明日の田園都市, エベネザー・ハワード

社会都市


「人間性というものは、あまり何世代にもわたって同じくたびれた土壌に植えられ続ければ、ジャガイモと同じで栄えることがない。わたしの子供たちは別の土地でうまれたし、その運命がわたしに左右できる限り、その根をなじみのない別の土地におろすことだろう」――ナサニエル・ホーソン『緋文字』

「人々がいま興味を持っているのはこういうことだ。民主主義を手にしたいま、われわれはそれを使って何をしようか。民主主義を使ってどんな社会をつくろうか。ロンドンやマンチェスター、ニューヨークやシカゴなどの光景が延々と続き、騒音や醜悪さ、儲け話、「コーナー」だの「リング」だの、ストライキだの、豪奢と窮乏のコントラストだのを果てしなく目にするしかないのか? それとも万人に芸術と文化をもたらし、人々の暮らしに大いなる精神的な目標がある、そんな社会を創り上げられるのだろうか?」――デイリー・クロニクル、1891年3月4日


 さてここでわれわれが取り組まなくてはならない問題とは、一言でこういうことだ:田園都市の実験を踏み石にして、全国にもっと高度でいい形の生産的な生活をひろげるにはどうしたらいいか。最初の実験が成功しさえすれば、これほど健全でメリットの多い手法を拡張してくれという要求が、大幅に出てくるのはまちがいない。したがって、そういう拡張が進むにつれて直面しなくてはならない、主な問題を考えておくほうがいいだろう。

この問題にアプローチするにあたっては、鉄道企業の初期の発展をアナロジーとして考えるのがいいだろう。われわれが自らの活力と想像力を示しさえすれば手の届くところにあるこの新開発のもっと大きな特性と考えが、これでもっとはっきり見える役にたつはずだ。

鉄道はそもそも、なんの公共的な権限もなく作られた。ごく小規模に作られ、路線延長も短かったから、地主一人か二人が同意すれば作れた。そしてそんな簡単に実現できるような個人的な合意や取り決めは、国の立法府に訴えるべき代物ではまったくなかった。でもロケット号が作られて、蒸気機関の優位性が完全に立証されると、鉄道事業が前進するためには法的権限を獲得することが必須となった。というのも、はるか離れた地点間の間の地主すべてに対して同じ取り決めを行うのは、不可能か、とてもむずかしいはずだからだ。頑固な地主が一人、自分の立場を利用して、どう考えても法外な値段を自分の土地に対して要求すれば、こうした事業は実質的に首が絞まってしまう。

したがって、土地を強制的に市場価格か、あるいはそこからあまり極端にはずれない金額で確保できるような権限を獲得することが必要となった。そしてこれが実現されて、鉄道事業はものすごい勢いで発展し、おかげである都市では鉄道建設用に、なんと132,600,000ポンドもの調達が議会に承認されたほどだ(クリフォード著『History of Private Bill Legislation(私法律案の立法史)』(バターウォース、1885)序文88ページ)。

さて、鉄道事業発展に議会の力が必要だったのなら、新しいきちんと計画された町の建設を建設することが本質的に現実性を持つもので、人口が古いスラム都市からそこに移住するのが自然で、しかも適用される権限に比例して、ある家族が古いろくでもない借家を出て、新築で快適な住居に移るのと同じくらい簡単に、古い都市からの移住は実現できるのだという認識がそれなりに広まれば、似たような権限がやはり求められるだろう。こうした町を作るには、広い土地を確保しなくてはならない。あちこちで、一人かそこらの地主と交渉するだけで適切な用地が確保できるだろうが、もしこの移動が多少なりとも科学的に行われるのであれば、われわれの最初の実験で占有されたのよりもずっと広い用地が確保されなくてはならない。

さて最初の短い鉄道は、いまの鉄道事業の起源だったわけだが、そこから全国に広がる鉄道網を着想した人はごく少数だった。したがってわたしが描いたような、きちんと計画された町というアイデアを見ても、その後に必然的に続く後の展開――つまり町のクラスターの計画と建設――を受け入れる準備のできている人は少ないだろう。そのクラスターの中では、それぞれの町が異なっているけれど、その全体は、一つの大きな考え抜かれた計画にしたがっているのだ。

