科学の方法, 中谷宇吉郎

質量とエネルギー


質量とエネルギーとは、今日の科学の中で一番重要な概念である。そして最近までは、質量とエネルギーとは、互いに関係のない独立した概念として、取り扱われてきた。

ところが原子力の解放によって、この両者の間に密接な関係があることが発見され、「原子力は、物質がエネルギーに変化したものである」というような言葉が使われるようになった。この言葉は、通俗的な意味では、そのとおりである。しかし物質はものであって、ある実質のあるものである。ところがエネルギーは、力のようなもので、これはものではない。 ものものではないものとが、互いに他に移りかわれるというのであるから、このままではちょっと理解されにくい。いかにも不思議な話であるが、ほんとうは何も不思議なことではなく、物質と普通にいわれているものも、またエネルギーといわれている力みたようなものでないものも、本来ともに、自然界の実態ではなく、人間の頭の中で作られた概念である。そして自然界の実態は、この両者を融合したところにあって、本来互いに移りかわれるものであったのである。

その説明にはいる前に、まず「物質」と「エネルギー」という言葉の意味を知っておく必要がある。そのうちで、比較的わかりやすい物質の方からはいろう。

物質といえば、ものであって、何も説明などいらないわかりきったことと思われるかもしれない。しかしこれは案外厄介な問題なのである。人間の身体とか、茶碗とか、水とか、というものは、なるほどものであるから、これは物質にちがいない。しかしこれをものと感ずるのは、形が目に見え、またさわってみると硬かったり、とにかく手にふれるからである。

それならば、空気のように目にも見えず、さわってもみられないものは、物質でないかといえば、もちろんこれも物質である。水の場合がわかりやすいが、温めて水蒸気にすると、これはまったく空気と同じく、目にも見えず、また手にもふれないものになる。鉄瓶の口からでる湯気は白くて目に見えるが、あれは水蒸気ではなく、小さい水滴の集りである。ところで水蒸気を冷やすとまたもとの水にかえる。水は物質であるから、それが水蒸気になっても、やはり物質と考うべきである。冷やせばまた水という物質にもどるのであるから、途中だけ物質が消えてはおかしな話になる。

手にふれられないもので、やはり物質と考うべきものは、ほかにもたくさんある。たとえば、月や太陽なども、これは物質であると、だれでも考えている。

月というものが天空に存在しているのである。芝居の書割に出てくる月、すなわち幕に後から光で照らして作る月は、物質ではない。しかしほんとうの月はさわっては見られないが、物質である。電波を送ってやると、月から反射してもどってくる。

それでは、物質と物質でないものとを、何で区別するかというと、それはなかなかむつかしい。形や硬さで区別することのできないことは、水蒸気の例で既に説明ずみである。色などはもちろん判定要素にはならない。ある茶碗を赤い光で見れば赤に見えるが、青い光で見ると青く見える。しかし色などはどう変わっても、茶碗には実質というべきものがあって、それは不変なものであると考える方が至当である。

この不変の実質が何であるか、更に進んでは、そういう不変の実質というものがはたして存在するか否かが、大いに問題である。

ところで科学も、けっきょくは人間がつくったものであって、そういう一つの学問をつくり上げるには、なにか基盤になるものが必要である。その一つとして物を取り扱う以上、物には実質があって、その実質は不変であるということにしないと、学問を組立てる足場がない。

茶碗の例についていえば、色はその実質とは関係がない。照らす光によってどうにでもなるからである。形も同様であって、今、ある一つの茶碗をとって、それを粉々に割ったとしても、その粉を全部集めたら茶碗の「実質」は全部そろうわけで、それは割らない前とちがわないと考える方が至当である。割ったために足りなくなったら、その分は破片を見失ったと考うべきである。

