C.I.ルイス教授は、「経験と意味」(本誌1934年3月に掲載)における注目すべき発言において、正当にも、前節で展開された見解が(彼はこれを「経験的意味の要件(empirical-meaning requirement)」と呼んでいる)いわゆる「ウィーン学団の論理実証主義」と呼ばれてきた哲学全体の基礎を形成すると述べている。彼はこの基礎を不適切なものであると批判しているが、その主な理由は、この基礎を受け入れると「有意味な哲学的議論」に特定の制限が課され、ある点ではそうした議論は完全に不可能になり、またある点では耐えがたいほどに制限されるだろう、というものである。
ウィーン学団の哲学(むしろ整合的経験主義(Consistent Empiricism)と呼ぶのが相応しい)の主要な論点の幾つかについては、私も責任を負う者だが、実際のところ、それが有意義な哲学的営為に制限を課すことなど全くないと思われる。そこで私は、ルイス教授の主要な反論について検討し、それらが私たちの立場を危うくすることはないと考える理由を――少なくとも私自身が答えうる範囲において――示すことにしよう。私の議論の全ては、第Ⅰ節で述べたことから導かれる。
ルイス教授は、経験的意味の要件を「提示された任意の概念または主張された任意の命題が確定的な表示対象(denotation)を持つということ、すなわち言語的・論理的に理解可能であるだけでなく、それ以上の意味において、概念の適用可能性を決定する、あるいは命題の検証を構成する経験的事項を特定できるということ」(p.125)であると記述する。だが「それ以上の意味において・・・」という言葉には何の正当化もない、言い換えれば、理解可能性の二つ(三つ?)の意味の間に違いはないと思われる。第Ⅰ節の議論が示すように、私たちの見解に従えば「言語的かつ論理的な」理解は、当該の命題がいかにして検証されうるかを知っていることにおいて成立する。なぜなら、「言語的理解」という言葉で私たちが意味していることが、その言葉の現実の使われ方を知っていることでないとすれば、この用語はその言葉を見知っているという漠然とした感情以外のほとんど何も意味しえない。そして哲学的議論において、そのような感情を「理解」と呼ぶことが望ましいとは思われない。同様に、私たちが単に、文の外面的形式が適正な命題の形式をしていると確信しているだけのときに(例えば、主語-繁辞-形容詞という形式をしていれば、物の性質を述べる文であるように見える)、その文を「論理的に理解可能」なものとして語ることも推奨できない。というのも、この句によって私たちが言おうとしていることは、それ以上のことだと思われるからである。私たちは、ある文が「論理的に理解可能」と言うことで、その文の全文法を完全に承知しているということ、すなわち、その文があてがわれる諸状況を正確に知っているということを意味しようとしているのである。従って、命題の検証方法の知識とは、命題の言語的・論理的理解以外のものではなく、それと同一である。それゆえ、ある命題が検証可能であることを要求するとき、私たちは新しい必要条件を付け加えているのではなく、意味と理解可能性の必要条件として常に実際に承認されてきた諸条件を定式化しているだけなのである。
「私たちが文の真偽をテストする方法を示すことができなければその文は意味を持たない」と述べるだけでは、「テストの方法」や「検証可能性」といった句の意味を慎重に説明しない限り、あまり役に立たない。ルイス教授がそのような説明を要求するとき、彼は全く正しい。彼自身、説明を与えられそうな幾つかの道を示唆しており、嬉しいことにその示唆は私自身と私の僚友たちの見解と完全に一致すると思われる。ルイス教授が認める意味でのプラグマティストとウィーン学団の経験主義者の間には、見解上に何ら重大な差異がないことは容易に示せるであろう。そしてもし特殊な問題において両者が異なる結論に達することがあれば、その溝を架橋するために慎重な検討を行うことが望まれるであろう。
さて、私たちは検証可能性をどのようにして定義するか?
