フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス, メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリー

プロローグ


ウォルトンの手紙(第一)

イングランドなるサヴィル夫人に

セント・ペテルスブルグで、一七××年十二月十一日

虫の知らせがわるいからとあんなに御心配くださった僕の計画も、さいさきよくすべりだした、とお聞きになったら、お喜びくださることとぞんじます。昨日、ここに着きました。で、まずとりあえず、無事でいること、事がうまく運ぶことにますます自信を得たことをお知らせして、姉さんに安心していただきます。

僕はもう、ロンドンのずっとずっと北に居るのです。そして、ペテルスブルグの街を歩きながら、頬をなぶるつめたい北方の微風を感じているところですが、それは僕の神経をひきしめ、僕の胸を歓びでいっぱいにします。この気もちがおわかりでしょうか。僕の向って進んでいる地方からやってくるこの風は、氷にとざされた風土の楽しさを今からなんとなく想わせます。この前兆の風に焚きつけられて、僕の白昼夢はいよいよ熱して鮮かになっています。極地は氷雪と荒廃の占めるところだと思いこもうとしてもだめなのです。それは、たえず、僕の想像のなかでは、美と歓びの国として現われてくるのですよ。そこでは、マーガレット、太陽はいつでも眼に見え、その大きな円盤が地平線の上に懸って、永遠の輝きを放っているのです。そこには――というのは、姉さん、あなたの前ですが僕は、僕以前の航海者たちをかなり信じておればこそそう言うのですが――そこには雪も霜も見られません。そこで僕たちは、いくら驚歎してもしきれぬ国、人の住める地球上に今までに発見されたどんな地方にもまさる美しいすてきな国に、吹き送られるかもしれません。天体現象が疑いもなく未知の寂寞のなかによこたわっているように、そこの産物なり地勢なりもたとえようのないものかもしれません。永久の光の国で、何が期待されないと言うのでしょうか。僕はそこで磁針を引きつけるふしぎな力を見つけるかもしれませんし、また無数の天体観察をやってそれをだんだん正確なものにしてもいけるでしょうが、いつもきまって変らないその外観上の偏心率を示すためには、どうしてもこの旅が必要なのです。僕は、これまで訪れたことのない世界の一角を眼にして、自分の燃えるような好奇心を満足させ、人類の足跡を印したことのない国を踏むかもしれません。こういうことが僕を誘惑するわけで、それだけでも僕は、危険をも死をも怖れない気もちになりますし、子どもが休みの日に友だちと語らって、土地の川に何かを見つけに行こうと小舟に乗るときに感じる、あの喜びに駆られて、このほねのおれる旅を始めようとするところです。しかし、こういう臆測がみなまちがっていたとしても、現在のところではそこに達するのに何ヶ月かかるかわからないような、極地に近い土地への航路を発見することで、あるいはまた、かりそめにもできないことでないとすれば、僕の企てたような計画によってしかやりとげられない磁力の秘密を突きとめることで、全人類の最後の世代に至るまで計り知れぬ利益を受けるだろうということに、あなたもとやかく言うことはできないはずです。

こんなことを振り返って考えていると、この手紙を書きはじめたときのぐらついた気もちが吹きはらわれて、心が天にものぼるような熱情でもって白熱するのがわかります。というのは、魂がその知的な眼を据えつける一点としての揺るぎない目標ほど、人の心を平静にしてくれるものはないからです。この探検は僕の幼い時から大好きな夢でした。僕は、極地をめぐる海を越えて北極洋に達するみこみでおこなわれた、いろいろな航海の記事を、熱心に読んだものです。発見の目的でなされたあらゆる航海の歴史が、僕たちのよき叔父トーマスの書庫にぎっしり詰まっていたのを、姉さんもおぼえていらっしゃるでしょう。僕の教育はほったらかしでしたが、それでも僕は、一心に書物を読むのが好きでした。そういう書物を昼も夜も読みふけったものです。それらに精通するにつれて、父が亡くなるときに言いおいたことだというので、船乗りの生活に入ることを叔父が僕に許さないと知って、子どもごころにも僕は、ますます残念に思いました。

