=所謂朴烈問題の批判=
朴烈事件に付いて、政府が犯人の減刑を奏請したのに対し、国体の基礎をも動かす重大なる失態であると為し、国務大臣の責任を論議する者が甚だ多い。此の如き問題が政争の具に供せられるのは、甚だ苦々しく思ふところで、自分は敢て此の政争の渦中に入らんとする者ではないが、これ等の論者が恩赦大権の意義に付いて論じて居るところには、多くの誤を包含して居ると信ずるから、其の点だけを一言して置きたいと思ふ。
世の論者が、朴烈等に対する減刑の奏請を非難する理由として挙げて居るところは、要するに二点に帰する。第一は、減刑は犯人の悔悛の情顕著なる場合にのみ奏請せらるべきもので、朴烈等は毫も悔悛の情なきにも拘らず、之に対して減刑の恩典を与へらるべきことを奏請したのは、輔弼の責を誤つたものであるといふに在る。第二は、朴烈等の犯罪は刑法第七十三条の大逆罪に該当するもので、国体の基礎に関する最も重大な犯罪であるから決して減刑を奏請すべきものでないといふに在る。自分は此の二の論点は何れも当を得ないものと信ずる。
先づ第一の点から言ふと減刑は犯人の悔悛に基いてのみ与へらるべき恩典であるとするのは、全く恩赦の意義を誤解して居るものである。
恩赦には一般的の恩赦と個別的の恩赦との区別が有るが、何れも犯人の悔悛を前提とするものではない。一般的の恩赦は大赦及び一般的減刑の二で、従来の日本の実例に於いては、主として皇室及び国家の慶弔に際して行はるるを例とし、広く一般の犯人に対して(犯罪の種類は限定せられるのであるけれども)、普ねく皇恩を施されるのであるから、其の性質上固より個々の犯人が悔悛の情ありや否やを問ふものでないことは勿論である。個別的の恩赦は、今回の朴烈等に対して行はれた如くに、特定の犯人に対し、刑を赦免し又は減刑するものであるが、是も敢て犯人の悔悛を前提とするものではない。犯人の悔悛に基いて与へらるべき恩典には、仮出獄の制度が有る。一層軽い犯罪に対しては、起訴猶予、執行猶予などの恩典も認められて居る。恩赦は此等とは異なり、主としては、法律の画一性を緩和し、法律と裁判との欠点を補ふことを目的とするものである。法律は常に画一的に或る犯行に対し或る刑罰を定めて居り、而して裁判は厳格に法律を其の条文通りに適用するものであるが、而も実際の犯罪事情は千差万別で、時としては法律を其の条文通りに適用すると、刑罰が実際の犯罪事情に対し重きに失する場合が有り得るから、此の欠点を補ふ為に恩赦の制度が認められて居るのである。
故伊藤公の憲法義解第十六条注にも
恭テ按スルニ国家既ニ法廷ヲ設ケ法司ヲ置キ正理公道ヲ以テ平等ニ臣民ノ権利ヲ保護セシム而シテ猶法律ノ未タ各般ノ人事ヲ曲悉スルニ足ラスシテ時アリテ犯人事情ノ憫諒スヘキ者アリ立法及司法ノ軌轍遂ニ以テ其ノ闕漏ニ周匝ナルコト能ハサラムコトヲ恐ル、故ニ恩赦ノ権ハ至尊慈仁ノ特典ヲ以テ法律ノ及ハサル所ヲ補済シ一民ノ其ノ情ヲ得サル者無カラシメムコトヲ期スルナリ
と曰つて居る。即ち恩赦は「立法及司法ノ闕漏」を正し、「法律ノ及ハサル所ヲ補済」するが為にするものであるとして居るので、憲法義解が一般的恩赦と個別的恩赦とを区別せず、広く思赦に付いて斯く説明して居るのは不穏当で、一般的恩赦に付いては此の説明は必ずしも該当しないが、少くとも個別的恩赦に付いては、是は疑もなく正当なる説明である。恩赦の意義を明にするには、他の多くの権威を引照するまでもなく、此の憲法義解の説明を引くだけでも十分であらうと思ふ。
