「都市生活の現在の邪悪は、一時的なものだし修正可能だ。スラムの廃止とそこに巣くうウィルスの破壊は、沼地の干拓と、そこに潜む瘴気の完全な一掃と同じくらい実現可能なこと。現代都市における大量の人々を取り巻く条件や状況は、肉体面でも精神面でも道徳的な性質面でも、最高の発展をもたらすような形で、かれらのニーズに応えるように調整できる。現代都市の問題と称されるものは、一つの中心的な問題のさまざまな段階に過ぎない。その問題とは、『都市住民の福祉に一番完全に適合した環境とはどのようなものか』というものだ。そして、こうした問題のすべてについて、学問は取り組んで答えを出せる。現代都市の科学――人口密度の高いグループにおける共通の懸案事項の秩序化の科学――は、さまざまな分野の理論的知識や実践的知識を活用したものになる。管理学、統計学、工学や技術科学、衛生学、教育、社会、道徳学などがそこに含まれる。この都市行政ということばを、コミュニティのあらゆるできごとや利害をすべて秩序化するといういちばん広い意味で使い、さらには都市生活を偉大な社会的事実として喜んで合理的に受け入れるためには、大都市の住民として人々を結びつける合法的な利害を共有する人々の福祉を高めるように都市行政が努めることを要求しているのだということを理解するなら、本書が書かれた視点も理解できるだろう」――アルバート・ショー『大英帝国における自治体政府』(1859)
第4章と5章では、運営委員会の使える資金をとりあげて、信託財産管理者が町の地主としての権限を行使して徴収する税・地代が、以下の目的に十分足りるだけのものだということを示そうとした。そしてそれは成功したと信じる。それらの目的とは:(1) 敷地を購入するときの担保付き債券の金利を支払う。(2) 比較的はやい時期に、コミュニティがそうした債券の金利負担から免れるようになるための積立金を提供する。(3) 運営委員会として、ほかのところでは強制的に徴収される税金を使って実施されるような事業を実施すること。
ここで生じるのがきわめて重要な問題で、それは自治体機関はどこまで拡大すべきなのか、そしてそれが民間企業に対してどこまで優先されるべきかということだ。われわれはすでに、ここで支持されている実験が、ほかの数々の社会実験の場合とはちがって――産業の完全な公共所有や民間企業の廃止などは行わない、ということを、読めばわかるような形で述べてきた。しかしながら、コントロールやマネジメントの面で、公共と民間の間の一線を決める原則とはなんだろう。ジョセフ・チェンバレン氏はこう語っている。「自治体活動の真の領域は、コミュニティが個人よりも上手に実施できることに限られる」。まさにその通りだが、これは自明であり、これだけではわれわれは少しも先へ進めない。というのも、問題になっているのは、そのコミュニティが個人よりも上手にできることというのが、具体的には何なのか、ということだからだ。そしてこの問題の答えをさがそうとすると、真っ向から対立する見方が二つ見つかる――一つは社会主義者の視点で、富の生産と分配のあらゆる段階はコミュニティが行うのが最適である、と言う。もう一つは個人主義者の視点で、そういうことは個人に任せておくのがいちばんいい、と言う。しかしながら本当の答えは、この両極端のいずれで見つかるものでもなく、実験によって探し求め、そしてコミュニティごとに、あるいは時代ごとにちがうものなのだろう。自治体機関の知性と誠実さが増大し、中央政府からの自立性が高まれば、自治体活動はかなり広い領域にまで広がることになるかもしれない――特に自治体の所有する土地においては――そしてそれでいて、この自治体はがっちりした独占を主張したりはせず、組み合わせによる最大限の権利が存在することになるかもしれない。
これを念頭においたうえで、田園都市の自治体は最初のうちは慎重に運営され、あまり手を広げすぎないようにする。運営委員会が何もかもやろうとするなら、自治体として公共事業の必要資金を捻出する苦労もずっと大きくなってしまう。そして最終的に発行される募集趣意書では、信託されたお金でこの協同組合が何をするのか、はっきりと記述されることになる。その事業範囲は、経験的に自治体が個人よりも上手にできると証明されたもの以外はほとんど含まないはずだ。これまた言わずもがなだが、入居者側としても、支払う「税・地代」が何に使われるのかをきちんと理解できたら、適切な「税・地代」を支払う意欲もずっと高くなるだろう。そしてこれがきちんとできたら、自治体機関の活動範囲をもっと適切に広げるときだって、困難はほとんどないだろう。
すると、自治体機関がカバーすべき領域は何かという問いに対するわれわれの答えは、次のようになる。その範囲は、入居者たちが税・地代をどれだけ喜んで支払ってくれるかという点だけによって決定され、そして自治体による事業が効率よく誠実に行われるにつれて、その割合は高まり、それが低効率で不誠実に行われれば、その割合は低下するわけだ。
たとえば入居者たちが、最近「税・地代」として支払ったほんのわずかな追加の負担で、自治体があらゆる用途のためのすばらしい水道供給をしたと認識したとしよう。そしてこんな少額負担でこんな優れた成果が出るというのは、営利目的の民間企業ではとても実現不可能なことだと納得したとしよう。この場合、入居者たちは、公共事業で有望そうな実験をもっとやらせてもいいと思うだろうし、むしろやってくれと熱望することだろう。
