科学の方法, 中谷宇吉郎

解ける問題と解けない問題


自然科学は非常にたくさんの部門に分かれているが、これを二つに大きく分類すると、物理学や化学のような、いわゆる物質の科学と、動物学や植物学、あるいは医学のような生命現象を取り扱う科学、すなわち生命の科学との二つに分類することができる。この分類は、かなり深い意味のある分類であって、物質の科学と、生命の科学は、同じ自然科学の中でも、かなり姿のちがったものである。

そのうちで、物質の科学の方は、対象としているものが、比較的簡単であり、従ってその中にある法則も、また比較的簡単で、かつはっきりしている。そのために、物質の科学の方は、生命の科学にくらべて、非常に早く進歩した。生命現象は、これとちがって非常に複雑なものであり、しかも生物自身の持っている条件だけでは現象がきまらず、与えられた外部の条件によって、いちじるしくその作用がちがってくる。そういう非常に複雑なものであるから、この方は発達が遅れている。一般にはこういうふうにいわれていて、また事実それはそのとおりである。

しかしここで考えなければならないことが一つある。それは物質の科学が対象とするものは比較的簡単であるといっても、ほんとうはそう簡単なものではないという点である。物質間の現象を支配しているいろいろな法則を、われわれは今日、いろいろな式などの形で、だれだれの法則とか定理とか呼んで、たくさん知っている。それらはたいていは非常に簡単な形をしている。たとえば万有引力の法則にしても、クーロムの法則にしても、逆二乗の法則の形になっていて、最後の形は簡単な式になっている。しかし、自然現象は、ああいう法則のとおりに、実際起こっているかというと、決してそうではないのである。

一番簡単な例として、たとえば鉄の球を高いところから落した場合、どういう落ち方をするかという問題を考えてみよう。それについてはまず、こういう場合に、法則といわれているのは、なんのことであるか、またこの問題が解けると言うことは、どういう意味であるか、という点を、一ぺんはっきりと考えてみる必要がある。この場合、法則というのは、鉄の球と地球との間に万有引力が働いて、それが重力となって、球を地球の方へ引くことである。重力の加速度は、物体の大きさや重さには無関係であって、地表近いところでは、秒速九八〇センチメートルの速度が、毎秒加速されていく。そういう数値のきまった加速された運動をするというのが、この現象を支配している法則である。それでこの問題が解けたというのは、どういうことかというと、その法則が完全に当てはまるということが確認されることである。それにはある分った高さのところから、この球を落してみる。そうすると、秒速九八〇センチの速度が、毎秒加速されて、だんだん速くなって、地面に到達する。その速度の加わりかたをくわしく計算して、この法則のとおりならば、地面に届くまでに、何秒かかるかということを出す。そして、実際にこの球を、その高さのところから落してみる。その場合、今計算したのとぴったり同じ時間で、球が地面に到達するならば、問題が解けたといい、またわれわれはこの現象を完全に知ったというのである。

