「人はいかにして自分を知り得るのか? 絶対に内省では不可能だ――行動によるしかない。汝が、己の責務を果たすべく努めるやり方によって、汝は己の内にあるものを知るであろう。しかしながら己の責務とは何か? その時の目先の用事である」――ゲーテ。
さて読者のみなさんはここで、議論をすすめるにあたって、この田園都市の実験がうまく立ちあがって、なかなか成功したものと考えてみてほしい。そして、こうした実証的な教訓がどのように重要な影響を持ち、それが改革の道にどのような光を投げかけ、それによって社会が受けるはずの影響を考えてほしい。そうしたら、この開発後の大きな特徴についてたどってみることにしよう。
今日、いやそれを言うならいつの時代もそうだが、人々と社会の最大のニーズは次のようなものだ:価値ある目標とそれを実現する機会、労働とそれを向けるだけの価値ある目的。人間の存在すべて、そして人間がなれるものすべては、その抱負に集約されるのであり、これは個人のみならず社会にとっても真理である。
いま、この国や多の国の人々のためにわたしが置こうとする目的は、これよりいささかも「高貴さや適切さ」において劣るものではない。現在、過密でスラムまみれの都市に住む人々のために、田園によって仕切られた、美しいホームタウンの集団を作るという仕事のためにみんなが努力しよう、ということだ。
すでに、そういう町を一つ作るにはどうすればいいかを見てきた。ではこんどは、真の改革への道がいったん発見され、そして決意をもってそれにしたがうならば、これまで敢えて望もうとすら思わなかったほどの遙かに高い宿命に向けて、この社会が導かれるであろう、ということを示そう。そうした未来については、勇敢な人々はこれまで予言してきたのだけれど。
過去、社会をいきなり飛び上がらせて、新しく高い水準の存在に持ち上げたような発明や発見があった。蒸気の利用――昔から知られてはいた力だが、それにふさわしい仕事に向けるための制御がいささか難しかったもの――はすさまじい変化を引き起こした。でも、蒸気の力をはるかに上回る力――地上でのもっと優れた高貴な社会生活に対するたまりにたまった欲望――を活用する手法の発見は、蒸気よりずっとめざましい変化をもたらすだろう。
これまでわたしたちが提案してきたような実験が上手に実施されることで、はっきりと見えるようになる明白な経済的真理とはなんだろうか。それはこういうことだ:新しい富の改革によって、社会と自然の生産力がいまよりもずっと有効に使われて、さらにそうしてつくられた富の分配が、いまよりずっと公正で平等に行われるような新しい産業システムの創造へとつながる広い道が開かれている、ということだ。社会として、そのメンバーたちに分け与えるものがずっと増え、しかもその大きな分配物が、もっと公正に分け与えられるということだ。
産業改革論者たちは、おおざっぱに言って二種類に分類できる。最初の一派は、生産を増大させる必要性について、いつもしっかり注意を払うのが何より大事だ、と主張する人たち。そして二番目は、公正で平等な分配のほうに特に重きを置く者たち。前者は要するにいつでも、「国としての取り分を増やそう、そうすればなにもかもよくなる」と言っている。後者は、「国の取り分は十分で、あとはそれが平等に分配されさえすれば」と言っている。前者はおおむね個人主義的で、後者は社会主義的だ。
前者の観点の例としては、A・J・バルフォア氏が挙げられるだろう。かれは1894年の11月14日にサンダーランドで開かれた保守派協会全国組合会議で、こう発言している:
「社会というのが、その全体としての生産物の分け前をめぐって争いあう二つのセクトでできているかのように表現する人々というのは、大きな社会問題を完全に見誤っている。国の産出は固定量ではないし、雇用者が多く取ったらその分だけ被雇用者の取り分が減る、というわけではないのを考えなくてはならない。この国の労働者にとって、真の問題は規模的にも本質的にも、配分ではない。生産の問題なのだ」
二番目の見方の例としては、以下を挙げておこう:
「貧乏人を向上させるにあたり、それに対応するだけ金持ちを圧迫しなくていいという考え方がいかにばかげているかは言うまでもない」――フランク・フェアマン『Principles of Socialismmade plain(やさしい社会主義の原理)』(ロンドン、1888)
すでに述べたように、そしてこの考え方はもっとはっきりさせるつもりだが、個人主義者も社会主義者も遅かれ早かれ必然的にたどらなくてはならない道があるのだ。これまでたっぷりと明らかにしてきたように、小さなスケールでは社会はいまより個人主義的になれる――もしその個人主義というのが、自分の望むことができて、好きなものを作れ、自由に協力しあったりできる機会が、いまよりたっぷりと自由に成員に与えられている社会、という意味であるなら。でもそれと同時に、社会はもっと社会主義的にもなれる――ここでの社会主義というのが、コミュニティとしての福祉が安全に保護され、自治体の活動範囲の拡大によって集団としての精神が表現されているような生活状態をさすのであれば。
