バートランド・ラッセルの論理学, ハンス・ライヘンバッハ

第Ⅵ節


さて今度は論理学の基礎についての問題を論じよう。その問題こそ、私がラッセルの論理学を研究していたときに度々心に浮かんだものだった。

ラッセルは、論理学は純粋に形式的なものではないことを強調してきた。つまり、論理学には、形式的演算に入る前に意味を理解する必要のある原始的術語が含まれるということである。彼がリストアップした術語の中には、命題演算子や存在量化子(またはその代わりの全称量化子)が含まれている。同様に、論理学の公理のいくつかも、必然的真理と見なされなければならない。他の論理式を公理から形式的に導けるのはその後である。確かに、実体的思考(material thinking)を対象言語から除去し、論理的必然性を論理式の形式的性質――つまり構成要素である命題の全ての真理値について真であるという性質――として定義できることが、後の分析によって示されている。とはいえ、この形式化の結果を過大評価するべきではない。結局、形式化を実行するときには、メタ言語における実体的思考を抜きにはできないからである。従って、ラッセルが正当化されるのは、原始的概念と命題が少なくとも一つの言語レベルにおいて必然的であり続ける場合である。それらをメタ言語から除去することもできるが、どうせメタ-メタ言語で再出現することになる。例えば、真理表はメタ言語に属するが、これを作るときに、私たちは二つの要素命題は「真-真」、「真-偽」、「偽-真」、「偽-偽」という四つの組み合わせだけが可能であることを当然だと考える。要するにこれは、対象言語の中で形式的に証明されたのと同じ種類のトートロジーを、メタ言語において適用しているのである。

実際のところ、自明な命令に従うべきであることは不可避のように思われる。といっても、論理学にアプリオリズムを持ち込もうというわけではない。私たちが論理的言明を自明なものとして使うとき、その言明は常に明証的に見えると主張するのではない。もし明日、自分が間違っていたと気づけば、言明を修正して、新しい明証性に従う用意がある。そのときにも、新しい言明について永遠の妥当性を主張したりはしないだろう。私が見るところ、この意味において、私が帰納的推論の分析のために導入した措定の概念は演繹論理学にも適用できる。確かに、私たちが帰納的措定を行うとき、それが間違いであると想像することは十分可能である。しかし一方、論理的トートロジーを述べるときには、私たちはその論理式が偽だとは想像できない。ところが、明日トートロジーが偽になると言うことは想像できるのである。措定という手続きは、ここではメタ言語に属する。「p ∨ not-p」という論理式はトートロジーだが、これがトートロジーであると言うことはトートロジーではない。それは、視覚に与えられた一群の記号に関する経験的言明である[7]。従って、トートロジーという特徴についての言明は、経験的言明の信頼性しか持たない。すなわち、そういう言明は措定することしかできないのである。

私は、この措定という概念はラッセルの見解とも合致すると信じている。彼がこれを自明性の問題に対する満足のいく解決と考えるかどうか、聞いてみたいものだ。任意の自明な言明について私たちが見解を修正するとすれば、その選択肢は二種類がありえる。まず第一に、思考を制御しそこなったという意味での誤謬の可能性は、常に予想しておく必要がある。例えば足し算を間違えたり、論理的誤りを犯すのはこの種の誤謬である。二番目の誤謬は、もっと根が深い。それは、私たちが行なう言明がある条件下でのみ真になる、つまり言明の真理性が、明言されていないが一度述べてしまえば捨てられる仮定に依存していることを見落とす間違いである。私たちはその仮定を述べることで一般化へ到達し、以前に述べられていた言明は、一般言明の特殊例として見なされるようになる。自明というのはその特殊例において自明だったのであって、その用法の外側では端的に偽である。

