カーミラ ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュ

転落


あの夜の出来事と一緒に今でさえ思い起こす、あの恐怖を私があなたに伝えようとする試みは無益でしょう。それは夢がその後に残すような一時的な恐怖ではありませんでした。それは、時とともに深くなるように見え、出現した妖怪を取り囲んでいた部屋と家具へと伝わっていきました。

次の日、私は一瞬たりとも一人でいることは出来ませんでした。お父さんに言うべきだったのでしょうが、それに反対する二つの理由が有りました。一つには、彼は私の話を笑い飛ばすだろうし、そしてそれを冗談として扱われるのが私には我慢できないだろうと考えました。他には、近隣を襲っている不可思議な病気に私が取り付かれてしまったのだと父が考えかねないと思いました。私自身はその(病気に罹るのではという)類の心配はまったくしていませんでした。そして、むしろ父の方がいつか病人になりはしないかというので、私は父を心配させることを恐れていました。

私は私の気立ての良いお相手のペロドン夫人と快活なラフォンテーヌ嬢と一緒でしたので、申し分なく快適でした。両人は私が元気無く神経質であることを見抜き、とうとう私は二人に私の心に何が重くのしかかっているのかを話しました。

ラフォンテーヌ嬢は笑いました。しかし、ペロドン夫人は心配そうな顔をしていると私は思いました。

「それはそうと、」とラフォンテーヌ嬢は笑いながらいいました。「あの長い菩提樹の歩道に、カーミラさんの寝室の窓の後ろですが、幽霊が出るそうですよ」

「そんな馬鹿な!」と、その話題は少々折が悪いと思ったらしい夫人は大声を上げました。

「あなた、誰がそんな話を言ってるの?」

「マーチンが二度出くわしたと言ってるわ。古い庭の門が修理中のときに、夜明け前に二度とも同じ女性の姿が菩提樹の道を歩いて下っていくのを見たそうよ」

「彼なら出くわすでしょうよ、河原に乳を出す牝牛がいさえすれば(乳搾りの女にね)」

「私もたぶんそうだと思います。しかし、マーチンだって無闇矢鱈に怖がるわけではないでしょう。そして、あれより怖がっている愚か者は見たことがありません」

「彼女の部屋の窓からその歩道を見下ろすことができるのだから、そのことは一言もカーミラに言っては駄目よ」と私は口を挟みました。「そして彼女は、多分、私よりももっと臆病だから」

その日はカーミラはいつもより多少遅く降りてきました。

「昨夜は怖かったわ」と一緒になるとすぐにカーミラは言いました。「私がさんざん悪態をついた気の毒な小さいせむし男から買っておいたあのお守りのおかげがなかったら、私は何か恐ろしいものに会ったに違いないと思うわ。

何か黒い物がベッドの回りに来た夢を見て、そして、ずいぶんな恐ろしさのあまり目が覚めたわ。そして、ほんの数秒、暖炉の近くに暗い姿を見たと確かに思ったわ。けれども、枕の下のお守りを手探りで探して、私の指がお守りに触った瞬間にその姿は消えたわ。

私は確信致しましたわ、もしすぐ側にお守りを持っていなければ、恐ろしいなにかが姿を現して、多分、私達が話を聞いているあの気の毒な人々と同じように、私の喉を締めたことでしょう」

「そうね、私の話を聞いて」と私は話し始め、私の体験した異常な出来事を詳しく順を追って話しました。その一部始終を話しているとき、彼女はその話にぞっとしているように見えました。

「それであなたは身近にお守りを持っていたの?」と彼女は真面目に尋ねました。

「いいえ、私はそれを応接間の陶器の花瓶の中へ落としてしまったの。でも、あなたがそれほど信じているのだから、今夜はお守りを側に持っておくわ」

これほど長い時間がたった今となっては、その夜部屋に独りで横になるためにどのように私が適切に自分の恐怖を克服したのかをお話しすることは出来ませんし、理解しているわけでさえありません。私の枕にお守りをピンで留めたことははっきりと覚えています。私はほとんどすぐに寝入り、一晩中いつもよりぐっすり眠れさえしました。

次の夜も同じように過ごしました。嬉しいことに私の眠りは深く、夢も見ませんでした。

しかしながらそれは、ぐっすり眠れたというだけに過ぎず、私は疲れて陰鬱な感じで目覚めたのです。

「そうね、私が貴女にそうお話ししたわ」と、私がぐっすり眠れたことを説明したとき、カーミラは言いました。「私も昨夜は快適に眠れたわ。私は寝巻きの胸のところにお守りをピンで留めておいたの。前の夜とはぜんぜん違ったわ。夢を除いて全て空想だったのだと確かに思うわ。

