現代憲政評論 選挙革正論其の他, 美濃部達吉

清浦内閣の成立と衆議院の解散


山本内閣が不慮の事変の為に急に辞職せねばならぬこととなつてから後、今日に至る迄の政界の変動は、一般民心の激昂を招いたこと、殆ど憲政実施以来未曽有とも謂ふべき程で、而もそれは単に政党政治家の仲間に於てのみではなく、平生は殆ど政治に無関心である学者、実業家、一般智識階級の間にも、之を憤慨する声が頗る高い。新聞紙の論調は必ずしも常に国民の感情を正確に表現するものではないにしても、今回の如く全国の殆ど総ての新聞紙が其論調を一にして内閣の存立を根本から否定して居ることは、是れまで全く例を見ない所で、それだけでも如何に現在の内閣が、国民の間に不人望であるかを推測することが出来る。私は平生書斎に閉ぢこもつて居つて、政治の実際問題には成るべく関係しないことを、主義として居る者であるが、それでも国民の一員として、且つは憲法政治の研究を志して居る者として、今回の政局に付いては、多少の感慨なきを得ない、改造社から是に付いての一文を徴せられたに対し敢て辞退せず、出来るだけ公正な態度を以て、冷静な批判を試みようと思ふ所以である。


山本内閣が辞表を捧呈したに付いては、例に依つて後任総理大臣の推薦に付いて、平田内大臣を派遣せられて、元老に御下問が有り、而して元老は清浦氏を適任者として推薦し、此推薦に基いて清浦氏に内閣組織の大命が下つた。

是れ途は、普通の内閣更迭の場合と同様の経過であつて、特に人心の激昂を招くべき程の理由も無い。併し是に付いても、元老といふやうな制度が果して憲法上許され得べきものであるや否や、元老が事実上殆ど総理大臣推薦の専権を有つて居るのが適当であるや否や、内大臣が内閣組織の事に関与するのは、果して内大臣の正当の職責と見ることが出来るや否や等は、相当に論議の価の有る問題である。


第一に、元老といふものが有つて、内閣の辞職の場合に、後任総理大臣の推薦に付いて、御下問に預る慣例となつて居ることが果して適当であるや否やと言へば、私は日本の現在の如き政治事情の下に於ては、已むを得ざる必要な制度であつて、敢て非難すべき理由は無いと思ふ。

若し国内に唯二大政党あるのみで、国民は其何れかに同情を有ち、国民の輿望よぼうの帰する所は、必ず其二政党の中の何れかでなければならぬといふことが、略断定し得られるやうな政治事情であるならば、一の政党が政権を去れば、当然他の政党が之に代るべきもので、何人を後任の総理大臣とすべきかに付いても、疑問を生ずべき余地なく、内閣辞職の場合には、反対党の首領に、内閣組織の大命が下るのは、当然であつて、さういふ場合ならば、元老といふやうな制度の必要も無ければ、特に御下問あるべき必要も無い。

併しながら、日本の現在の政治事情がさういふ有様を距ること、頗る遠い状態に在ることは、言ふ迄もない所で、殊に高橋内閣の辞職以来は、政友会は現に衆議院に圧倒的の多数を占めて居るにも拘らず、政権の衝に当るに不適当であることが一般に認められて来た情勢であるのであるから、何人が内閣を組織することが、果して国民の輿望よぼうに適するかは、頗る不明瞭な有様に在つたことは、争ふべからざる所である。

斯くいふ政治事情の下に於いて、若し後任者の選定に付いて適当な御下問の機関が無いとすれば、それは実に至尊をして独り社稷しゃしょくを憂ひしむるもので、日本の国体の上から申しても甚だ恐懼きょうくすべきことであると思ふ。

如何なる機関が、其御下問に応ずべき機関として、最も適当であるかと言へは、それは結局現在の如き元老の制度が比較的最も無難であらうと思はれる。兎に角それは必ず声望閲歴の特に卓越して、皇室及国民の信頼厚く、国家政局の全般に付いて相当透徹した識見を有つて居る、二三の少数の人々でなければならぬ。

現在元老たる地位に在る人々が果して此の資格を遺憾なく備へて居るや否やは、別問題として、現在の如き政治事情に於ては、さういふ種類の機関は、是非とも無ければならぬものであらう。