こうした望ましい目標を達成するため、わたしは各種の改革者の著書からページをとって、それを現実性の糸でとじあわせた。生産の増大を主張するだけでは飽きたらずに、わたしはそれがどうすれば実現可能かを示した。一方、もっと平等な分配という同じくだいじな目標は、すでに示した通り簡単に実現できるし、悪意や抗争や対立を生じさせることもない。憲法にも準拠しており、革命的な法制も不要であり、既存の利害関係を直接攻撃するものでもない。このようにして、ここで述べた改革二派の願望は達成できるわけだ。
わたしは一言で、ローズベリー卿の示唆に従い、「社会主義からはその共通の努力の大幅な支持と、公共的な生活の熱心な支持を借り、個人主義からは自尊心と自己依存の保持を拝借したのである」。そして具体性のある例示によって、有名な『Social Evolution(社会の進化)』におけるベンジャミン・キッド氏の核心となる考え方である「社会組織の利害と、それを構成する個人の利害とは、あらゆる時点において現実に対立するものなのだ。両者は決して折り合いをつけることはできない。両者は内在的に本質的に折り合いがつかないものだからだ」という議論を論破したものと考えている。
ほとんどの社会主義的な文筆家は、財を買い取ったり課税したりして所有者を排除することで、古い富の形態を奪取してしまおうという欲望をあまりに強く露呈しているようにわたしには思える。もっと真正な方法は新しい富の形態をつくりだして、しかもそれをもっと公正な条件下でつくりあげてることなのだ、という考えはほとんど持たないようだ。
でも、富のほとんどの形態が実にはかないものだということをしっかり認知すれば、自然にこの後者の考えにつながらずにはいられないはずだ。そしてほとんどあらゆる物質的な富は、われわれが暮らす惑星や自然元素はさておき、きわめて劣化しやすく滅失しやすいのだ、ということは、経済学者がだれしも十分に認識している真実なのである。だからたとえばジョン・スチュアート・ミルは『政治経済学要綱』第一巻第5章でこう述べる:
「現在イギリスに存在する富の価値のかなりの部分は、過去12ヶ月以内に人間の手で創り出されたものである。この巨額の集合的な価値のうち、10年前にも存在していたものの割合は、実に小さなものだ。この国の現在の生産資本の中だと、農家や工場や船が数艘や機械少々があったに過ぎない。そしてこれらですら、新たな労働がその10年の間に動員されて、それを修理していなければ、こんなに長持ちはしなかっただろう。土地は残っているが、しかしながら残っているのはほとんど土地だけだと言っていい」
大社会主義運動の指導者たちは、もちろんこれを十分に承知している。でも、改革の手法を論じているときには、このかなり基本的な真理は、かれらの念頭から消え失せてしまうらしい。そしてかれらは、現在の富の形態を掌握することにばかり腐心しているように見える。まるでそれらが本当に永続的で長持ちするようなものだと思っているかのように。
でも社会主義的な文筆家たちの他の主張を考えると、なおさら驚異的な一貫性のなさがあらわれる。かれらこそまさに、いま存在している富の形態の相当部分は、実は富(wealth)なんかではない、といちばん強く主張している文筆家たちでもあるのだ。かれらに言わせると、それは富(wealth)どころか害悪(ilth)であり、すこしでも理想に向けて歩みだそうとする社会形態は、そうした富の形態を一掃して、それにかわる新しい富の形態を創り出すことをすべきだ、ということになる。
実に驚異的なまでの一貫性のなさでもって、かれらは急速に滅失しつつあるばかりでなく、かれら自身の見解では完全に無益か有害ですらあるような富の形態を所有したいという、癒しがたい渇望を示しているわけだ。
したがってH・M・ハインドマン氏は、1893年3月29日に民主クラブで行った講演でこう語っている:
「現在のいわゆる個人主義が、いずれ必然的に崩壊したときに、社会主義者として実現させたいと考えている社会主義的な考え方をきちんと展開して構築しておくのは、望ましいことでした。社会主義者としてかれらがまっ先にやるべきことの一つは、過密都市の広大な都心部から人口を移住させることです。かれらの大都市は、もはやかれらが仲間をリクルートしてこられるような大規模な農業人口を持っていませんし、劣悪で不十分な食料と、汚染された大気などの非衛生的な条件のために、都市大衆の肉体は急速に、物質的にも肉体的にも劣化しつつあるからです」