こういった幻想は、例の詩人たちをよく読んだとき、はじめて萎みました。この詩人たちは、流れ出たその力で、僕の魂をうっとりとさせ、それを天上に引き上げてくれました。僕も詩人になり、一年間は自分の創り出した楽園に住みました。自分も、ホメロスやシェークスピア並みに、詩の神殿に祀られるとでも思っていたのですね。僕の失敗したこと、その時の落胆がどんなにひどかったかということは、姉さんもよくごぞんじです。しかし、ちょうどそのころ、従兄の財産を相続したので、またまた昔の夢が性懲りもなく首をもたげてきたのです。

現在のこういった企てを心に決めてから六年になります。今でも僕には、この大冒険に向って自分を捧げた時のことが思い出されます。僕はまず、自分の体を辛苦に慣らすことから始めました。そこで、捕鯨船に乗せてもらって幾度も北海に行き、自分から進んで寒さや飢え、渇き、あるいは寝不足をがまんし、日中はよく普通の水夫よりも激しく働き、夜は夜で、数学やら、医学のこころえやら、また自然科学のうちで海洋冒険者に実際にいちばんやくだつ部門などの勉強に没頭しました。グリーンランドの一捕鯨船の補助運転士の役を二度も自分で買っで出て、りっぱに任務を果しました。船長が船で二番目の地位を提供しようとして、たいへん熱心にいつまでも居てくれと頼んだ時には、ちょっとばかり鼻が高くなりました。それほど船長は、僕のしごとぶりを高く買ったのですよ。

そういうわけで、マーガレット姉さん、今では僕にも、大きな目的を果す資格があろうというものではありませんか。安楽に贅沢してくらすことだってできたわけですが、いままでにさしのべられた富のあらゆる誘惑を振り切って、栄光の道を選んだのです。おお、然りと答えるあのどことなく勇ましい声! 僕の勇気と決意はしっかりしていますが、希望や元気がぺしゃんこになる時も、ないとは言えません。僕は長期にわたる困難な航海に出かけるところですが、何か事があるばあい、あらゆる堅忍不抜さをもってこれに処することが求められます。危急のさいに他の者の元気を振いおこすばかりでなく、ときには自分を励まして持ちこたえることが必要なのです。

ロシアを旅行するには、今がいちばん恵まれた時です。大橇に乗って雪の上を飛ぶように滑っていくのですが、これは愉快なことで、僕の考えでは、イギリスの駅馬車に乗るよりもずっとずっと楽しいものです。毛皮にくるまっていれば寒さもひどくないので、僕ももう、毛皮の服を着こんでいます。なぜなら、甲板を歩きまわるのと、何時間も動かずにじっと坐っているのとではたいへんな違いで、どんなに体を動かそうと血管中の血が凍るのを防ぐことはできないからです。

二週間か三週間経ってから、アルハンゲリスクへ向って立ち、そこで船を借りるつもりですが、これは持ちぬしに保険料さえ払えばたやすくできるはずです。また、捕鯨に馴れた連中のうちから必要とおもわれるだけの船乗りを雇うつもりです。六月までは出帆するつもりはありません。ところで、僕はいつ戻ってくるでしょうか。ああ姉さん、この問にいったいどう答えたらよいでしょうか。もしも成功するとしても、何ヶ月も、何ヶ月も、ひょっとしたら何年も、お会いすることはできないでしょう。まんいち失敗すれば、すぐまたお目にかかるか、もうお目にかかれないか、どちらかです。

さらば、僕の大事なマーガレット。御多幸を祈るとともに、僕に傾けてくださったあなたのあらゆる愛情と親切に対して厚く厚く感謝します。敬具。

R・ウォルトン

ウォルトンの手紙(第二)

イングランドなるサヴィル夫人に

アルハンゲリスクで、一七××年三月二十八日

こんなふうに霜と雪に囲まれているここでは、時の経つのがなんと遅いことでしょう! けれども、僕の計画だけは、もう第二歩を踏み出しました。船を借りて、乗組員を集めることに没頭しているところですが、すでに雇った連中は、信頼のおける、たしかに怖れを知らぬ勇気をもった男たちのようにおもわれます。

