現代憲政評論 選挙革正論其の他, 美濃部達吉

拓務省の設置と枢密院官制改正問題


昭和四年六月八日附勅令第百五十二号(六月十日の官報に依り公布、公布の日より施行)を以て、「拓務省官制」が発布せられ、国務に関する各省の数は更に一を加へた。憲法実施の当時は九省であつたのが、これに依り今は十二省を数ふるに至つたのである。凡て政党政治の国に於いては、政権を握り得た政党が其の所属の有力者を満足せしめ、出来るだけ多くの者に勢力と地位とを得せしむることの必要から、国務大臣の数が漸次多きを加ふる傾向に在ることは、諸国の普通の現象で、それは一つには政務の益々多端となることが、原因を為して居るのであるが、其の主たる原因はそれよりも寧ろ政党の内部関係がそれを促したことに在ることは、疑ふべからざるところである。わが国に於いて各省の数が三を増加したのは、何れも最近十年来のことで、大正九年に鉄道省が新設せられ、大正十四年に農商務省が農林省と商工省とに分割せられ、而して今又拓務省が新に設立せられたのであるが、それは何れも政党内閣制が略確立せられた後の事で、而も最近十年の間ににわかに国務の繁劇を加へたものとも認められないのであるから、恐くは他の諸国と同様に、寧ろ政党の内部の事情に其の重なる原因を有するものではないかと想像せられる。若し果して然りとすればここにも政党政治の弊害の一の現はれを見るのであつて、行政機関の組織が出来るだけ簡単なるべきことの要求とはまさしく相反するものである。実際の必要の程度を超えて、行政機関の数を増加し、これを複雑ならしむることは、徒に事務を煩瑣ならしめ、却て其の進行を妨ぐるものである。人徒に多ければ、事務は却て挙らないのが普通で、それより生ずる弊害は、単に国費を膨脹せしむることのみには止まない。

斯く新設せられた諸省の大臣が、当然国務大臣として内閣に列するものであるや否やに付いては、不思議にも官制上には何等の明文も無い。明治十八年十二月に始めて内閣制度が設けられた当時には、同年十二月二十二日太政官達第六十九号を以て「内閣総理大臣及外務内務大蔵陸軍海軍司法文部農商務逓信ノ庶大臣ヲ以テ内閣ヲ組織ス」と令せられたけれども、是は明治二十二年十二月勅令第百三十五号内閣官制の発布に依り、当然消滅したものと認むべく、而して内閣官制には、其の第一条に「内閣ハ国務各大臣ヲ以テ組織ス」とあるのみで、其の所謂「国務各大臣」とは何人を謂ふのであるかは毫も之を規定する所はない。唯第二条に内閣総理大臣が各大臣の首班であることを定めて居るのと、又第十条に「各省大臣ノ外特旨ニ依リ国務大臣トシテ内閣員ニ列セシメラルルコトアルヘシ」とあるのとに依つて、此の如き特旨の有る場合の外は、内閣総理大臣也び各省大臣が国務大臣であるとする趣意であることを推測し得るのみである。即ち新設せられた各省大臣が当然国務大臣として内閣に列することは、官制の直接の明文に依るのではなくして、解釈上の推測に依つて、官制上「某省」又は「某大臣」といふ名称を付せられて居るものは、当然之を国務大臣たらしむる趣意であると解せらるるに過ぎぬ。

拓務省の主管事務は、大体に於いて二種類に分たれる。其の一は植民地行政の監督であり、他の一は海外拓殖事業である。

(一)植民地行政の監督は従来は内閣総理大臣の主管事務に属して居つたもので、内閣所属部局の一として拓殖局が置かれて、其の事務を取扱つて居たのであるが、拓殖局を廃すると共に、之をして拓務省の主管たらしめたのである。

然るに植民地行政の監督を内閣総理大臣より拓務大臣に移すことに付いては、朝鮮総督府に関して枢密院の反対を受くることを免れなかつた。其の反対は殊に二点に在つた。一は朝鮮を植民地として視ることに対する抗議であり、一は朝鮮総督を一省の大臣の監督の下に置くことに対する反対であつた。政府は朝鮮を全然拓務省の主管外に置くことに対しては固く同意を拒んだけれども、尚二の点に於いて枢密院側の主張に譲歩した。