ところで茶碗を割らない前と、割ったあと全部の破片をひろい集めたかどうかを判定するには、一つだけ方法がある。それは目方を測ってみることである。もし、目方を測ってみて、以前より少なかったら、破片を見失ったと思うのが普通で、事実、克明に破片を全部ひろい集めてみると、目方は変わらないのである。人間が台秤の上にのって、立っていても、しゃがんでいても、体重六十キログラムの人ならば、同じ六十キログラムである。この六十キロという目方が、その人の「実質」であって、これは姿勢などによっては変わらない値なのである。すべての物質にはこの「実質」があって、これを物理学では、質量といっている。

物質というのは、この質量のあるものであって、要するに目方のあるものなのである。別の言葉でいえば、天秤で目方として感ずるものが、ものの実質であって、そういう実質をもっているものが、物質なのである。空気でも、水蒸気でも適当な装置を使うと、ちゃんと天秤でその目方が測れるので、従って物質である。月や太陽、また地球も、天秤にかかる性質のもので、その前提の下に計算した日蝕や月蝕、その他の天文学的の計算が、実際の値と正確に合うので、月や太陽も物質と考えられるのである。

以上の話を要約すると、物質には色や形や硬さとは無関係に、質量と称すべきものがあって、それは天秤に、目方として現われる。別の表現では、目方のあるものが、物質なのである。これは非常にはっきりした定義であって、例えば、幽霊が物質すなわちものであるか否かは、幽霊に目方があるか否かできまる。目方があれば、実在のものであるが、無ければものではない。

ところで、このものの実質、すなわち質量については、従来から一つの大切な法則があった。それは物質不滅の法則と呼ばれている法則である。物質は、形がどのように変化しても、その実質すなわち質量は不変であるというのが、この法則である。それでほんとうは質量恒存の法則といった方がよいのであるが、耳なれた物質不滅の法則という言葉を使うことにする。実質というからには、これは不変でなくては困るので、もしそれが勝手に変っては、すなわち物が消えたり、また現われたりしては、学問の組立てようがなくなってしまう。茶碗の破片がほんとうに消えたのか、見失ったのか、その判定をする基準がなくなる。

幸いなことに、実際に天秤を使って、精密に測ってみると、物質はその形が変っても、目方は変らないことが証明されている。水を入れて密閉したガラス器を温めると、なにもなくなったように見える。しかし目方を測ってみると、前と全然変らないのである。すなわち、水は水蒸気に変っても、目方として感ずるその実質は不変なのである。

更に水素と酸素とを化合させると、水素とも酸素とも全然別のものの水になる。この場合にも、物質不滅の法則は成り立つので、化合前の水素の目方と酸素の目方との和は、できた水の目方にちょうどひとしい。これも精密な実験の結果たしかめられたことである。すなわち物質不滅の法則は、物質が化学変化をする場合にも適用されるということに、少なくとも最近までは信ぜられていた。事実、現在ある天秤の精度の範囲内では、そのとおりなのである。

魂があるかないかということが、よく問題になるが、これは「ある」という言葉の意味によって、どうにでも返答ができる。人間が生きている以上、魂はあるにちがいないが、それがものとしてあるか否かは別問題である。ものとして存在するなら魂に目方があるはずである。

中世の終り頃、これが問題になって、実験をした人がある。死の直前と直後とに、体重の変化があるか否かを測ってみたのであるが、魂の目方だけ経るというはっきりした結果は出なかった。魂に目方があるとしても、どうせ軽いものにちがいないから、目方をよほど精密に測らないと、その差は出てこない。一方人間の目方は、精密なところでは呼吸をしたり、汗がでたりするので、始終変化している。それで魂の分が、その変化の範囲内だと、測っても出てこないはずである。それで実験はちょっとできないであろうが、現在の科学の範囲内では、魂には目方がない。すなわちものではないと信ぜられている。