ここで一つ、あらゆる町が発展する時に従うべき真の原理だとわたしが思っている物を表現した、非常におおざっぱな図式を持ち出してみよう。仮に田園都市が成長して、人口32,000人に達したと想定する。その先はどうやって成長するのだろうか。その無数のメリットに惹かれてやってくる人たちのニーズには、どうやって応えようか。そのまわりにある農用地ゾーンに建設し、そして「田園都市」を名乗る権利を永遠に失ってしまうのがいいのだろうか。まさか。確かに町のまわりの土地が、既存の都市のまわりの土地と同じように、利益を上げようと腐心する個人の所有なら、そういう悲惨な結果はまちがいなく生じてしまうはずだ。この場合には、町がいっぱいになってくるにつれて、農用地が建築用に「熟して」きて、町の美しさと健全さはすぐに破壊されてしまう。

でもありがたいことに、田園都市のまわりの土地は、個人の所有にはなっていない。それは人々の所有物だ。そしてそれは、ごく少数の人々の見かけの利益のために管理運営されるのではない。コミュニティ全体の真の利益のために管理運営されるのだ。さて、人々が執念深く守ろうとするものとして、自分たちの公園やオープンスペース以上のものはない。したがって田園都市の人々が、その発展過程によって自らの美しさが破壊されるのを一瞬たりとも見過ごすおそれは、たぶんないものと安心していいはずだ。

でもこういう主張も出るだろう――もしこれが真実であるなら、田園都市の住民たちはそれによって、利己的にも自分の都市の成長を阻害し、結果として他の多くの人々がそのメリットを享受できないようにしているのではないか? まさか。明るい、だが見過ごされてきた代替案があるのだもの。町は、成長はする。でも、その成長はある原理にしたがって、結果は次のようになる――成長しても、町の社会的機会や美や便利さは、失われたり破壊されたりすることはなく、むしろ拡大し続けるのだ。

ここでオーストラリアの都市の例を見てみよう。これはある意味で、わたしの考えている原理を例示しているものだ。アデレード市は、付録のスケッチ地図でわかるように、「公園地」に囲まれている。さて、都市は建て詰まった。どうやって成長しようか。「公園地」を飛び越えて、北アデレードを建設することで成長するわけだ。そしてこれが田園都市でもしたがわれ、さらに改善されるはずの原理だ。

アデレードの成長方法

これでわれわれの図式も理解されるだろう。田園都市は建て詰まった。人口は32,000人になった。どうやって成長しようか。自分の「いなか」部分からちょっと先に、別の都市をつくることで成長するのだ――たぶん議会の法制のもとで。その新しい都市も、自前のいなか部を持てるようにする。いま「別の都市をつくる」と言ったし、行政管理的には、これは都市が2つあることになる。でも、それぞれの都市住民は、お互いの都市の間を数分で行き来できる。なぜならこのための高速交通が専用で提供されるからで、したがってこの二つの町の人々は現実には、一つのコミュニティを形成することになる。

そしてこの成長の原理――都市のまわりにはかならずいなか地帯を保存するという原理――は、常に留意される。やがて時がたつにつれて、都市のクラスターができあがる。これはわたしの図にあるような厳密な幾何学形態には従わないだろうけれど、でもある中央都市のまわりにグループをつくる。そしてそのグループの住人はすべて、ある意味では小さな町に住んでいることにはなるけれど、現実には大規模で実に美しい都市に住んでいて、そのメリットをたっぷり享受していることになる。それでいながら、いなかのさわやかな喜び――野原、茂み、林――単に整然とした公園や庭園だけでなく――は、ものの数分歩いたり乗り物に乗ったりすれば到達できる。そしてこの美しい都市グループが建設される土地は、人々が集合的に所有しているものなので、公共建築、教会、学校や大学、図書館、画廊、劇場などは、土地が民間個人の手駒の一つでしかないような世界のどんな都市も手が出ないような、すばらしく豪勢なものとなるだろう。

