メイカーズ 第一部, コリイ・ドクトロウ

第一章


最近ではスザンヌ・チャーチがあの紺色のブレザーに面倒な思いをさせられることもめったになくなっていた。ドットコムバブルの頃には彼女もビジネスジャーナリストらしい服装をしていた……ブレザー、ブルーの綿シャツ、カーキのスラックスにローファー……お決まりの格好をして人でごった返す野心に満ちた新規株式公開や合併の記者会見場に毎日のように出かけていった。だが最近では家で働くことがほとんどでサンノゼ・マーキュリー・ニューズのオフィスにも週に一度、顔を出す程度だ。その時でもコンピューターをシャットダウンしたらそのままヨガに行けるようにゆったりとした着心地のいい軽いセーターにコットンパンツという格好だった。

今日の彼女は紺色のブレザーを着こみ、周りにはたくさんの人間がいた。ニューヨーク・タイムズ・シリコンバレーオフィスのリーディ、ウォールストリートジャーナルのトリビー、ねずみのような出っ歯をしたいけ好かない思い上がりのイギリス三流技術雑誌のゴシップコラムニスト、他にも大勢の人間がいた。懐かしの里帰りというわけだ。紺色のブレザーをドライクリーニングのバッグから引っ張り出したのはナスダックが五千ポイントの暴落を記録した日以来だった。

今日の主役はコダック、デュラセルの株主代表にして新CEOのランドン・ケトルウェル……まるで外国の私立学校の名前みたいだと彼女は常々思っていた……だった。いけ好かない英国紳士殿は既に彼らをコダセルと呼んでいた。ケトルウェルが企業を買収したのだ。そのやり方は風変わりで抜け目なく、誰に恥じることもないものではあったがひどく入り組んでいた。

「なんだってこんなことをやらかしたんだ、ランドン?」ケトルウェルがネクタイに取り付けられたマイク越しに自問した。居並ぶネクタイにスーツのコダセル新役員はまるで衣装を着て芝居するサーファーのようだ。「なんだって二頭の恐竜を買って一つにしようだなんて考えたんだ? 彼らが仲良くやれば今よりも絶滅の危険が少ない新世代の恐竜を生み出せるとでも思ったのか?」

頭を振ると彼はステージを歩いて行った。手にしたリモコンでパワーポイントを操作すると空っぽの巣を寂しく見つめる哀れなブロントサウルスのキャラクターが描かれたスライドが巨大なスクリーンに映しだされた。「おそらくそれは無理でしょう。しかし私たちがやってきたことを応用するいいチャンスだと思ったのです。そしてこいつはあなた方も気に入るはずだ。お見せしましょう」

「ずっとマンガで説明してくれるよう願いましょう」出っ歯のねずみが彼女の横できしるようにささやいた。その息の臭いに彼女はまるで糞でうがいさせられ気分になった。彼女に対する下心を隠そうともせず半端な皮肉を耳元でささやいて男らしさをアピールしたいらしい。「彼らにはお似合いだ」

彼女は席に座ったまま体をひねると当てつけるように自分のコンピューターの画面に顔を近づけた。画面には薄い偏光フィルムが張られ肩越しに覗き見ることができないようになっている。シリコンバレーで中途半端に魅力を持った女性であることは予想していたよりもずっと面倒なことだった。デトロイトでラストベルト地域の詐欺事件を扱っていた頃と同じだ。それもまだデトロイトに自動車産業が存在していた頃の話だが。

最悪なことにこの英国紳士殿のルポタージュはシリコンバレーの重役連中の道徳観の欠如について論じる気まんまんで(それは彼女の得意とするところでもあった。そいつをねたにすると間違いなく同僚の関心を引くことができるのだ)、その点についてはケトルウェルは才能十分だった。道徳について語る取締役を見たらこの出っ歯のねずみは薄汚い幼児殺しを見た時より怒り狂うだろう。この男は集中砲火を引き起こすことにかけては恐るべき才能を持っていた。