とはいえ、まだ一つ欠けたものがあって、まだそれを満せないでいます。いま、それがないのは、よくよくの不幸だと思います。友だちがないのですよ、マーガレット。成功の熱に燃えているときにも歓びを共にする者がなく、失望に陥ったとしても意気沮喪に耐えるように励ましてくれる者がないのですよ。僕はなるほど、自分の考えを紙に書きつけもするでしょう。しかし、感情を伝えるには、それは、やくにたちそうもない手段です。僕は、僕に同感でき、眼で眼に答えてくれる人間を、仲間にほしいのです。姉さん、あなたは、僕をロマンチックだとお考えでしょうね。けれども僕は、友だちのいないのがつらいのです。やさしくてしかも勇気のある、心が広くて教養のある、僕と同じような趣味をもった人で、僕の計画に賛成したりまたそれを修正したりしてくれる者が、誰ひとり身近かにはいないのです。そんな友だちがあれば、あなたの貧弱な弟のあやまちをいろいろただしてくれるでしょうに。私はあまり実行にはやりすぎ、困難にあたって辛抱がなさすぎます。しかも、自分流に独学したことは、そんなことよりもずっと大きなわざわいです。十五歳までというものは、共有地の荒野を駆けめぐり、トーマス叔父の航海の本しか読まなかったのですものね。そのころ僕は、自分の国の高名な詩人たちに親しむようになりましたが、自国語以外の諸国語に通じる必要があると気がついたときには、そういう後悔からもっともたいせつな利益を得る力がなくなっていました。僕はもう二十八歳ですが、実際には十四歳の学校生徒よりも無学なのです。なるほど僕は、物事をもっと考えもするし、僕の白昼夢はもっと広がりがあってすてきでしょうが、ただそれには(画家たちが言うように)調和が欠けています。そこで僕は、僕をロマンチックだと言って軽蔑しないだけのセンスのある友人と、僕が自分の心を直そうと努力するうえでの十分な愛情が、大いに必要なのです。

まあ、こんなことはつまらぬ愚痴というものです。広い大海では、いやこのアルハンゲリタスクでさえも、商人や海員のあいだに友だちを見つけるのは、できない相談です。それでも、その連中の粗野な胸のなかにも、人間性の汚れをいさぎよしとせぬ感情が波うっています。たとえば、僕の副隊長は、すばらしい勇気と進取の気性に富んだ男で、しきりに栄誉を望んでいます。というよりは、もっと特徴づけて言えば、自分の職業の地位が上るのを願っています。この男はイギリス人ですが、教養では和らげられぬ国民的職業的偏見のさなかで、人間性のもっとも高貴な資性をあまり失っていません。はじめ捕鯨船の甲板上で知りあい、この町で失業しているのを見つけて、さっそく僕の計画を助けてもらおうとおもって雇ったわけです。

特長も気性のすぐれた男で、気のやさしいことと紀律のきびしくないことで、船のなかでも目立っています。この男の誰でも知っている廉直さや恐れを知らぬ勇気にかてて加えて、こういう事情があったので、どうしてもこの男を雇いたくなったのです。孤独に過ぎた僕の年少時代、あなたのやさしくて女らしい養育のもとに送った僕のいちばんよかった時代が、僕の性格の骨組を洗煉しましたので、僕は、船のなかでふつうおこなわれる蛮行に対して烈しい嫌悪を抑えることができません。そんな必要があるとは信じられないのです。そこで、この船乗りが、思いやりの心があって誰からも注目され、乗組員から尊敬され心服されているということを耳にすると、この男に手もとで働いてもらうことができたことを、わけても幸福に思うのです。はじめ僕は、この男のおかげで幸福にくらせたある婦人から、どちらかと言うとロマンチックなやりかたで、この男のことを聞きました。かいつまんで申しあげると、その話はこうです。つまり、この男は、幾年か前に中流の若いロシア婦人に恋しましたが、捕獲賞金で金をだいぶ溜めたので、女の父もその縁組みを承諾しました。そこで、式を挙げる前に一度愛人に会いましたが、娘は涙を流してこの男の足もとに身を投げ出したかとおもうと、自分はほかの男を愛しているが、そのあいてが貧乏なので、父が結婚を許さないのです、と告白して、自分を助けてほしい、と哀願しました。僕の寛大な友人は、その哀願を聴き容れて安心させ、娘の愛人の名を聞かされると、即座に自分の要求を放棄しました。この男はすでに、自分の金で農場を買い、そこで余世を送る算段をしていたのですが、それをそっくり、株を買うつもりだった賞金の残り全部といっしょに、恋がたきにつけてやり、それから娘の父親にその愛人との結婚を承諾するように頼みました。しかし老人が、この僕の友人には義理があると考えて、はっきり拒絶し、頑として聴き容わないのがわかったので、この男は国外に飛び出し、以前の愛人がこの男の望みに従って結婚したと聞くまでは、帰国もしませんでした。「なんという気高い方!」あなたはそう叫ぶでしょう。そのとおりです。しかし、この男はてんで無学で、トルコ人みたいに無口ですし、無知な不注意というようなものが付きまとっていて、それがこの男の行為をいっそう驚くべきものにしているものの、さもなければ得られた興味と同情をそれだけ減じています。