其の第一の点は、最初の原案に於いて省の名称を「拓殖省」として居たのを「拓務省」と改めたことである。「拓殖」といふ語はわが法律上の用語として従来常に慣用せられ来つたところで、明治二十九年に「拓殖務省」が設置せられたときにも、其の廃止の後内閣所属部局として、初には「拓殖事務局」、後には「拓殖局」が設けられたときにも、常に此の語を用いて居たのであるから、今新に同一の事務の為に此の省を設くるに当つても、同じ語を用いるのが自然であり、政府の原案に於いて此の名を採用して居たのも固より当然である。然るに枢密院に於いて、「拓殖」といふ語は拓地殖民の意味で、朝鮮其の他を殖民地と看做すことを暗示して居り、甚だ不穏当な名称であるといふ非難が起り、政府は「殖」といふ語は殖産の意であつて殖民の意ではないと抗弁したけれども、遂に其の名称を改むることに同意して、種々の考案が提出せられた後、やうやく「拓務省」といふ名称に落付くことを得たのである。其の結果として、其の公の訳語に於ても、colonies とか colonial affairs とかの語を用いることを避け、Minister of state for oversea affairs と称することに一定せられたといふことである。官制発布の当日田中首相の声明として公表せられたものの中にも、特に「朝鮮を植民地視せんとするものにあらず」と強く言明して居るのも、同に趣意に出て居ることは言ふまでもない。

政府及枢密院が斯く朝鮮を植民地視することを忌避し、名称に於いても努めて其の意味の見はるることを避けんとして居るのは、言ふまでもなく、所謂一視同仁主義、内地延長主義の結果である。植民地といふ語は、普通に欧州諸国が遠く海外に於いて、殊にアフリカ其の他の未開地に於いて有する領地に用いられて居り、其の結果植民地と言へば、何となく本国よりは文化の劣等な属地を意味するものの如くに解せられる傾が有る。田中首相が強く朝鮮を植民地視するものでないことを弁明したのも、其の所謂「植民地視」とは如何なる意味であるか甚だ明瞭ではないが、恐くは唯漠然たる意義に於いて、之を劣等視するものでないことを声明せんと欲したのであらう。

併し学問上の意義に用いらるる植民地といふ語は、決して此の如き意義を包含するものではなく、殊に法律上に於いては、「植民地」の語は、内地と原則として国法を異にし、殊に統治組織即ち立法、行政、司法に付いての機関を異にすることを言ひ表はすもので、簡単に言へば植民地とは「異法区域」又は「特殊統治区域」の意に外ならぬ。若し植民地といふ語を此の意義に用いるならば、朝鮮が原則としては内地と国法を異にして居り、殊に立法権、行政権及司法権に関して内地と其の組織を異にして居ることは言を待たぬ所であるから、それが此の意味に於いての植民地であることは、議論の余地も無い。随つて吾々は政府の声明に拘らず、学問上に朝鮮其の他を植民地と称することを躊躇すべき理由は無いであらう。

其の第二の点は、朝鮮総督と拓務大臣との関係が官制の明文に於いて甚だ明瞭を欠くに至つたことである。

政府の最初の原案に於いては、植民地行政に関して従来内閣総理大臣の有つて居た権限を凡て拓務大臣に移さんとするに在つた。然るに枢密院に於いて、朝鮮総督が拓務大臣の監督を受くるものと為すことは、朝鮮総督府の権威を傷くるものであるといふ主張が有つた為に、此の点に於いても最初の原案は変更せられて、台湾総督に付いては総督府官制の改正に依り総督が拓務大臣の監督を受くることが明記せられ、又総督より上奏する場合には、「拓務大臣ニ由リ内閣総理大臣ヲ経テ」上奏すべきものと定められたのに反して、独り朝鮮総督府官制は従来の官制が其のまま維持せられて、何等の改正をも加へられず、従来の如く「総督ハ諸般ノ政務ヲ統理シ内閣総理大臣ヲ経テ上奏ヲ為シ裁可ヲ受ク」とあるのみで、総督と拓務大臣との間には何等の監督上の関係の無いもののやうに規定せらるることとなつた。然るに一方に於いて、拓務省官制第一条には「拓務大臣ハ朝鮮総督府、台湾総督府、関東庁、樺太庁及南洋庁ニ関スル事務ヲ統理シ」云々とあつて、朝鮮も他の植民地と同じく、拓務大臣が其の事務を統理するものと明記せられて居る。是に於いて拓務省官制と朝鮮総督府官制との間の関係が甚だ不明瞭となり、如何に之を調和すべきかの疑を生ずることとなつた。

朝鮮総督府官制には、総督が何人の監督を受くるかに付いて何等の規定も無い。総督が政権と共に兵権をも委任せられて居た時代の官制には、総督が天皇に直隷することを明記せられて居たが、責任ある行政事務に関して、国務大臣の外に天皇に直隷する機関を設くることは、憲法上許されない所と認むべきであるから、当時に於いても、総督が天皇に直隷するのは唯兵権に関してのみで、政権に関しては当然内閣総理大臣の監督を受くるものと解せられて居り、大正八年に総督から兵権の委任が解かれると共に、官制の改正に依り「天皇ニ直隷シ」云々の文字は全く除かれた。併し官制の明文に於いて総督が内閣理大臣の監督を受くることを明記することは、総督の権威を軽くするおそれが有るので、官制には其事を明記せず、唯総督が総理大臣を経て上奏し裁可を受くることを定むるに依つて、其の旨を暗示するに止めたのである。言ふまでもなく、朝鮮総督は議会に対し自ら責に任ずる者ではなく、其の責任は憲法上国務大臣が負はねばならぬものであるから、責任者たる国務大臣は又当然に其の施政を監督する権能を有せねばならぬことは勿論であり、随つて仮令官制には明文が無いにしても、尚従来は内閣総理大臣が朝鮮総督を監督する権能を有する者であつたことは、疑を容れない所であつた。