「私も馬鹿ではありません。みなさん」ケトルウェルが言うと出っ歯のねずみ氏が芝居がかった笑い声を上げた。「こともあろうに市場がこの二つの企業に付けた値はその所有金額よりも低いのです。この二つの企業は二百億ドルの預金を持っていますが時価総額は百六十億ドルです。株式を買い取ってこの企業の経営権を得るだけで四十億ドルを手にすることができます。私たちは企業を清算してポケットに金を突っ込んで引退することもできるわけです」

スザンヌはメモを取った。話の内容に目新しいことは無かったがケトルウェルの言い回しはなかなか良かったし、録音レコーダーよりも取材メモを好む記者に敬意を表すように口調もゆったりしたものだった。「しかしそんなことをするつもりはありません」彼はステージの縁に腰を下ろし、自分のネクタイを弄ぶようにしながら鋭くジャーナリストとアナリストの集団を見つめた。「コダセルにはもっと大きな可能性があります」今朝、彼はメールに目を通して出っ歯のねずみが付けた新しいあだ名を目にしたにちがいない。「コダセルには信用があります。インフラを持っています。人材、プラント、サプライヤーネットワーク、物流網。この二つの企業はたくさんの有用な設備と何物にも代えがたい評判を持っています。

無いのは製品なのです。このインフラ全てを十分に稼働させ、整備していくには電池やフィルム……その他、既存の製品……ではあまりに需要が足りないのです。この二つの企業はドットコムバブルとその崩壊の間、眠り続けていました。そんなものとは無縁に歩んできたのです。このビジネスには五十年代から全く変わっていない部分すらある。

私たちだけではありません。テクノロジーはあらゆる部門のビジネスに戦いを挑み、殺し続けてきた。くそったれなIBMは今やコンピューター製造を行なってはいません! 旅行代理店などという概念は今では想像もつかないほど奇妙なものに変わってしまった! それにレコード会社です。ああ、正気を失い自滅へとひた走る哀れで愚かなレコード会社。これ以上、私に言わせないでください。

資本主義は自らを食らい続けています。マーケットメカニズムはいったん動き始めれば全てのものを商品化し、陳腐化させます。稼ぐ手段が無いというわけではありませんがたった一つの単一的な製品ラインでは金は得られないでしょう。『ゼネラル・エレクトリック』や『ゼネラル・ミルズ』、『ゼネラル・モーターズ』といった名前を持つ企業の時代は終わったのです。テーブルの上の金はオキアミのようなものです。聡明で創造的な人々によって発見され、開拓される十億もの小さな起業チャンスです。

私たちは二十一世紀における資本主義の問題空間を総当りで解決していくつもりです。ビジネスプランは単純です。見つけられる中で最も聡明な人々を雇い、複数の小さなチームを編成します。財源とコミュニケーションインフラ……全て電池とフィルムの時代の遺物です……を手に彼らはそれぞれの領域に赴き、私たちは資本を投下することで彼らが生活し研究する場所、それにやるべき仕事を発見することを支援します。ビジネスの開始です。私たちの事業は統合することではありません。これは似た考えを持つ人々のネットワークなのです。私たちの金庫になんらかの見返りをもたらすという条件の元で自律的なチームによる協働や彼らが行いたいことを何でも支援するということが私たちの事業なのです。商業的なチャンスのある領域を探査し開拓するのです。チャンスの鉱脈採掘の戦術を洗練させ続け、空腹を満たしていきます。この企業はもはや企業ではないのです。この企業はネットワークであり、助走路であり、感覚器官なのです」

スザンヌの指がキーボードの上を走る。あの英国紳士殿は意地悪そうに含み笑いをしていた。「結構な話だ。十万人を解雇したばかりにしてはな」彼が言った。スザンヌは彼のことを頭から追いだそうとした。そう、確かにケトルウェルは会社の価値ある人々を解雇していた。しかし会社自体は救っているのだ。そしてその解雇される全従業員にしても目論見書によれば寛大な対応がされるはずだった。それにこの新しいスキームによって利益が上がれば自社株購入の優先権を持つ者たちも自分の年金が増額されることに気がつくはずだ。もしうまくいけばの話だが。