都市の正しい成長方法

高速鉄道輸送が、この美しい都市または都市グループにすむ人たちによって実現されると述べた。図を参照してもらうと、この鉄道システムの主な特徴は一目でわかる。まずは都市間鉄道がある。これは外周部の町すべてを結ぶ―― 円周32km(20マイル)――だからどの町からでも、一番遠いご近所へ行くときですら、16km(10マイル)の移動ですむ。これならまあ、20分ほどですむ。鉄道は、町の間では停まらない――こういう移動手段は、電気式の路面列車によって実現される。この路面電車は高速道路を通るが、この高速道路はごらんのようにたくさんある――それぞれの町は、グループ内の他のすべての町と直通になっている。

また別の鉄道システムがあって、これで各町が中央都市と直通になる。それぞれの町から中央都市の中心部への距離は、5.2km(3.25マイル)しかないから、ものの5分で到達できる。

ロンドンのある郊外から別の郊外に行くのに苦労したことのある人なら、ここに示したような都市グループに住む人々がどれほど巨大なメリットを享受することになるかわかるだろう。かれらは、自分の目的に奉仕してくれる鉄道システムを持っているのであって、ロンドンのような鉄道カオスではないからだ。ロンドンで体験される苦労というのは、もちろん事前の考えと事前の取り決めが不足していたことから生じている。この点については、ベンジャミン・ベーカー卿による土木技師協会の会長報告からありがたく一節を引用させていただこう。

「われわれロンドン市民は、この大都市内部や周辺における鉄道と鉄道駅の配置について、何らかの体系(システム)が必要だとこぼします。それがないために、一つの鉄道システムから別のものへと乗り換える時に、タクシーで長い距離を移動しなくてはならないことになるからです。こうした困難の存在は、主にきわめて有能ではあった国会議員ロバート・ピール卿の先見の明不足から生じているのは確実だと思われます。というのも1836年に、ロンドンにターミナルを設けようとする鉄道路線案はすべて、特別委員会の審査をうけて、議会に提出された無数のプロジェクトから完全な鉄道網計画が作られるようにして、不動産が競合計画のために無用に犠牲にならなくてすむようにすべきだ、という法案が下院に提出されたのです。ところがロバート・ピール卿は政府代表としてこの案に反対しました。その理由というのはこうです。『議会の多数決によってその事業や各種取り決めが満足であり、投資として収益性があると判断されない限り、どんな鉄道プロジェクトも実現されることはない。これらの場合に、許可が得られるためには事業の期待利益がそれをずっと維持するのに十分なものだということが示される必要がある、というのが認知された方針であり、地主としてもそうした保証を議会から期待し、要求するのは完全に正統なことだからだ』。このような反対が行われたがために、大都市の市内に大きな中央駅を持たないことで計算できないほどの被害がロンドン市民に意図せずして負わされたのであります。そしてその後の出来事により、法律を通しただけで鉄道の財政的な見通しについて何らかの保証になるという考え方がいかにまちがっていたかは、実証されたのであります」

しかしながら、イギリス人民は鉄道の将来の発展が夢にも思い寄らなかった人々の、先見の明のなさにいつまでも苦しめられなくてはならないのだろうか。まさか。史上初めて建設された鉄道網が、正しい原理にしたがうなどというのは、ほとんどあり得ないことだ。でもいまは高速交通手段の面で実現されたすさまじい進歩を見れば、われわれがそうした手段をもっと十分に活用して、わたしが雑な形で示したような計画に基づいた都市づくりをする時期は、とっくにやってきているのだ。そうなったらわれわれは、高速交通のあらゆる意味において、この過密な都市にいるよりもお互いにもっと近くなり、同時にきわめて健康的でメリットの多い条件に囲まれていることにもなるのだ。

わが友人たちの中には、こうした町のクラスターという計画は新しくつくる国には十分に向いているかもしれないけれど、昔から人が住んでいる都市では、すでに町もできあがってしまっているし、鉄道「体系(システム)」もほとんでできあがっているから、話がまるでちがってくるのではないか、と言う人もいる。しかしこういう主張をするということは、言い換えれば、国の既存の富の形態が永続的なものであり、もっといい形態の導入を永遠に阻害し続けると想定するようなものだ。この混雑して通気も悪く、無計画で、不毛で、不健康な都市――わが美しい島のまさに表面に生じた潰瘍――が、障害として立ちはだかり、現代的な科学手法や社会改革者たちのねらいが十分に開花するような町が導入できない、と主張しているに等しい。いや、そんなはずはない。少なくとも、いつまでもそんな状態でいられるはずがない。

