意味と検証, モーリッツ・シュリック

第Ⅲ節


検証可能性とは検証の可能性である。ルイス教授の「『可能な検証』に帰属しうる広範な意味について全く検討することを怠れば、この概念全体がかなり曖昧なまま放置されてしまうだろう」(p.137)というコメントは正当である。私たちの目的のためには、「可能性」という語の多様な使われ方のうち二種類を区別すれば十分である。私たちはそれを「経験的可能性」と「論理的可能性」と呼ぼう。ルイス教授はこの区別と正確に一致する二種類の「検証可能性」の意味を述べてくれている。教授はこの区別を十分承知しており、私が付け加えるべきことは、この区別を慎重に行い、それが私たちの問題にもたらす影響を示すこと以外にはほとんどない。

私は「経験的に可能」という言葉を、自然法則に矛盾しないという意味で使うことを提案する。これは、私が思うに、経験的可能性ということで意味しうる最も広義の意味合いである。私たちはこの用語を、自然法則に従って生起する出来事だけでなく、現実の宇宙の状態も含めて使う。(ここで「現実の」とは、私たちが生きている今この瞬間、または地球上における人類の状況などを指す。)私たちが後者の定義(これがルイス教授が「現実によって条件づけられた可能な経験」(p.141)というときに思い描いているものだと思うが)を選ぶなら、今の目的のために必要な明確な境界づけはできないに違いない。それゆえ、「経験的可能性」は「自然法則との適合性」を意味するのでなくてはならない。

ところで、お世辞にも私たちは自然法則について完全かつ確実な知識を有しているとは言えない。ゆえに、いかなる事実についてもその経験的可能性を確実に主張できないことは明白である。だから、私たちに許されるのは可能性の逓減(degress)について語ることである。私がこの本を持ち上げることは可能か? もちろん可能だ!――このテーブルは? 可能だと思う!――このビリヤード台は? 不可能だと思う!――この車は? 絶対に不可能だ!――こうした事例においては、答えは過去に行われた実験の結果として、経験によって与えられる。経験的可能性についての全ての判断は経験に基づいており、かなり不確実である場合が多いだろう。その場合、可能性と不可能性の間に明確な境界はない。

私たちが主張する検証可能性も、この種の経験的なものであろうか? もしそうなら、検証可能性には程度の違いが存在することになり、意味についての問いは「持つ/持たない」の問題ではなく「多い/少ない」の問題になるだろう。私たちの問題に対する多くの反論で議論の的になっているのは、この経験的可能性である。例えばルイス教授が挙げる検証可能性の様々な実例は、検証が実行されたり実行できなかったりする様々な経験的状況の例である。私たちの意味の規準を受け入れることを拒否する論者の多くは、特定の事例に検証を適用する手続きを次のようなものだと想像している。まず命題が完成品として私たちに提示される。そしてその意味を発見するために、種々の検証方法を試みる。そのうちの一つが成功すれば、命題の意味を発見し、一つも成功しなければ、その命題は意味を持たないということになる。本当にこんな手続きを踏む必要があるとすれば、意味を決定することは完全に経験の問題となり、多くの場合、明確で最終的な判断は得られないだろう。検証方法が一つも成功しなかった場合、もうそれで十分検証を尽くしたと、どうして分かるのか? もっと粘って頑張れば、今まで見つけられなかった意味が明らかになることもあるのではないか?

こうした考え全体が、もちろん誤りである。これはまるで、殻の中に実が入っているように、意味を命題の中に内在するある種の実体であるかのように考えることである。この意味観を前提すると、哲学者は殻(文)を割って実(意味)を取り出さなくてはならない。[だが]私たちは、第Ⅰ節の考察から、命題が「完成品として」与えられることはありえないこと、意味は文の中に内在するものではなく、従って発見されるものではなく文に与えられるものであることを知っている。そして文に意味を与えるには、第Ⅰ節で説明したように、文に私たちの言語の論理的文法の諸規則を適用することである。こうした規則は「発見」されるような自然の事実ではなく、定義によって規定される処方(prescription)である。こうした定義は、問題の文を発する人間と見聞きする人間が知っていなければならない。さもなければ、彼らはいかなる命題も見ておらず、検証を試みるべき何物もないことになる。なぜなら、単なる語の羅列を検証したり反証することは不可能だからである。意味を知る――つまり検証可能性を明確にする――以前に、検証を始めることさえできないのである。

換言すると、意味に関する検証可能性は、経験的可能性ではありえない。つまり、事後的に確立されるものではありえない。経験的状況について考え、その状況が検証を許すか否か、あるいはいかなる条件下なら許されるのかを調べることができる以前に、知られていなければならないものである。経験的状況は、命題の真偽(それが科学者の関心事である)を知りたい場合には極めて重要である。しかし状況は命題の意味(これが哲学者の関心事である)には影響を及ぼしえない。ルイス教授はこのことを良く理解し、明確に表現している(p.142の最初の6行を参照)。私が答えうる限りで言うなら、この論点については、ウィーン学団の実証主義も教授と完全に意見を同じくする。強調しなければならないことは、私たちが検証可能性について語る場合、それは検証の論理的可能性を意味しているのであって、それ以外の何ものも意味しているのではない、ということである。


