現代憲政評論 選挙革正論其の他, 美濃部達吉

実行予算の編成と議会の権限


濱口内閣は其の成立の初から財政の緊縮、経費の節約を其の最も重要なる施政の方針と為し、既に帝国議会の協賛を経て成立し公布せられた昭和四年度の予算に対しても、出来得るだけの節約を加ふることとし、主として新規事業の中止又は繰延に因つてではあるが、兎も角も既定の歳出予算の中から合計約一億四千七百万円を節約した実行予算の編成に成効することを得た。

此の既成予算の節約に関して、当然議会の審議に付せらるべきものとして、宜しく臨時議会を召集すべしとする主張が、各方面から唱へられたが、政府は此の主張に耳を仮さず、臨時議会は唯臨時緊急の必要に因つてのみ召集せらるべきもので、今議会を召集したとしても、之に付議すべき何等の緊急の議案は無いと為し、臨時議会の召集を奏請することを肯てしなかつたが、尚清瀬衆議院副議長(議長闕員中議長の職務を代理す)の交渉に応じ、暑中休暇明けの九月十一日に、貴衆両院を別々に、各派代表の議員を内閣総理大臣官邸に招き、実行予算説明会を開いて、実行予算編成の趣意を説明し、各派議員からの質問に応答した。就中なかんずく衆議院各派に対する予算説明会は、午後五時より翌日午前二時半に至るまで、約一時間の休憩を除き、論戦八時間に亘り、政友会の議員から盛に攻撃的の質問を為したのに対して、政府は弁明頗る努めた。

政友会の主張の要点は、既成の予算に対し政府の専断を以つて大規模の編成替を為し、財政計画を根本的に変更した実行予算を作ることは、議会の予算審議権を無視し、憲法の許さざる所であると謂ふに在る。

政府の之に対する答弁は、要するに、予算は支出の最高限を定むるに止まり、政府に支出の義務を負はしむるものではない。予算の範囲内に於いて節約を加ふることは、政府の自由である。所謂実行予算は唯慣例上斯く名づけて居るに止まり、憲法の意義に於いての予算ではなく、唯政府部内の申合せであり、それが憲法上許さるべきものであることは、幾多の先例の認めて居る所であると謂ふに在る。

此の双方の主張の何れが正当であるかを明白にする為には、法律論と政治論とを区別して考察する必要が有る。政友会の主張の最も大なる弱点は、政治論と法律論とを混同し、政治上に不当な所置を以て直に憲法違反と為せることに在り、之に対する政府の弁明も亦、単に憲法上に於ける政府の権能を説明するに止まり、其の政治上に正当なる所以に論及せず、いやしくも憲法上に其の機能に属する以上、如何に之を濫用するも可なりと為すものの如き主張を為せることに於いて、大なる弱点を有するものである。

私は、単純なる法律論としては、政府の主張の正当なるを信ずるものであるが、併しそれだけを以ては、政府の処置の政治上に適当なることを説明し得るものではなく、政治問題としては、政友会の主張の必ずしも背理ならざることを信ずるものである、それに付いての卑見の一斑は、既に帝国大学新聞(本年九月十六日発行)に掲載したが、尚以下少しく之を敷衍しようと思ふ。

先ず純然たる法律上の問題として、政府の主張の正当であるや否やを見ると、それには憲法の意義に於いての予算並に所謂実行予算の法律上の性質を明白にする必要が有る。

我が憲法に於ける予算は、憲法第六十四条第一項に「国家ノ歳出歳入ハ毎年予算ヲ以テ帝国議会ノ協賛ヲ経ヘシ」とあるに依つて明白である如く、議会が国の歳出歳入に協賛する形式である。それは形式上にも明に法律と区別せられて居り、全然法規としての性質を有するものではなく唯政府を拘束するに止まる。此の点は我が国に於いては更に異論の無い所であつて、「憲法義解」の著者も「予算ハ以テ会計年度ノ為ニ歳出歳入ヲ予定シ行政機関ヲシテ其ノ制限ニ準拠セシメムトス」と曰ひ、又「予算ハ単ニ一年ニ向テ行政官ノ遵守スヘキ準縄じゅんじょうヲ定ムル者ナルニ過キス」と曰つて居る。其の「行政機関」と曰ひ「行政官」と曰つて居るのは、用語の正確を得たものではなく、憲法の意義に於いての予算は直接には唯政府を拘束するもので、一般の行政機関を拘束するものではなく、一般の行政機関は政府の命令に依つて始めて其の拘束を受くるものであり、而して政府の命令に依つては、ただに行政機関のみならず、司法部も陸海軍も等しく其の拘束を受くるものであるが、若し其の所謂「行政機関」又は「行政官」を政府の意に解するならば、憲法義解の所説はまことに正当である。会計法第十四条には、此の趣意を明白にして

