バートランド・ラッセルの論理学, ハンス・ライヘンバッハ

第Ⅷ節


確率値を個々の命題に結びつけられるということが全体的に措定されるのは、知識体系の枠組み内においてのみである。この場合、現実に確率が真理に取って代わる局面は、いかなる経験的な文も真であると知ることができず、ただ蓋然性の程度の違いしか決定できない場合に限られる。

ラッセルは、確率のこういう使い方は真理概念を排除するものではないと論じている。彼は、知識の確率理論においてさえ、あらゆる文は真か偽だと考えるべきで、確率の度合いが指示するのは命題が真である度合いだと反論している[18]。だが私は真理概念は不要だと思う。「p」という文と「pは真である」という文は等価(equipolent)であり、それゆえ当然、同じ確率の度合いを両者に割り当てることも許される。しかし、「pは真である」を使うのは無駄に複雑なだけで、直接「p」は蓋然的だと言う方が簡単である。確率をこのように意味論的に解釈することで、整合的な体系が作られる[19]

さて、そうすると、真理という概念は全く余計なものなのか、という疑問が浮かぶかもしれない。ラッセルは、そうではないと言いたげだ。もし一つの箇所から真理概念を除去しても、知識体系の別の箇所に再出現するであろう、と。私の考えでは、これは第Ⅵ節の議論へと後戻りすることになる。もし確率論理を対象言語に対して使えば、その言語において真理概念を除去できることに疑いはない。唯一問うことのできる問いは、その概念がメタ言語において再出現するか否かである。私が見るところ、メタ言語の準-2値的な性格について私が述べたことは、対象言語を3値体系、あるいは確率論理の規則に従う体系として考えられるかという問いにも、同様に該当する。実際、日常言語で真理と呼ばれているものは、結局のところ、高い度合いの蓋然性でしかなかったのである。例えば、宣誓をした後に述べられる言明の真理は、高い度合いを持つ確率以外の何物でもない。真理とは、ただ理想化された論理体系でのみ使うことのできる概念であって、実際のあらゆる適用場面では、ある程度まで真理の諸性質を共有する代替物によって代替されるのである。

おそらくこの結論は、基礎言明の問題についても当てはまる。ラッセルの哲学の注目すべき特徴は、彼が基礎言明の経験的本性に非常に大きな重要性を与えていることであろう。彼は、科学的方法の説明から観察の概念を完全に排除しようと試みているらしい論者たちとの議論において、科学が観察に基礎を置くことの必要性を強調している。そこでのラッセルは、経験科学の方法をカバーすると主張しながら、その実、合理主義の現代版にそっくりなだけの論理体系に反対する経験主義の伝統を体現する人物だ。しかし、その一般的な議論を考慮してもなお、ラッセルが近著で述べている基礎言明の理論には、幾つかの反論を提起せねばならない[20]

私が見るところ、直接観察を感覚与件に還元しようとするラッセルの試みは、絶対確実な知識の基礎を見つけたいという欲求から生じている。ただ、彼が感覚与件言明は絶対確実だと言いたいのか、それともそれらが単に高い度合いの確実性を保持できると言いたいのかは、よく分からない。それでも、後の観察によって揺るぐことのない基礎言明の体系を構築したがっていることは明らかであろう[21]。さていま、基礎言明は論理的に独立であるというラッセルの見解に異論のある人はいないと思う。これは、基礎言明は互いに論理的に矛盾するような形で定式化してはならないということである。しかし私に理解できないのは、帰納的方法が許されるときに、どうすればそのような独立性を維持できるのか、という点である。

ラッセルによれば、基礎言明は空虚ではありえない。もし空虚ならその総和もまた空虚であり、それゆえいかなる総合的知識もそこから導けないからである[22]。これは健全な議論だと思う。だが私は、これを裏返しに使ってみたい。つまりこうである。もし帰納的方法を使うことで基礎言明が未来の観察を予言するならば、反対に、それで得られた観察もまた元の言明を多少なりとも確実にするだろう、と。帰納的方法は常に両方向に作用する。ベイズの法則が述べるのは、一方向に通用する確率による推論は、逆向きの確率にも変換できるということである。それゆえ、もし帰納的方法を用いた基礎観察から導いて知識体系を構築する場合、その体系においては、個々の観察の妥当性をテストするために、観察の総体を使うことも許されるであろう。

ひとたびこの点を認識すれば、単純な物理的観察の言明とは異なる基礎言明を探す必要はなくなる。つまり、もはや感覚与件は観察の直接対象とは見なされない。信頼性の低い言明の集合も、観察的な種類のものであれば、すなわち具体的な物理的対象についての報告であれば、使い物になる。そういう基礎言明が十分に優先的な重要性を持つなら――つまり、それらが少なくとも真理の近似的な意味において、主観的に真であれば――知識の構築に使うことができる。そうして得られた知識の総体としての蓋然性は、個々の基礎言明の蓋然性よりもずっと大きくなりうる。そのような可能性が確率的方法を使うことで与えられるということは、観察の集合についての意味の平均的誤謬がその集合の個々の観察の誤謬よりも小さいという事実によって例証できるかもしれない。知識の確率理論の利点はまさに、絶対確実な与件の基礎を探す必要性から私たちを解放してくれる点にある。

原註

[18]『意味と真理の探究』p.400。

[19]筆者の「確率言明の意味論的・客観的把握について」『認識――統一科学年報』Ⅷ巻(1939), p.50. を参照。

[20]『意味と真理の探究』第Ⅹ、ⅩⅩⅡ章。

[21]同上、p.398。

[22]同上、p.395, 397。


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