科学の方法, 中谷宇吉郎

附録 茶碗の曲線


もう二十年以上も昔の話であるが、考古学を専攻していた私の弟が、東大の人類学教室で、土器の研究をしていたことがある。

その頃は、まだ今日のように、土器の形式による分類などは、ほとんどできていなかった。弟はその分類の仕事にとりかかって、何か科学的な分類法がないかと、いろいろ考えていた。

土器の形は、個々の標本では、もちろんそれぞれいちじるしく異るが、特定の地域から出るある時代と推定される土器をたくさん集めて、全体として見ると、その間に共通した一定の型式がある。それによって、何々式という名前が与えられ、大まかな分類がなされていたのである。

こういう分類の方法は、土器と限らず、いわゆる美術骨董品などの鑑定には、たびたび用いられているやり方である。たとえば、鍍金ときん仏などを専門家が一眼見て、これは六朝だとか、もう少し古いとかいうようなことをいうのは、皆この型式を見るわけである。仏像とか、絵とか、道具とかいうものは、形が非常に複雑であり、そのうえ色だの、材質だのが、変化無限であるから、科学の方でやっているような簡単で明瞭な分類というものはとうていできそうもない。その点、土器は形も簡単であり、色や材質の差も少いので、こういう研究目的には恰好の材料である。

ここで科学的の分類という言葉の意味を、ちょっと説明しておく必要がある。科学的というのは、普遍的な客観性をもつということである。といっても何もむつかしいことではなく、特定な人でなく、誰にも分るという意味である。

ものには量と質とがあって、たいていの場合、量の方が質よりも分りよい。二つ茶碗を並べた場合、大小は誰にも分りまた議論の余地もないが、どっちが古いとか、枯れているとかいうようなこと、すなわち質の問題は専門家でないと分らない。土器の型式というようなものも、もちろん質的な話であって、量的ではない。従って専門家でないと分らない。もし専門家の間に異説があれば、いずれが正しいかを決定することは困難なので、いわゆる権威の説に従うより仕方がない。

それで、こういう場合には科学的な分類を試みるとして、一番本格的なやり方は、何か量的なあらわし方、すなわち数字か数式で、いわゆる型式なる「質」をきめられないかという研究をしてみることである。壷や茶碗のようなものが一番分りよいのであるが、何となくどっしりとしているとか、素朴な味があるとか、優美な形をしているとかいうのは、壷なり茶碗なりの外形をなしている曲線が、それぞれ何か特定の法則に適うような形をしているからであろう。陶器や磁気では、色とか艶とかいうものも一役買うであろうから、話は少し厄介になるが、土器の場合ならば、一応は形、すなわち曲線の性質だけで、何かの法則が出てきそうである。

弟はこういう見込みで、いろいろな土器についてその形を精密にはかり、切断面に相当する曲線をたくさん作っていた。土器の形はみなちがうのであるから、この曲線は、もちろんいろいろな形をしていた。しかし一つの型に属する土器の曲線には、何となく互いに似たところがあり、何か一定の法則がありそうに見える。この法則を巧く数学的に表現することができれば、目的は達せられるはずである。

それでいろいろな方法で、この曲線の分析を試みてみた。一番簡単なのは、各点の彎曲率をはかって、その値が壷の上から下までの間に、どういう変化をしているかを調べてみることである。彎曲率がどこも一定ならば、曲線は円である。上の方が小さく、下の方が大きければ、下ぶくれの形になる。凹んでいる部分は、彎曲率を負にとればよいのでその凹み方も、負の値の大小できまる。こういうふうに考えてみると、彎曲率の分布状態で、いわゆる型が表現されそうである。

もっとも分布状態という言葉には、実は少しごまかしがあるので、状態というからには、それ自身がまた一つの曲線になる。それでははじめから壷の曲線そのものを見るのと、同じことになるのではないかという疑問も起きる。しかし彎曲率の分布という形に変えて見ると、曲り方の変化、すなわち曲線の性質が、明瞭に現われてくる。それで初めの曲線そのものを見たのでは分らなかった微妙なちがいが、はっきり出てくるはずである。話はたいへん巧いのであるが、これを実際にやってみると、このやり方には非常な困難があることはすぐ分った。

どんな曲線でも、ある狭い範囲をとってみると、その部分だけならば、円の一部と見られる。その円の半径の逆数が、その部分の彎曲率である。それで曲線をたくさんの部分にわけて、各部分を代表する円の半径を、つぎつぎとはかっていけばよいわけである。しかし厄介なことには、この場合半径がなかなかきめにくいのである。円周のごく一部をはかって、その円の半径を出すのだから、ごく僅かな測定の誤差があっても、半径従って彎曲率は、ひどくちがってくる。たとえば、曲線を描いている鉛筆の線の幅ですらもう問題になる。それで、この数学的分析をしようとすると、はじめの曲線をよほど正確に描いておかなければならない。すなわち形をきめるための測定を、非常に精密に行う必要がある。

ところが相手は土器であるから、そういう精密な測定はどうにもしようがない。表面はもちろんでこぼこしているし、また全体としてゆがんでもいる。それであまり精密にはかると、偏差が大きく効いてきて、かえってほんとうの形から離れた曲線ができてしまう。たとえばある方向から見た壷の曲線と、少しちがった方向から見た曲線とは、大まかに見れば大体同じであるが、精密な測定をしてみると、かなりちがっている。それで数学的な分析ができるほどのくわしい測定をすると、特定な壷の形を示す曲線が、何十本と出てくることになる。そのうちどれを採ったら、この型式の特徴が巧く現われてくるか、それすら分らない。