この点で、田園都市の敷地というのは、ボフィン夫妻の有名なアパートのようなものだと考えてもいいかもしれない。このアパートというのは、ディケンズの読者であればご存じだろうが、一方は「ファッションに手練れの」ボフィン夫人の趣味にしたがって内装がしつらえられ、反対側はボフィン氏が大いにお気に召した、がっちりした快適さの考え方に基づいてしつらえられていた。でも両者とも、もしボフィン氏のほうがファッション面で「最先端」になったら、ボフィン夫人のカーペットはだんだん「派手さを控え」、一方でボフィン夫人が「あまりファッションに手練れでなくなったら」、ボフィン氏のカーペットのほうが「派手さを増す」、という点についてはしっかり合意してあった。同じように、田園都市でも、住民たちが事業の点で「手練れ」になったら、自治体は「派手さを控え」、住民たちが事業の点で「手練れで」なくなったら、自治体は「派手さを増す」わけだ。だからこのためあらゆる時点で、自治体職員と非自治体労働者の職の比率は、公共事業に伴う公共行政の技能と誠実さを反映したものになる。
しかし田園都市の行政は、あまりに大きな事業領域に手を出そうという試みには顔をそむけると同時に、各行政サービスの部門ごとの責任が、その部門担当者に直接負わされるように組織の枠組みを整える。そうすれば、膨大な中央組織に責任が漠然と負わされているために、実質的に責任の所在が見えなくなってしまうようなこともない。責任の所在があいまいだと、市民としては、もれや摩擦がどこで生じているのかを見きわめにくくなってしまう。
この組織方法は、大規模でしっかりした企業をモデルにしている。こういう企業は、さまざまな部に分かれていて、各部は自分たちの存続をきちんと正当化できるよう求められる――そして職員はその事業についての一般知識に基づいて選ばれるのではなく、その部の仕事についての専門性に基づいて選ばれる。
運営委員会は以下の2つで構成される。
この評議会(またはその評議員たち)は、コミュニティから田園都市の唯一の地主としての権利と力を託されている。入居者たちから受け取った税・地代はすべて(地主地代と積立金の分を差し引いてから)この財務部門に入るし、さまざまな自治体の公共事業からくる利益もここに入る。そしてその収入は、すでに見たように、強制的な徴税に頼らなくてもすべての公共としての義務を果たすのに十分な金額だ。
読み進んでもらえればわかるが、中央評議会の持つ権限は、ほかの自治体が持つ権限よりも大きい。既存の自治体のほとんどは、議会による立法に基づいて明示的に委譲された権限だけを行使できるのに対し、田園都市の中央評議会はコモンローのもとで地主が行使できる、もっと大きな権利や権限や特権を、人々になりかわって行使できるからだ。土地の個人所有者は、ご近所の迷惑にならない限り、その土地や、そこからの収益を自分の好きなようにできる。ところが、議会の立法に基づいて土地を買ったり徴税権を獲得したりする公共体は、その土地や税収を、立法で明記された目的にしか使えない。田園都市はずっと優れた立場にある。準公共主体なのに個人地主の権限を持つことで、他の自治体が持つよりも人々の意志を実現するための権限が大幅に拡大し、地方自治の問題の大部分がこれで解決されるからだ。
でも中央評議会は、大きな権限を持つけれど、管理運営上の便宜からその多くを様々な部に委託する。ただしその際には、次の責任は自分で留保する。
各種の部は、次のような部門に分類できる。
この部門は、以下の小部門で構成される。
税・地代はすべて(地主地代と積立金の分を差し引いてから)この財務部に入る。そしてここから、中央評議会の審議に基づいて各部への必要額が支出される。
この部は、入居希望者からの申請書を一括して受け付けて、支払われるべき税・地代を決定する――しかしながら、こうした税・地代はこの部が勝手に決めるのではなく、別の評価委員会群が採用した基本原則に基づいて決められる――本当の決定要因は、平均的な入居者(この個人は評価委員会が「仮想的入居者」と呼ぶものだ)が喜んで支払う金額である。
この部は、借地が認められる際の条件や、中央評議会が交わし締結すべき契約の内容について決定する。
この部は、地主としての権限の範囲内で、自治体としての監査にかかわる合理的な責務を果たす。その責務の多くは、自治体の入居者たちとの間でお互いに合意されたものとなる。
この部門は、以下の部で構成される――この中の一部は、後になってから創設されるものだ。
この部門も、各種の小部門で構成される。
委員は(男でも女でもいい)税・地代の支払い者によって、一つ以上の部を管轄するように選出され、そして各部の部長と副部長が中央評議会を構成する。
このような組織のもとでは、コミュニティはその公僕の仕事をきちんと推計するきわめて有効な手段を持つことになると考えられている。そして選挙時にも、目の前の争点が明確にはっきりとわかるだろう。候補者たちは立候補するときにも、地方政策のありとあらゆる面にわたる101問について、考え方を提示しなくてもすむようになる。どうせそうしたことの多くについては、かれらとしてもはっきりした考えは持っていないし、多くはかれらの任期中にもちあがってもこない問題のはずなのだ。かれらは単に、ある特定の問題か問題群についてだけ意見を述べればいい。町の福祉に直接結びついた、選挙民にとって火急の重要性を持つ点についてのみ、しっかりした考えを述べればいいことになる。