今拓務省の新設に依り、従来内閣総理大臣に属して居た植民地行政に付いての機能が、一般に拓務大臣に移されたのであるから、朝鮮総督府に対する監督の権能も、拓務大臣に属するに至つたものと解するのが当然である。拓務省官制に拓務大臣が朝鮮総督府に関する事務を統理すとあるのは、即ち其の事を意味するものと解せねばならぬ。官制には「統理」とあつて監督とは言つて居らぬが、台湾総督府其の他に付いても等しく其の事務を統理すと言つて居て、而もそれは監督権を包含して居るのであるから、独り朝鮮総督府に関してのみ、其の所謂「統理」が監督を含まないものと解することは不可能である。

併し拓務大臣が朝鮮総督に対しても一般に監督権を有することが疑を容れぬとすれば、総督が上奏を為さんとするに当り、拓務大臣を経由せざるものとして居るのは、矛盾の嫌あるを免れぬ。朝鮮総督府に関する一切の事務を統理する責任ある者が、独り総督よりの上奏に付いてのみ全く之に関知しないことは、職責上の矛盾と言はねばならぬであらう。

随つて仮令官制の明文は無いにしても、朝鮮総督の上奏案は、行政内部の手続としては、其の経由に当る内閣の書記官から之を拓務省に回付して其の承認を得、然る後に総理大臣から之を上奏することとならねばならぬ。言ひ換ふれば、朝鮮総督の拓務大臣に対する関係は、其の実質に於いて台湾総督の同大臣に対する関係と同様であつて、官制に於いて其の定を異にして居るのは、唯文字上の形式の差異に止まり、法律上両者の間に差異なきものと解するの外はない。斯く解するに依つてのみ拓務大臣の職務を矛盾なく理解することが出来る。

(二)拓務省の主管事務の第二種は、海外拓殖に関する事務で、拓務省官制第一条には「拓務大臣ハ渉外事項ニ関スルモノヲ除クノ外移植民ニ関スル事務及海外拓殖事業ノ指導奨励ニ関スル事務ヲ管理ス。拓務大臣ハ前項ノ事務ニ付外務大臣ヲ経由シ領事官ヲ指揮監督ス」と曰つて居る。田中首相の声明書の中にも特に此の事を高調して左の如き言明を為して居る。

円滑なる海外移住を図り之が奨励保護指導等に当るは其の関係する所広汎なるが為行政機関多岐に分れ事務統一に於て全からず更に我邦現下の要務たる海外に於ける庶般企業の指導奨励助成等に至つては之に関する行政の機能を更に発揮せしめ以て国運進展の須要に応ずるの急殊に切なるものあり是れ拓務省の重大なる本務として移植民に関する事項及海外拓殖事業に関する事項を掌理せしめ以て我国民の海外に於ける平和的発展に資せむとする所以なり

移植民に関する事務は、初は外務省に、後内務省に社会局が設けられてからは、内務省の主管事務とせられて居たのが、今回更に拓務省の主管に移されたのであつて、随つて社会局官制に定めた社会局の主管事項の中から「移民ニ関スル事項」が削除せられ、又従来内務大臣の管理に属して居た移民収容所が拓務大臣の管理に移された。

海外の移民及び拓殖事業に関しては、拓務大臣は領事官を指揮する権能を与へられ、又技師及び技手を領事館附として外国に駐在せしむるを得るものとせられて居る。

拓務省官制の発布に関する政府と枢密院との交渉の結果、政府が其の最初の意向をぐるに至つたものには、前に述べた省の名称及び朝鮮総督の監督問題の外に、尚枢密院官制改正の問題が有る。

新聞紙に伝へられた所に依ると、拓殖省設置の議が始めて枢密院の審議に付せられた際、枢密顧問官の一人から、国務大臣の増加に伴ひ政府は枢密顧問官の定員数をも増加するの意なきやといふ質問が有り、政府は之を考慮すべきことを答へた末、遂に其の定員を二人増加すべき内議を定むるに至つたといふことである。