私は記述可能な事実や過程を「論理的に可能」と言う。つまり、それらを記述する文が、私たちが自分たちの言語に対して規定した文法規則に従う場合である。(これは少し不正確な言い方である。記述しえないような事実は、当たり前だが、そもそも事実ではないからである。事実はすべからく論理的に可能である。だが言わんとするところは理解してもらえると思う。)幾つか例を挙げよう。次の文を見てほしい。

「私の友人は明後日に死んだ」

「その女性は明るい緑色をした暗い赤のドレスを着ていた」

「その鐘楼の高さは100フィートであり、かつ150フィートである」

「その子供は裸だったが、白くて長いナイトガウンを着ていた」

明らかに、これらの文は、普通の日本語に現れる語の用法を支配する規則を破っている。これらは全く何の事実も記述しない。論理的不可能性を表しているがゆえに無意味なのである。

私たちが論理的不可能性について語るときは常に、用語の定義と実際の使われ方の間の不一致に言及しているのだということを理解することが、(現在の目的のためだけでなく、哲学の問題全般に取り組むときにも)最も重要である。私たちは、論理的原理(つまり矛盾律)を、思考の心理的過程を支配する自然法則として解釈した昔の経験主義者(例えばミルやスペンサー)が犯したのと同じ酷い間違いを犯してはならない。上に挙げたナンセンスな文は、ある種の心理学的な実験によって私たちが考えられないと判明した思考と一致するのではない。これらはいかなる思考とも全く一致しない。私たちが「この塔の高さは100フィートであり、かつ150フィートである」という言葉を聞くとき、異なる高さの二つの塔の心像が心の中に現れることはあるかもしれない。そしてその二つの像を一つに統合することが心理学的に(経験的に)不可能であることを発見することもありえよう。だがそれは、「論理的不可能性」という言葉で言われるところの事実ではない。一つの塔の高さは同時に100フィートであり、150フィートであることはできないし、子供は同時に裸で、かつ服を着ていることはできない――しかしその理由は、私たちがその様子を想像できないからではなく、「高さ」、数詞、「裸の」、「服を着ている」といった語の定義が、特定の組み合わせと適合不可能だからである。「定義が特定の組み合わせと適合可能ではない」ということは、私たちの言語の規則がそのような組み合わせの用法を与えていない、ということを意味する。つまり、そうした語の結合はいかなる事実も記述しない。もちろん、私たちは規則を変更して「赤く、かつ緑である」とか「裸であり、かつ服を着ている」といった言葉に意味を用意することができる。しかし普通の定義(それは私たちの実際の語の使い方において現れる)に忠実であろうとするなら、私たちはそうした語の組み合わせを無意味であると、すなわち、そうした言葉はいかなる事実も記述しないものであると決定するのである。私たちがいかなる事実を想像できて、いかなる事実を想像できなかったとしても、「裸の」(あるいは「赤い」)という語がその事実の記述において現れるなら、私たちは、同じ記述のその箇所に「服を着た」(あるいは「緑の」)という語を置くことができないと決めたのである。このルールに従わない場合、それが意味するのは、私たちがこれらの語に新しい定義を導入しようと望んでいるということ、あるいは、それらの語を、ナンセンスに対してそうするように、意味を欠いたまま使うことを気にしないということである。(私はこうした態度を無条件に非難するわけではない。ある場合には――例えば不思議の国でのアリスのような立場に置かれたなら――意味のない言葉を使うことだけが賢明な態度であり、かつ、どんな論理学の論文よりもはるかに面白いこともありうる。だが論理学の論文においては、異なる態度を期待する権利がある。)

私たちの考察の結論は次の通りである。検証可能性は有意味性の必要十分条件であり、それは論理的秩序の可能性である。それは、語を定義する諸規則に従って文を構成することによって作られる。検証が(論理的に)不可能な唯一の場合とは、私たちが検証のための規則を全く用意しなかった場合である。文法的規則は自然界のいたるところに見いだされるものではなく、人間によって作られるものであり、原則的に恣意的である。そのため、文に意味を与えることは、文の検証方法を発見することによってではなく、ただ検証の行い方を規定することによってのみ可能なのである。従って、検証の論理的可能性または不可能性は、常に検証自身にかかっている。もし私たちが意味を欠いた文を発すれば、それは常に私たち自身の間違いなのである。

前段の最後の見解が持つ大きな哲学的重要性に気づくのは、私たちが言明の意味について語ったことが、問いの意味についても当てはまることを考えるときである。もちろん、この世には人間が答えることのできない問いが数多く存在する。しかし答えを見つけることの不可能性は二種類に分類されるだろう。もしそれが上で定義した意味での経験的不可能性に過ぎないのであれば、つまりそれが人間という存在がたまたま閉じ込められている状況のせいで不可能なのであれば、自分たちの運命を嘆き、人間の肉体的・精神的な能力の弱さを悔やむだけの理由があるかもしれない。だがその場合、問題は絶対に解決不可能だと言い切ることはできないし、少なくとも未来の世代には、常に希望があるであろう。なぜなら、経験的な状況は変わりうるし、人間の能力も発達するかもしれない、それに自然法則でさえ変化しうるのだから(多分その変化は全く突然に起こるため、宇宙はずっと発展的な研究の対象となるであろう)。この種類の問題は実際的に解答不可能とか技術的に解答不可能と言うことができよう。これらは科学者を非常に悩ませるだろうが、一般原則にしか関心のない哲学者は大して興奮することはないだろう。