「ケトルウェルさん?」出っ歯のねずみが後ろ脚で立ち上がった。

「なんでしょう、フレディ?」フレディが出っ歯のねずみに与えられた名前だったがスザンヌはどうしてもその名前を数分を超えて憶えておくことができなかった。しかしケトルウェルはシリコンバレーの全てのビジネスジャーナリストの名前を憶えている。それがCEOというものなのだ。

「いったいどこからその新しい従業員を連れてくるんです? それから商業活動分野を開拓するためには彼らにどういった起業的資質が求められるのでしょうか?」

「私たちには求人の必要はありません。フレディ。彼らは自分で私たちの扉を叩きます。ここは熱狂的な起業家の国であり、何世紀もの間、ゲームセンターからドライブスルーまで様々なビジネスを発明してきた人々の国なのです」フレディは疑うように顔をしかめて、歯並びの悪い口を開けると灰色の墓石のような歯をつき出した。「フレディ、例えばグラミン銀行のことを聞いたことがあるでしょう?」

フレディがゆっくりと頷いた。「インドの話でしたね。たしか?」

「バングラデシュです。銀行員は徒歩とバスで村々を訪ね、発展を目論んで携帯電話やヤギ、機織り機を買うための少額の現金を必要としている小さな協働組合を見つけ出します。銀行員は融資をおこない、事業のためのアドバイスをします。その債権の回収率は通常の金融機関の五十倍も高い。彼らは貸付契約書を交わすことさえしません。起業家……真に勤勉な起業家……は握手によって信用を結ぶのです」

「あなたの工場をくびになったアメリカ人がヤギと携帯電話を買うのを手助けするつもりですか?」

「私たちがやろうとしていることは彼らに融資を行い、ビジネスを開始するための環境を整えることです。情報や材質科学、商用ソフトウェアやハードウェアデザイン、創造性を駆使して私たちの周囲の空間から利益を引き出すようなビジネスです。ほら!」ジャケットのポケットから何か小さなものを取り出すと彼はそれをフレディに向かって投げた。フレディが取り損なったそれはスザンヌのキーボードの上に落ちた。

彼女はそれを拾い上げた。キーチェーンの付いたレーザーポインターかおもちゃのライトセーバーのように見える。

「スイッチを入れてみてください、スザンヌ。さあ、光をつけて。おっとあちらの壁に向かってやってください」ケトルウェルはホテルのフロアを二つに区切っている布張りの可動壁を指した。

スザンヌは先端をひねると壁に向けた。緑色のレーザーで描かれた鮮明な四角形が壁に映し出された。

「さあ、見てください」ケトルウェルが言う。

さあ、見てください

離れた壁の上の四角形の中央に文字になって言葉が映し出された。

「テスト。一、二、三」ケトルウェルが言う。

テスト。一、二、三

「Donde esta el bano?」

トイレはどこですか

「これはなんですか?」スザンヌは言った。彼女の手がわずかに揺れ、それに合わせて遠くの文字が踊った。

これはなんですか

「ジョージア州アセンズにいる五人の失業したエンジニアによって設計、作成された新しい作品です。彼らは小さなLinuxコンピューターと話者を特定しない連続音声認識ソフトウェア、十二の言語を相互に翻訳できるフリーソフトウェアの翻訳エンジン、レーザーポインターの先に文字を表示できる非常に高解像度のLCDを組み合わせました。

スイッチを入れて壁に向けてから話す。話した言葉は全て壁に映し出されます。選択した言語で。どの言語で話すかは関係ありません」

その間にもケトルウェルの言葉が離れた壁の上を黒い大文字になって流れていった。文字は鮮明なレーザーで縁取られている。

「新しい発明は何もありません。作成に必要となる要素技術は全てそこらに転がっているものです。組み合わせなのです。ガレージにいる若い女性、営業担当は彼女の兄弟、夫はベオグラードで製造ラインを監視している。彼らは運転資金として二、三千ドルを必要としています。それから適したマーケットを見つけ出すまでの間の生活サポートだ。