国務大臣ハ其ノ所管ニ属スル収入ヲ国庫ニ納ムヘシ直ニ之ヲ使用スルコトヲ得ス

国務大臣ハ予算ニ定メタル目的ノ外ニ定額ヲ使用シ又ハ各項ノ金額ヲ彼此流用スルコトヲ得ス

と曰ひ、以て政府即ち国務大臣が直接に予算の拘束を受くるものなることを明示して居る。

以上の点は更に争を容れない所であるが、唯問題は政府が如何なる限度に於いて予算の拘束を受くるかに在る。政府が予算に準拠することを要することは明白であるが、併し予算に準拠すといふことは、歳入予算の方は暫く別問題として、歳出予算に付いて言へば、予算に定められた目的の為に之に充てられた金額を支出せねばならぬ拘束を受くるのであるや、又は其の目的以外に、若しくは其の定額を超えて支出してはならぬ拘束を受くるに止まるやが、問題の分かるる所である。

政友会の主張は、議会が歳出予算に協賛するのは、其の各款項に付き其の目的たる事業の要不要を認定し、或る事業を遂行することを国家の目的に必要なりとして、之に要する経費に協賛を与へるのである、故に予算款項に定められた事項は、国務上必要の事項として決せられたもので、政府は必ず之を遂行すべき義務が有る、政府の専断を以て其の中止又は繰延を為すことは、予算を蹂躙し、議会の協賛権を侵すもので、憲法違反であるといふに在る。

併し、此の主張は、予算の政治上の意義を説いたものとしては必ずしも不当ではないにしても、法律上の問題としては、全く予算協賛権の意義を誤解したものである。法律上から言へば、議会が歳出予算に協賛するのは、決して事業の必要を決定し、政府をして其の事業を遂行せしむべき義務を負はしむるものではない。予算の協賛は唯支出の目的と金額とを承認し、政府に対して、予算款項に定められた目的の為に、其の定額以内の金額を支出することに付き、議会が異議なきことの意思を表示する行為たるに止まる。之より生ずる法律上の効果としては、唯政府が已むを得ざる必要ある場合を除くの外、定められた目的以外に、定められた金額を超えて支出することを得ない拘束を受くるに止まり、定められた目的の為に定められた支出を為さねばならぬ拘束を受くるのではない。仮令予算に依つて議会の承認を得たとしても、其の以後に生じた事情の変遷に依り、予算の節約を行ひ、一たび議会の承認を受けた事業の中止又は繰延を為したとしても、其の政治上の当否は別問題として、少くとも法律論としては、決して違法の行為として見るべきものではない。

此の予算の法律上の性質は、左の諸点から之を証明することが出来る。

(一)憲法第六十四条第二項には「予算ノ款項ニ超過シ又ハ予算ノ外ニ生シタル支出アルトキハ後日帝国議会ノ承諾ヲ求ムルコトヲ要ス」と曰つて居る。是は已むを得ざる必要ある場合を除き、原則としては予算超過支出又は予算外支出の禁止せらるる趣意を示して居るもので、若し已むを得ざる必要に基づき斯かる支出を為すことあらば、議会が事後に於いて之に対する監督権を行ひ得べきものたらしめて居るのである。若し予算にして政友会の主張する如くに、政府に対し積極的に支出を含さねばならぬの義務を負はしむるものであれば、政府が其の支出を為さなかつた場合にも、同様に議会の事後承諾を求むることを要するものでなければならぬ。何となれば議会の事後承諾権は、政府が臨時の必要に依り議会の権限を侵すべき所置を為した場合に、之に対する議会の事後監督の手段として、憲法の常に取つて居る所であるからである。然るに憲法は唯予算超過支出及び予算外支出に付き事後承諾を必要と為せるに止まり、予算の範囲内に於ける支出の節減、支出の不実行に付いては全然事後承諾を必要として居らぬ。是は予算が法律上には、唯消極的に政府の支出を制限して予算外又は予算超過支出を為さしめざる効果あるに止まり、積極的に政府をして支出の義務を負はしむるものでないことを証明するものである。