まず最初に指摘しなければならないが、「命題はそれが検証可能であるときに限り、意味を持つ」ということは、「命題はそれが検証されれば、意味を持つ」ということと同じではない。この簡単な指摘によって、主要な反論のうちの一つが片付けられる。それはルイス教授が「いまここの困難」と呼ぶものであるが、それはもはや存在しない。私たちがこの困難に陥るのは、意味の規準として「検証可能性」ではなく検証そのものを使う場合だけである。この困難に嵌ると確かに[ルイス教授の言うように]「意味を馬鹿げたものへと還元すること」につながるであろう。これが、検証と検証可能性という二つの概念を混同する間違いから生じるものであることは明白である。ラッセルの言明「経験的知識は私たちが実際に観察するものに限られる」(ルイス教授はこれをp.130で引用している)がこの間違いを含むと解釈するべきかどうか、私には分からない。だがその見解の起源を探ることは確かに有益であろう。
ルイス教授がp.131で行っている議論(ただし彼は誰かを論破しようとしているわけではない)について考察してみよう。
いかなる文(issue)も、それが決定的な検証のテストを受けられない限り意味を持たないと主張されていると想定しよう。そしていかなる検証も、まさに主体の現在の経験においてしか起こりえない。そのため、意味をその中に保持する経験において実際に存在するもの以外の何物も、意味ではありえない。
この議論は、二つの前提から一つの結論を導く形式を持つ。とりあえず、第二の前提は有意味かつ真であると仮定しよう。それでも、ルイス教授が導いたような結論は出てこないことが分かる。なぜなら、最初の前提が保証することは、文は検証可能であれば有意味であるということであり、検証が実際に行われる必要はないからである。だから、検証が未来において実施可能なのか、それとも現在のみにおいて実施可能なのかは[文の有意味性の規準とは]全く無関係なのである。それに加えて、第二の前提も当然ナンセンスである。なぜなら、「検証は現在の経験においてしか起こりえない」という文によって一体いかなる事実を記述できるというのか? 検証とは行為、あるいは聞いたり退屈に感じたりするのと同様の過程ではないのか? 私は現在の瞬間にのみ聞いたり退屈に感じたりすることができる、などとは言えないのではないか? そう言うことで何を意味しえるというのか? こうした句に含まれる特有のナンセンスは、後に「自己中心的な困難」について述べるとき、より明らかになるだろう。今は、経験的意味の要件は、現在にまつわる困難とは無関係であったことを確認することで満足しよう。「検証可能」とは「今ここで検証可能」であることさえ意味しないのだから、まして「今まさに検証されている」を意味するわけがない。
恐らく、命題の検証可能性を確認する唯一の方法は、実際に検証を行うことにあると思われよう。だがこれが正しくないことを、私たちはすぐに見ることになる。
意味を「直接に与えられるもの」と結びつけようとする強い誘惑は、誤った道へ私たちを誘うものだと思われる。ウィーン学団の実証主義者にさえ、この誘惑に負けて、この間違いへ近づく危険を犯した者がいたかもしれない。例えばカルナップの『世界の論理的構築』の一部には、未来の出来事についての命題は、実は全く未来について言及しているのではなく、現存する特定の期待を主張しているだけだと示唆していると解釈できそうな記述がある。(同様に、過去について語ることも、実は現在の記憶について語ることを意味するということになろう。)しかし、今はカルナップもこの見解を持っていないことは確かであり、これを新しい実証主義の教えとみなすこともできない。反対に、私たちは当初から、意味の定義はそんな馬鹿げたことを含意しないと指摘してきた。そして「しかし君はどうすれば未来の出来事についての命題を検証できるのか?」と訊ねられたとき、私たちはこう答えたのである。「例えば検証が行われるまで待ってはどうか! 『待つ』というのも完全に正当な検証方法の一つだよ。」
従って私の考えでは、「私たちは直接的に与えられたもの以外を意味しえない」と言うことはナンセンスであろうという点には、全員が――整合的経験主義者も含めて――同意する。この文の「意味する」を「知る」で置き換えると、先に引いたラッセルの言明に似た文が得られる。この種の句を定式化したいという誘惑の源泉は、私の信じるところでは、「知る」という動詞の曖昧さにある。これは多くの形而上学的困難の源泉であり、それゆえ私は、他の箇所(例えば『一般認識論』第2版 1025, 第12節を参照)でもしばしば注意を促さねばならなかったのである。まず第一の意味では、この語は単純に「与件を意識している」ということを表す。つまり、感情、色、音などが単に現前していることを表す。そしてもし「知識」という語がこの意味で解されるなら、「経験的知識は私たちが実際に観察するものに限られる」という主張は全く何も語らず、単なるトートロジーである。(私の考えでは、この場合はルイス教授が「知識関係」の「同一性理論」と呼ぶものに一致するであろう。こうした理論はこの種のトートロジーに基づいており、意味を欠いた空虚な言葉の反復であろう。)
第二の意味では、「知識」という語は、科学や日常生活において重要な意味を持つ使われ方をする。この場合、ラッセルの主張は(ルイス教授が述べたように)明らかに偽であろう。ラッセル自身は、周知のように、「直知による知識」と「記述による知識」を区別する。だが恐らくこの区別は、たった今私たちが主張した区別とは完全には整合しないと言わねばなるまい。