私は、以前は悪霊が夢を作るのだと思っていたのよ、でも私たちの医師は、そんなことはないと言ったわ。彼は言ったわ、熱や他の病気が過ぎ去るときは、しばしばそうするように、ドアをノックし、中に入ることは出来ないで、あのような警告を伴って、通り過ぎるのだと」

「お守りの効き目はなんだと思う?」と私は言いました。

「お守りは薬で蒸されたか薬に漬けられていて、毒気(マラリア)にたいする解毒剤だわ」と彼女は答えました。

「それで、身に着けているだけで効果があるの?」

「確かにそうよ、貴女は悪霊が、リボンの切れ端や薬屋の匂いを恐れると思ってはいないでしょうね? そうではないわ、これらの病気は、空中を漂い、神経に苦痛を与える事に始まって、そうして、脳を冒すの。しかし、病気が人に取り付くことが出来る前に、解毒剤は病気を撃退するのよ。それが、お守りが私たちにしてくれることだと確信しているわ。それは全然魔法じみているのではなくて、単純に自然なことなのよ」

カーミラの意見に全く同意できたのであれば、幸せだったのでしょう。しかし、私は信じようと努力し、あの恐ろしい夜の印象はその力を少し失ったような気がしました。

それから幾晩かは深く眠りました。しかし、それでも毎朝私は同じ疲労を感じ、倦怠感が一日中私にのしかかりました。私は以前とは異なる少女であるような気がしました。奇妙な憂鬱が私を次第に包みこみつつあり、その憂鬱を私は遮ることは出来なかったのです。死という薄暗い考えが起こり始めました、そして、私はゆっくりと衰弱していっているのだという考えは、どうゆうわけか歓迎出来ないものでもなく、私を徐々に占有しました。それが悲しいことだとしても、これが引き起こす気分は甘いものでもあったのです。

それがなんであれ、私の心はそれに黙って従っていたのです。

私は自分が病気であると認めようとはしませんでした。私のお父さんに話そうともしませんでしたし、医者を呼んで貰おうともしませんでした。

カーミラは、前よりもっと私に身を捧げて盲愛するようになり、そして物憂い崇拝の奇妙な発作はより頻繁になりました。よく彼女はますます情熱を昂ぶらせて私をほれぼれと見つめ、それとともに私の体と心はますます衰えていくのでした。これはいつも、狂気の瞬間的な輝きのように私に衝撃を与えました。

それと気付かないままに、いまや私は死すべき人間がこれまでその下で苦しんだ奇妙な病のかなり進んだ段階にありました。その初期の徴候においては、病気のその段階が人を無力にする効果を私が甘んじて受ける以上に、説明の出来ない人を魅了する力がありました。

しばらくの間この人を魅了する力は、徐々に恐怖の感覚がそれ自身に入り混じるある時点へ到達するまで増大し、良く聞くように、私の生活の全てを変色させ堕落させるまで、深くなりました。

私の体験したその最初の変化はむしろ心地よいものでした。それは、地獄への転落が始まる転機に非常に近かったのです。

ある曖昧で奇妙な感覚が私が寝ている間に私を訪れました。主なのは、川の流れに逆らって泳ぐときに感じるような楽しくもあり独特の冷たさをもつぞくぞくする感覚でした。これはすぐに果てしないように見える夢へと続きますが、それらは、あまりにも曖昧なので私は決してそれらの風景や登場人物や一貫した彼らの振る舞いの一部分でさえ、けっして思い出すことは出来ません。しかしそれらは恐ろしい印象と、そして、あたかも長い時間、多大な精神的な努力を払い、危難に直面していたかのような脱力感とを残しました。

全てのこれらの夢の後では目覚めたときに、とても暗い場所にいて見たこともない人に話しかけていた記憶が残りました。そして特に、一つのはっきりとした声の記憶が残りました。それは、とても深く、まるですぐそばで話しかけられたような、ゆっくりで、いつも同じ、言い表せないほどの荘厳さと虔れの感覚を生み出している、女の人の声でした。時々、まるで私の頬や首に沿って手が柔らかく撫で回すような感覚が起きることがありました。時にはそれは、まるで、長々と、そしてより愛情を込めて、私の喉に達するまで温かい唇が私にキスをするようでした。また、じっと静止した愛撫がありました。私は胸がどきどきし、私の呼吸は急速に上がり下がりして、そして、息を一杯に吸いました。むせび泣きは、喉が絞められるような感覚に高まり、それに続いて、激しい痙攣に変わり、その最中に私は気が遠くなって意識を失ってしまうのでした。

