現代憲政評論 選挙革正論其の他, 美濃部達吉

加藤(高明)内閣を迎ふ


其一

清浦内閣がやめて加藤内閣が之に代つたのは、長い間の梅雨がやうやう晴れて、かすかながらも日光を望むを得たのと、同じやうな快い感じがする。数年前に寺内内閣が倒れて、原内閣が代つたときと同じやうな感じだ。殊に今度の内閣に於いて高橋政友会総裁及び犬養氏が相携へて己れを空しうして無条件に入閣したことは、国民に大なる快感を与へた。唯それだけでも、前の内閣の閣僚が殿様内閣といふ世評に対して、大名華族は唯前田子爵一人であると曰つたり、貴族院内閣と言へば加藤友三郎内閣もさうであつたと曰つたり、研究会として運動したのでなく唯個人として運動したのであると曰つたりするやうな、牽強付会の強弁を以て無理に自己の非をおおはんとした態度と比較して、雲泥の相違と言はねばならぬ。閣員の顔触れから言つても前内閣とは比較にならぬ程に国民の信頼を維ぐに足りる。願はくは少くとも今後三四年の間は堅く三派の協調を維持して、大に政界の刷新を断行して貰ひたい。若し此の内閣にして失敗するやうなことが有れば、今後我が国の政治は当分の間は暗黒時代に陥いるの外は無い。

新内閣に希望する事柄はいろいろあるが、私はここに唯一つを挙げたい。それは『正義を重んじ罪悪を排せよ』といふことである。

是れは言ふに易くして行ふに難いことは、吾々も承認する所であるが、今日迄の日本の政治上の経験は、国民をして殆ど「政治は罪悪なり」との感覚を抱かしむるに至つた。裏面に匿くれた罪悪は暫く論じないとして、単に表面に現はれたことのみを見ても、政治家の間には道徳感情や正義思想は全く麻痺してしまつたかと疑はれる程である。公器を私し、私曲を営み、公金を濫費し、権力を濫用し、責任を回避し、虚偽の言を弄するが如き、此等の総ての罪悪が、政党政治家に依つても又は官僚政治家に依つても、殆んど尋常茶飯事として平然実行せられて来て居る。今度の総選挙に於いても、清浦内閣は選挙の公正なる執行を其の最大の使命として標榜したにも拘らず、選挙千渉は可なり露骨に行はれた。それは清浦内閣が地方官殊に地方警察官に命じて各地に於ける選挙の結果を予想し、屢々しばしば之を報告せしめたに依つても明瞭である。無記名投票の精神から言つても、選挙は選挙人の自由意志に依つて行はれねばならぬことから言つても、選挙前に選挙の結果を予測するが如きは全然不可能であるべき筈で、況んや官権を利用して之を予測せしむ如きは甚しき曲事であり、明白なる選挙干渉である。しかも清浦内閣は前の多くの内閣と同じく平然之を実行して憚らなかつたのである。公正なる選挙の執行などと言つても誰れが之と真とするものが有らうぞ。併ながらそれよりも一層憤慨すべきことは、清浦内閣の下に於て殊に司法権の独立が疑はるるに至つたことである。是れ迄も、司法権の独立は頗る危ばまれて居り、政府の権力に依つて司法権を左右するの弊が暫次著しきを加へて居つたが、清浦内閣に至つて此の弊が益々と歴然たるに至つた。

加藤新内閣が綱紀粛正を以て其の政綱の一として標榜して居るのは、詢に人意を強うするものがある。新内閣に対する吾々の最も切なる希望は、事大小となく政治界に於ける総ての罪悪を一掃して、「政治は正義なり」との観念を国民の間に透徹せしめんことに在る。

(大正十三年月七月発行「改造」所載)

其二

帝大新聞から新内閣の成立に付いての感想を書いてくれといふことであつたが、今非常に忙しくて落付いて書いて居る暇が無い。幸ひ今日は学校が十時始まりでまだ一時間ばかり暇があるから、其間に大急ぎで此の稿を書くことにする、時間が来れば或は中途で止すかも知れぬ。