これなどは自然現象のうちでも、一番簡単な場合であって、高等学校の物理の講義の最初のところに出てくる問題である。すなわち力学の一番初歩の問題なのであるが、実はこの問題でも、ほんとうの意味では、解けていないのである。ということは、ちゃんと計算をして、それから球を落してみた場合、時間を非常に精密にはかってみると、計算の時間とは合わないのである。たいていの場合、少し遅くなる。これは誰でも知っているように、空気の抵抗があるからである。前にいった重力の加速度は、空気の抵抗がない場合についての話であって、実際には空気の抵抗があるために、少しおそくなるのが当然なのである。それならば話は簡単ではないか、空気の抵抗があるならば、その空気の抵抗による速度の減少の分だけ計算してひいてやればよい。そうすれば合うはずである、といわれるであろう。ところがそういう補正をしても、もちろん前よりはよく合うが、しかし、やはり完全には合わない。ということは、空気の抵抗自身が、そのときそのときによって、みなちがうからである。空気の抵抗は、温度、気圧、湿度などがちがえば、みなちがうはずである。ごく微量ではあるが、時と場合とによってみなちがう。従って、くわしくいえば、空気の抵抗は、一回一回の測定において、みなちがうわけで、前にいったような重力の法則からの隔りが、実験の度ごとにみなちがうことになる。厳密にいえば、そのほかに地球の磁気の影響もある。鉄の球は磁場では磁化して、一種の磁石になるわけで、重力以外に、磁力がきいていても、ちっともおかしくない。しかし、そういうものが分っているのならば、その影響を計算しておいて、その分だけ引けばいいのではないかともいえる。しかし地球磁気は刻々に変化しているものである。その変化も全くでたらめで、太陽の黒点が出たりすると、いわゆる磁気嵐が起きる。それでその影響をあらかじめ計算しておくことは、厳密にいえばできない話である。それから、もっとこまかい話であるが、他の天体、たとえば太陽とか、月とかの影響があると考えても、ちっともおかしくない。現に地球上では海の潮の満ち退きが起っているが、これは太陽と月との引力の結果で出てくるものである。今の実験で鉄の球を落してみる場合でも、太陽も月も、あるいはほとんどゼロに近いほど小さいが、ほかの星の影響も、理論的にはきいているはずである。それで非常に正確な時計でもって測ったとすると、こういう球が落ちるという一番簡単な問題でも、決して解けたとはいえないのである。いつでも実際にはかった価は、理論的に計算した価とはちがってくる。同じ人が、同じ装置を使って、同じことを二度実験してみても、必ずちがった価が出てくるはずである。もし出てこなかったら、実験の精度が低いのである。厳密な意味では、同じ条件を二度くり返すことはできないからである。もちろんその差は非常に小さいのであるが、ちがった価が出てくるという方がほんとうなのである。実際に自然界で起っている現象は、そういうものなのである。

しかし、鉄の球が落ちるというような問題の場合は、九九・九九%ぐらいまでは合う。測定には必ず誤差を伴っているものであるし、現在の科学では、この程度の精度までしか到達していないのであるから、これで完全に合ったといっていい。しかし、理論的にいえば、もっと正確な物差しと時計とを用いて実験してみれば、必ず狂ってくるはずである。しかし実際には、そこまで測ることはできないのであるから、これで問題は解決したということにしているのである。それで重力による加速度運動をまず認め、それからちがった分は、空気の抵抗によるものだとする。その抵抗が実験ごとにまた少しちがうのは、抵抗自身が空気の状態によって変化するからである、というふうに説明していくわけである。

自然科学は、自然現象の説明に、こういう方法を用いている学問である。非常に精密にはかってみると、その結果が一回一回の測定でみな価がちがって出る。しかし、それをそういうちがったものであるとみないで、ほんとうは同じ価に出るべきものであるが、いろいろなほかの原因があるために、その影響によって実際にはちがって出るのであると考える。これが科学の根本的な考え方である。この考え方の底には、第一章で話した再現可能の原則がはいっている。自然界にははっきりした法則があって、同じことを二度くり返せば、その法則に従って、同じ結果が出るはずのものである。もしこの再現可能なことが起らなかったら、それはほかの妨害によって、ちがってきたのである。こういう見方で自然現象を取り扱うのが、自然科学の根本的な方法である。

こういうふうに考えてみると、自然科学で取り扱い易い問題と、取り扱いにくい問題との区別がはっきりしてくる。再現可能の要素が強くて、再現されない要素が少し効いている問題は、取り扱い易いが、その反対の場合は、なかなか扱えないのである。鉄の球が落ちるというような問題の場合は、九九・九九%ぐらいまで、実験値と理論値が合うので、問題は解けたといっていい。こういうふうに巧くいくのは、地球の重力による加速度の方が、大きく効いていて、空気の抵抗その他の妨害要素が非常に弱くしか効いていないからである。重力の方は一定しているので、再現可能の要素とまず見てよい。しかし空気の抵抗の方は、変化の激しい、つかまえにくいものであるが、その方はわずかしか効いてこない。それでこういう問題は、科学で取り扱い易いのである。