以上の話を要約すると、物質というものは、目方のあるもので、その目方は、物質がどのように変化しても変らないということになる。もっとも、変らないというのは、現在の最も精密な天秤で測ってみても、差がでてこないという意味である。天秤の精度が、今の一億倍も増したら、そういう天秤で測れば、状態の変化によって、目方すなわち質量が変化するかもしれない。しかしそういう天秤ができるまで、何もしないで待っているわけにはいかないので、現在までのところでは、ものの目方は不変だとして、その基盤の上に立って、科学をつくり上げてきたわけである。実際に測ってみると、天秤の精度のぎりぎりのところでは、少し差がでてくる。しかしそれは天秤の誤差だとする。別の言葉でいえば、もののいろいろな性質の中で、目方として現われる性質がその実質であって、この実質は、状態が変化しても不変であるとして、この性質をもっているものを、物質というのである。これだけの説明をして、はじめて、科学で使われる物質という言葉の意味が、はっきりしたわけである。

これでわかったことはものの実質とはいうものの、案外に人間的要素がはいっている。実質というからには、何か一定なものでないとこまる。始終変化するものならば、実質ではなく、仮りの姿である。それで状態が変化しても、不変に残る性質が何かないかと探していって、目方につきあたったわけである。物の目方は、現在の天秤の精度の範囲内では、状態が変っても、不変である。それで目方として現われる性質のもとを実質(質量)とみて、そういう質量をもっているものを、物質としたのである。それで、物の質量といっても、全然人間を離れたものではなく、いわば人間が自然の中から掘り出した概念であるから、それが変化してエネルギーになっても、不思議ではない。というのは、エネルギーもまた、人間が自然界の変化する現象の中から掘り出した概念であるからである。

次にはエネルギーについて説明する必要がある。エネルギーについても物質と似たような法則があって、エネルギー不滅の法則といわれている。エネルギーは、物理学の方では、ちゃんとした定義があるが、要するに、自然界に起こっているいろいろな変化の原動力になる能力だと思えばよい。

ふり上げた槌には、杭を打ち込む能力があり、飛んで行く矢には鳥を射落す能力があり、熱には機関車を動かす、従って汽車を引張って走る能力があり、電気や放射線にも、それぞれにある仕事をする能力がある。こういういろいろな原動力のことをエネルギーという。エネルギーには、それで機械的エネルギー、熱エネルギー、電気エネルギーなどいろいろあるが、それらは互いに他に変化することができる。

例えば、水力電気は水の落ちるエネルギーを、電気エネルギーに変えたものである。その電気で、電燈をつけたり、電熱器を働かせたりすることは、電気エネルギーを、光のエネルギーや熱のエネルギーに変化させることである。ところでエネルギーが、このようにいろいろ形を変える時にも、大事な法則があって、それはエネルギーの量は形が変っても不変であるという法則である。このエネルギー不滅の法則と、前にいった物質不滅の法則との二つが、今までの物理学、ひいては科学全般の基盤であって、この基盤の上に、現代の科学がきずかれてきたのである。

もっともエネルギー不滅の法則も、絶対的の法則ではない。物質不滅の法則が、現在の天秤の精度の範囲内で確められているように、エネルギー不滅の法則も、もちろん実験の精度の範囲内での話である。ところで、エネルギーは測定がむつかしいので、エネルギーを測る実験は、物質の量すなわち目方を測る実験よりも、精度がひどく落ちる。目方の方は、一千万分の一くらいまでの精度で測れるが、エネルギーの方は、千分の一くらいの精度を得ることすら難しい。前に述べたように、熱もエネルギーの一つであるが、これなどは精密に測っても、千分の一くらいの精度である。それで機械的エネルギーが熱エネルギーに変っても、エネルギーの量は不変である、といわれているが、実験的に精密にたしかめられているわけではない。千分の一くらいのところでは、変化があるのであるが、それは実験の誤差だとする。

それで物質不滅の法則も、エネルギー不滅の法則も、ともに公理と見ることもできる。そういう公理をたてて、それに基いて、学問を組立てたのが、今日の現代の科学であった。公理とはいっても、人間の頭の中で、勝手につくったものではなく、いろいろな実験の結果から推定したものである。そしてそれに基いた科学が、必要とする精度の範囲内で、自然現象をよく説明し、また役にもたつので、その公理は正しいものとされてきたわけである。

