制限によって数学の大部分が排除されてしまうことを理解していた。そういう数学の定理を救うために彼が導入したのが、高階の全ての関数について、それと外延的に同値になる一階の関数が存在するという還元公理である。ツェルメロの選択公理みたいなものだというのが、ラッセルが還元公理を擁護する論法だったが、それでも彼自身、この公理に心から満足していたわけではないようである。

そうこうするうちに、ラムゼイがパラドックスを論理的なものと意味論的なものに分類したことに付随して――この分類の仕事はカルナップとタルスキが引き継いだ――、[ラッセルのパラドックスに対する]もっと簡便な解決が与えられた。論理的パラドックスの場合、関係するのは関数だけだが、意味論的パラドックスの場合は、関数自身に加えて関数の名前の使用が関係している。例えば、「全てのクレタ人は嘘つきだ」と言うクレタ人のパラドックス。論理的分析のためには、この昔から有名なパラドックスを「この言明は偽である」という形式に単純化すると分かりやすい。すると、「この」という語はそれが現れる文を指示している。分岐タイプ理論を導入する必要が生じるのはこの種のパラドックスだけで、論理的パラドックスの解決には単純タイプ理論で十分である。今では、タイプ理論に加えて言語レベルの理論を導入することで意味論的パラドックスを回避できることが知られている。この理論によれば、対象言語はメタ言語と区別され、その区別はメタ言語とメタ-メタ言語との間にも行なわれる。後はこの繰り返しである。幾つかの例外を別にすれば、一般的に自らへの指示を含む言語表現は無意味と考えられる。タイプ理論から言語レベルの理論への拡張は、ラッセル自身が既にウィトゲンシュタインの『論考』の序文において予期していたことでもあった。彼は、一般性の問題に言及しつつこう述べている[5]

これらの難点を見ていると、私には、次のような可能性はないものだろうかという気がします。それは、ウィトゲンシュタイン氏が言うように、あらゆる言語は当の言語では語ることのできない構造を持つが、しかし第一言語を扱う第二の言語がありえて、しかもそれ自身新たな構造を持つ。そしてこの言語の階層が無制限に重なっていくという可能性です。

こうしてみると、カルナップとタルスキの言語レベルの区別についての理論も、ラッセル自身に端を発するアイデアの延長に過ぎないのではないだろうか。そしてそれはまた、フレーゲとヒルベルトに源流を持つアイデアでもある。ラッセルは最近、カルナップによる意味論的パラドックスの言語的解決への全面的な同意を表明している[6]。従って、少なくともこの点については、一般的なコンセンサスを保持可能と考えてよさそうだ。

原註

[5]『数学の原理』(ニューヨーク, 1938)の第2版序文

[6]確かに、メタ言語において「p ∨ not-p」という論理式を記述して、その式をトートロジーと呼ぶことで、トートロジー的な言明を構成することはできる。それでも、紙に書かれた特定の論理式がそのような性質を持つか否かというのは、なお経験的な問いとして残る。結局のところ私たちは、いつでもこうやって経験的に与えられる言明を参照しなければならないのだ。


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