第一に感ずることは、高橋内閣が政友会の改造問題から遂に辞職するの已むを得ざるに至つてから以来今日までの経過を見ると、さすがに時勢の変遷で、今日となつては国民の信頼に基かなければ到底強固な内閣は成立し得ないやうになつたことである。高橋内閣から加藤(友)内閣、山本内閣、清浦内閣と三代の中間内閣が続いたが、其の間は政治は殆ど停止の姿で、唯加藤友内閣がワシントン会議の結果海軍の縮少を断行したといふ以外には、何等の事跡をも見ることが出来なかつた。震災の善後策の如きも、若しも是が国民の後援ある内閣であつたならばと今更遺憾の感に堪へない。況んや清浦内閣に至つては何の為に出て来たのかわからない内に引つ込んでしまつたやうな次第である、而してそれは主として何れも国民の後援の無い内閣であつたからである。今度の新内閣は原内閣以来始めての国民的内閣で、国民一般の之に対する信頼も原内閣以来未曽有といふべきである。願はくは少くとも此処三四年の間三派の連合を強固にし大に政治の刷新を実行して貰ひたい。

新内閣に対する希望としては、第一に望むことは悪い事をしないやうにしてもらひたいといふことである。政府は兎も角も国家の権力を握り、殊に国の財政を管理して居るのであるから、悪事に対する誘惑が非常に多い。若し悪事を行はない内閣が有れば、それだけで既に国民の信頼を得るに充分である。不幸にして歴代の内閣は一として此の要求を満たすものなく、吾々は何時とはなしに、政治家といふ者は平気で悪事を為すものであるといふやうな感想を抱かしめらるるに至つた。加藤新内閣は綱紀粛正を三大政綱の一として標榜して居る。願くは忠実に此の政綱を実行して多年の積弊を一掃せられたいものである。


新内閣は又行政整理を其の政綱の一として掲げて居る。行政整理の必要は何人も認むる所であるが、具体的に如何なる事を実行すべきかと言へば中々困難が多い。私は行政整理の具体的方針としては殊に左の三点に重きを置いてもらひたいと思ふ。


第一の点は今日の中央集権主義を幾分か緩和して地方分権主義の分子を強くすることである。地方自治制度は形式だけは認められて居るけれども、地方団体の権能は極めて限られたもので、東京市のやうな大都会でも、財政上にも行政上にも、独立して行い得べき権能は極めて狭い範囲に限られて居つて、中央政府にたよらなければ如何なる事業も為し得ないやうな状態である。今少し地方団体の権能を広くし、中央政府は地方的の行政には成るベく干渉しないやうにしたい。


第二の点は司法権の独立を確保することである。司法権の独立は、日本の現在の制度に於いては、決して確保せられて居らぬ。司法官の任免進退が司法省の所管に属して居ることは其の一である。司法官は憲法上終身官としての地位を保障せられて居るけれども、それは唯其の意に反して免職せられないといふだけで、其の地位の昇進は一に司法省の手に握られて居る。之が為に司法官は司法省の幹部の人々の勢力に支配せらるる傾きがある。検事が司法省の指揮を受くる者であることは其の二である。此の二の点は制度上司法権の独立を妨ぐるものであるが、若し司法大臣を初め司法省の幹部に在る者が政治道徳を守るだけの良心を有つて居り、其の権力を濫用することが無ければ、此の制度上の欠点はさまで患ふるに足らぬのであるが、不幸にして近年の形勢に於いては、司法権は年々司法省の勢力の下に支配せらるるに至り、殊に清浦内閣の下に於いて其の弊害は益々著しくなつた。今度の総選挙に於ても選挙干渉は警察官よりも検事の方が一層甚だしかつたといふ噂がしきりに高い、少くとも近年に於いて国民の間に於ける司法権の信用が、著しく薄らいだことは疑を容れぬ所で、行政整理は殊に司法権の信用を回復することに重きを置いてもらひたい。


第三の点は警察権を政争の外に置くことである、歴代の内閣は警察権を政争に利用することを当然の如くに考へ、警視総監や内務省の警保局長は殆ど政務官の如くに待遇せらるるに至つて居る。是は実にけしからぬ話で、警察権を濫用すること余りに甚だしいものと言はねばならぬ。其の結果は、総選挙の場合に於いても警察官が選挙に干渉することは、警察官の当然の職務のやうに考へられて居る。官紀の紊乱ここに至りて極まれりといつても大過は無いであらう。行政整理は又必ず此の点の刷新に及ばねばならね。

まだ言ひ度い事は多いが、もう時間が来たから此れだけにする。

(大正十三年六月二十日発行「帝国大学新聞」所載)