さういふ機関が存在し、而もそれが実際に大なる勢力を有つて居ることは、即ち政党が未だ充分に国民の信頼を得て居らぬ証拠であつて、政党が廓清せられ、国民が挙げて政党に信頼し、政党の首領が内閣を組織することが、当然の事として輿論の承認する所となるやうな情勢になつたならば、元老といふやうな制度は、自然に其必要が無くなり、仮令それが形の上には残るとしても、実際上何等の勢力の無いものとなることは、必然の結果であらうと思ふ。元老の存在は結局は政党自身の無力に其原因を有つて居るもので、而して政党が今日の如き状態に在る間は、にわかに之を無視することは出来ないものと思ふ。


第二に、内大臣が内閣組織に関与したことを以て、宮中府中の区別を紊乱したもので、内大臣の職責の範囲を脱したものであるといふやうな非難を為す者が有るけれども、是も私は理由ある非難とは信じない。

内大臣といふ制度は、日本に特有なもので、外国の立憲政治には全く類を見ないものであるが、皇室の神聖不可侵を国体の最高の条件とし、政治上の責任がいささかも皇室に及ぶことを避けねばならぬ日本の国情に於ては、内大臣の制度も、相当に存在の理由あるものと思ふ。

内大臣は其身分に於ては固より宮中の官吏であるけれども、職務に於ては決して宮中の事務にのみ限られて居るものではない。内大臣府官制に内大臣が常侍輔弼ほひつの機関であることを定めて居るのは、決して単に宮廷の事務のみに付いて輔弼ほひつすることを謂ふ意味ではなく、国務と宮務との双方に通じて常侍輔弼ほひつの任に当ることを意味して居るのである。それは恰も枢密顧問が身分は国の官吏であつて、而も宮務にも関与すると同様である。内大臣が単に宮廷の事務ばかりでなく、国務にも関与する職責を有つて居ることは、内大臣府に於て御璽国璽を尚蔵し、随つて国務に関する総ての詔勅が必ず内大臣府を通過するを要するものとせらるること、人民より至尊に捧呈する国務に関する請願書は総て内大臣府に於て審査の上奏聞するものとせらるることに依つても知ることが出来る。固より常侍輔弼ほひつと言つても、通常の輔弼ほひつ機関としては、国務に付いては国務大臣、宮務に付いては宮内大臣が、有るのであるから、内大臣は平生は別段きはだつた職務を有つて居るものではないが、それでも至尊と国務大臣又は宮内大臣との間に立ちて、事ある毎に側近に侍して聡明を啓き奉るべき職責を有つて居る者である。殊に内大臣の最も重大な職務は、内閣総辞職の場合、又は宮内大臣の辞職の場合に起るのであつて、此等の場合に於て、元老に御下問になることは、法令の規定の上には何等の根拠もなく、単純な事実上の慣習に過ぎないのであるけれども、内大臣は、法令の正文の上に於ても、此等の場合に御下問に奉答すべき法律上の職責を有つて居るものである。内閣総辞職の場合に於て、後任の総理大臣を任命する辞令書に、内大臣が副署すべきものと定められて居り、宮内大臣を任免する辞令書にも同様に内大臣の副署又は署名を要するものとせられて居るのは、此事を証明するものである。

それであるから、内大臣が内閣の更迭に際して、後任の総理大臣の推薦の事に関与するのは、官制に依つて認められた当然の職責と見るベきものであつて、敢て非難すべき理由は無い。


第三に元老及び内大臣が御下問に応へて清浦氏を奏請したことは、全く人選を誤つたもので、之より生じた政界の混乱に付いては、其推薦者たる元老、内大臣が等しく責に任じなければならぬといふことに付いては、如何にも其通りであるといふの外は無いが、併し是も当時の事情としては、或る程度までは諒恕りょうじょすべきものと思ふ。