しかし同じ落下の問題でも、その逆の場合もある。たとえば薄いちり紙のようなものを、目の高さから落してみれば、すぐ分ることであるが、何回くり返してみても、紙が全く同じ落ち方をすることはない。紙はひらひらと舞って落ちてくるが、一回一回かならずその落ち方がちがう。これは誰でも経験で知っていることであるが、一回一回のちがい方は、時間が〇・一秒ちがうというような生易しい話しではなく、右の方へ落ちるかと思えば、次ぎには左の方へひらひらと舞っていくという始末である。同じ現象を二度起こしてみることはできないので、こういう問題は、科学が取り扱いにくい問題である。この場合は、重力のような単純な形の要素が大きく効かないで、空気の抵抗という複雑でかつ不安定なものが大きく効いている。空気の運動には、たいていの場合、渦が起きるが、これは非常に不安定なものである。こういう不安定な要素が大きく効くので、結果も非常にばらばらに出てくるのである。紙の落ち方は、同じ落ち方を二度とはしないが、ほんとうのところは、鉄の球でも二度と同じ落ち方はしないのである。原理的には、両方とも同じことであるが、鉄の球の場合は、再現可能な要素が強く、不安定で再現困難な要素の影響が、測定の精度よりも小さくなって、測られないというだけのことである。鉄の球の場合は、九九・九九%まで説明できるのであるから、それでいいのではないかともいえる。しかしそれは、その程度で間に合うということであって、それがほんとうの自然の姿であるとはいえない。

しかし自然のほんとうの姿は、永久に分らないものであり、また自然界を支配している法則も、そういうものが外界のどこかに隠れていて、それを人間が掘り当てるというような性質のものではない、という立場をとれば、これがほんとうの自然の姿なのである。自然現象は非常に複雑なものであって、人間の力でその全体をつかむことはできない。ただその複雑なものの中から、科学の思考形式にかなった面を抜き出したものが、法則である。それで生命現象などのはいらない、比較的簡単な自然現象だけに話を限っても、現在われわれが科学と読んでいるものでは、取り扱えない、あるいは取り扱うことが非常に困難な問題は、いくらでもある。実際のところ、自然界に起っている現象では、生命現象はもちろんのこと、物質間に起る簡単なように見える問題でも、厳密にいえば、同じことは決して二度とはくり返して起らない。そういう現象を、もし条件が全く一様ならば、同じことがくり返して起るはずであるという見方で、取り扱うのが、科学である。こういう見方であるから、もし同じ結果が出なかったら、原因はほかにあるのだろうとして、更に調べていくわけである。これがすなわち科学の見方である。もっとも別の見方もある。ほんとうの現象は、どんどん変化していって、二度と同じことはくり返されないという見方もできる。これは歴史の見方である。現象を歴史的に見るか、科学的に見るかという根本のちがいは、ここにあるように思われる。

くり返していえば、科学の限界は、再現可能な問題に限られている。しかし、ほんとうはこの世の中には、再現可能な問題はない。再現可能でないものを、再現可能であるという見方をするには、ここで引いた例でも分るように、現象をいろいろな要素に分けて考えてみるのが便利な方法である。空気の抵抗がなくて、重力だけで落下するのならば、それは重力の加速度で計算される速さで落ちてくる。しかしそのほかに空気の抵抗があるので、それがどれだけ効いてくるかを、別に調べてみる。空気の抵抗は、かなり複雑なものであるから、それだけについてよく調べてみる必要がある。物体が空気の中を走る速度によって、抵抗がかなりちがう。ゆるゆると落ちてくる場合は、空気を押し分けていくだけであるから、だいたい速度に比例する抵抗が働く。ところが、早く落ちてくると、空気をただ押し分けるだけでなく、押し分けた空気が渦を巻くので、抵抗はもっとふえてくる。大砲の弾などになると、空気の抵抗は速度によってひどくかわるので、抵抗と速度との関係をくわしく調べる必要があって、弾道学という一つの学問ができているくらいである。それから地磁気による影響があるならば、それはまた別の問題として、それだけについて別に計算してみる。すなわち球が空気中を落ちてくるという現象を、重力の加速度による作用、空気の抵抗による作用、それから地磁気の作用、あるいはほかの天体の影響などというふうに、一つ一つの要素に現象を分けて、その一つ一つについて調べてみる。