彼らは今週、二万ドルをコダセルから受け取りました。半分は融資、もう半分は資本としてです。そして私たちは彼らを従業員名簿に登録します。福利厚生もある。彼らは部分的にはフリーランスで、部分的には従業員、ビジネス全般に渡る支援とアドバイスを得たチームのメンバーなのです。

一度なら簡単なことです。私たちは今年中に同じ事を一万回行う予定です。才能を発掘するためのスカウトを送り込みます。レコード会社がかつてアーティストや製作者とそうしていたように。彼らは私たちのためにバンドと契約を結び、レコードをカットし、ビジネスの前線での事業開始を手助けします。

つまり、フレディ、あなたの質問への回答はノーです。私たちは携帯電話やヤギを買うための融資はしません」

ケトルウェルは満面の笑みを浮かべた。スザンヌはレーザーポインターのスイッチを切るとステージに投げて返そうとしたがケトルウェルは彼女に手を振ってみせた。

「差し上げます」彼が言った。彼の言葉が聞こえるのにそれが離れた壁に文字として流れないことが突然、奇妙なことに思えた。彼女はレーザーポインターをポケットにしまうとこいつは実にクールな使い捨てテクノロジーだと思った。スタートアップのよそよそしいサプライヤー、ハイエンドなテクノロジーカンファレンスで配られる会社のロゴ入りバッグ、そして人で賑わう電気屋の通路に吊るされた六個一組のプラスチックパッケージまでこの手の試供品はおなじみのものだ。

テクノロジーカンファレンスに持っていったとしてこの字幕翻訳の出番はあるだろうかと彼女は考えたがうまく想像できなかった。カンファレンスではだめだ。何か別のもの。子供のおもちゃ? スターバックスを叩き壊す反グローバリストがWTOでの暴動前に戦略をねるためのツール? 彼女はポケットを軽く叩いた。

横でフレディがまるでやかんのように湯気を立てながらため息をつくとブツブツと話し始めた。「馬鹿げてる」彼がつぶやく。「一万のチームを雇って全従業員と入れ替えるだと。つまり今やろうとしていることは従業員をお払い箱にしようってことだと暗に認めているわけじゃないか。でたらめもいいところだ。根拠のない熱狂は横暴に変わる」

もう一度あの装置のスイッチを入れてフレディの不愉快な言葉を天井に映しだしてやろうかという意地の悪い衝動をスザンヌは感じ、そのアイデアに顔がほころんだ。その衝動を抑えて今日のことをどう記事にまとめようかと考えながら彼女はメモを取り続けた。

ケトルウェルが数枚のチャートを披露したあと、スーツを着たサーファーの一人が資金について話すために前に進み出ると歩き回りながら財務面について説明した。彼女は既にそれに目を通してそれがおとぎ話に多少の信用を与える程度のものだとわかっていた。そこで自然と彼女の思考は別の方向へと漂っていった。

催事場の扉が蹴り開けられたとき、彼女の思考は数百マイルの彼方だった。かつてのコダックとデュラセルの労働組合が怒りの言葉に満ちたビラを雪のように撒き散らしながら突入してきたのだ。彼らは巨大なドラムやラッパを手にし、タンバリンを打ち鳴らしていた。ホテルの警備員がぱらぱらと前の方に駆けていって抗議する人々を取り押さえようとしていた。彼女の同業者たちはすぐさまそれを取り囲み、彼女はデモ隊の方に押し出された。フレディはニヤニヤと笑いながら何かをケトルウェルに叫んでいたがそれも騒音にかき消される。ジャーナリスト連中はここぞとばかりに写真を撮っていた。

スザンヌはコンピューターを閉じると宙を舞うビラの一枚をつかんだ。私たちはどうなる? ビラはそう始まり、コダックとデュラセルで二十年間、三十年間、あるいは四十年間も働き続けた労働者のことを書いていた。ケトルウェルがこれまで話した計画ではあからさまに無視されていた人々だ。

彼女はレーザーポインターの電源を入れてそれを壁に向けた。身を屈めて口を近くにまで近づけてから彼女は言った。「既存の従業員に対してはどのような計画をお持ちですか。ケトルウェルさん?」

既存の従業員に対してはどのような計画をお持ちですか。ケトルウェルさん?