ところで物質の方は一応よいとして、エネルギーの方には、一つの問題がある。それはいわゆる化学変化で発生するエネルギーである。たとえば、水素と酸素とをまぜて火をつけると、爆発を起こして水になる。はじめは、水素も酸素も、透明な気体で、別にエネルギーなどもっていないように見える。できた水も、ただの水であって、飲んでもちっともかまわない。ただの水であるから、これも別にエネルギーなどもっていないと思われる。ところが爆発というのは、非常な高熱と光とを出す現象であるから、水素と酸素とが化合する時に、多量の熱や光のエネルギーが出たわけである。そういうエネルギーが「無から有が出てきた」形で発生したものならば、これはエネルギー不滅の法則に抵触する。不滅というのは、無くならないというだけではなく、発生しないことも意味している。本当は恒存といった方がよいので、形がかわるだけで、量は変らないということである。水素と酸素などというと、何か学問的なことのように聞えるが、薪を燃やす場合でも同じことである。薪を燃やすと、熱エネルギーが出てくるが、このエネルギーは、どこから出てきたのであるかという問題がある。

これは今までは簡単にかたづけられてきていたので、こういう物質は、内部にそれだけのエネルギーをかくして持っていたとするのである。それを「内部エネルギー」といっている。水素も、酸素も、また水も、それぞれ内部エネルギーをもっている。しかし水素と酸素とのもっている内部エネルギーの和は、水の内部エネルギーよりも大きい。それで化合して水となったときに、その差だけのエネルギーが、爆発のエネルギーとなって現われると説明してきた。これだとエネルギー不滅の法則に合う。というよりも、エネルギー不滅の法則を先に決めて、それに合うように、内部エネルギーの方を決めたのである。

エネルギーが出てきた時は、それだけのエネルギーが内部エネルギーとして、はじめからその物質の中にあったとする。一方内部エネルギーというものは、だれも見ることのできないものである。それでこの説明は、エネルギー不滅の法則をまもるための、一種のごまかしのようにもとれる。しかしまったくのごまかしではない。水素や酸素だけでなく、いろいろな物質間に、反応を起させて、その時出るエネルギー量を測れば、各〻の物質の内部エネルギーを決めることができる。その値から、他の化学変化の時に出るエネルギーを計算してみると、その化学変化で実際に出るエネルギーの量と一致する。そういう意味では、内部エネルギーが存在していて、それにもエネルギー不滅の法則が適用されると見てよい。しかしこれは、ほんとうのところは、辻褄があうというだけで、内部エネルギーの本態が何であるか、という問題にはふれていない説明である。もっとも本態など知らなくても、役にたてばよいので、従来は、こういう考え方で、化学、すなわち化学反応を主として取り扱う学問ができていたのである。

ところが、近年の物理学の華々しい進歩によって、とんでもないことがみつかった。それははじめは、理論的に出されたので、物質とエネルギーとは、相互に転換され得るものだというのである。すなわち、物質は不滅ではなくて、時には消えて無くなることもあるが、その時にはエネルギーが出現してくる。逆にエネルギーが物質に変ることもある。相互に転換されるというのは、物質とエネルギーとがかわりあう時に、その比率が一定だということも含んでいる。ほんとうは物質といってはいけないので、物質の実質、すなわち質量のことなのである。物質は何でもよいので、その質量一グラムは9×1020エルグ(九の下に0が二十個つく数字、エルグはエネルギーの単位)のエネルギーに相当する。これは一兆の十億倍というとんでもない大きい数値である。一グラムといえば、きわめて僅かな目方であるが、それが消えると、とんでもなく大きいエネルギーが出現することになる。原子力というのは、このエネルギーなのであって、原子爆弾が非常に強力であることも、当然の話である。

物質がエネルギーにかわり得るとすると、今までの物質不滅の法則は、もはや適用されなくなる。前に述べた水素と酸素とが化合する場合についていえば、できた水の目方は、もとの、水素と酸素の目方の和にひとしい。従ってものの実質は不変である。というのが、従来の考え方であった。ところがこの化合の時に、爆発という形で、大きいエネルギーが出てくる。このエネルギーは、物質がその分だけ減って、それがエネルギーとして現われたとすると、新しい考えに合う。そうすれば、内部エネルギーというような今まで曖昧だったものも、その本態が解明される。しかし質量はそれだけ減るので、物質不滅の法則はすてなければならない。