(二)議会が予算に協賛するのは、憲法第六十四条第一項に明言する如く、唯、歳出歳入に協賛するのみで、歳出の原因としての事業計画に協賛するのではない。例へば議会が予算に依り特定の行政庁の新設、増員等に必要なる経費に協賛したとしても、それは唯其の目的の為にそれだけの経費を支出することを承認したに止まり、決して官制の制定に協賛したのではない。経費の協賛と官制の協賛とは全く別の事で、仮令経費に付いて議会の協賛を得たとしても、官制制定の大権は毫も之に依つて拘束せらるることなく、果して其の行政庁を新設し増員すべきや否やは、議会の意思とは関係なく、自由なる官制大権に依つて之を定め得べきことは、憲法第十条の趣意に依つて明瞭である。文武官の俸給、陸海軍の編制などに付いても、同様の事を謂ひ得る。是等は何れも議会の協賛を要せず大権の自由に任かされて居ることは、憲法の明文上疑を容れない所で、唯必要なる経費の支出に付いてのみ議会の協賛を要するのである。一般の行政事務に付いては、憲法には特に議会の協賛を要しないことの規定を設けて居らぬけれども、それは憲法第四条に依り一般に天皇が統治権を総攬したまふことが明記せられて居り、随つて特に議会の協賛を要する旨の規定の無い限りは、凡て其の協賛を要しないものであることが、言ふを待たぬからである。即ち一般の行政事務に付いては、原則として凡て議会の協賛を要せず、政府が其の国家の為に必要であるや否やを認定し、之を遂行すべきや否やを決するの権を有するのである。仮令議会が既にそれに要する経費の支出に付き協賛を与へたとしても、それは唯経費の承認たるに止まり、其の事業を遂行すべき国家意思が決定せられたのでないことは、恰も行政庁の新設に要する経費が承認せられたとしても、それに依つて官制が決定せられたのでないのと同様である。

(三)予算の協賛が、単に支出の承認であつて、支出の要求でないことは、予算の発案権が一に政府に属し、議会から之を提出するを得ないことに依つても、之を説明することが出来る。ただに議会に発案権が無いのみならず、我が国に於ける慣例は、議会が原案の金額を増加し又は新款項を加ふることをも否定して居る。而してそれは何故であるかと言へば、一に支出の必要は政府が専ら其の認定の権を有し、議会は唯政府の要求に対して之を承認するや否やの権を有するに止まるからである。若し議会が自ら事業の必要を認定して其の遂行を政府に要求するの権あるものとすれば、議会は当然予算に付いても発案権を有し、少くとも金額を増加し、新款項を加ふることを得なければならぬ。其の権限の認められて居らぬのは、即ち予算が決して事業の必要を決定して其の遂行を政府に要求する意思表示を包含するものでないことを示すものである。

(四)前に掲げた会計法第十四条第二項の規定も亦予算の法律上の効力が、単に支出を制限するに止まり、支出を強要するものでないことを推定せしむるに充分である。会計法には唯国務大臣が予算に定めた目的以外に定額を使用し又は各項の金額を彼此流用し得ないことを定めて居るに止まり、予算に定めた目的を遂行せねばならぬことを定めて居らぬ。それは政府が此の如き法律上の義務を負ふものでないことを証明するものである。

(五)反対論者は、議会が予算に協賛するのは、各経費に付き要不要を審議し、之を必要なりとして協賛を与へるのであるから、政府の専断を以て其の或るものを不必要なりとし、之を節約し、又は中止するのは、議会の意思を無視するものであると主張するのであるが、法律論としては、此の議論は成り立たない。法律上から言へば経費の必要を認定するの権は専ら政府に属し、議会に属するものではない。予算の発案権が政府に専属して居るのは之が為であつて、議会は唯政府の要求に基づいて之を承認するの権あるに止まるのである。勿論議会は其の経費が国政上必要であると認めて之に協賛を与へたものには相違ないにしても、此の議会の意思は唯政治上の意義あるに止まり、法律上の効力ある意思ではない。法律上有効なる議会の意思としては、唯経費支出の承認であつて、其の必要の認定ではなく、特定の目的の為に一定の金額を支出することに付き異議なきことの意思表示であつて、其の目的の為に必ずそれだけの金額を支出すべきことを要求する意思表示ではない。