彼女がその質問を何度か繰り返すと布張りの壁にまるで証券取引場の株価表示が流れるように文字が何度も映しだされた。部屋にいる人々の注意が次第に光る文字に集まっていく。抗議する人々はそれを見て笑い出すとめいめいそれを大声で読み上げ、次第にその声は合唱に変わっていった。既存の従業員に対しては……大きなドラムの鳴る音……どのような計画をお持ちですか……大きなドラムの鳴る音……ケトルウェル……大きなドラムの鳴る音……さん?

スザンヌは自分の頬が赤くなるのを感じた。ケトルウェルはほほえみながら彼女を見つめている。彼女は彼に好感を抱いていたがそれはそれ、これはこれだ。この誰の目にも明らかな疑問を口にしないまま彼の熱弁が終わるのを許そうとしたことを彼女は少し恥ずかしく思った。なんというかごまかしをおこなった気がしたのだ。ともかく彼女は覚悟を決めた。

ステージの上ではスーツを着たサーファーボーイたちがネクタイに付けたマイクを指で押さえて笑いながら話し合っていた。ようやくケトルウェルが登場すると彼は自分のレーザーポインターを掲げてスザンヌの言葉の横にもう一つの光の四角形を描いた。

「尋ねてくれてうれしいです。スザンヌ」かろうじて彼の声が聞こえた。

尋ねてくれてうれしいです。スザンヌ

ジャーナリスト連中がくすくすと笑う。合唱していた人々さえ少し笑顔になった。騒音がわずかにおさまる。

「お答えしましょう。この驚異の時代に生きることにも否定的な側面が存在します。私たちはあまりにすばやく行動しすぎ、そのために私たちの制度が世界の変化についてくるスピードを追い越してしまっているのです」

フレディが彼女の肩越しに身を屈め、くさい息を彼女の耳に吹きかける。「翻訳。お前ら全員、くそったれだ」

翻訳。お前ら全員、くそったれだ

それが壁に映し出されるのと同時にスザンヌは悲鳴を上げると、とっさにポインタを振り回した。文字はまず天井に、それから反対の壁へと移動し、最後に小さく彼女のコンピューターの表面に映しだされた。彼女はスイッチをひねって切った。

フレディにも多少の良識はあったようで少しばかりばつの悪そうな様子でこそこそと並んだ席の端の方に逃げ出すと小さい尻を落ち着けた。ステージの上のケトルウェルはなんとか映しだされた罵声を無視し、抗議する人々の嘲りの声が聞こえないふりをしようとしていた。といっても実際、あまりにみんなが大声で叫ぶのでもはや言葉を聞き取ることもできなかっただろうが。彼は話を続け、その言葉が遠くの壁の上を流れていった。

コダックとデュラセルがフィルムと電池を作り続けることのできる世界は存在しません。

この二つの企業は銀行に現金をもってはいますがそれも毎日のように流れ出していっているのです。

誰一人として買いたいと思う者がいないものを私たちは作り続けています。

この計画には消えてなくなる事業に従事している従業員に対する破格の待遇での退職案も含まれています。

……スザンヌはこのひねくれた迂遠なものの言い方に驚くしかなかった。要は「彼らは解雇する」のCEO流の消極的な言い換えだ。メモを打ち込みながら同時に壁の文字を追うことは彼女には到底できなかった。彼女は小さなデジカメを取り出すとそれをいじってビデオモードにしてから壁の文字の撮影を始めた。