若し所請憲政の常道より謂へば、衆議院に相当の勢力を有する政党の首領を推薦しなければならぬのが、当然であることは言ふ迄も無いが、政友会は高橋内閣の辞職以来、絶えざる内訌ないこうが有り、殊に山本内閣の辞職の当時に於ては、将に二派に分裂せんとする勢が見えて居つた際であつて、之に政権を委することは一般の民心の庶期する所とは思はれず、さればとて憲政会の勢力は僅に衆議院の三分の一にも足りないのであるから、是も国民の信頼を値するものと認め難く、殊に山本内閣は、政策の行詰りの結果として辞職したのではないのであるから、其後任たるべきものは、矢張り山本内閣と類似の性質を有つて居る内閣であるのが当然であると考へるのは、無理の無いところであつて、元老及び内大臣が清浦氏を推薦することに決したのは、恐らくはさういふ考が基礎となつたものであらうと思ふ。


それであるから、内閣組織の大命が清浦氏に下つたに至るまでの経過に就いては、仮令それが所謂憲政の常道に反することは勿論であるとしても、さまでに国民の憤満を招くべき理由は無かつたのである。

若し清浦氏が大命を拝受するにしても、又は拝辞し奉るにしても、政治家として、ふさはしい態度を取られたならば、仮令多少の不平は起るにしても、斯くまで政界の混乱を来すことは無かつたであらう。

不幸にして内閣組織の経過、其成立の基礎たる原動力、閣僚たる人々の顔触れ、内閣組織後態度は一として国民の軽蔑と憤満とを招く源たらぬものは無く、遂に政界未曽有の混乱を招くに至つたのは、国家の為に返す返すも遺憾に堪へない所である。


内閣組織の経過に付いての第一の過誤は、清浦氏が一旦拝辞の決心を固め、之を公に発表して置きながら、数時間の後直に其決心を翻へして、再び内閣を組織せんと決心したことに在る。

清浦氏が如何にして其決心を翻へしたかは、暫く差措いて、それが如何なる理由に出たものにもせよ、既に一たび大命を請けて、之を拝辞することに決心し、而もそれを公然発表した以上、再び大命を拝受することは、政治家として絶対に有るまじ事であることは言ふ迄も無い。

大命の拝辞を決心することは、内閣の組織に付いて、全く成算の無いことを自覚した上でなければならぬ。況んやそれを自分の心中の決心にのみ止めて置かないで、之を他の人々に公にするに於てをや。既に内閣の組織に付いて成算なきことを自覚して居る以上、如何なる理由が有つたにもせよ、再び大命を拝受することは、甚しき無責任の行為と言はねばならぬ。清浦氏は自己の一身を捨てて国家に奉ずるの決心を堅めたと吹聴して居るけれども、内閣の組織は清浦氏一身の問題ではなくて、実に国家の問題である。清浦氏の一身がどうならうとも、それは吾々国民の余り痛痒を感じない問題であるが、一身を犠牲として国家に害毒を流されては、国民の迷惑は此上も無い。内閣の組織に何等の成算もなく、而も唯一身を犠牲とすることを以て其弁明の辞とするのは、責任を自覚しないことも甚しいと言はなければならぬ。


内閣の組織に付いての第二の大なる過誤は、研究会の幹部の地位に在る二三の人に、閣員の選定を一任したことに在る。

是は実に最も甚しい失態で、大命を蔑にするものたるの非難を免れない。

此の如き失態は、是れ迄の如何なる内閣の組織にも、嘗て聞かない例であつて、是れだけでも国民の軽侮と憤満とを招くに充分である。


併ながらそれにも超えて、国民の憤満を招く原因となつたのは、研究会の幹部と称せられて居る二三の人々が、自ら内閣組織の大命を受けたかの如くに、閣僚の選定に奔走し、遂に純然たる貴族院内閣を作るに至つたことである。

清浦氏及び研究会の人々は、此非難を以て事実の誤解に出でたものであると言ひ、研究会は会としては毫も内閣組織に関係したものではなく、唯某々等の二三人が個人として相談に預つたに過ぎぬと言つて居るけれども、此の如き弁解が、少しも国民の疑惑を解くに足りないことは言ふ迄も無い。

それ等二三の人が相談に預つたのは、唯研究会の幹部たる地位に在るといふことの理由にのみ基いて居ることは、更に疑を容れない所で、若し研究会との関係を取り去るならば、それ等の人人は政治上に全く何等の勢力をも有たない人々である。若し多少なりとも、政治上に勢力が有るとすれば、それは唯研究会の幹部であるからといふことにのみ基いて居るもので、其理由が有るからこそ内閣組織の相談にも与ることを得たのである。それが唯個人としての資格でないことは勿論である。