これが科学において重要な役割をしている分析である。分析というのは、一つの連続体のまとまったものである自然現象を、いろいろな要素に人間が分けて考えることである。人間が分けるのであるから、ここに人間的要素がはいってくるわけである。つぎに現象をいくつかの要素に分け、その一つ一つの要素が全部分った時、それを全体としてまとめたときの現象はどうなるか、という問題が出てくる。自然界に起っている、ほんとうは複雑な現象を、人間の頭の中で一つ一つに分析して、その各〻について調べたことが、そのまままた重なり合って、全体の現象の性質を示すかどうかは分らない。しかし実際に取り扱うのは、各要素が重なり合った全体の現象であるから、要素に分けて調べた知識を重ねたものが、全体の性質を示すと仮定して、現象の説明をするより仕方がない。この重ね合わせ操作のことを、綜合というのである。自然科学では、分析して得た知識を綜合して、全体の現象を調べるというやり方が、基本的な方法の一つになっている。分析と綜合とは、そういう意味で、非常に大切な操作である。しかしこれには前にいったような仮定がはいっている。それでこの仮定が正確に、あるいは近似的にあてはまる現象は、科学が取り扱い易い問題であり、従って科学はそういう方向に発展するのである。不安定な現象とか、生命自身の問題とかには、この仮定は近似的にもあてはまらない。そういう問題は、現在の自然科学では扱いにくい問題である。必ずしも扱えないとはいえないが、非常に取り扱いが困難な問題であって、簡単にいえば、今のところでは扱えない問題である。

ここでこういう疑問が出るであろう。科学がそういう限られたものならば、それにしては、案外にどんどん進歩しているのはどういうわけか。自然界の限られた面だけしか知らないもののくせに、どうして科学が今日のように発達して、人間が科学の奴隷になりはしないかという心配まで出てくるのはおかしいではないか。

こういう疑問がきっと出ることであろう。これに対する答えは簡単であって、自然科学が今日のように発達しても、まだまだ自然そのものについては、ほんの少ししか知識をもっていないのである。しかし科学が得意とする線の方向では、非常によく伸びている。そしてその方向が人間の物質的な欲望と一致しているので、その威力が強く感ぜられるのである。

たとえば、このごろ音速をはるかに超えるような立派なジェット飛行機ができている。これは今までの自然界にはなかったものである。鳥などでは、とうてい及びもつかないことである。これには非常に強い空気の抵抗があるが、そういう問題を、現代の流体力学は、見事に解いて、超音速のジェット機の翼の設計をしている。そしてそのとおりに作って飛んでみると、ちゃんと飛べるのである。そういう点を見ると、流体力学は非常に進歩しているように見える。しかしそれならば、塵紙を一枚とって、頭の上から地面に落した時に、それがどういう落ち方をするかといったら、これは解けないのである。超音速のジェット機の翼ができるのに、なぜ塵紙が落ちてくる問題が解けないかというところに、非常に重大な点がある。

ジェット機のように、音速以上の速さになると、空気を割って進んで行くのである。普通の飛行機では、空気を押し分けて行くのであるが、音速以上になると、押しのけられた空気の分子が動く速さよりも、飛行機の進む速さのほうが速いので、空気の分子は静止していると見られることになる。それで飛行機は空気を割って行くことになるのである。いわゆる衝撃波をつくりながら、空気を割って飛んで行く。この衝撃波は、シュリーレン法という特殊な方法によると、写真にも綺麗に写る。そしてその波をつくるのに必要なエネルギーなども分っている。それで翼や機体の設計ができるのである。しかしその中で、空気の分子がどうなっているか、分子的な渦が起っているかどうか、その他この衝撃波の中で起っているいろいろな細かいことは、われわれはまだほとんど知らないのである。しかしジェット機が飛ぶということだけならば、空気をうまく割るような形にして、必要な強度さえ与えれば、それで飛ぶことができる。すなわちある必要な性質だけ分ればよいので、その中で分子がどういう状態になるかというようなことは知らなくても、ジェット機自身は飛べるのである。超音速における空気の流体力学の現象が、みな解けたわけではなく、見方によっては、ほとんど解けていないといってもいいくらいである。しかしジェット機が飛ぶのに必要な知識だけは、うまく得られているので、こういう飛行機ができるのである。すなわち流体の性質の中で、科学が取り扱うのに適した面の知識が、この場合に必要だったので、問題が解けたのである。この例と限らず、自然界の中のそういう科学に適した面が、どんどん発達して、実用になっていくのである。