こういう種類の仮定の一例は、排中律に見ることができよう。この原理は長らく論理学の大黒柱の一つだと考えられてきた。伝統的論理学でも、ラッセルの論理学でもそうである。だが現代論理学の進展によって、この原理を捨てられることが分かった。「p」または「not-p」が真であるということは、2値論理でしか成り立たない。代わりに3値論理を採用すれば、この原理は偽となる。従って、無条件の妥当性は条件付きの妥当性に取って代わられなければならない。排中律は命題の本性についての特定の仮定のもとでのみ妥当になるのである。

命題の分類方法は色々ありうる。慣習的には真な命題と偽な命題の二つに分類する。このときは、排中律は自明になる。しかし、命題を二つのカテゴリーに分類しなければならないと主張することはできない。それゆえ、排中律の必然性は相対的なものであり、2分法に対しては必然的というだけである。他方、この命題の分類は一種の規約的な性格を持つので、これが偽であると証明することはできないが、別の規約、すなわち3分法で置き換えることはできる。どんな種類の分類を使うべきかは、その分類が目指す目的による。もし2分法が人間の行動に不可欠なものを満たす知識体系を導くならば、適切な分類だと考えられるだろう。私たちが日常言語と古典科学において2値論理を採用するのは、この理由による。しかし、特定の目的のために2分法が不適切に感じられることもあるかもしれない。その場合は、命題を三つのカテゴリーに分類することが好ましいであろう。そのとき、私たちは躊躇なく3値論理を採用し、排中律を捨て去るであろう。

どういう命題の分類方法が有用かを決める根拠は、その分類が使われる目的と目的を遂行する手段に依存する。「それ自身における真理」だとか「それ自身における虚偽」がプラトンのイデアよろしく存在すると言うことは、現実の知識化の過程とは何ら関係のない方法に属する。私たちはこの種の真理値を使うことは許されない。現実の知識における真理という概念は、現実に実行可能なことと関係を持つように定義される。私たちは、真理を見つける方法を持っているのだ。もしそういう方法が存在しないなら、真な命題について語ることは何の役にも立つまい。これは、私たちが常にそうした方法を適用できるという意味ではない。そこには技術的な限界は当然あるのだが、原理的にはそういう方法が与えられねばならない、ということである。さもなければ、真理概念は空中楼閣になってしまう。

以上の考察から分かることは、私たちが日常言語において真理について語るとき、実際に意味しているのは検証可能性だということである。ラッセルは、言語を検証可能な言明に制限することは、私たちが普段有意味と見なしている多くの言明を有意味性の領域から締め出すことになるだろうと言って反対する。しかし私は、真理を検証可能性で置き換える理論がそのような帰結をもたらすとは思わない。検証可能性の概念を十分に広い意味で定義すれば、「西暦1年の1月1日、マンハッタン島では雪が降った」のような、ラッセルが真または偽な命題と見なしたかった全ての言明を含められるだろう[8]。この目的は、「可能性」という術語を「検証可能性」という表現の範囲内で使うよう適切に定義すれば達成できる。確かに、ある文が実際に検証可能であるときに限って真であると要請するならば、真という語の意味をあまりに狭めてしまうだろう。実際、ラッセルの挙げるような例文の真理性は知りうることである。だが、「真」をもっと広い意味で定義すれば、文が特定の条件――すなわち検証――を満たすことを示せば、その文は真になる。同様に、文がそうした条件を満たさないことが示せれば、その文は偽となる。

それでは、「あらゆる文が真か偽になることを示すことは可能か?」と問うことはできるだろうか。さすがに、証明なしにこんな遠大な言明を主張する勇気のある論理学者はいまい。