それであるから、朴烈等が悔悛の情なきに拘らず減刑を奏請したのは不当であるとするのは、全く非難の当を失するものである。問題は彼等が悔悛したか否かに在るのではなく、彼らの犯行が減刑に該当すべき事情ありや否やに在る。恩赦令第十三条が、刑の言渡を為したる裁判所の検事より、減刑を司法大臣に申立て得べきものとして居るのも、此理由に基いて居るもので、検事は起訴及び求刑の任に当るものであるから、随つて又法律の厳格さを緩和することに付いても申立の権能を与へられて居るのである。
朴烈等の犯行が果して実際に減刑に該当すべき事情ありや否やに付いては、彼等の犯罪事情が秘密に付せられ、判決書の内容も公にせられない現在に於いては、吾々は全く之を論議すべき材料を有しない。随つて又吾々は減刑の奏請が果して正当であつたか否かを判断すべき的確なる論拠を有しない、併しながら少くとも、彼等が悔悛の情なきことのみを理由として、減刑の奏請を非難することが不当なることは、自分は之を断言するに憚らない。
第二に、刑法第七十三条の犯罪に対しては、全く減刑を許さずとする議論も、甚だ不当である。自分は、反対に刑法第七十三条の罪こそ、却つて減刑の理由の最も生じ易い犯罪であると信ずる。
今日の刑法は、一般に裁判官の裁量権の範囲を非常に拡張し、既遂の殺人罪をすら、死刑より三年以上の懲役に至るまでの広い範囲に於いて、裁判官が刑を裁量し得べきものとして居る。此等の犯罪に付いては、犯罪事情の軽重に応じて、裁判官の裁量に依り、刑を軽重し得べき余地が甚だ広く、随つて犯罪事情に対して刑が重きに過ぐる場合を生ずることが尠い。独り刑法第七十三条の罪に至つては、未遂罪は勿論、単に予備に止まつた者でも、既遂罪と等しく、一律に総て死刑に処すべきものと定め、犯罪事情の如何に拘らず、絶対に裁判官に裁量の余地を与へない。即ち法律の画一性と厳格性とは、此の条に於いて最も甚しいのである。それは固より理由ある立法であることは勿論であるが、併し如何に理由ある立法であるとは言へ、既遂から単に予備に着手したに止まる者まで、千種万様の犯行に対し、総て一律に死刑に処するものとして居る結果は、犯罪事情に依りては其の刑が重きに失するものと認めらるる場合が、比較的多く生じ得べきことは容易に推測し得られる。恩赦に依りて法律の画一性を緩和するの必要は、此の種の犯罪に於いて最も痛切である。
且つ「恩赦は至尊慈仁ノ特典」である。皇室に対する犯罪に付いて、至尊の慈仁に依り之を恩赦したまふことは、事皇室に関するだけに、国民をして皇恩の篤きを感ぜしむること、一層大なるものが有る。勿論、裁判官は酌量減軽の権を有する者であるが、皇室に対する罪殊に第七十三条の罪に付いては、裁判官の権限を以て酌量減軽を行ふことは、仮令法律の之を禁ずる規定なしとしても、尚之を避くることを至当とするであらう。この場合に於いては、唯至尊の恩命を仰いで刑の宜しきを得せしむるの外は無いもので、此の点から言つても、刑を奏請すべき理由ある場合が、第七十三条の罪に付いて殊に多いことを断定し得る。
恩赦大権の発動が政治上の論議の目的となつたことは、未曽有の事柄で、それのみでも甚だ苦々しく思はれるが、況んや其の非離は全然理由の無い独断で、此の如き理由を以て、政争の手段とすることは、返す返すも歎はしい。
(大正十五年十月四日発行「帝国大学新聞」所載)