科学の方法, 中谷宇吉郎

結び


自然科学は、自然の本態と、その中にある法則を探究する学問である。

しかしその本態とか、法則とかいうものは、あくまでも科学の眼を通じてみた本態であり、また法則である。それで科学の真理は、自然と人間との協同作品である。

もし自然界に、人間をはなれて、真理というものが、隠されているものならば、それを発掘すれば、それでおしまいである。もちろん宝はたくさん隠されているので、一ぺんでおしまい、ということはない。しかし数多くの宝の中から、一つずつ見つけていけば、手の中に握った真理が、だんだんふえていき、未知の分が、それだけ少くなる。もしこういうものならば、科学はいつかは、宇宙の真理を全部見つけ出してしまうであろう。

しかし科学の真理が、自然と人間との協同作品であるならば、科学は永久に進化し、変貌していくものである。このいずれの見方をするかは、趣味の問題である。「いつかは」といっても、「永久に」といっても、内容は同じことである。しかしこの小著では、私は後の見方に立つことにした。

自然と人間との協同作品といったが、この場合の人間というのは、科学的思考力のことである。もっと普通ないい方をすれば、現在の科学の眼を通じて自然を見て、すなわち現在の科学の方法によって、自然界から認識を抽出して、それを科学の対象としているのである。

この場合に使われる方法の基本的なものは、分析と綜合、因果律的思考、測定、恒存の概念などである。こういう方法によって、自然界から認識を抽出する場合に、土台としているものは、再現可能の原則である。同じことをくり返せば、同じ結果が出るという前提のもとで、真偽を区別している。ちがった結果が出れば、それを誤りとするのである。

もっとも、同じことをくり返せば、同じ結果になるのは当然ともいえるが、問題は、同じことをくり返すことが、実際には不可能であるという点にある。どんなに条件を一定にしても、少くも時はちがっている。しかし現象を時の流れとして見るのは、歴史的な見方である。時の流れとは無関係に、法則があるとして、それを探すのが、科学である。

幸いにして自然界には、再現可能の原則が、近似的に成立する現象が多いので、そういう現象が、科学の対象として、取り上げられている。その再現可能の原則が近似的にあてはまる現象というのは、どういう現象かといえば、その一つの特質は、「安定」な性質である。安定というには、広い意味に使っているので、偏差フラクチュエーションの影響が小さいという意味である。

自然界にあるものにも現象にも、必ず極微の偏差が伴っている。その一例として、結晶の性質を考えてみよう。結晶は、原子が格子をつくって、規則正しい配列をしているものである。X線の干渉を使えば、その格子の形や大きさは、くわしく調べることができる。そして塩の結晶ならば、塩素原子とナトリウム原子とが、立方体の格子の角々に、交互に配置されていることが分っている。しかしこの配列は、理想的に完全なものではあり得ない。もし理想的に完全な配列をしていれば、この結晶は、どんな力を加えても、こわすことができないはずである。ある原子配列面でこわれるのと、全く同じ理由で、他の原子配列面でもこわれなければならない。それで理想的に完全な結晶を引っ張ると、ある限界まではもっているが、その限界を越した瞬間に、原子の大きさの程度に、粉々になってしまわなければならない。しかし実際には、最も完全と思われる結晶でも、どこかでこわれるのであって、そこに極微の弱点があったのである。こういう極微の弱点は、近代の物性論では、転位または結晶欠陥と呼ばれているが、そういう欠陥のあるものが、「完全な結晶」であって、それもないものは、頭の中で考えた結晶である。

普通の歪み程度では、この弱点はあまり効いてこないので、すなわち偏差の影響が小さいので、前の定義でいえば、安定な現象である。しかしこの結晶がこわれるときは、極微の弱点のところから、こわれ始める。そしていったんこわれ始めると、そこがますます弱くなって、破壊が進行する。それで破壊の現象では、極微の弱点が重要な要素として、現象を支配する。前の定義でいえば、不安定な現象である。

こういう不安定な現象は、現在の科学では、その本質上、取り扱いかねる現象である。結晶でさえそうであるから、普通の物質では、なおさらのことである。できるだけ均質な物質の棒をつくって、それを曲げる場合、どこが折れるかということは、現在の科学では、まだ予言ができない。大気中の渦なども、不安定な現象である。それで、本書で強調したように「火星へ行ける時代になっても、テレビ塔の天辺から落ちる一枚の紙の行方を予言することはできない」のである。この点に、科学の強力さと、その限界とがある。

再現可能の原則が、近似的に適用される場合でも、科学の基本的な方法を用い得る範囲は、現象によって、みな異る。たとえば、生命現象の研究では、生命力が営む物理化学的現象は、分析と綜合が、比較的広い範囲に適用されるので、その方面の研究は長足に進歩する。しかし生命そのもの、あるいは本能のような問題は、なかなか解けない。将来、本能のことが全部分る日がきたら、それは生物体内の物理化学的現象と本能との間の関係が、分ったときであろう。

物の量を数であらわす方法、すなわち測定も、重要な基本的方法であるが、この測定には、常に精度の限界がある。自然の本性から考えて、精度はだいたい六桁あるいは七桁どまりのように思われる。現在のところは、一番精度が高い測定の一つとされている天体観測でも、二百年以上の周期をもっている彗星と、永久に帰ってこない彗星との区別はできない。測定には必然的に伴う誤差の点からみても、科学の力には限界がある。しかし考えようによっては、二百年先までならば、正確に分るということは、たいへんなことである。

科学で使われている基本的な方法は、問題の解答を受け入れる見方にもある。科学でいう法則には、統計的の意味が常に含まれている。原子の性質といっても、同種の多くの原子について、その性質を平均したものを指している場合が、ほとんどである。霧函や原子乾板の方法では、個々の粒子の性質が調べられるが、それは飛跡からえられる知識に限定されている。

この見方の問題を忘れると、科学の力を過小評価したり、過大視したりすることになる。科学がいかに進歩しても、人間の寿命を予言することはできない、というようなことがよくいわれる。しかし国民全体としてみた時には、人間の寿命は、原子の崩壊などよりも、よほどよく分っている。人間の場合は、統計の中の個を問題にするので、その寿命が予言できないのである。科学の法則は、統計の中の個には適用されないのが原則である。

以上のような考え方をしても、何も科学の力を過小評価することにはならない。三十年くらい前の話であるが、ボーアの原子構造論が、一応の完成を見、電磁波の方も、普通の電波からガンマ線までの連絡がついた時代のことである。ラマンが分子と光との干渉現象を発見し、コムプトンが電子と光との衝突作用を見つけ出した。これで電波のことも、物質のことも、物質と電波の干渉の問題も、全部片づいたように見えた。その頃の話であるが、ある人がチャドウィックに「これで原子論方面の問題は、一応片づいたようなものですね」といった。そしたらチャドウィックは「まだたくさんすることはあるよ。There is a lot of things to do.」と答えたそうである。その後数年ににして、チャドウィックは中性子を発見した。それが今日の原子核物理学の一つの礎石になったのである。

今日われわれは、科学がその頂点に達したように思いがちである。しかしいつの時代でも、そういう感じはしたのである。その時に、自然の深さと、科学の限界とを知っていた人たちが、つぎつぎと、新しい発見をして、科学に新分野を拓いてきたのである。科学は、自然と人間との協同作品であるならば、これは永久に変貌しつづけ、かつ進化していくべきものであろう。