ところで、僕がちょっとばかり不足を言い、あるいは、僕の知らない労苦に対して慰めを心に描くかもしれないからといって、僕が決意を渋っているなどとお考えになってはいけません。それが決まっているのは運命のようなものです。出航がいま延びているのは、天候がまだ乗船を許さないだけのことです。冬はおそろしく酷烈でしたが、春はよさそうな様子で、思いのほか早くやってきそうですから、たぶん予定よりも早く出帆するでしょう。僕はむこうみずはやりません。他人の安否が僕の注意如何に懸っているかぎり、僕がいつも細心で思慮深いことは、あなたもよく知っていて信じてくださるはずです。

僕の企ての近日中のみこみについて感じていることを申しあげることはできません。なかば嬉しくてなかば怖ろしい、震えるような思いで出発のしたくをしている時の、こんな気もちをお伝えするのは、不可能なことです。僕は、先人未踏の地へ、「霧と雪の国」へ行こうとしていますが、信天翁あほうどりは殺しません。したがって、僕の安否を気づかったり、コールリッジの「老水夫」のように痩せさらばえたみじめな姿で戻って来はしないかと心配なさったりはしないでくれませんか。こんなふうにそれとなく申しあげると、お笑いになるでしょうね。けれども、秘密を漏らしましょう。僕はよく、危険な大海の秘密に対する自分の愛着、自分の激情的な熱中を、近代のいちばん想像力に富んだ詩人の作品のせいにします。僕の魂のなかには、自分にもわからない何かが働いているのです。僕はほんとうに勤勉です。骨身を惜しみません。倦まずたゆまず、ほねをおって働く労働者です。しかも、そのうえに、僕のあらゆる計画にまつわる奇蹟的なものを愛し、奇蹟的なものを信じてもいるのです。それが僕を、平凡な人たちの道から閉め出し、経験しようとしている荒涼たる海や未踏の地へとせきたてることにもなるのです。

さて、しかし、もっと大事なことに戻りましょう。はてしのない海を通ってアフリカかアメリカの最南端に戻って来てから、またお会いしましょう。そんなふうにうまくゆくと当てにしているわけではありませんが、絵の裏側を見る気にはなれません。当分は機会があったらできるだけ手紙をください。自分の元気を持ちこたえるためいちばん必要になったときに、お手紙を受け取るかもしれませんから。僕は心から姉さんを愛しています。僕のことは愛情をもって思い出してください、二度と僕の口から何も聞けなくなったとしても。では……

ロバート・ウォルトン

ウォルトンの手紙(第三)

イングランドなるサヴィル夫人に

一七××年七月七日

姉さん――無事に航海を続けていることを申しあげるために、急いで走り書きします。この手紙は、いまアルハンゲリスクから帰航しようとしている一商船が、イングランドにとどけてくれるでしょう。もしかしたら何年も母国の土を見ないかもしれない僕よりも幸運な船です。とはいえ、僕はとても元気です。部下は大胆で、しっかりやれそうに見えます。たえず僕らのそばを通り、僕らの向って進む地域の危険さを示す浮氷の山を見ても、べつにあわてもしないようです。僕らはもうかなり高緯度に達していますが、今は夏の真盛りで、イングランドほど暖かではないにしても、僕がこうも熱心に到達したがっている岸のほうへ、僕らを、急速に吹き寄せている南風が、予想もしなかった爽かな暖かさで吹いています。

今までのところ、手紙に取り立てて書くような出来事は、何も起りません。一、二度の強風や船の水漏れなどは、経験をつんだ船乗りなら、記録しようと思いつきもしない出来事です。航海中に何も悪いことが起きないとしたら、僕はそれ以上に言うことはありません。

さらば、なつかしいマーガレット。あなたのためはもちろん自分のためにも、むやみやたらに危険に立ち向ったりはしませんから、どうぞ御安心ください。冷静に、辛抱強く、しかも細心にやります。

しかし、成功が僕の労に報いてくれるはずです。どうしてそうでないと云えるでしょう。こうして僕は、道のない海上の安全な航路を辿って、遠く去って行きます。星こそそのまま僕の勝利の証人であり証拠でもある所へ。どうしていまだに、人に馴れてはいないが従順な自然の元素を処理しないのだろう。人間の決心や決意を何が中止できるのだろう。