しかし、答えを見つけることが論理的に不可能な問いについてはどうだろう? そうした問題は想像可能な全ての状況下において解決不可能である。その問題は私たちを完全に絶望的な無知(Ignorabimus)に直面させるだろう。そして哲学者にとって、こうした問いがあるか否かを知ることは極めて重要なことである。ところで、この不幸な事態が生じるのは問いそのものが無意味な場合に限られるということを理解するのは、これまでに述べてきたことを振り返れば容易なことだ。そうした問いは全く本物の問いではなく、文末に?マークを付けた単なる語の羅列であろう。問いが有意味なのは、私たちがそれを理解できるとき、すなわち、与えられた任意の命題に対して、もしそれが真であるなら、問いの答えになるか否かを判断できるときだけであると言わねばならない。そしてもしそうなら、現実に判断を下すことを妨げるのは経験的状況だけであり、つまり判断は論理的に不可能なのではないということになるだろう。従って、有意味な命題は全て、原理的に解決不可能ではありえない。もし任意の場合について、答えを見つけることが論理的に不可能である場合、私たちは本当は何も質問されておらず、問いのように聞こえた言葉が、実は語のナンセンスな組み合わせであったことを知っているのである。本物の問いとは、答えることが論理的に可能な問いである。これは私たちの経験主義の最も特徴的な結果の一つである。この結果が意味することは、原理的に私たちの知識に限界はないということである。認識されるべき境界は経験的なものであり、従ってそれは最終的な限界ではない。この境界は先へ先へと遠ざけていくことが可能である。ゆえに世界に不可思議な謎は存在しない。


検証の論理的な可能性と不可能性を分かつ一線は、完全に明確で確定的である。意味と無意味の間に段階的遷移など存在しない。というのも、[両者の違いは]私たちが検証のための文法的な規則を与えたか、与えなかったかの違いだからである。排中律である。

経験的可能性は自然法則によって決定されるが、意味と検証可能性は自然法則から完全に独立である。私が記述あるいは定義できることは、全て論理的に可能である――そして定義はいかなる形でも自然法則とは関係していない。「川が丘を流れている」という命題は有意味であるが、それが記述する事実が物理的に不可能であれば偽になることもある。[しかし]私がその命題の検証のために規定した諸条件が自然法則と適合不可能だったとしても、それによって命題が無意味になることはない。例えば私は、光の速度が実際よりも速くなったときに限り、あるいはエネルギー保存の法則が無効になったときに限り満たされるような諸条件を用意することができる。

私たちの見解に反対する論者は、上述の説明の中に危険なパラドクスや、あるいは矛盾さえ発見するかもしれない。というのも、私たちは一方では、これまで「経験的意味の要件」と呼ばれてきたものを強く主張しながら、他方では、意味と検証はいかなる経験的状況にも依存せず、純粋に論理的可能性によって決定されることを最も強調しているからである。反対者はこう反論するだろう。もし意味が経験的なものであるなら、どうしてそれが定義と論理によって決定されるものでありえようか?

実際のところ、矛盾も困難もない。ただ「経験」という語が曖昧なのだ。第一に、これはいわゆる「直接与件(immidiate data)」の名前である――これは「経験」という語の比較的新しい使い方である――そして第二に、私たちはこれを「経験豊富な旅行者」というときと同じ意味で使うことができる。つまり、単にたくさん旅行しているだけでなく、自らの行動に役立つ利益を経験から引き出す方法を知っている旅行者という意味である。検証可能性は経験から独立であると宣言されるのはこの第二の意味においてである(余談だがヒュームとカントの哲学においても「経験」はこの意味で用いられる)。検証可能性は、いかなる「経験的真理」にも、「自然法則」にも、その他いかなる一般命題にも依存しない。それはただ、私たちの定義によってのみ、すなわち、私たちの言語のために規定された――あるいは私たちがその場その場で恣意的に決めることのできる――規則によってのみ、決定される。既に説明した通り、こうした規則は全て、最終的には直示的定義を参照する。そして直示的定義を通して検証可能性は第一の意味における経験と関係している。いかなる表現規則も、世界における法則や制限(ヒュームとカントが言うように、これが「経験」の条件である)を前提しない。それが前提するのは、[直示的定義によって]名前を付与できる与件と状況である。言語の規則は言語の適用規則であり、それゆえ、言語を適用できる何かが存在しなければならない。表現可能性と検証可能性は一つにして同一のものである。論理と経験は敵対関係にあるのではない。論理学者は同時に経験主義者であることができるだけでなく、自分が何をやっているのか知りたければ、経験主義者でなくてはならないのである。


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