おっしゃる通り。しかしハインドマン氏は、現在の富の形態を掌握しようと苦闘することで、自分がまちがった要塞を占拠しようとしていることに気がつかないのだろうか。もしロンドンの人口、またはロンドンの人口の相当部分が、将来何かが起こった時点でよそに移住させられなくてはならないのであれば、こうした人々の多くがいま移住するようにうながすようにしたほうがよくはないだろうか。現在でもすでに、ロンドンの行政的な問題とロンドンの改革は、もうじき説明するように、いささか恐ろしい形で現れようとしているのだから。
莫大な売り上げを見せ、しかもそれだけの価値を持った小著『Merrie England(メリー・イングランド)』の中にも、同じ一貫性のなさが認められる。「ヌンクァム」なる著者(原注:ロバート・ブラッチフォード)は、最初からこう述べる。
「われわれが考えなくてはならない問題は、こういうことだ:国と人々が与えられたとき、その人々が自分や国から最高のものを引き出すにはどうすればいいのか」
そしてかれは、精力的にわれわれの都市を糾弾する。家屋は醜く住みにくく、通りはせまく、庭園は不足だ、と。そして屋外職業のメリットを強調する。工場システムを糾弾してこう述べる:
「わたしなら、まず人々に小麦と果物を作らせ、牛と鶏を自分たちの使う分だけ育てさせる。それから漁業を開発し、巨大な養魚池や養魚港を建設する。それから鉱山や溶鉱炉、化学作業や工場を制限して、自国民への供給に実際に必要な量だけにする。それから、水力と電力を開発して煙による迷惑をなくす。この目標を実現するために、わたしはすべての土地や製粉所や鉱山、工場、土木建築、店舗、船舶、鉄道を、人民の財産とする(強調引用者)」
つまり人々は、いっしょうけんめい工場や製粉所、土木建築や店舗などを所有するために苦闘するのだけれど、その半分は、もしヌンクァムの願望が実現されれば役にたたなくなるわけだ。船舶を所有しても、外国との貿易を廃止するつもりなら(『メリー・イングランド』第9章を参照)それはまったく役にたたない。そして鉄道をがんばって入手しても、ヌンクァムの望むような人口の再配置が行われるならば、ほとんど廃線にしなくてはならない。
そしてこの無益な苦闘はいつまで続くのか? この点はヌンクァムによーく考えてほしいのだが――まずはもっと小規模な問題を考えて、かれ自身のことばを借りて言うならば「たとえば6,000エーカーの土地があったら、まずはそれを最高の形で利用しようではないか」? というのもそうすれば、それを首尾よく実施したことで、もっと広い土地も扱える準備ができるだろうから。
富の形態がどんなにはかないかを、別の言い方でもう一度述べよう。そして、その考察がどのような結論につながるはずかを示そう。社会が示している変動はあまりにめざましく――特に進歩途上にある社会はそうだ――われわれの文明が今日見せている、外見的な目に見える形態は過去60年の間にほとんどが完全に変化をとげてしまった。中には、完全な変化を数回とげてしまったものもある。公共・民間の建物、通信手段、文明を支える装置、機械、ドック、人造港湾、戦争の道具と平和の道具などだ。たぶんこの国で、60年以上古い家屋に住んでいる人は20人に一人もいないだろう。60年以上古い船に乗っている船員など、千人に一人もいないだろうし、60年前に存在していた工房で働いてきたり、60年前にあった道具を使ったり馬車を運転している工芸家や労働者も、百人に一人もいないはずだ。
最初の鉄道がバーミンガム・ロンドン間で開通してからいまで60年目で、鉄道会社は10億もの投下資本を持っているけれど、上水道、ガス、電気、下水は、ほとんどが最近のものだ。60年以上も前につくられた物質的な残存物というのは、記念物や前例や遺産として無限の価値を持つものもあるけれど、それをめぐってもめたり争ったりするようなものではない。その最高のものとしては、大学や学校、教会や聖堂などがあって、こういうものだと話は別だ。
でも最近の例を見ない進歩と発明の速度を考えてみたとき、これからの60年も同じくらいめざましい変化をとげるということを、まともな人間であれば疑い得ないのではないだろうか。ほとんど一夜にしてあらわれた、このキノコのような形態たちが、多少なりとも永続的なものだなんて思えるだろうか。労働問題の解決や、職を求めている何千もの空いた手に対して仕事を見つけるという問題の解決は別にしても――そしてわたしはこれに対しても自分の回答が正しいことを実証したと主張する――新しい動力や、新しい駆動力(ひょっとして空中を移動するようなもの)、新しい上水道、新しい人口配置などの発見について考えるだけで、どんな可能性が開かれることか。そしてこれらはそれだけで、多くの物質的な形態を完全に役に立たない無効なものにしてしまうことだろう!