僕の膨れた胸は、思わず知らず、こんなふうに溢れ出します。けれども僕は、やり遂げなくてはなりません。御多祥を祈ります。

R・W

ウォルトンの手紙(第四)

イングランドなるサヴィル夫人に

一七××年八月五日

たいへんおかしなことがもちあがったので、それを書き記さないわけにいきません。もっとも、この書きものがあなたの手に入らないうちに、どうやらお目にかかれそうですが。

この前の月曜日(七月三十一日)、僕らは、氷にすっかり閉されそうになりました。氷が四方八方から船に迫り、操船余地も残らないくらいになったのです。殊に、ひどく濃い霧に包まれていたので、僕らの状態はかなり危険でした。そこで、大気と天候に何か変化が起るのを望んで、停船しました。

二時ごろ、霧がはれてみると、どちらを向いてもはてしのない、広い、でこぼこの氷の平原が、まわりによこたわっていました。仲間のなかには、うめき声を立てる者もあり、僕自身も心配になって、用心する気もちになりかけましたが、と、とつぜんそのとき、奇妙な光景が僕らの注意を引き、僕ら自身の苦境を忘れさせました。大橇に取り付けて犬に曳かせた低い乗りものが、半マイルばかり先の所を、北に向って走って行くのが、僕らの眼に映ったのです。人間の形はしているが見るところ背丈の巨大なものが、その大橇に乗って、犬を操っていました。僕らは望遠鏡で、その旅行者が急速に遠ざかるのを見守りましたが、ついにその姿ははるか遠くのでこぼこした氷のあいだに見えなくなりました。

この出現は、僕らを無条件にびっくりさせました。僕らは、どこかの陸地から何百マイルも離れていると思いこんでいたのですが、こういうものが現われたとなると、実際には、考えていたほど遠く離れていないのかと思われました。とはいえ、氷に囲まれていたので、最大の注意をもって見守ったその怪物のあとをつけることはできませんでした。

このことがあってから二時間ばかり後に、浪の音がきこえ、夜にならないうちに氷が割れて船が自由になりました。しかし、氷が割れたあとでゆらゆら浮び漂っている大きな氷塊にぶつかることを恐れて、朝まで停船しました。この時間を利用して、僕は数時間休みました。

けれども、朝になって明るくなるとすぐ僕は甲板に出、船員たちがみな船の片側に集まって、海上にいる誰かとしきりに話しているらしいのを眼にしました。なんとそれは、僕らが前に見たような大橇で、夜のうちに氷の大きな塊に乗ったまま、こっちのほうへ流されてきたものと見えます。犬が一頭生き残っていたほかには、その橇のなかに人間が居り、その人に、船へ上って来いと船員たちがすすめているところでした。その人は、他の旅行者のようにどこか未発見の島に住む未開な住民かともおもいましたが、そうではなくてヨーロッパ人でした。僕が甲板に現われると、船長が言いました。「わしらの隊長がここにいらっしゃるんだ。あんたをこの広い海の上で見殺しにしたりはなさらないよ」

僕を認めると、その見知らぬ人は、外国訛りの英語で僕に話しかけました。「お船に乗せていただく前に、どこへおいでになるつもりか、それをお教えねがえませんでしょうか」

破滅の淵に臨んでいる人から、そう問いかけられた時の僕の驚きは、御想像に任せます。その人にとっては、僕の船こそ、その人が陸上で得られるどんな貴重な富とも交換したくなる頼みの綱だったろうに、と、僕は思いました。けれども僕は、北極に向って探検の旅の途上にあるのだと答えました。

その人はそれを聞いてやっと納得したらしく、甲板に上ってくることに同意しました。呆れましたね、マーガレット。自分が救われるのに条件をつけた男が現われるとしたら、あなただってさぞびっくりなさるでしょうよ。その人の手足は凍りかけて、体は疲労と苦痛のため恐ろしく衰弱していました。あんなにひどい状態にある人を見たことがありません。僕らはその人を船室に運びこもうとしましたが、新鮮な空気に当らなくなると、たちまち気を失ってしまいました。そこで甲板に運び戻して、体を摩擦したり、ブランデーをむりやりすこし飲ませたりして、息を吹き返させました。まだ生きているしるしが見えるとすぐ、毛布にくるんで厨房ストーブの煙突のそばに寝かせました。そのうちだんだんとその人は正気づき、スープをすこし飲んで、驚くほど元気を回復しました。