しかしこの人員整理を成功させるには私たちはビジネスを続ける必要があるのです。

出資者、株主、そして従業員といった人々への責任を果たすためにも利益をあげる必要があります。

もし破産すれば一銭の退職金も払うことができなくなるのです。

私たちは今年、五千人の新たな従業員を雇用します。ここにいる人々はその対象外だなどと言うつもりは全くありません。

現在の従業員に私たちのスカウトは高い評価を与えるでしょう。

起業家精神は深く刻まれたアメリカの習わしであり、この国の労働者はみんな、起業をおこなう力を持っているのです。

現在の従業員の中から多くの新しい採用者が見つかることを私は確信しています。

これだけは従業員のみなさんに言っておきたい。もしすばらしいアイデアを自ら実行に移すという行動に対してストライキをおこなうことを夢見ているのなら、そんなことは無意味です。今こそ勝負のときなのです。そして私たちはそれを手助けする人間なのです。

罵声とわめき声、周囲の騒音にもかかわらずポインターに向かって話し続ける大胆さにスザンヌは驚きを隠せなかった。

「さあ、抗議団体に取られる前にベーグルを取ってこよう」フレディが彼女のうでを引っ張りながら言った……どうやらそれは彼なりにかっこうをつけた口説き文句らしい。彼女は肘を鞭のように振って厳然と彼を払いのけた。

フレディはしばらくそこに立ち尽くしたがしばらくするとどこかに行ってしまった。彼女はケトルウェルがさらに何か言うのかどうか確認しようと待っていたが彼はポインターのスイッチを切ると肩をすくめ、野次を飛ばす抗議者とアナリスト、それにジャーナリストたちに手を振って他のスーツを着たサーファーたちとともにステージから姿を消した。

彼女は抗議する人たちの何人かから詳しくコメントを取った。いわくコダックとデュラセルのために働くことが彼らの人生の全てだった。全てを会社に捧げた。事業を続けるために前の経営者の下で過去十年間に五回の自発的な賃金切り下げをおこなったというのに今では肥え太ったクソ野郎のように扱われて首切りの憂き目にあっている。子供が大勢いる。これこれのローンがある。

デトロイトにいた時にもさんざん聞いた話だ。これからの人生でも彼女はそういう話のさまざまなバリエーションのコピーをうんざりするほど記録し続けることになるのだろう。成長と起業家精神……失敗した企業は成功する企業の踏み台にしか過ぎない。全員が勝者になることはできないのだ。自ら退いてガレージに戻り、発明をはじめる時だ。そこには待っている世界中の人々がいるのだ!

三人の子供を持つ母親。聡明な娘の通う大学の学費を抱えた父親は「一時的な」財務の引き締めの間、家計のやりくりに追われていた。ダウン症の子供を抱える者や三度の背骨の手術をおして納期に間に合わせるために働く者もいた。

三十分前には彼女はあの昔ながらのシリコンバレーの楽観主義に満たされていた。自分の周囲でよりよい世界が産まれようとしているという感覚だ。今、彼女は年老いたラストベルト地帯の臆病風に吹かれていた頃に連れ戻され、新時代ではなく絶え間ない終焉の目撃者となったように感じていた。確固とした信頼できる世界の全てをなぎ倒し、繰り返しおこなわれる破壊の目撃者だ。

ラップトップをしまうと彼女は駐車場に向かった。幹線道路を渡るとき、温かいカリフォルニアの日差しを受けて螺旋を描くグレートアメリカファンパークのジェットコースターが見えた。

国道一〇一号線の先にあるこの小さな技術屋の村は表面上はユートピアに見える。ホームレスたちはみんな、何マイルか北のサンフランシスコの路上にいる。そこになら物乞いの相手をしてくれる歩行者がいるし、街角ではさっぱりとした顔のにこやかなコーク売りのワゴンに積まれた商品の代わりにクラックが売られているのだ。道を進んでいくと巨大なショッピングモールやIT企業専門のビルディング、ところどころに遊園地が見えた。パロアルトは学園都市型テーマパークだ。もし道を間違えてまるで掘っ建て小屋のような建物ばかりのイーストパロアルトのスラムに入りこめばすぐにそれとわかった。

