ラッセルの論理学は演繹論理学である。ラッセルがそれ以外の論理学を意図したことはない。従ってその価値は、彼の論理学が思考の分析的ないしは論証的な部分についての分析であるという事実に求められる。だがラッセルはしばしば、思考には帰納的方法を含む総合的な性格を持つ、もう一つの部分があることも認めている。
思うに、自分の仕事の大半を演繹論理学に捧げ、科学に新しい基礎を与えた人物――その現代的な形式は永遠に彼の名前と結びつくであろう――が、演繹的演算が人間の認識的思考の全体をカバーするとは一度たりとも主張しなかったということに、私たちは感謝すべきである。ラッセルは帰納的方法の必要性を繰り返し力説し、またその方法が持つ特有の難しさを認識していた。例えば彼は、認識プロセスは演繹的演算の観点から完全に解釈できると言って帰納論理の存在を否定する論理学者とは一線を画すことを明言している。実際、人間の知識には予言が含まれるのに、いかなる演繹も過去の経験から未来の観察へ橋渡しできないという事実を前にして、どうしたらそんな主張ができるのか理解に苦しむ。帰納的推論の分析を欠いた論理は、いつまでたっても不完全なままである。
それはともかく、一人が引き受ける仕事のフィールドを思考の一つの働きに限定して、残りの働きの分析は他の人々に任せるというのは、ごくまっとうな研究の仕方ではある。だが私は、そのことを承知の上で、あえてラッセル教授に別のフィールドについての個人的な意見を伺ってみたい。彼の著書には、ときどき帰納についてのとても面白い見解――例えば帰納的推論についてのよくある誤解のうまい風刺――が記されている。それは、ある種の論理学者が次のような[推論の]形式と考えるものだ。「p は q を含意する。いま私たちは q を知っている。ゆえに p。」ラッセルはこの推論を次のような例で示している[15]。「もし豚が羽を持つなら、羽を持つ動物の中には食べられるものがいる。いま、羽を持つ動物の中には食べられるものがいる。ゆえに豚は羽を持つ。」私としては、この結論を「p は蓋然的だ(p is probable)」という形式で述べたとしても、この種の推論が改善されるとは思えない、と付言しておこう。豚が羽を持つことが蓋然的とは、私には思えない。本当は、確率の計算はこんな推論にはならない。それなのに、どんな数学者も認めようとしない推論を、なぜ一部の論理学者は科学的方法の中に組み入れようとするのか、理解に苦しむ。同様に私は、帰納の論理を確証による推論と名づけたとしても、やはり推論が改善されるとは思わない。
私の考えでは、帰納という問題の分析は、伝統的な帰納理論で常に重視されていた帰納的推論にこだわらねばならない。それは枚挙による推論である。あらゆる種類の帰納的方法(いわゆる確証による推論も含む)は、究極的にはこの種の推論に還元可能であることが示せる。より厳密に言うと、枚挙による帰納的推論に加えてそうした方法を含むものが、演繹論理に属することが証明できる。このことは確率の計算を公理的に構築することで示せる[16]。ラッセルもこの主張に賛同してくれると信じたい。
枚挙による帰納の分析についての議論は、伝統的にデイヴィッド・ヒュームからの批判に大きな影響を受けている。私は、帰納的推論の結論が真であることは決して証明できないというヒュームの証明は、疑問の余地なく決定的だと考える。だが、慣習化しているヒューム的な帰納の解釈をしていては、困難からの抜け道を示すことはできないだろう。ラッセルはときどき、ヒュームに倣って帰納的推論は認識の方法であり、私たちは信念の原因(cause)を信念の根拠(gronud)に変えていると述べている[17]。もしこれが帰納の問題に与えうる唯一の解答だとすれば、私たちは率直に、現代論理学は科学的方法を説明できないと認めねばならない。
ところでヒュームは、あらゆる意味での合理主義に対して手堅い論駁を加えてくれたのは良いのだが、同時に後世の帰納の哲学に深刻な偏向をもたらしている。経験主義陣営でさえ、知識として主張されるものは真であることが証明されねばならないというヒュームの暗黙の前提を克服していない。だがこの仮定を放棄すればすぐに、帰納の正当化にまつわる困難は消えてなくなるのだ。私は、少なくとも帰納的結論が蓋然的であることは論証できる、と言いたいのではない。確率理論の分析が示すのは、そのような証明さえ与えられないということである。しかし、知識を確定的な真理値ないしは確率値を持つ命題の体系としてではなく、未来を予言する道具としての措定の体系として見なすことで、ヒュームの懐疑論からの脱出口を見つけることができる。従って、帰納的推論が正当な道具であるか否かという問題には、帰納的推論を使わない考察によって肯定的に答えることができる。ゆえに循環論法にはならない。
[15]『ジョン・デューイの哲学』(エヴァンストンおよびシカゴ, 1939)への彼の寄稿の p.149。
[16]筆者の『確率論』および『経験と予言』第Ⅴ章を参照。
[17]『意味と真理の探究』p.305。