ところが、紙が落ちてくるというような現象になると、これは非常に不安定な現象である。もっともこの場合でも、要点は問題の出し方にあるので、統計的な意味ならば、話は簡単である。紙はあるだいたい一定の速度で、もちろん普通の石や木片などを落す時よりは非常に遅い速度ではあるが、とにかく下に落ちてくる。そしてある程度は散らばるが、そう遠いところまではいかない。もちろん風のない場合の話であるが、一メートル四方の間には必ず落ちる。何べんもくり返してやってみると、真中に近いところへ落ちる場合が多く、遠くへ行くものは少い。そういうことだけならば、すぐ分るのである。しかし一枚の紙について、それがひらひらと舞いながら落ちて行く落ち方となると、これは非常に困難な問題である。いわんやテレビ塔の天辺から、一枚の紙を落した場合、それがどこへ飛んで行くかという問題になると、これは現在の科学がいくら進歩しても解けない問題であるといった方が早道である。いくら進歩してもというのは少しいいすぎかもしれないが、少くとも火星に行ける日がきても、テレビ塔から落した紙の行方を予言することができないことは確かである。

紙の落ち方が、なぜむつかしい問題であるかというと、それは非常に不安定な運動である点にある。ちょっとのことで、あっちにひらり、こっちにひらりとするわけで、そういう不安定な条件のもとでの運動というような現象は、現在の科学では取り扱いにくい問題なのである。もっともこういう質問も出ることであろう。そういうことは、まだ必要がないから誰もやらないのであって、紙のひらりひらりを知らなければ、絶対に人間は生きていけないということになったら、間もなくそんな問題は解けるのではないか、という質問である。しかし政府がそれに何千億円の金をつぎ込み、何百人の学者を集めても、この問題は解けないと私は思っている。人工衛星をつくったり、富士山を掘り起こして駿河湾を埋立てたりする仕事の困難さとは、性質のちがった困難さなのである。

現在の流体力学を、いくらくわしくやっても、この問題は解けない。というわけは、流体力学は非常にくわしくなっているが、たいていは粘性がないとして、大部分の問題を解いている。どんな気体にも粘性というものがあるのではあるが、粘性がはいってくると、ごく簡単な場合にしか問題は解けないのである。とくに粘性のために渦ができてくると、話は非常に厄介になる。大気中には、少し風があると、小さい渦が無数にでき、その大きさも分布も、全くでたらめである。渦は巻いているわけであるから、中心の両側は、動きが反対になっている。すなわち不連続性がある。流体の部分による速度のちがいが、ある価以上になると、そこで流体がちぎれて、渦ができるのであって、渦ができるかできないかの境目は、鉛筆を曲げた時に折れるか、折れないかの境目に相当する。鉛筆がたわむところは、問題が簡単なのであるが、折れると、たわむとはたいへんなちがいなのである。たわますには力が要るが、折れてしまえば力はゼロになる。微妙な差で、急に不連続が起るのである。紙はそういう大気の不連続な性質によって、まるで逆になる。こういう渦が無数にあって、大きさも形もでたらめで、しかも刻々と変化しているのであるから、どうにもつかまえようがない。こういう不連続な性質が非常にたくさんあり、かつ不安定な問題は、現在の科学では取り扱えないのである。非常にたくさんの渦がある場合、全体としての性質は、科学で取り扱えるが、その中の個を追うことはできない。

これから見ると、人工衛星のようなものは、科学には最適の題目なのである。人工衛星は、なぜ落ちないのかと、よく聞かれるが、あれは落ちないのではなくて、落ち続けているので、地球のまわりを廻るのである。もし落ちなければ、人工衛星はABの方向に飛んで行ってしまう。ところが、Cまで行くうちに、CDの距離だけ、地球に向かって落ちるので、Dへくる。以下同様に、G、Hの道をとって、地球のまわりを廻るのである。CDの距離は、地球の引力から計算できるので、それに見合って、人工衛星が一定の高さに保たれるように、初めの速度を与えてやればよい。それでどれだけの高さのところならば、どれだけの速度を与えれば、人工衛星になるかということは、ニュートンの時代から分っていたことである。地球がりんごに及ぼす力も、月に及ぼす力も同じものであるということが分った時に、人工衛星の原理は確立されたのである。もちろんそれだけの超高速度を得ることも、また精密な時間調整を必要とする自動装置の製作も、非常に困難な仕事であって、それを為しとげたという点では、偉大な事業である。しかしそれは技術的な困難を征服したのであって、テレビ塔から落ちる紙の行方とは、困難さの質がちがうのである。

第5図 人工衛星の軌道
5図 人工衛星の軌道

火星へ行ける日がきても、テレビ塔の天辺から落ちる紙の行方を知ることはできないというところに、科学の偉大さと、その限界とがある。