明日の田園都市, エベネザー・ハワード

準公共組織――地方ごとの選択肢としての禁酒法改革


前章で、公共事業と民間事業との間にはっきりした一線を引くことはできない、ということを見た。公共についても民間についても「ここまではきてもよろしいが、ここから先はきてはならぬ」とはっきり決めることはできないのだ。そして絶えず変化をつづけるというこの問題の性質は、田園都市の産業生活検討において、完全に公共でもなければ完全に民間でもない、いわば「準公共」ともいうべき事業を参照して考えると有益だろう。

既存の自治体で、いちばん信頼できる歳入源は、いわゆる「公共市場」だ。しかしこうした市場は、公共公園や公共図書館、上水道など、公共用地で公共職員により公共の費用を使って、純粋に公共的なメリットを高めるために実施される事業など、完全な意味での公共事業ではまったくない。逆にわれわれの通称「公共市場」はほとんどの場合、民間の個人たちが運営し、かれらが自分の占有する建物の部分について料金を支払い、そしてわずかな点をのぞいては自治体の指図を受けず、そこから挙がる収益はさまざまなディーラーが享受するのである。したがって市場は準公共事業と呼ぶのがふさわしい。

本来はこの問題にはほとんど触れなくていいはずなのだが、田園都市の主要な特徴となる準公共事業の一形態に、この話は自然とつながっていくのである。この準公共事業は、水晶宮で見つかる。もしご記憶でなければ、これは広いアーケードで、中央公園を取り囲み、田園都市で販売されている最も魅力的な商品が展示されていて、しかもこれは大ショッピングセンターであると同時に冬の温室にもなっているため、市民たちのリゾートとしていちばんお気に入りに場所の一つとなっている。店舗での商売は自治体が実施するのではなく、さまざまな個人や集団が行うが、商人の数は現地の裁量の原則に任せて制限されている。

このシステムを採用するための考慮事項は、一方では製造業者と、もう一方では街に呼ばれる流通業者や商店主の場合の差から生じている。だからたとえばブーツ製造業者の場合、町の人たちがブーツの常客になってくれるのはありがたいだろうけれど、でも町に依存しきっているわけではぜんぜんない。かれの製品は全世界に販売される。だからかれとしては、地域内のブーツ製造業者の数を特に制限したいと思うことは、ほとんどないはずだ。逆に、その種の制限があったら、メリットよりもデメリットのほうが大きいだろう。製造業者は、同業者が近郊にいてくれるのを好むほうが多い。そうすれば、男女の熟練労働者の選択肢もずっと広くなる。そしてその労働者たちもそのほうが、雇い主を選べるからありがたいのだ。

でも商店や店舗となると、話はまったくちがってくる。田園都市で、たとえば布地店を開こうとしている個人なり組織なりは、競合相手の数を制限するための取り決めがないかどうか、是非とも知りたがるだろう。その店は町や近郊との取引にほぼ完全に依存するからだ。民間の地主も、土地を開発するときには、商店テナントと取り決めを交わすことがよくある。同じ敷地で営業を開始する同業者たちの洪水に埋もれてしまうのを防ぐためのものだ。

だから問題は、以下のような条件を同時に満たす、適切な取り決めをどういうふうに作るか、ということになるだろう。

  1. 店舗経営層のテナントたちがきて開業し、コミュニティに適切な税・地代を支払うようし向ける。
  2. 店舗の過多の害の説明で述べたような、店舗のばかげた無駄な重複を避ける。
  3. 通常は競争によって得られる(あるいはそう言われる)メリットを確保する――たとえば低価格、選択肢の増大、公平な取引、礼儀正しさなど。
  4. 独占にともなう害を避ける。

これらの結果はすべて、簡単な措置一つで確保できる。そしてこの措置で、競争は活発な力ではなく、潜在的な力となって、こちらの意図にあわせて活躍させたり寝かせておいたりできるようになる。その使い方は、すでに述べたとおり現地の裁量の原理を適用することになる。

説明しよう。田園都市は唯一の地主だ。だから、テナント候補――ここでは布地や装飾品を扱う協同組合か個人商人だとしよう――に対して大アーケード(水晶宮)における長期リースを、一定の年間税地代で提供できる。そしてそのテナントに対し、田園都市は実質的にこう言えるのだ:

「この敷地は、その区でわれわれがあなたの業種の店舗に対して今のところ貸そうと思っている唯一の敷地です。でもこのアーケードは、町と区の大ショッピングセンターであり、町の製造業者が自分の製品を展示する常設展示場でもありますが、同時に夏期と冬期の温室でもあるのです。したがってこのアーケードがカバーする面積は、まとな大きさにとどめられた商店や店舗用に必要とされる面積よりずっと大きいものです。

さて、あなたがこの町の人たちに満足を与えつづける限りは、こうしたレクリエーション目的の用地があなたと同じ業種の事業者に貸し出されることはありません。でも、独占を予防する必要があります。したがってもし市民があなたの商売のやり方に不服を感じて、競争力をあなたに対立するように作用させるべきだと望んだら、一定数の同意さえ得られれば、アーケード内の必要な空間が対抗商店を開くのに望ましいと自治体が判断した業者に割り当てられますよ」