やれやれ。彼女は憂鬱になった。今日はもうオフィスに行きたくなかった。こんな気分になるのは珍しい。彼女は家に帰ってクローゼットにブレザーをしまい込むとヨガ用の服に着替え、おいしいコーヒーを飲みながらコラム記事を書いた。

一時間もしないうちコラムは書きあがった。コピーを編集者にメールで送ると彼女はナパの赤(ミシガン地元のビンテージワインでどこかいま一歩のところがある)をグラスに注ぎ、ベランダに出ると州間ハイウェイ二八〇号線のはずれに広がるサン・マテオ近くの大きな貯水池を見渡した。

ドットコムバブルの初めの頃にはこの家の価格もたいした物ではなかったが不動産バブルの再燃によって今ではかなりの価格になり、しかもその値はまだ上昇を続けていた。水漏れのする浴槽がついた立て付けの悪いこの小さな掘っ建て小屋を売れば引退に十分な現金を用意できるかもしれない。もし残りの人生をスリランカかネブラスカで過ごすのでよければの話だが。

「気弱になるなんてあなたらしくないじゃない」彼女は自分に言った。「望んだ通りの生活をして見たことも無いような世界の奇妙なお祭りの一番いい時に居合わせてる。それにランドン・ケトルウェルに名前を知られているのよ」

ワインを飲み終えると彼女はコンピューターを立ち上げた。太陽は丘の向こうに沈み、薄暗くなった中でスクリーンの上の文字がしっかり読み取れる。ウェブは面白そうなことで満ちあふれていた。メールボックスは彼女の読者から送られてきた挑戦的なコメントで溢れかえっていた。編集者は既に彼女のコラムをアップロードしていたのだ。

コンピューターを閉じてベッドに向かう前にもう一度、彼女はメールボックスを開いてみた。

From: kettlewell-l@skunkworks.kodacell.com
To: schurch@sjmercury.com
Subject: 従軍記者はいかが?

今日は率直な対応をありがとう。スザンヌ。私たちが現在、直面している問題は恐ろしく難しいものだ。ある人間にとって好ましい出来事が他の誰かにとっては全くありがたくないものであるとしたらどうすべきか? この新しいモデルで私たちがそれに答えられればと思っている。

君は実にいい仕事をしている。お嬢さん。そこで提案なんだが二、三ヶ月の間、私たちの小さなチームの一つに参加して彼らの活動を記録することに興味はないかな。私たちは今まさに歴史の一ページを作り上げていると感じている。そしてそれを記録してくれる者を必要としているんだ。

この件について君がマーキュリー・ニューズの了解を取れるかどうかはわからない。わが社のPRスタッフとあなたの編集者を通してことを進めた方が好ましいということはよくわかっている。しかし私は毎晩、これくらいの時間になるとこの計画について考えることに没頭してしまって、すぐに何か行動を起こしたくなるんだ。誰かに日程の調整を頼んだり、結果についての事前調査を頼むなんてことは二の次になってしまう。

うまくことを運べたら私たちと仕事をしてみないか? 条件は完全な取材権、監視なしでどうだろう。よい返事を期待している。

あなたの友人より
ケトルベリー

彼女はスクリーンを見つめた。まるで一つのアート作品のようだ。メールの返信先は「kettlewell-l@skunkworks.kodacell.com」だった……kodacell.comドメインが存在し、メールの受け取り先になっている。前日に登録されたばかりのものであることは間違いない。プレスカンファレンス前日の深夜にメールをチェックするケトルウェル。フレディのコラムに気づいてすぐさまkodacell.comを登録し、skunkworks.kodacell.comに応答するメールサーバーを用意するためにシステム管理者をたたき起こす彼が目に浮かぶようだった。彼女が聞いた話ではロッキード・マーティン社は彼らの商標である R&D部門の総称「スカンクワークス」を使った者は誰であれ訴えるくらい好戦的だったはずだ。つまりケトルウェルは法務のチェックにかけることさえせずに速やかにこのプロジェクトを行動に移したのだ。賭けてもいいが既に彼はこのアドレスが印刷された新しい名刺を発注しているだろうと彼女は思った。