こんなふうにして二日経ちましたが、そのあいだずっと、その人は口が利けなかったので、僕は何度も、苦痛のために理解力がなくなったのではないかと心配しました。かなり回復してから、僕は、その人を自分の船室に移して、仕事にさしつかえのないかぎり介抱してやりました。僕は、これほど興味のある人間を見たことがありません。眼はたいてい荒々しい、というよりは狂ったような表情を浮べていますが、誰かが親切なことをしてやったり、何かごく些細な用をたしてやったりすると、顔全体が、いわば、たとえようもない慈悲深さと柔和さに輝いて、ぱっと明るくなるのです。しかし、たいていは憂鬱と絶望にとざされ、のしかかる苦悩の重みに耐えかねるかのように、ときどき歯ぎしりするのです。

この客人がやや回復すると、いくらでも質問をしたがる連中を寄せつけないために、たいへん骨が折れました。どうしても絶対安静にしなければ回復しない状態の体と頭をもったこの人を、この連中の愚にもつかぬ好奇心に悩まされるようにはしたくなかったのです。けれども、副隊長が一度、どうしてああいう妙な乗りもので氷の上をこんなに遠く来たのか、と尋ねました。

その人はたちまち、深い深い陰鬱さに閉ざされた顔つきになって答えました。「僕から逃げて行ったものを探しにですよ」

「その、あなたの追いかけた人は、あなたと同じような格好で旅行しているのですか」

「そうです」

「とすると、わしらは、その人を見たような気がしますよ。あなたをお救いした前の日に、何頭かの犬が人をひとり乗せた大橇を曳いて、氷の上を通っていったのを見かけましたからね」

これが、この見知らぬ人の注意を引いたと見え、怪物――その人はそれをそう呼びました――の通っていった道すじについて、いろいろ訊ねました。まもなく僕と二人だけになると、その人は言いました。「あの善良な人たちと同じように、たしかあなたも、好奇心に駆られておいでのはずですが、思慮深いのでお訊きになりませんね」

「おっしゃるとおりですよ。こちらがいくら根掘り葉掘り訊きたいからといって、そのことであなたを悩ますのは、実際、たいへん無作法で不人情なことですからね」

「けれどもあなたは、妙な危ない状態から私を救い治してくださった方です。情深いあなたのおかげで私は生きかえったのです」

そのすぐあとでその人は、氷が割れてあの怪物の橇もだめになったとお考えか、と僕に尋ねました。はっきりしたお答えはできないが、ただ、氷は真夜中近くまで割れていなかったから、あの旅行者はその前に安全な場所に着いたかもしれないとは思うものの、どうも判断がつかない、と僕は答えました。

このとき、この見知らぬ人の衰弱した精神状態に、新しい生気がいきいきと波うってきました。甲板に出ることに異常な熱意を示し、前に見えたという橇を見張ろうとしましたが、僕は船室に居るように説きつけました。まだ弱っていて、寒冷な空気には耐えられなかったからです。僕は、その人のために誰かに見張りをさせ、何か新しいものが眼に入りしだいすぐ知らせる、と約束しました。

これが、今日までのこの妙な出来事に関連したことの日記です。この見知らぬ人は、だんだんと健康を取り戻しましたが、ただひどく無口で、僕以外の誰かが船室に入ってくると、おちつかない様子です。それでもその態度がいたってものやわらかでやさしいので、船員たちはみな、ことばこそほとんど交さなかったけれども、この人に興味をもっています。僕となると、この人を兄弟のように愛しはじめ、その絶えまない深い悲しみに心から同情と憐れみを感じています。現に難破した今でさえ、こんなに人を惹きつける、人好きのする人なのですから、もっとよかった時代には、けだかい人であったにちがいありません。

前にあげた手紙の一つで、僕は、広い大海のなかで友人を見つけることはなかろうと書きましたね。ところが、不幸のためにその精神が押しひしがれてしまわない前だったら、僕の兄弟分として幸福を感じさせたにちがいないような人間を見つけたのです。