論者は又、若し政府の主張の如く政府の自由に予算を節約し得るものとすれば、極端に言へば、法律に依り必要な支出の外は、全部の款項を削除し、零に帰せしめても憲法上差支なしとの結論を生ずると曰ひ、之に依つて政府の主張の不当なることを証明せんとして居るけれども、此の如き極端な場合は、理論上にも決して起り得ない。何となれば、政府は国の行政を担任し之を遂行する職責あるもので、其の職責上必要なる経費は必ず之を支出することを要し、経費の全部を節約して之を零に帰せしむるといふが如きは、国の行政が中絶し得られない限り、出来得べき所ではないからである。政府が自由に予算金額を節約することが出来るといふのは、唯予算の範囲内に於いて、如何なる目的の為に、何程の金額を支出することを適当とするかを、自ら判断し決定することが出来るといふに止まり、決して全然国の行政を中絶し、国の目的の為に必要なる事務をも抛擲ほうてきすることが出来るといふ意味ではない。如何に経費の節約が政府の権能に属するとしても、その節約には、国家の目的を全うする上に於いて、自ら限界あることは言ふまでもない。

(六)政府が公布予算の範囲内に於いて、実行予算を編成し、予算に定められた経費の節約を行つたことは、是れ迄も其の例甚だ多い(「法学論叢」十月号に掲げられた森口教授の論文七頁以下に其の多くの実例が列記せられて居る)。而してそれが憲法上正当の行為であることは、従来嘗て争はれなかつた所である。勿論此等の先例の中其の大多数は予算不成立の結果前年度の予算を施行することとなつた為に実行予算を編成する必要を生じたのであるが、其の以外に、大正二年度及び大正十二年度には、予算が成立したに拘らず、実行予算を編成した例が有る。此等は固より今回の例とは其の事情を異にして居るものであるけれども、少くとも予算が其の法律上の効力に於て政府に支出の義務を負はしむるものでないといふ点に於いては、此等の先例に依つて、既に一般に承認せられて居る所と謂つて可い。

若し反対論者の謂ふ如くに、予算が法律上に政府に対し支出を強要する効力あるものとすれば、仮令前年度の予算を施行した場合であつても、又仮令関東大震災の如き異常の変が起つた場合であつても、尚之を節約して実行予算を編成することは、法律上許されない所と言はねばならぬ。事情を異にするが故に、一は正当であり、一は不当であるといふのは、もはや政治論の範囲に属するもので、法律上の問題ではない。法律問題としては、一に予算の法律上の効力が如何なる限度に政府を拘束するかに在らねばならぬ。若し予算の法律上の効力が敢て政府に支出を強要するものではなく、政府は其の自ら必要と認むる範囲に於いて予算を節約し繰延又は中止を為すことが法律上許され得る所であるとすれば、残る所の問題は唯其の節約が政治上に適当であるや否やの点に止まり、憲法違反といふが如き問題は、発生の余地なきものと言はねばならぬ。

(七)所謂「実行予算」は、予算を変更するものではなく、唯予算の範囲内に於いて、政府が其の自ら遵守すべき歳入歳出の計画を予定すると共に、之を部下に命令するものに外ならぬ。憲法上の意義に於いての予算は唯一あるのみ、仮令実行予算が編成せられたとしても、尚厳然として其の効力を保有して居る。唯其の効力は、定められた目的の為に一定の金額を支出すべしといふに在るのではなく、その目的の為にそれだけの金額を支出するも差支なしといふに止まるのであるから、政府は毫も其の効力を動かすことなくして、実行予算に依り、或る目的の為にする金額は之を支出せざることを定め得るのである。それは決して反対論者の謂ふが如くに、国家意思を変更するものではなく、既定の予算を殺すものでもない。又法律上から言つて議会の審議権を侵犯するものではない。

之を要するに、単に法律上の問題としては、政府の主張する所は正当であつて、政府が既定予算の範囲内に於いて、実行予算を作り以て支出を節約することは、政府の自由なる職権に属することは疑なき所であると信ずる。

併しながら、以上述べた所は、単に法律上から見たに止まる。法律上政府の正当の権限に属することは疑ないにしても、それが政治上に適当の所置であるや否やは、全く別箇の問題である。予算の政治上の性質は、明に之を其の法律上の性質と区別せねばならぬもので、法律上に於いては予算は単に経費の承認に過ぎぬとしても、政治上から言へば、予算は明に事業計画の性質を帯びて居る。政府が或る事業の遂行を必要なりとして、其の経費の承認を議会に要求し、議会が予算に依つてこれを承認したとすれば、仮令法律上から見て、議会は其の事業の遂行を政府に要求したものではなく、唯其の経費を承認したに過ぎないとしても、経費を承認したことは、実質に於いて事業を承認したことであり、従つてここに事業の計画が予定せられたものとなる。自ら経費を要求して置きながら、議会の承認を得た後に於いて、正当の理由なくして、自ら其の計画を中止し又は繰延ぶることは、議会を欺いたことともなり、政府の政治道徳に反し、其の政治上の責任を紊るものと言はねばならぬ。言ひ換ふれば、政府は法律上の義務としてではないが、政治上の徳義としては、予算に依り議会の承認を得た事業を遂行すべき責任あるもので、殊に予算を提出した同じ内閣が引続き職に在る場合であれば、之を遂行すべき政治上の責任あることが一層明白である。