内閣組織の原動力が専ら研究会に在ることが、実に清浦内閣の根本的の欠点であつて、国民の軽侮と憤満とを招いた最も重なる理由は、此点に在る。

それは既に世間にも普く論ぜられて居る所で、自分も其点に於て、全く同感を有するものであるから、今ここに詳しく巡べるまでもない。


清浦内閣は其組織の根底に於て、此の如き大なる過誤を重ね、ゆるすべからざる欠陥を有して居るものであるのみならず、其の閣僚には不幸にして一人として国民の信頼を繋ぎ得るだけの大材を見ないのであるから、内閣の成立の当初から、殆ど前古未曽有とも謂ふべき程に、国民の間に不人望であつたことは、敢て怪しむに足らぬ。

若し清浦氏及び其閣僚にして、少しく冷静に自ら反省し、又国民の感情の趨く所を察することが出来たならば、其内閣の組織に根本的の欠陥の有ることを容易に自覚し得たであらう。過てる者は其過を改むることが勇である。若し清浦内閣にして過を改むるの勇気が有らば、何等の成算も無くして衆議院を解散するが如き暴挙を敢てせずして、速に罪を天下に謝し、骸骨を乞ふの挙に出でたであらう。吾々も国家の為に切に其事を希望したのであつたが、不幸にして、事ここに出でず、更に衆議院の解散に依つて、一層其過誤を重ねることとなつたのは、遺憾此上も無い。


今回の衆議院の解散は、其理由に於ても、其時期に於ても、甚しき不当のものであることは、既に世評の一致して居る通りである。

単に憲法の明文から言へば、解散を為すべき理由に付いては憲法は何等の規定を設けて居ないのであるから、如何なる理由を以て、又如何なる時期に於て、解散が行はれたとしても、敢て憲法違反といふことは出来ぬ。それは恰も貴族院の或る団体を基礎として、内閣が作られたとしても、憲法違反でないのと同様である。

問題は唯それが政治上適当であるや否やに在る。

而して政治上の問題としては、衆議院の解散は唯或る問題に付いて衆議院の意見が果して真に国民の輿論に適合せるや否やの不明なる場合に於て、民意に訴へて輿論の判断を求むるが為にするものであることは言ふ迄もない。それは解散が唯衆議院にのみ行はれて貴族院には行はれないことから見ても明瞭である。

然るに国民の輿論が現内閣を信任するものでないことは、全国の新聞紙の論調に見ても、貴族院に於ける質問演説に見ても、連日の民衆運動に見ても、又は穏健着実を以て知られて得る有力なる実業家諸氏の辞職勧告に見ても、極めて明瞭であつて、更に疑を挟むべき余地は無い。

それであるから、仮令衆議院に於て不信任決議案が提出せられ、それが大多数を以て通過すべき形勢が明瞭となつた後であつても、此場合に於ける衆議院の解散は、到底不合理であることを免れない。

然るに政府は、それのみではなく、解散の時期に於ても、更に大なる過誤を重ねた。

衆議院の解散は、未だ不信任案の提出も無い間に、単に議場の秩序がみだれたといふ理由のみを以て、行はれたのである。

是れでは何の為の解散であるかは、更にわからない。真逆国民に対して暴行を否とするや否やの判断を求むる訳でもあるまい。ここに至つては、唯逆上の沙汰と評するの外はない。

要するに、今回の内閣は其組織に着手した初から、過に過を重ねて来たもので、国の前途の為に如何にも心細さの感に堪へぬ。

政府はしばしば国民の思想の善導を唱へる。自分は思想の善導が果して政府の職分たるべきや否やを疑つて居るもので、寧ろ政府の当然の職責としては、積極的に思想を善導するに在るのではなく、消極的に思想の悪化すべき原因を除くことに在るべきであらうと思ふ。今の内閣は果して自ら思想を悪化する原因を作りつつあるものであるといふ非難を免れ得るであらうか。

(大正十三年三月発行「改造」所載)