この取り決めのもとでは、商人はその顧客の人気が必須となる。もし高すぎる値段をふっかけたら、もし商品の品質をごまかしたら、もし労働時間や賃金などの面で従業員に適切な処遇を与えなかったら、かれは自分の顧客の人気を失うという多大なリスクを冒すことになる。そして町の人々は、かれについてどう思っているかを表現するきわめて強力な手段を手に入れることになる。市民は、あっさりとその業種に新規の競合相手を招き入れればいい。でも一方で、商人がその機能を賢明かつ上手に実行すれば、その善意はお客の人気という堅実な基盤に支えられて、保護されることになる。

したがって商人が手にするメリットは莫大なものとなる。ほかの町では、なんの警告もなしに同業種の競合相手がいつ何時参入してくるやらわかったものではない。それはまさに、シーズン中に売り切らなければ大幅な赤字にして処分するしかないような、高価な商品を仕入れた直後かもしれないのだ。ところが田園都市では、こうした危険については十分に通知がくる――準備をしたり、あるいはそれを回避したりさえする時間がある。

さらにコミュニティのメンバーは、商人に道理をわからせる以外の目的で競合をその分野に持ち込むことに興味がないばかりか、そうした競合をなるべく後ろに追いやっておくほうが、利害の面でいちばんいいのだ。もし競争の炎が商人を苦しめるなら、町の住人たちもいっしょに苦しむしかない。ほかの目的で使ったほうがずっといい空間を失うことになる――最初の商人が、可能なら提供したであろうものより高い価格を支払うことになるし、自治体サービスを一つでなく二つの商人に提供しなくてはならず、一方で競合二店舗は、最初の商人ほどには多額の税・地代を支払えない。というのも多くの場合、競争の結果として、どうしても商人は価格をあげざるを得なくなるからだ。

訳注:ここらへんの議論は、経済学的にはかなりナンセンス。需要が完全に一定と仮定して、さらにいろいろ変な条件をつけないとこういう話にはならないはず。

つまりA.は一日400リットル(原文は400ガロンだから、この1.14倍)の牛乳を売って、仮に経費を支払って、そこそこの生活ができる稼ぎを得て、顧客に対しては1リットル0.015ポンド(訳注:原文は1クォート4ペンス。イギリスの1クォートは1.14リットル(アメリカではちがうんだ、これがまた)で、4ペンスは0.167ポンドだから、帳尻的にはほぼ同じ。)くらいで牛乳を販売できる。でも、競合相手が参入すると、A.が収支をあわせるためには、1リットル0.015ポンドで売れるのは、水で薄めた牛乳になってしまう。したがって店舗の競合は、どうしても競合相手に被害を及ぼすだけでなく、価格は横ばいかかえって高くなってしまうので、実質賃金も下がることになる

原注:「ニール氏(『協力の経済学』)の計算によると、ロンドンの主要小売業22業種で、独立商店が41,735軒ある。この業種それぞれについて648店舗あるとすると――これは1haあたり5軒で、最寄りの店にいくのにだれも400m以上歩かなくていい。これで商店総数は14,256軒になる。この供給が十分だとすれば、ロンドンには実際に必要とされている100軒に対して、251軒の店がある勘定となる。現在、小売業で無駄に雇われている資本や労働が解放されて別の仕事にまわされたら、国全体としての繁栄度はずっと増えるはずだ」A. &m. P. マーシャル『産業の経済学』第IX章10節。

この現地裁量の方式では、町の商人たち――協同組合だろうと個人商人だろうと――は、厳密な法律上はさておき、とても本来の意味で公僕となる。でも、お役所主義の縦割り方式にはしばられないし、完全な創業の権利や権限を持っている。公僕に近いというのは、ガチガチで融通のきかない規則への文字通りの服従を言うのではなく、その支持基盤の人々の願望を予測し、趣味を予想して、さらにはビジネスマン、ビジネスウーマンとしての誠実さや仁義を通じて人気を勝ち取り維持するという意味でのことだ。すべての商人と同じく、ある程度のリスクは取らなくてはならないし、そのリターンとしては、給料ではなく儲けが得られることになる。でもほかの、競争がチェックされずにコントロールもされないところに比べて、リスクははるかに小さいし、投資に対する年間収益は、かえって大きいかもしれない。ほかのところよりもずっと低い値段で販売することさえできるかもしれないし、それでも確実な取引があって、需要をとても正確に計れるから、資本の回転率もきわめて高くなるだろう。また運転資金も、とんでもなく少額ですむ。顧客に対して宣伝をしなくてもいい。もちろん目新しい商品について通知はするだろうけれど、顧客を確保したり、他のところに流れたりしないようにするために、商人がしばしば行うあの努力とお金の無駄遣いは、まるで必要なくなる。