だったら、なぜ人が過去に生産したものについて、言い争いもめるのか? なぜ人が生産できるものについて学ぼうとしないのだろう。そうする過程で、もっとよい富の形態を生産する大きな機会を発見するかもしれないし、さらにはそれをずっと公正な条件で生産する方法も見つけるかもしれないではないか。『メリー・イングランド』の著者を引用するなら、「われわれはまず全員、われわれの肉体と精神の健康と幸福にとって何が望ましいかを見きわめて、それをいちばんうまく簡単に生産するよう、人々を組織するべきなのだ」。
つまり富の形態というのは、まさに本質的にはかないものであり、社会の状態を前進させるための、もっといい形態によって絶えず置き換えられる運命にあるのだ。しかしながら、きわめて永続的で長持ちする物質的な富の形態が一つだけある。その価値は、人類の最高にすばらしい発明の前にあっても、いささかも見劣りすることはないどころか、そうした発明がその価値をもっとはっきりさせ、その普遍性を明らかにするだけの存在。人類が生きるこの惑星は何百万年も続いてきており、人類はようやく地球の猛威から逃れ出てきたばかりだ。自然の背後には大いなる目的があると信じるわれわれとしては、人類の心にましな希望が芽生えてきたこの時期になって、この惑星のキャリアがすぐに断ち切られてしまうとは信じられない。人はいまやっと、数々の苦闘と苦痛を通じつつも、自然の秘密の中でもわかりやすいものをいくつか学び、その無限の宝物をもっと気高く使う方策を見つけつつあるところなのだ。地球は、あらゆる現実的な目的から見て、永遠に続く存在だと考えていい。
さてすべての富の形態は、その基盤として地上に存在しなくてはならず、地表または地表近くに存在する利害基盤から築き上げなくてはならないので、改革者はまず地球を人類のためにいちばんいい形で使うにはどうすればいいか考えるべきだ、ということに当然なるだろう(基盤はあらゆる場合にいちばん大事なものなのだから)。しかしながらここでもわが友人たる社会主義者くんたちは、本質的なところを見逃してくれる。かれらが表明する理想というのは、社会を土地とあらゆる生産設備の所有者にすることだ。でもかれらはこの計画の両方の点を推進するのに夢中で、土地の問題が特に大事だということを考えるのが、いささか遅すぎたために、改革への真の道を見失ってしまったのだ。
しかしながら、土地の問題を最前線に押し出す改革者の一派もいる。ただしそのやり方は、わたしにいわせればかれらの社会に対する見方を支持するものとは思えないのだけれど。ヘンリー・ジョージはその有名な『Progress and Poverty(進歩と貧困)』において、論理的には完全に正確とは言えないまでも、見事な雄弁をもって、われわれの土地関連法こそが社会のあらゆる経済的害悪の原因であり、地主というのは海賊や強盗と大差ない存在であり、国はさっさと強制的にその地代を没収するようにすべきであり、そうすれば貧困の問題は完全に解決される、と主張する。
でも、現在の社会の嘆かわしい状態についての責めや罰を、たった一つの階級の人々にだけ押しつけようという試みは、きわめて大きなまちがいではなかろうか。階級としての地主が、ふつうの市民にくらべて正直でないなどということが言えるだろうか。平均的な市民に、地主になる機会を与えて、テナントのつくりだす土地の価値を手に入れる機会を与えたら、その市民は明日にでもそうすることだろう。つまりふつうの人はだれでも潜在的に地主になれるわけだ。だったら、個人としての地主を攻撃するというのは、国が自分自身について有罪判決を下して、特定階級をスケープゴートにするようなものだ。
原注:わたしは『Progress and Poverty(進歩と貧困)』からかなりのインスピレーションを得た者であり、このような書き方をするからといって恩知らずとは思わないでほしい。
しかしながら土地システムを変えようとするのは、それを代表している個人を攻撃するのとはまるで話がちがう。でも、この変化はどのように実現されるのだろうか。わたしはこう答える:事例の力によって。つまり、もっといいシステムを構築して、力の組み合わせやアイデアの操作にちょっと工夫をこらすことで。平均的な人間はだれでも地主になり得るというのは事実であり、自分で稼いでいない価値増分を回収されることについては文句を言う一方で、逆の立場になったらそれを平気で回収しようとするはずだ。
でも平均的な人物は、地主になってほかの人々がつくった賃料価値を回収する見込みはほとんどない。したがって、そうした収益が本当に正直なものか、私情をまじえずに考える存在としては適しているのだ。そして、他人の創り出した賃料価値を奪う特権を自らが楽しむことなしに、一方で自分自身が絶えず創り出したり維持したりしている賃料価値を奪われないよう保護されているような、新しいもっと公平なシステムをだんだん作り上げていくことができないものかも、冷静に考えられるのだ。
これを小規模でやるにはどうすればいいかは、すでに示した。続いて、この実験をもっと大規模にやるにはどうすればいいかを考えなくてはならない。これについては章を改めることにしよう。