何か書きつけておいてよいような新しい出来事があったら、この見知らぬ人に関する僕の日記を、とびとびに続けましょう。

一七××年八月十三日

例の客人に対する僕の愛情は、日ごとにつのっていきます。この人には、僕も、驚くほど敬服し、また同時に同情せずにおられません。こんなけだかい人間が不幸に引き裂かれているのを、骨の疼くような悲しみを感ぜずに、どうして見ることができるでしょう。それほど心がやさしく、しかも賢く、教養のある心の持ちぬしなのです。そして、話をするときは、そのことばが選りに選った技術で選り出されるのですが、それでも、そのことばは、よどみなく無類の雄弁さをもって流れ出します。

この人はもう、病気がだいぶよくなって、たえず甲板に出、先に行った橇を見張っている様子です。しかも、不幸な身でありながら、自分の悲惨さにはすこしも気を奪われず、ただ他人の計画に深い関心をもっているのです。そこで、僕の計画のことでたびたび尋ねてくれましたので、僕も包み隠さずに話しました。すると、僕が最後には成功するようにと、何から何まで相談あいてになり、そのために僕の取ってきた手段の、ごくこまかなところまで熱心に気を配ってくれました。僕は、こうして示してくれた同情にわけもなくほだされて、心の底をうちあけ、魂の燃えるような熱情を言い表わし、この計画を促進させるためなら、自分の運命、自分の存在、自分のあらゆる希望をそれこそ喜んで犠牲にするだろうと、あらゆる熱情をこめて申しました。ひとりの人間の生死などは、僕の目ざした知識を得るためにはらわれるほどの値うちがありません。この人類の原素的な敵を領地として手に入れ、それを後世に伝えたいのです。僕がそう語っていると、あいての顔には暗い陰がひろがり、はじめは自分の感情を抑えようとしていたらしく、両手で眼を覆っていましたが、その指のあいだから涙がぽたぽた滴り落ち、激した胸から呻き声が洩れてきたのを見て、僕の声も震えてきて、先が続けられなくなりました。僕は話をやめました。やっとのことでその人は、めちゃくちゃな語調で言いはじめました。

「おかわいそうに! あなたまで私のように気ちがいじみているのですか。あなたまで気が変になる酒をおやりになったのですか。どうぞお聞きください。私の身の上ばなしをしましょう。そしたらあなたは、口につけたその盃を、投げ棄てておしまいになるでしょうから!」

あなたにも想像がつくでしょうが、このことばは、僕の好奇心を強く刺激しました。しかし、衰弱しきったその人は、こういう悲しみの発作に、今にも前にのめりそうになったので、ふたたび平静に返るためには、何時間も休息して静かな会話を交すことが必要でした。

その人は、自分の感情の激するのをじっとこらえ、自分が情熱の奴隷であったことをみずから軽蔑しているようすで、まっくらな絶望に心が閉されそうになるのをがまんしながら、僕の身の上に関することをまた話させようとするのでした。そして、僕のずっと子どものころの話を訊きました。僕は急いでその話をしましたが、それからいろいろな思い出ばなしが尾を引いて出てきました。僕は、友人を見つけたいという願望――いつも授かっていたようなものよりももっと親しみのある、僚友精神をもった同感に対する僕の渇望――のことを話して、こういうしあわせを与り知らない人こそつまらぬ幸福を誇りに思えるのだ、という確信を表明しました。

見知らぬ人はこれに答えて、「同感です。私たちは、自分よりも賢くて優れた、もっと値うちのあるもの――友だちとはそうしたものであるはずですが――が手を貸して私たちの弱い過ちの多い性質を完全なものにしてくれないとしたら、まだ半分しか出来上らない未定形の生きものなのです。私にはかつて、人間としてもっともけだかい友人がありました。ですから、友情については判断する資格があるのです。あなたは希望と、眼の前にある世界とをおもちです。絶望なさるわけがありません。しかし、私――私は、いっさいのものを失い、生涯を新規にやりなおすことはできません」

こう言っているうちに、その顔には静かなおちついた悲しみの色が現われ、それが僕の胸にひびきました。しかし、その人は黙りこんで、まもなく自分の船室に入りました。

この人のように、精神的に参っていながら、自然美をそれ以上に深く感じることのできる人はありません。星空や海や、この驚異的な地方の示すあらゆる光景が、この人の魂を地上から引き上げる力をまだまだもっているようにおもわれます。こういう人は二重の存在をもっているもので、不幸に悩み、失意にうちのめされることはあるかもしれませんが、自分の心のなかに沈潜すると、まわりに円光を背負った天の精霊のようになり、その環のなかへは悲しみも愚かさも入りこんでみようとはしません。