弟は大分苦しんでいたらしいが、研究がまとまらないうちにパリへ行くことになり、向うで病気をして、帰って間もなく死んでしまった。それで土器の形の数学的考察という一ぷう変ったこの研究は、とうとう陽の目を見ずにそれ切りになってしまった。

今から考えてみると、これはずいぶん大胆不敵な研究にとりかかったものである。もしこれができ上ったら、ある時代に、ある民族または部落民がもっていた精神文化を、数学的に規定できることになる。そんなことが易々とできるはずがない。しかし不思議なことには、そういう分析などはしないで、唯の眼で見れば、その型式が一眼で分ってしまう。何か差異があるからにちがいない。眼で見ればすぐ分るくらいの差異が、精密な測定をすればかえって分らなくなるというのは、いかにも妙な話である。

もっともそういうことは、何も土器の型ばかりの話ではない。木の形なども同じことである。葉の落ちた木を少し離れて見た場合、梅か桜か楓かということは、枝振りですぐ分る。枝振りは、一個所から出る小枝の数とその角度、それに次ぎの小枝までの距離できまる。ところが同じ梅といっても、木によっていろいろ枝の分岐状態はちがう。

また一本の梅の木についても、各枝によって差があり、また下から梢の方に行くに従って変化している。それで同じく梅の木といっても、枝振りは千差万別である。しかし木全体としてみると、やはり梅は梅の枝振りをしていることは誰でも知っているとおりである。

部分部分を見ると、ひどく変化があって、なんら法則らしいものは見つからないが、全体としてみると、一定の型式がある。そういう現象は、世の中にいくらもある。土器の型や、木の枝振りなどは、ほんの一例にすぎない。乾いた田圃の割れ目なども、一眼に見渡すと、いかにも規則正しく亀甲状に割れている。しかし実際に一つ一つの割れた部分を見ると、六角形にはなっていないし、また割れ目の角度なども、まちまちである。だからこういう現象を、克明に数学的に分析しても、われわれが直接に感ずる「一面に綺麗に割れている」感じは、法則としては出てこない。

感じとしては簡単に捉えられる法則が、今日これほど発達した科学の力をもってしても、なお捉え得ないというのは、きわめて変な話である。しかしそれは何も科学の無力を示すものではなく、現代の科学とは場ちがいの問題であるからである。今日の科学は、その基礎が分析にあるので、分析によって本質が変化しないものでないと、取扱えないのである。分析によって本質が変らないものならば一応分析をして、それをまた綜合することに意味がある。全体としては、ある感じをもっているが、分析して見ると、その部分には本質的に前の感じの基礎となるものが存在しない。そういう問題は、今日の科学では苦手の問題である。その一番よい例は生命現象であろう。人体を構成している細胞の蛋白質の秘密が、窮極のところまで分っても、生命そのものは、現在の科学の方法をもってしては、永久に分らない。と少くも私はそういうふうに思っている。

もっとも、個々の現象は複雑無限であって、その機巧はとうていわからないが、そういう現象が非常にたくさんかさなり合って、全体として一つの現象を示すことがある。そしてそこに全体としてある法則が存在する場合には、それを取り扱う科学の分野はある。統計の学問がすなわちそれである。個人個人の死は予言できないが、国民全体としては、死亡率と年齢との関係がちゃんと存在している。その法則を知ってはじめて、生命保険業の経営ができるわけである。

しかしこの場合は、数が非常に多くなくては駄目なので、たとえば百人くらいの会員では、生命保険の理論はあてはまらない。この頃流行の推計学では、少数例の統計的研究法を盛んに論じているが、これもけっきょくは、大略の確率が出せるだけで、止むを得ない場合にのみ使うべきである。

けっきょくのところ、枝振りの特異さとか、茶碗の曲線の味とかいうものは、科学の対象にはならないもののようである。厳密にいえば、科学的な方法で、その本態を捉えようという試みは、不可能ではないが、利口な方法ではない。その点だけは確かである。もっとも科学的方法、すなわち分析と綜合とによってある結果が得られれば、それは一般性があるので、次ぎの進歩に役立つ。今日科学がこのように発達したのは、この特徴を巧く活かしたからである。しかしそれが人間の幸福にほんとうに寄与したか否かは、また別の問題である。

枝振りをただ見て、その全体としての特徴を感じただけでは学問にはならない。しかしそれが人生に全然役に立たないとはいわれない。少し奇矯な例であるが、山奥で道に迷った時、ある木を見て、これは人工の加わった枝振りだと知って、その方向にあるいて助かったとする。学問にはならなくても助かる方がよい。これはいささかこじつけの議論であるが、この中になんらかの真理はありそうである。

枝振りの嘆賞や、茶碗の味を愛惜する心は、科学には無縁の話としておいた方がよいように思われる。あまり役には立たないが、そのかわり害もない。茶道などが、今日の科学文明の世になっても依然として生命があるのは、科学とは無縁であるからである。そのうちに科学的茶道などというものが生まれてくるかもしれないが、そんなものはすぐ消えてしまうべき運命のものである。茶道は、科学などに超然としておれば永久に生命があるであろう。