併しながら、此の責任は固より絶対のものではなく、事情の変更に依り既定の計画を変更することを余儀なくするだけの正当なる理由が有れば、予算の成立に拘らず、事業の中止又は繰延を行ふことも亦正当であると言はねばならぬ。就中なかんずく政治上の主義を異にした新内閣が組織せられて、前内閣の政策を非なりとする場合に於いては、前内閣の政策を其のまま踏襲することは固より不可能であり、従つて或る程度に於いて前内閣の定めた事業計画を変更し、事業の中止又は繰延を行ふことも已むを得ない所であり、必ずしも政治上の責任に反するものと謂ふべきではない。

併しながら前内閣の提出したものにせよ、既に議会の承認を得た事業計画を変更して、事業の中止又は繰延を行ふことは、政治上から言つて、明に議会の意思に反するものであり、従つて政府は此の如き変更を実行せんとするに当つては、之を議会に報告して、其の承認を求むることが当然でなければならぬ。

固より実行予算は単に政府の内部の定たるに止まり、之を議会に付議すべきものでないことは言ふまでもない。私は濱口内閣が実行予算の編成に際し、臨時議会の召集を奏請せず、単に私的会合に過ぎない予算説明会を開くに止めたことを遺憾とするものであるが、併し、臨時議会を召集したとしても、敢て実行予算を議会に提出して其の審議を求むペしとするのではない。私は唯政府が議会の意思に反して事業の中止又は繰延を行ふ以上は、政府は成るべく速に議会に其の旨を報告して其の理由を説明し、其の承認を求め、若し其の承認を得られなかつたならば、解散断行して信を国民に問ふことが、憲政の常理より見て、最も能く政治上の責任を充たす所以であると信じ、政府が此の手段を取るの勇を欠いたことを深く遺憾とするものである。

政府が臨時議会の召集を為さなかつた理由として伝へらるる所に依ると、臨時議会は唯臨時緊急の必要に依つてのみ召集せらるべきものであるが、現在に於いては議会に付議すべき何等の緊急の議案が無いのであるから、臨時議会を召集すべき場合ではないといふに在る。

しかしながら、議会の任務は決して議案に協賛することにのみ止まるものではない。政府の施政の方針について報告を受け、国民の名に於いてこれを批判し、もつて内閣に対する信任若くは不信任の意思を表示することは、協賛権にも倍して議会のもつとも重要なる任務の一である。或る議案の協賛を求むる為めではなく、単に政府の政策に付き報告をなす為めに、臨時議会を召集することは、これまでかつて先例の無い事柄であるが、新内閣が組織せられて、従来の政策に重大な変革を加へ、国民と共にこの新政策の遂行に邁進せんとするに当つては、これを議会に報告してその承認を得ることは、極めて望ましい所といはねばならぬ。

勿論、政府は憲法上にその政策を一々議会に報告すべき義務を負ふものではないから、単に法律論としては、この場合でも必ずしも報告のために臨時議会を召集せねばならぬのではないが、議会は国民の代表者として政府の施政を監督するの地位に在るのであるから、現内閣の如く新に施政の方針を定め、或はラヂオに、或はリーフレツトに、声を大にしてこれを国民に訴へんとして居るものが、憲法上公に国民を代表するの地位に在る議会を無視して、これに報告することをなさないのは、その標榜せる「議会中心主義」の主張にも矛盾し、政党上甚だ不隠当な処置といはねばならぬ。議案の協賛を求むることのみが、緊急の必要であさのではなく、報告をなし、質問に答へ、信任投票を求むることも亦緊急の必要たるを失はぬ。これがために臨時議会を開くことは、憲法上の必要でないまでも、憲政上の正義であり、常道である。政府が此の常道を踏むことを肯てしなかつたのは、政府の為に甚だ遺憾とする所である。

(昭和四年十一月発行「法学協会雑誌」所載)