この神聖な見知らぬ人に対する僕ののぼせかたをお笑いになるでしょうね。けれども、御自分でお会いになれば、お笑いにはならないはずです。あなたは、本や隠遁生活で仕込まれて洗煉されたので、選り好みがなかなかやかましいわけですが、それでも、しかし、この驚歎すべき人物の非凡な価値を正しく評価するにはまだ足りないでしょう。この人は、つね日ごろ僕の知っているほかの誰とも比べられないくらい、この人を高く引き上げる特質をもっていますが、僕はときどき、それを見つけようと努めました。それは、直観的な洞察力、すばやくはあるがあやまちのない判断の力、物事の原因に溯って貫きはいる力、またこれに付け加えて云えば、楽々とした表現、そのいろいろな抑揚が魂のなかから和らげられた苦楽であるような声、などであるとおもいます。

一七××年八月十九日

昨日、この見知らぬ人は私に言いました――

「ウォルトン隊長、あなたには、この私が、大きな、たとえようもない不運に虐まれていることが、すぐおわかりになるでしょう。一度は私も、こういうわざわいの記憶を自分もろとも殺してしまおうと決心しましたが、あなたに負けて、この決心を変えることにしました。あなたも、私がもとそうだったように、知識と智慧を求めていらっしゃるが、その願いの叶うことが、私のばあいのように、あなたに咬みつく毒蛇とならないことを熱心に望むのです。私の災難をお話しすることが、おやくにたつかどうかはわかりません。けれども、あなたが私と同じ道すじを辿り、私をこんなふうにしてしまった同じ危険にさらされておいでになるのをふりかえってみると、私の身の上ばなしからひとつの適切な教訓を汲み取られるだろうと想像するのですよ。それは、あなたの計画がうまくいくとしたら、手引きになるでしょうし、また、失敗したばあいは、慰めになるでしょう。ただ、普通ならば奇怪なことと考えられることをお話しするのですから、どうぞそのつもりでお聞きください。私たちがもっと温和な自然のなかにいるのでしたら、信用されるどころかむしろ笑い出されるおそれがありますが、こういった荒涼たる神秘的な土地にあっては、千変万化する自然力のことを知らない人たちの笑い草になるようないろいろのことも、ありそうなことに見えてくるものです。それに私の話そのものが、そのなかに出てくる事件がほんとうだということを、ひきつづきお伝えしている、ということだけは、疑いようもないことなのです」

僕がこのうちあけ話を聞いてたいへんありがたく思ったことは、あなたも容易に想像がつくでしょうが、ただこの人が、自分の不しあわせを語ることで悲しみを新たにするのは、耐えられないことです。一つには好奇心から、また一つには、僕でできることなら、この人の運命をよくしてあげたいという強い欲求から、それこそ熱心にその約束の物語を聞かせてもらうことにし、そういう感情を揺さずにあいてを促しました。

「御同情には感謝しますが、」とその人は答え、「それは無用です。私の運命はほとんど終りました。私は、一つの出来事を待っているだけで、それが済んだら安らかに休息します。……お心もちはわかりますが、」と、口をはさみたがっている僕に気づいて話しつづけました。「そう申しあげてよかったら、あなたはまちがっていらっしゃいますよ。どんなものも私の運命を変えることはできないのです。私の来歴をお聞きください。そしたら、それがどんなに取りかえしのつかぬように決定されているかが、おわかりでしょうから」

そこでその人は、明日からおひまな時に物語を始めようと言いました。この約束に、僕は厚く厚く感謝しました。毎晩、どうしても手ばなせない仕事がある時のほかは、この人が昼間話したことをできるだけそのことばのままに記録しようと決心しました。用事で忙しければ、すくなくとも覚え書きを取っておこうとおもいます。この原稿にはずいぶん、あなたもお喜びになるにちがいありませんが、この人を知り、この人自身の口からそれを聞く身にとっては、将来いつか、どんな興味と同感をもってそれを読むことだろうとおもいます。僕が日課を始める今でさえ、音吐朗々たるその声が耳にひびき、そのうるおいのある眼がけだるい甘美さを帯びて僕を見ています。魂の内部から輝いた顔をして元気よく手をあげるのが見えるのです。この物語は、世にもふしぎな、そして人の心を傷つけるものにちがいありません。雄々しい船をついに押し包んで難破させたあらしのすさまじさ――それはこうして!