バートランド・ラッセルの論理学, ハンス・ライヘンバッハ

第Ⅸ節


本稿では、ラッセルの論理学の主要な成果について概説し、さらに幾つかの論点について批判を加えることも試みてきた。しかし、ラッセルの論理学にとって、私の批判が関係するのは些細なポイントだけであると思う。彼の論理学は批判を恐れる必要などないのである。

さて、ラッセルの論理的仕事が哲学者の最近の世代に与えている影響についても付言しておかなければ、本稿も不完全のそしりを免れまい。ラッセルが『プリンキピア』を書いた当時の哲学論文の一般的なレベルと今日のそれを比較してみると、隔世の感がある。数学的論理学の研究は、40年前にはほとんど散発的にしか行なわれておらず、読者層も少数の専門家集団に限られていた。それが今では、哲学的な出版物の大きな部分を占めるようになっている。比較的若い世代の論理学者の一派においては、ラッセルの著書の研究から刺激を受け、ラッセルの方法論を当初の目的を超えて引き継ぐことによって、自らの仕事を発展させてきた部分が大きい。今日、ラッセルの記号法についての知識は、アカデミックな論理学の試験に通るための必要条件であり、ラッセルの数学理論とタイプ理論についての議論は哲学セミナーの主眼である。ラッセルの方法論は、若い世代が哲学という土壌を掘り返すための道具となったのである。今日の論理学と認識論はラッセルの貢献なくしては考えられない。部分的には彼に反対し、別の解決を模索している人々でさえ、彼の仕事を吸収しているぐらいだ。

だがこの状況を見て、数学的論理学とその方法を使えばいつでも深遠さへ到達できると信じるのなら、それはあまりに楽観的な解釈であろう。何十年か前、私たちは――この「私たち」の中にラッセルも含めてかまわないと思うが――いつの日か数学的論理学が一般的な哲学教育の一環に取り入れられれば、曖昧な議論と固陋な哲学体系を終わらせられる日が来ると期待していた。今は、この信念が間違った推論に基づいていたと認めざるをえない。記号論理学についての知識が思考の厳密さや分析の真剣さを保証するものではないということを、いまの私たちは知っている。

このことは、特にラッセルの最近の著作に対する幾つかの批判に示されている。私は何も、ラッセルの見解を批判することが悪いと言いたいのではない。ただ、そういう批判はラッセルの思考を特徴づけるのと同じ真剣さを負うべきだと思うのだ。ラッセルを批判するなら、まず第一に彼の概念の背後に控える主要な問題を理解しようと努めるべきである。ラッセルから論理学を学んだ批判者が、行間に好意的な謙遜を漂わせながら、彼の最近の著作は全く時代遅れだとほのめかすのは、見ていて気持ちのいいものではない。もしかしたら読者の中には、メタ言語のボキャブラリーを使っても、それが論理的分析を進展させたことの十分な試金石にはならないという発見に誘導される者もいるかもしれない。もしそうした[言語とメタ言語の]区別が、考察の対象となっている問題と無関係だとすれば、そんな瑣末な区別を行なうことの有用性は何であろうか? それは見当違いの厳密さ(misplaced exactness)という誤謬の一例である。大事を見逃して小事にこだわるというやつだ。真に哲学的な態度というのは、目的と手段のバランスをとる能力、つまり、自らが引き受けた一般的問題に技術的研究を従属させる能力に現れる。

このバランスの取り方は、ほかならぬラッセル当人から学ぶことができる。『プリンキピア』で彼が成した膨大な技術的仕事は、論理学と数学の統一という重大な哲学上の目的を追求する中で行なわれた。ラッセルの仕事は、論理的分析が重大な哲学的問題を解決するための道具となりうることを証明したのだ。論理的な記号法の提示そのものが哲学の目標ではないことを、忘れてはならない。そして世界には、まだ未解決の哲学的問題がいくつもある。論理的技術は、それらを解くために使おうではないか。バートランド・ラッセルを、その方法の厳密さと知性の遠大さによって、私たちの時代に相応しい哲学へのアプローチを創始した人物と見なそうではないか。


©2006 ミック. クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 表示 4.0 国際