この不思議な状態が始まってから、いまや三週間になりました。

先週の間に私の苦悩は私の容姿に悪影響を及ぼしてしてきました。血の気が引いて、目は開いて隈ができ、そして、私が長い間感じていたけだるさが私の表情に表れはじめました。

私の父は、私が病気では無いのかとしばしば尋ねました。しかし、今では不思議に思えるほどの頑固さで、私は健康であると彼に保証することを断固として貫きました。

ある意味、これは本当でした。痛みは全くなく、一切身体的な撹乱を訴えることはありませんでした。私の苦痛の種は、想像の産物かもしくは神経質の一つのようであり、私の苦難がそうであったと同様に恐ろしく思えたのですが、私はそれらを病的に抑え込んで、堅く胸に秘めていました。

それは、農夫たちが魔物と呼んでいる恐ろしい病気ではなかったはずでした。なぜなら、私はいまや三週間に亘って苦しんでいますが、死がその病気の犠牲者に引導を渡すときは、三日以上病を患うことはほとんど無かったからです。

カーミラは夢見が悪いとか熱っぽい気がするなどと不満をこぼしましたが、それは私のものほど憂慮すべきものではけっしてありませんでした。私のはただ事ではなかったといえます。もし自分の状態を理解することが出来ていたら、私はひざまずいて援助と忠告を求めたでしょう。思いも寄らない効能の麻酔薬が私に作用しており、私の知覚力は麻痺していました。

これから、それが直接の元となってある奇妙なことが発覚した一つの夢のことをお話します。

ある夜、暗闇の中で聞きなれていた声の代わりに、甘く優しさがこもると同時に厳しい声を聞きました。それは、「あなたの母親は、暗殺者に用心するようにあなたに警告します」と言いました。それと同時に、いきなり灯りがぱっと灯り、私はベッドの足元近くに立っているカーミラの姿を見ました。白い寝間着を着ており、その寝間着はあごから足元にかけて濡れ、一つの大きな血の染みとなっていました。

私は金切り声を上げ、カーミラが殺害されたのではないかと思って目を覚ましました。私はベッドから飛び出したのを覚えています。それから次の記憶は廊下に立って、助けを呼んで叫んでいるというものです。

ペロドン夫人とラフォンテーヌ嬢が彼女らの部屋から一大事だとばかりに助けに飛び出してきました。廊下にはいつもランプが灯してあり、私を見て彼女らはすぐに私の恐怖の原因を聞きだしました。

私はカーミラの部屋のドアをノックするように言い張りました。私たちのノックには返事がありませんでした。

ノックはすぐに、どんどんという連打と喚き叫ぶ声になりました。彼女の名前を金切り声で呼びましたが、全てが無駄でした。

私たちは皆ぎょっとなりました。というのはドアに鍵がかかっていたからです。私たちは慌てふためいて急いで私の部屋へ戻りました。そこで私たちは長く荒れ狂うようにベルを鳴らしました。もし私の父の部屋が家のそちら側にあったのなら、私たちは一刻も早く助けを求めて彼を呼べばよかったでしょう。しかし、ああ、なんと悲しいことでしょう。彼は全く声が届かないところにいました。そして、彼のところまで行くことは、私たちの誰も勇気を持てないほどの旅程を必要としていました。

しかしながら、召使たちがすぐに階段を駆け上がってきました。それまでの間に私は長い部屋着を着て室内履きを履いていました。そして、私のお相手役たちもすでに同様に身支度をしていました。廊下に響く召使たちの声を聞くと、私たちは一緒に飛び出しました。そしてカーミラの部屋のドアに向かって改めて呼びかけましたが、先程と同様に実りの無いものでした。私は錠前をこじ開けるよう男たちに命令しました。彼らはそうしました。そして灯りを高く掲げて、私たちは戸口に立ち、部屋の中を食い入るように見つめました。

私たちは彼女の名を呼びました、しかし依然として全く返事はありませんでした。私たちは部屋を見渡しました。すべてが、ひっそりとしていました。すべてが私が彼女におやすみなさいと言ったときのままでした。しかし、カーミラはいなくなっていたのです。


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©2008 山本雅史. この版権表示を残す限りにおいてこの翻訳は商業利用を含む複製、再配布が自由に認められる。プロジェクト杉田玄白 (http://www.genpaku.org/) 正式参加作品。