この種の議論が最初に使われたのは、ブラウワーの数学的方法に対する有名な批判においてだった。彼の3値論理は数学への応用のため少し複雑である。数学は完全な演繹科学なので、その真理性は論理的方法だけによって決定され、観察には訴えない。数式が真か否かを決定する唯一の方法は、それを公理から導くことであり、その場合、公理が真であることは自明とみなされている。では、構文的に正しい数式が与えられたとき、その数式またはその否定を公理から導くことは原理的に可能だろうか? ブラウワーが投じたのはそういう疑問である。彼はこれを解答不可能な問いだと考え、数学的言明を真、偽、非決定の三つのカテゴリーに分類すべしと主張した。もし彼の問いに肯定的に答えられるなら、ブラウワーの3分法は不要になる。だが私たちはみな、これまでのところそんな証明は与えられていないことを知っている。ゲーデルの定理によって、数学の証明可能性に特定の制限を行なうならば、確かに「決定不可能」な式が存在することが示されている。だがゲーデルはまた、そうした式の真偽はメタ言語を使うことによって知りうることも証明している。よって、論争は収束していない。

ラッセルは、真理性を検証可能性から区別することによってこうした問題に答えようとした[9]。彼は、私たちが真理を発見することができるか否かとは独立に、文は真か真でないかという原理[=排中律]を主張するべきだと考えた。だが私には、この原理が規約以外の何を意味しうるかわからない。もし真理性を発見する方法が与えられていないのなら、私たちに出来ることはせいぜい、「p ∨ not-p」は全ての種類の言明について成立してほしい、と言うことぐらいである。しかし、数学のような純粋な演繹科学のためにこの規約を作るにしても、整合性の問題が生じる。もし仮に排中律を仮定しても矛盾を導かないと証明できたなら、それは許容できる規約だということもできよう。しかし、ヒルベルトと彼の仲間たちは、この方向で大きな進歩を成し遂げたにも関わらず、いまだその証明を与えられていない。

経験科学については、また状況が異なる。経験科学では、少なくとも直接的に観察可能でない物理的対象が関与する場合は、検証方法が観察に大きく依存するからである。従って、検証方法に関する適切な規約を導入することで、排中律の仮定と検証可能性の原理を結びつけられる。だがそれをするときは、経験言語についての別の問題が生じるかもしれない。それは、演繹科学のときに問題となった整合性の問題とも関係する問題、すなわち、果たして2値言語の使用が経験科学で普通支持されている基礎的な原理と両立しうるだろうか、という問題である。

この種のケースは、最近の物理学、つまり量子力学の発展の中で浮上してきた。量子力学では、観察不可能な実体の値を決定する規則を導入するか否かが問題になる。つまり、量子の領域に2値論理を導入してよいか否か、ということである。現在の量子力学の成果によれば、私たちが2値論理のやり方で物理学の言語を作った場合、因果性の仮定を満たせなくなる解釈が可能になる。因果関係を確率関係に拡張することを認めたとしても、である。これは、因果性の原理を破ることとは異なる。それは距離をおいた活動の現れに関わることだからだ。これに対して、量子力学の言明を3値論理に組み込めば、因果性の例外が解消されることを示せる。真な言明と偽な言明の中間に非決定な言明を導入し、量子力学の任意の言明が三つのカテゴリーのうちの一つに分類されるように、経験的観察から言明の真理値を導く方法を作るのである[10]

この状況は物理幾何学における問題の展開と非常によく似ている。かつて、ユークリッド幾何学のほかに幾つかの異なる幾何学体系が構築可能であることが示された後、ではどの幾何学が物理世界に適用できるのか、という疑問が生じた。これに答えるためには、規約を基礎とするしかなかった。しかも、そうした規約のうちのあるものは、物理世界の記述に使うと因果的例外をもたらすことが判明したのである。例えば、アインシュタインの一般相対性理論は、ユークリッド幾何学を物理宇宙の記述に使うと因果的例外を導く。この理由によって、ユークリッド幾何学が放棄され、代わりにリーマン幾何学が採用された[11]。これと同様に、私たちは様々な論理体系の間に区別を付けなければならない。そして、どの論理体系を採用するかという問題を、それによって得られる物理体系の種類によって判断しなければならない。

私には、排中律という概念が困難をもたらす理由は分からない。だから、ラッセルの排中律の支持も理解できなくもない[12]。ただ私は、彼が排中律をア・プリオリな法則と考えているのか、それとも、この法則を支持する別の理由を持っているのかが分からない。この点について、是非ラッセル教授の意見をお聞きしたいものである。