現存する物は、存在できるかもしれないものをしばらくは妨害できるだろう。でも、進歩の波を押しとどめることはできない。こうした混雑した都市はその役目を果たした。おもに利己主義と強欲に基づいている社会が建設できるのはせいぜいがこんなものだったのだけれど、でも人間の性質の社会的な面が、もっと大規模に実現を求めているような社会には、まるで適応していない。この社会では、自己愛そのものですら、同胞たちの福祉をもっと重視せよという主張をもたらすのだ。

今日の大都市は、地球が宇宙の中心だと教える天文学の著作がいまの学校で使えないのと同じくらい、同胞精神の発現には適用させられないのだ。それぞれの世代は、自分のニーズにあわせて建設を行うべきだ。そして先祖が住んでいたからというだけで人があるところに住み続けるというのは、ずっと大きな信念と拡大した理解のおかげで過去のものとなった古い信念を抱き続けろというのと同じで、別に物事の本性でもなんでもないのだ。

だから読者のみなさんは、自分が無理もない誇りを抱いている大都市が、いまのような形ではまちがいなく永続的なものだなどと、無条件に考えないでいただきたいと、わたしは心からおねがいするものだ。それは、駅馬車システムが実に大いに賞賛の対象となっていたのが、まさにそれが鉄道に取って代わられようとしていたそのときだったのと同じようなことだ(たとえば『The Heart ofmidlothianミッドロシアンの深奥』(ウォルター・スコット卿)の序章を見よ)。直面すべき単純な問題、しかも決然と直面すべき問題は以下のようなものだ:古い都市をわれわれの新しく高いニーズに適応させるのに比べて、比較的処女地に近いところに大胆な計画を開始したほうが、よい結果が得られるだろうか? このようにはっきり直面してみれば、この問題への解答は一種類しかない。そしてこの事実がきちんと把握されれば、社会革命はすぐにでも起きるはずだ。

わたしがここで描いたような町のクラスターを、既存の利害を比較的乱さず、つまりは補償の必要もほとんどなしに建設できるくらいの土地がたっぷりあることは、だれにでも理解されよう。そしてわれわれの最初の実験が成功裏に終われば、土地を買って必要な作業を一歩ずつ進めるために、必要な議会の力を得るのもそんなにむずかしくはないだろう。郡の評議会はいまやもっと大きな権限を求めており、そして仕事のたまりすぎた議会は、ますますその仕事の一部を郡に委譲したがるようになっている。そうした権限をもっと自由に与えられるようにしよう。もっと一層大きな地方自治の手法を認めさせよう。そうすればわたしの図が描いたものすべてが簡単に実現できるようになる――ただしきちんと調整されて組み合わされた思考の結果として、もっとすぐれた計画となって。

でも次のような意見もあるだろう。「おまえは、自分の方式が間接的に脅かす既存の利権が被るきわめて大きな危険性をそうやってはっきり公言することで、既存利権をおまえ自身に敵対するよう武装させて、それによって法規制による変化をすべて不可能にしてしまっているのではないか?」

わたしはそうは思わない。その理由は三つある。まず、そうした既存の利権は、一枚岩の重装歩兵のように進歩に反対して進軍していると言われるが、状況の力と出来事の流れによって、いずれ分裂して敵対するようになるからだ。第二に、不動産所有者は、ときどきある種の社会主義者たちが自分たちに向けるような脅しに屈するのをとてもいやがるので、社会がまちがいなく高次の段階へと進むにつれてあらわれてくる、出来事の論理的な展開に対して交渉を行うほうがずっと望ましいと考えるからだ。そして第三に、これが最大かついちばん重要なもので、最終的にはあらゆる既存利権の中でいちばん影響力が大きいものだが――ここでわたしが言っているのは、手を使おうと頭を使おうと生活手段として働く人々のもつ既存の利権のことだ――これはこの変化の性質を理解しさえすれば、それを当然支持するはずだからだ。

