伝統的哲学の諸問題に対する私たちの見解がどのような結果をもたらすかを示すために、幾つかの例を概観してみよう。まず、有名な月の裏側についての例を取り上げよう。(これはルイス教授も挙げる例の一つだ。)私たちの誰一人として、月の裏側について語ることがナンセンスであるという見解を受け入れたりはしないと思う。私たちの説明によるなら、この場合、意味条件は十分に満たされているということに、僅かでも疑念の余地がありうるだろうか?
私は、疑念の余地は全くありえないと考える。なぜなら、「月の裏側はどんな様子だろう?」という質問に対しては、例えば、月の裏側のどこかに居る人間が見たり触ったりしたことの記述によって答えることが可能であろうから。月面旅行が人間――あるいは別の生物でもいいが――にとって物理的に可能か否か、という問いは、ここでは提起する必要さえない。それは全く無関係である。たとえ地球外の天体への旅行が、既知の自然法則と完全に適合不可能であると分かったとしても、月の裏側についての命題は依然として有意味である。月の裏側についての文は、物質で満たされた空間内の特定の場所(それが「月の裏側」という言葉が表すものである)について語っているのだから、私たちが、「この場所は物質で満たされている」という形式の命題がいかなる状況下で真または偽になるかを示せば、この命題は意味を持つのである。「ある特定の場所における物理的実体」という概念は、物理学と幾何学の言語によって定義される。幾何学自身が、「空間的関係」についての私たちの命題の文法であり、物理的性質と空間的関係についての言明が、どのように直示定義による「感覚与件」と関係しているかを知るのは、さほど難しいことではない。ところでこの関係は、物理的実体が「感覚与件に基づいて作られた単なる構成物」であることや、物理的対象が「感覚与件の複合物」であることを保証するものではない――私たちがこれらの句を、「物理的対象」という語を含む全ての命題は、その検証のために感覚与件の存在を必要とするという言明のかなり不適切な省略形であると解釈しない限りは。そしてこれは確かに極めてくだらない言明である。
月の例の場合、私たちは恐らく、命題を検証する状況を私たちが「想像」することができるなら意味要件は満たされる、と言うであろう。しかし一般的に、言明の検証可能性が、主張された事実の「想像」可能性を含意すると言うべきならば、命題は限られた意味においてのみ真になるであろう。想像可能性が経験的な種類のものである限り、すなわち、特定の人間の能力を含意するものである限り、これは正しくないだろう。例えば、10次元の宇宙とか、感覚器官を備えているが私たちとは全く異なる知覚を持つ生物について語ったとしても、[それらが想像不可能だからといって]ナンセンスとして非難することはできないと、私は考える。確かに、そうした生物や知覚、10次元の世界を「想像」できると言う権利もまた、私たちにはないだろう。だが私たちは、どのような観察可能な状況であれば、いま言及した生物や器官の実在を主張するべきであるかを述べることができなくてはならない。明らかに、私は友人の声の響きについて、それを想像の中に実際に呼び起こさずとも、有意味に語ることができる。――この論文は「想像する」という語の論理的文法を議論する場所ではない。上に述べたことだけでも、検証可能性の心理学的な説明をあまりに安易に受け入れてしまうことへの警告にはなるだろう。
私たちは、意味をいかなる心理学的与件とも同一視すべきではない。発音された音が話された文の原料を構成し、紙の上の黒い染みが書かれた文の原料を構成するのと同じ意味で、心理学的与件は心的な文(あるいは心的思考)の原料を構成する。しかし、算術の計算をしているとき、心の前に黒や赤の数字の像を持っているか、そうした視覚像を全く持っていないかは、[計算式の意味の理解とは]全く関係のないことである。仮に、あなたが経験的に、計算中に黒い数字を想像しなければ全く計算ができなかったとしても、その数字の心像は、当然、意味を構成するものとして見なすことは全くできないし、意味の一部分や計算を構成するものとしても見なせない。