そしてある意味で公僕となるのは各商人だけでなく、商人の従業員たちもそうなる。商人たちが、従業員を雇ったりクビにしたりする全権を持っているのは事実だ。でもそれが気まぐれだったりあまりにきびしかったりすれば、給料が十分でなかったり、待遇がひどかったりすれば、その他の点では非のうちどころのない公僕であっても、まちがいなく顧客の大半の支持を失うリスクを冒すことになる。一方で、利益の共有のお手本を示してくれれば、これが習慣化されて、主人と従僕という区別は次第に失われて、やがてみんな共同運営者となるかもしれない。

 原注:この現地裁量の原則は、通常は流通系の業種に適用されるが、生産部門でも部分的に適用できるかもしれない。パン製造や洗濯業は主に近郊の取引に頼っているので、ある程度注意を払えばこの原則を適用できる例かもしれない。こうした業種ほどしっかりした監督とコントロールが必要な業種はないようだし、これらほど健康に直接関係した業種もない。自治体のパン製造や洗濯業者に対しては、こうした議論を協力に適用すべき理由があるといえる。そしてコミュニティがこうして産業をコントロールするなら、それはその産業をコミュニティが所有する道半ばといえる。コミュニティ所有のほうが望ましくて実現可能だと証明されれば、それも行われるだろう。

店舗営業に適用されるこの現地裁量の原則は、ビジネスライクなだけでなく、現在しぼられている汗まみれの過酷労働に対し、公共の良心を表明するための機会を与えてくれる。現在では、効果的にこの新たな衝動に対処するにはどうすればいいかほとんどわかっていない。このためにロンドンでは数年前に消費者連盟が設立された。その目的は、名前から想像されるように消費大衆を悪質な生産者から守ることではなく、汗みどろで過労の生産者たちを、安さを求めて騒ぎ立てすぎる消費大衆から守ることだった。

この連盟のねらいは、この汗みどろの過酷な労働に対して公共が嫌悪と憎悪を示せるように、連盟が慎重に編纂した情報を提供して、過酷な労働を使った製品を細かく避けられるよう助けることだった。しかしながら、こうした消費者連盟が行ったような動きは、店主の協力がなければほとんど有効性を持たない。自分の購入するありとあらゆる商品について、それがどこからきたのかを調べようとするなどというのは、よほど熱心な過酷労働反対者だけだろう。

そして商店主は、通常の条件下ではそんな情報を与えたいなどとは思わないし、自分の売っている商品が「公正な」条件で生産されたかどうか保証したいとも思わない。すでに販売業者が過密に存在している大都市に商店を構え、しかも過酷労働を減らすためにその店を出すなんて、失敗するに決まっている。でもこの田園都市では、この面での公共の良心を表明するすばらしい機会が与えられるし、どんな商店主も敢えて「過酷労働商品」を売ろうとはしないだろうと期待する。

さらに「現地裁量」という言葉がきわめて密接にむすびついている問題がもう一つあって、それをここで扱える。ここで言っているのは、禁酒法の問題だ。ここで、田園都市の自治体は、唯一の地主としての立場上、酒類の販売について考えられる限り最高にきびしい方法で対処する力を持っていることは理解されよう。自分の所有地には酒場(パブ)を開く許可を与えない地主がたくさんいるのはよく知られているし、田園都市の地主――つまり市民自身――も、そういう方向性をとることもできなくはない。が、それは賢明なことだろうか。わたしはそうは思わない。まずそうした制限は、節度ある飲酒者たちというきわめて多数の増大しつつある集団を排除することになってしまう。さらには、アルコール使用の面であまり節度はない人でも、それを田園都市の健全な影響下に置くことで更正させようという考え方がある。そういう人々も排除されてしまうことになるからだ。

酒場(パブ)、またはそれに類するものは、こうしたコミュニティでは人々のためになる競合がたくさんあるのだ。ところが大都市では、安上がりで理性ある娯楽がほとんどないために、酒場の独壇場となってしまう。したがって禁酒法改革の方向での実験としては、酒類の販売が停止されるよりも、しかるべき規制のもとで許可されるほうが価値が高いだろう。規制の下で許可すれば、禁酒に向かう方向での影響は、もっと自然で健康な生活への変化となってはっきりわかる。でも完全に禁止されてしまえば、禁止によって酒の販売がある小さな区域から完全には排除されても、他での悪影響を強化するだけかもしれないという議論を証明することになるだけだ。現在、この議論を否定する人はだれもいない。

しかし、コミュニティはもちろん、酒類販売免許を持った酒場の不必要な増殖を防ぐようになるだろうし、禁酒法改革者の提案する、もっと穏健な手法のどれであっても自由に採用できるようになる。自治体機関自ら酒類販売を行って、その収益を税の軽減にあてることもできるだろう。コミュニティの歳入をそのような形で生み出すのは望ましくないと反対する勢力も強い。だから、その歳入はすべて、酒類販売と競合するような使途に向けるか、あるいはアルコール中毒になった人々のために病院をつくって、酒の悪影響を最小化するほうがいいかもしれない。この点や、関連するすべての点について、わたしは現実的な提案を持った人々の発言を招きたい。そして田園都市は小さな町ではあるけれど、それぞれの区で、見込みのありそうな提案を別々に試してみるというのも、現実性はあるかもしれない。


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