彼女にはある知り合いがいた。雑誌の編集者をやっている男で、表紙になるくらいの特ダネについては自分でも記事を書いていた。彼だったら狂喜して出版契約に飛びつくだろう。五十万ドルの出版契約だ。ケトルウェルが正しければコダセルでの一年目の内情について独占取材した本は簡単に知名度をあげるいい手段だ。少年たちの言い方にならえば、超イケてる、ことになるだろう。

ケトルベリー! まるで学生が仲間内で使うような馬鹿げたニックネームだったが彼女の顔は自然とほころんだ。彼は決して真面目ぶらない。あるいは本当は真面目なのかもしれないがともかく気取ったまぬけでは無かった。彼は真剣に世界を変えようと考えていて、それ以外のことについてはまるで興味が無いのだ。この申し出を受けるとすれば客観的なレポーターでいるのには努力が必要だろう。

すぐには決断できそうになかった。眠たくてたまらなかったし、マーキュリー・ニューズとも話し合わなければならない。もし彼女に付き合っている相手がいればその相手にも相談しなければならないところだが最近の彼女の生活を鑑みればその問題については考える必要はなかった。

免税品の高価なフランス製ナイトクリームを塗り、歯を磨くと彼女はネグリジェに着替えて戸締りをよく確かめ、いつも寝る前にやっていることを片付けていった。それからシーツを敷いて枕をその上に放り投げて見つめた。

きびすを返してコンピューターのところまで戻ると彼女はスペースキーを叩いてそいつをスリープモードから立ち上げた。

From: schurch@sjmercury.com
To: kettlewell-l@skunkworks.kodacell.com
Subject: 従軍記者はいかが?

ケトルベリー。あきれたニックネームですこと。自分のことをケトルベリーと呼ぶような成人男性の知り合いは私には思い当たらないのですけど。

自分のことをケトルベリーと呼ぶのは止めていただけませんか。もしそうしてくださるのなら取引に応じましょう。

スザンヌ

彼女の読者たちが電子メールを使い始めたころから新聞は署名欄に彼女のメールアドレスを一緒に載せるようになった。その結果、彼女の読者は数えきれないくらいのメールを彼女によこすようになった。一部はすばらしいものだったり、貴重な情報だったり、真摯なメッセージだったりしたが他のほとんどは不愉快な荒らしだった。そういったメッセージを扱ううちに彼女はメール送信のクリックをする前にいったん立ち止まり、深呼吸してメールを読み返すことを学んだ。

条件反射のように彼女はケトルベリー……おっとケトルウェルだ! ……へのメッセージを読み返し、少しためらってから送信ボタンをクリックした。

彼女はトイレに行きたくなった。どうやらずいぶん長い時間、没頭していたようだ。トイレにいる間に新着メールを知らせる着信音が聞こえた。

From: kettlewell-l@skunkworks.kodacell.com
To: schurch@sjmercury.com
Subject: Re: 従軍記者はいかが?

もう二度と自分のことをケトルベリーなんて呼ばないよ。

あなたの友人より
ケトルドラム

おやおやおや。彼女はベッドの縁を二回軽く蹴った。明日、彼女の編集者に会ってこのことを言ってやろう。しかし事がうまく進んだようで彼女はわくわくした。まるで彼女の生活を永遠に変えてしまうような出来事がすぐ近くまで迫っているかのようだった。

落ち着いて眠りにつくまで彼女は全くおもしろくもないクリックゲームでトランス状態になったり、プレスカンファレンス会場からのツイートを一時間行ったり来たりしながらふらふらと三時間もウェブをさまよった。眠りに落ちる直前、彼女は思った。興奮と同様、ケトルウェルの不眠症には感染性があるのだ。


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