排中律の優位性を擁護する議論として、一つ考えられそうなものを示そう。ブラウワー、ポスト、ウカシェヴィッツ、タルスキによって導入された3値論理(量子力学の3値論理も含む)は、メタ言語においては2値論理と調和するように構築されている。例えば、そうしたタイプの3値論理のメタ言語において、私たちは「命題は真か真でないか、どちらかだ」と言うことができる。しかも、その場合の「ではない (not)」は、通常の意味と同じ使い方である。「真でない」というカテゴリーは、さらに「非決定」と「偽」の二つに分割されるが、それはメタ言語にとって何の問題にもならない。ちょうど日常言語において、例えば軍隊を陸、空、海の三つに分割することが何の問題にもならないのと同様である。2値論理をこういうふうに使うことで、多値論理の体系がとても簡単で扱いやすいものになる。とはいえ、いつでも2値論理的なメタ言語を使う必要があるとは思わない。例えば、私は別の場所で、メタ言語の無限系列の中で多値言語を応用する例を与えている[13]。確かに、その定理を述べるときに使うメタ言語は2値的だし、そのメタ言語は定理が言及する加算無限個のメタ言語の中には含まれていない。しかし、どのレベルの2値言語でも多値言語に翻訳できる方法は定義可能に違いない。そうすると、この方法はその定理を述べる言語に対しても適用可能であろう。

私たちが2値論理を好む理由は、心理的なものしか無いのではないだろうか。2値論理の本性はとても単純なので、命題を分類する際に他の規約よりも好ましく感じるのだ。しかしながら、よくよく考察してみると、上で見たような全てのケースで2値論理として使われているのは、実は厳密な2値論理ではなく、むしろ私が別の場所で述べた分類方法によって確率論理から導かれたものにほかならない[14]。その論理は普通の規則を満たすのだが、幾つかの例外も存在する。例えば、「p」が真かつ「q」が真なのに、「p かつ q」が偽になることがある。この食い違いは、2値論理を確率論理で置き換えることで排除できる。それでも、メタ言語の論理は再び近似的な2値論理になるだろうが、その近似はより精度が高くなっており、例外の数は減るだろう。後は、このプロセスを繰り返すことができる。従って、2値論理を多値論理で置き換え、2値論理をより高いレベル[の言語]で使うことは、より精度の高い近似へと進む方法を表現しているに過ぎない。だが、厳密な2値論理が使われることは、恐らくないであろう。

原註

[7]確かに、メタ言語において「p ∨ not-p」という論理式を記述して、その式をトートロジーと呼ぶことで、トートロジー的な言明を構成することはできる。それでも、紙に書かれた特定の論理式がそのような性質を持つか否かというのは、なお経験的な問いとして残る。結局のところ私たちは、いつでもこうやって経験的に与えられる言明を参照しなければならないのだ。

[8]ラッセル『意味と真理の探究』(ニューヨーク, 1940)p.347。意味の検証理論のより広い形式については、筆者の『経験と予言』(シカゴ, 1938)第Ⅰ章を参照。検証可能性がプラグマティックな概念であるという認識は、おそらく検証可能性をあまりに狭く定義した結果である。とりわけ、その定義における物理的可能性ではなく技術的可能性への参照から生じたものである。検証可能性を意味論的概念として構築することだって可能かもしれない。

[9]同上、第ⅩⅥ章。

[10]量子力学のこういう解釈は、筆者の『量子力学の哲学的基礎』(カリフォルニア大学出版局)で与えられている。

[11]筆者の『空間と時間の哲学』(ベルリン, 1928)§12 を参照。

[12]『意味と真理の探究』第ⅩⅩ、ⅩⅩⅠ章。

[13]『確率論』(ライデン, 1935)p.371.

[14]『経験と予言』(シカゴ, 1938)§36。


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