どっちが正しいか、実験してみたらよいと思われるかもしれないが、それは従来の方法ではできない。物質とエネルギーとの比率が、あまりにも大きい数なので、爆発の時に出てくるエネルギーくらいの分は、物質の目方の減少としては、非常に小さく、どんな精密な天秤をもってきても、測定ができないのである。

ところが、原子物理学が非常に進歩したために、この頃では、分子や原子一つ一つの行動がわかるようになった。これは、間接にいえば、天秤の精度が、今までのものより、一億倍も、一兆倍も増したことになる。それで一グラムの物質が、9×1020エルグのエネルギーに転換されることが実証され、それで現実に、原子爆弾や、原子力発電ができることになった。

それで厳密にいえば、物質不滅の法則も、エネルギー不滅の法則も、ともに適用されないことになったが、「不滅の法則」そのものは、依然として残っている。一グラムの物質が消えると、9×1020エルグのエネルギーが出現し、その逆も成り立つのであるから、「物質+エネルギー」の量は、やはり不滅だということになる。

ここに一つの大切な問題がある。測定にかかるほどの物質が消え、巨大なエネルギーが出現するというような激しい現象について、ほんとうは、消えた物質の量や、出てきた巨大なエネルギーの量を、精密に測定することはできない。むしろこれは理論的に出した比率を仮定して、現象を説明しているわけである。

けっきょく、何か不滅のもの、あるいは一定のものを求めて、それをものの本態としないことには、学問の組立てようがない。それで、物質とエネルギーの和を不変とみる。すなわち、それを実態とみることにしたのである。それもまちがっているかもしれないが、それで原子力の利用ができれば、十分満足すべきなのである。

現在の科学は、自然界の実態を、物質とエネルギーの和であるとする。そういう渾然たるものが実態であって、それが、ある場合には、物質(もの)としてあらわれ、ある場合には、エネルギー(ちから)としてあらわれる。普通の変化、たとえば薪が燃えたり、水が凍ったりする場合には、エネルギーに転換される物質の量は、あまりにも微量なために、質量だけで不変の法則が成立するように見える。しかし原子がこわされる時のような激しい変化では、物質の一部が消えて、エネルギーに変わることが、測定し得るくらいの量になる。しかしこの場合にも、「物質+エネルギー」の量は、不変である。

こういうふうに考えると、原子力だけが、特別な力でないことが、了解されるであろう。目方のあるもの、すなわち物質と、目方にはかからないちから、すなわちエネルギーとは、本来同じものである。正確にいえば、その和が自然界の実態である、という発見は、人類の知識の一大進歩である。

こういうことが、実証的に示されたのは、近年の原子物理学の大功績である。しかしこういう考え方は、以前にもあったので、前世紀の末頃活躍した、ドイツの生物学者兼哲学者のヘッケルは、その主著『宇宙の謎』に於て、さかんに彼の一元論を説いている。彼はまず生物と無生物の一元論を論じ、更に進んでは、物質不滅の法則と、エネルギー不滅の法則とは、融合すべきもので、この両者の融合したものが不滅であるとした。それが宇宙を全体としてまとめた、彼の一元論である。

仏教の方にも物心一如という言葉は、ずっと昔からあるそうである。この方は、ヘッケルほどはっきりした主張ではないが、何か不変なものに実態をもとめ、その中に物(もの)と心(ものではないもの)とを含めているところに、ヘッケルの思想と通じたところがある。ヘッケルの説はいわゆる哲学の領域のものであったが、最近の科学と、不思議にも一致している。科学と哲学とでは、現象の見方が大分ちがっているが、何か不変のものを求めようとする人間のものの考え方には、互いに一脈通ずるところがある。