以上の点について、個別に見ていこう。まず、既存の所有権をめぐる利権はまっぷたつにわかれて、お互い対立するようになるとわたしは主張する。この種の分裂は昔もあった。だから鉄道法制の初期には、運河や駅馬車の既得権益は危機感を持って、自分たちを脅かす存在に対し、あらゆる力を駆使してそれを阻止し、妨害しようとした。でも、もう一つの大きな既存の利権がそうした反対をあっさり脇へ押しやった。この利権とはおもに二種類――投資先を求める資本と、自らを売りたいと思っている土地だ。(第三の既存利権――つまり雇用を求める労働――は当時はほとんど自己主張を行っていなかった。)

そして、田園都市のような成功した実験が、こうした既存の利権のまさに屋台骨に巨大なくさびを打ち込むことになる点をごろうじろ。その屋台骨は抗しがたい力の前に分裂し、法規制の流れが強力に新しい方向へと向かうのを許すだろう。というのも、そういう実験がまさにとことんまで証明しつくすのはどういうことだろうか。すべてを挙げるには数が多すぎるけれど、なかでも、現在きわめて高い市場価値を持つ土地でよりも、未開発で未耕作の土地でのほうが(その土地が公正な条件で保有されさえすれば)、ずっと健康で経済的な条件を確保できるのだということを証明したはずだ。そしてこれを証明することでこの実験は、法外で人工的な賃料を持つ古い混雑した都市から、こんなに安く確保できる土地に人々が戻るためのとびらを開くだろう。

そうなると、二つの傾向が出てくるはずだ。まず、都市部の地価は強力に低下する傾向を見せるだろうし、それほど強力ではないが、農地の地価は上がる傾向を見せるだろう(なぜ農地の上がり方が小さいかというと、農地と市街地を比べると、農地の方がずっと量が多いからというのが主な原因だ)。農地保有者、少なくとも農地を売っていいと思っている所有者――そして多くは現在でもすでに売りたくてしょうがないのだ――は、この実験の中でイギリスの農業を再び繁栄できる立場に戻すと約束している部分を歓迎するだろう。市街地の所有者は、かれらのまったくの自己中心的な利益追求が続く限り、これを大いにおそれるだろう。このように、全国の地主たちも二つの派閥にわかれて敵対するようになる。そして土地改革の道――ほかの改革すべてをうちたてる基盤となるもの――は比較的簡単になるだろう。

資本もまた同じように、敵対する勢力に分かれる。投資された資本――つまり社会から見て古い秩序に属するような事業に注ぎ込まれた資本――は警告を受けて価値が大幅に下がるだろう。一方で、投資先を求める資本は、これまでいちばんの懸念事項であった投資先ができて歓迎するだろう。投資済みの資本は、別の考察によりさらに力が弱くなる。既存の資本形態の所有者は必死で――かなりの犠牲を払いつつも――古い昔からの株の一部を売って、新しい事業、つまり自治体所有の土地に投資するだろう。かれらとしても「卵をぜんぶ同じバスケットに入れておく」のはいやだからだ。そしてこのように、既存の所有権から正反対の影響がうち消しあうことになる。

でも既存の所有権からくる利害は、わたしの考えでは、別の形でもっと大きく影響を受けることになるはずだ。裕福な人は、社会の敵として個人的に攻撃され非難されたら、その糾弾者たちがまったくの善意でそれをやっているとはなかなか信じないだろう。そして国家の強力な手によって、かれらに課税しようという動きがあったら、合法だろうと非合法だろうとあらゆる手口をつかってそうした動きに反対し、そしてかなり成功する場合も多い。でも平均的なお金持ちは、平均的な貧乏人に比べて利己性が著しく大きいわけでもない。自分の家や土地の価値が下がったとしても、それが強制によるものではなく、そこに住んでいた人たちが自前でずっといい家を建てる方法を学び、それもかれらにとってメリットのある形で保有された土地の上で、そして自分の領地では味わえないような多くのメリットを子供たちに享受させているからなのだということを理解したら、かれは不可避なことに対しては哲学的に頭を下げて、そして機嫌のいいときには、どんな課税の変化よりもずっと大きな金銭上の損害をもたらすこんな変化であっても、歓迎することだってあるかもしれない。あらゆる人には、多少なりとも改革の本能がある。どんな人にも、仲間に対する気づかいはある。そしてこうした自然な感情が自分の金銭的な利害と対立したら、その結果、だれしも反対しようという気持ちは必ず多少は和らぎ、そして中にはそれが、国の利益を求める熱心な渇望に完全にとってかわられる人さえいる。それが多くの貴重な所有物を犠牲にすることになろうとも。したがって、外からの勢力にはこうしないようなものであっても、内面の衝動の結果としてあっさり与えられてしまうこともあるわけだ。