国務大臣の増加に伴ひ何故に枢密顧問官をも増加せねばならぬかは、常理を以ては理解し得ない所であるが、強ひて之を推測すれば、枢密院官制に「枢密院ノ会議ハ顧問官十名以上出席スルニ非サレハ会議ヲ開クコトヲ得ス」とあるのは、国務大臣の数が十人であつた時代の規定で、国務大臣だけで過半数を占むることの出来ないやうにする為にしたものであるから、国務大臣の数が増加すれば、当然に顧問官の定足数をも増加する必要が有るが、定員を増加せずして単に定足数のみを増加すれば、定足数に満たぬ為に流会となるおそれが多いから、定足数を増すと共に定員をも増加する必要が有るといふに在るのであらう。

われわれの普通の常識から言へば、顧問官の定員は現在でも二十四人であるから、定足数を三人増加して十三人としたとしても、それは僅に定員数の半数強であり、而して凡て有給官吏は奉公勤務の義務を負ひ、枢密顧問官と雖も会議毎に出勤せねばならぬものであることは、官吏服務紀律に照して言ふを待たぬ所であるから、半数以上も欠勤するが如きは、職責上有り得ない事であり、随つて定員の約半数を以つて定足数と為したとても、固より流会を生すべきおそれなどの有るべき理由なく、之が為に定員数を増加する必要などは、全く無いことと思はれる。

然るに政府は単に一顧問官からの質問が有つただけで、既に其の希望に応すべき内議を定めたといふことで、今の内閣が枢密院に対し如何に戦々兢々せんせんきょうきょうとして唯其の意に背かんことをのみ恐れて居るかは、ここにも其の一例証を見ることが出来る。

枢密院が斯く政府に対し強大の勢力を有し、政府の行動が屢々しばしば枢密院若くは其の中の或る顧問官の意向に依つて左右せらるることは、立憲政治に於ける甚しき変態の現象であつて、国家の為に甚だ憂慮すべき所と言はねばならぬ。

自分は枢密院の存在理由に付いては兼ねてより疑を抱いて居る者であるが、若しその存在を認めるとすれば、イギリスの例に倣ひ、左の三点に於いて、その官制を改正することが寧ろ枢密院制度の本来の趣旨に適合するものであらうと考へる。

(一)顧問官の定員数を廃止すること

枢密顧問官の定数は現在に於いては二十四人と限定せられ、今回の内議に於いて之を二十六人に改めんとして居るのであるが、自分は此の如き定員数を限定することは、顧問官の性質に反するもので、恰もイギリスに於けると同様に、無定限とするのが至当であると信ずる。

顧問官は元勲及練達の人を択びて任ぜらるベきもので、多年国事に尽くし、功成り名遂げた高齢老練の人にのみ与へらるべき栄職である。此の如き人々は時に応じて或は多く存することもあるべく、或はその人に乏しいことも有るであらう。若し適当な人が有れば、幾人でも其の栄誉を与へらるべきもので、その数を限定することは不適当であり、又適当な人に乏しきにも拘らず、強ひて定数を満たすことは一層不適当である。

(二)顧問官は凡て名誉官とすること

現行の官制に於いて枢密顧問官を以て、普通の官吏と同じく有給の官吏と為し、官吏服務紀律に依り勤務の義務を負ふものとして居ることは、枢密院制度の本旨に反し、弊害の源となつて居るものと信ずる。

顧問官は元勲練達の人を択ばるるのであるから、必然に高齢に達した人でなければならぬ。これまでの例に於いて顧問官全員の平均年齢は嘗て七十一歳より下つたことは無いといふことである。此の如き高齢の人々に勤し一般官吏と同様の勤務の義務に服せしむることは、生理上から言つても不適当であることは明瞭である。枢密院自身の可決した裁判所構成法に於いても、判事は六十三歳を以て当然退職すべきものと定めて居る。憲法上に「終身其ソ職ヲ奪ハルルコトナシ」と保障せられて居る裁判官に付いてすらも、枢密院は六十三歳以後は勤務に服せしむることを不適当なりとしたのである。況んや平均年齢七十歳を超ゆる人々に、有給官として勤務の義務を負はしむることは一層不適当であることは明瞭であつて、判事の定年制を可決した枢密院は勿論之に反対することは無いであらう。

それであるから、顧問官は凡て名誉官として優遇し、唯栄誉を有して、勤務の義務なく、従つて又俸給なく、恩給法に依つて恩給を受くるものとするのが、最も能く其の性質に適するものである、而して俸給なき結果は其の定員数を限定すべき必要は全く失はるるのである。

(三)会議の定足数を廃すること

顧問官を名誉官とすることの結果は、又当然会議の定足数を廃止せねばならぬ。即ち一般の枢密顧問官は枢密院会議に出席する義務なく、その会議は一般に現在の国務大臣のみの出席に依つて行はるるものとすることが適当と思はれる。

(昭和四年七月発行「法学協会雑誌」所載)