さてこんどはしばし、既存の利害の中で最大の、いちばん価値のある、いちばん永続的なものについて論じてみよう。技能、労働、エネルギー、才能、生産性といった既存利害だ。こうしたものはどのような影響を受けるだろうか。わたしの答は次の通り。土地や資本の既存利権を二つに分ける力は、生活のために働く人々の利害を団結・統合させるだろう。そしてその力を、農地所有者と投資先を求める資本と団結させるように働き、そして国家に対し、社会改革のために設備をすぐに開放する必要があることをうながすだろう。そして国家がぐずぐずしているようなら、田園都市実験で採用されたような、自発的な集団の力を集めるのだ。ただし経験から必要とわかった変更を加えて。

さっきの図で示されたような、都市のクラスターをつくるという仕事は、人類を団結させるあの情熱をあらゆる労働者の中にかきたてるだろう。それは、あらゆる種類の技師や建築家、芸術家、医療関係者、衛生専門家、修景造園士、農業専門家、測量士、建設業者、製造業者、商人や金融業者、同業組合の組織家、友愛組合や協同組合など、最高度の才能を要求する仕事だからだ。そしてさらにはいちばん単純な未熟練労働、その間に横たわる、技能や才能の要求水準が低い各種の仕事まで、あらゆるものが必要となる。

この仕事はあまりに莫大なので、わたしの友人の中にはそれで後込みする人もいるようだ。でもその膨大さこそはまさに、それがふさわしい精神とふさわしい目標をもって実行された場合に、コミュニティに対して持つ価値の尺度でもある。大量の仕事は、今日最も必要とされているものの一つだ、という点は何度も指摘されている。そして文明が始まって以来、社会の外的な組成を丸ごと作り直すという目前の仕事ほど巨大な雇用の場が開けたことなど一度もないのだ。それを建設する仮定で、何世紀にもわたる経験から学んできた技能や知識すべてが動員されることになる。今世紀の初期に、この島の全長全幅にわたって鉄の高速路線を敷設し、あらゆる町や都市を広大なネットワークで結びつけるというのは「大仕事」ではあった。でも鉄道事業は、影響は広大ではあったけれど、この新しい仕事に比べれば、人々の生活を本当にかすっただけのようなものだ。この仕事は、スラム都市のかわりに新しい故郷の町を作ろうとする。混雑した中庭のかわりに庭園を植えよう。洪水の谷間のかわりに美しい水路を造ろう。カオスのかわりに、科学的な流通システムをつくろう。消え去ろうとしていると願いたい利己性に基づく土地占有方式にかわり、もっと公正な占有方式を作ろう。いまはタコ部屋に押し込められている高齢貧困者を自由にするための年金基金をたちあげよう。堕落した人々の絶望を解き、その胸に希望を呼び覚まそう。怒りのきびしい声を鎮め、兄弟愛と善意の柔らかな声を目覚めさせよう。平和と建設の実施を強力な手にゆだね、戦争と破壊の実施が無益となって低下するようにしよう。ここにあるのは、労働者の大軍を結びあわせ、その力を活用できるような仕事だ。それが無駄になっていることこそ、いまのわれわれの貧困や病苦の半ば以上をつくりだしている元凶なのだ。


©2000 山形浩生. この版権表示を残す限りにおいてこの翻訳は商業利用を含む複製、再配布が自由に認められる。プロジェクト杉田玄白 (http://www.genpaku.org/) 正式参加作品。