カルナップが、意味の問題は、思考という活動を構成する心的過程についての心理学的問題と何の関係も持たないという事実を強調するのは正しい。(これは「心理主義」の批判者たちによって常に強調されてきた事実である。)しかし、直示的定義への参照(これが私たちが意味のために規定するものである)はこの二つの問題の混同を含むものではない、ということを、彼が同じだけの明晰さをもって理解しているか、私には自信がない。例えば、私が「赤い旗」という言葉を含む文を理解するためには、私が「旗」と呼び、しかも他の色と区別して認識される「赤」という色を持った対象を指差すことのできる状況を指示できることが不可欠である。しかし、わざわざ赤い旗の像を想像する必要はない。対象を指すことと、対象を想像することの間には何の共通点もないということを理解することは、極めて重要である。ちょうど今、私は German という活字の大文字の G の形を想像しようとしたが、できなかった。だがそれでも、私は G について[有意味に]語ることができる。それはナンセンスにはならない。そして私は、この文字を見れば、それを認識できるはずだということを知っている。赤い点を想像することは、「赤」の直示的定義を参照することとは全く別物である。検証可能性は、当該の文中の語と結びつきうるいかなる像とも関係を持たないのである。
他の重要な例として、「不死性」について論じる場合も――ルイス教授はこれを形而上学的問題だと言うし、また多くの場合そう言われる――月の裏側の例より難しい点は見出されない。「不死性」とは永遠の生のことではない(これは無限を含むため、恐らく無意味であろう)。そうではなく、私たちが関心を持つ問題は、「死」後の生である。ルイス教授がこの仮説について「死後の生を検証する存在についての私たちの理解は、完全に明晰である」と言うとき、私たちは彼に同意することができると思う。実際、私が自分の葬式を目撃し、肉体なしに実在し続ける様子は、容易に想像することができる。なぜなら、いわゆる自分の体の諸部分とされる全与件が存在しないという一点においてのみ、私たちの日常世界と異なるような世界を記述することは、とても簡単だからである。
この意味での不死性は、形而上学的問題とみなすべきではなく、経験的仮説であると結論せねばならない。というのも、この仮説は論理的に検証可能だからである。これは次のような処方によって検証できるであろう。すなわち、「君が死ぬまで待て!」ルイス教授は、科学的観点からこの方法は不満足なものであると言う。彼はp.143で次のように言う。
不死性の仮説は明らかに検証不可能である。……もし、科学的に検証可能なものだけが意味を持つ、ということが主張されているのなら、この概念は検証不可能性の格好の例である。これを科学的に検証することはまず無理であろう。そして、この仮説を反証するような否定的な結果をもたらす観察や実験を、科学は行うことができない。
この引用において、私的な検証方法が非科学的であるとして拒否されている理由は、この方法は経験している人間自身の個人的な事例にしか適用されないが、一方、科学的言明は一般的証明が可能であり、注意深い観察者なら誰にでもその証明が開かれているものであるからだと、私は想像する。しかしなぜこの仮説が検証不可能とまで宣告されねばならないのか、その理由が分からない。逆に、死後も不可視の実在となって生き続けるという仮説が、観察される諸現象についての最も受け入れやすい説明であるような経験を記述することは簡単である。もちろん、そうした現象は、オカルティストの会合で起こるという馬鹿げた出来事よりも、はるかに信憑性が高い必要があるだろうが――しかし私の考えでは、「死後の生」仮説の科学的正当化を構成し、そのような生のあり方を科学的方法によって探究することを許すような諸現象の(論理的)可能性については、いささかの疑念もない。確かに、この仮説が完全に真であると立証されることはありえないだろうが、それは他の全ての仮説も同様の運命である。死者の魂は、私たちの知覚の及ばないどこか天上のさらに上の空間に住んでおり、従ってこの言明の真偽は絶対にテストできないと主張されるなら、返答はこうなるだろう。「天上のさらに上の空間」という語が、仮にも何らかの意味を持つのであれば、その空間は「到達が不可能な場所」または「そこで何かを知覚することが全て経験的な知覚に過ぎない場所」と定義されなければならず、従って、[到達を阻む]諸困難を克服するための手段は――たとえそれが、人間の力では実行不可能な手段だったとしても――最低限、記述できるであろう、と。
従って、私たちの結論は次のとおりである。不死性の仮説は経験的言明であり、これが意味を持つか否かは、その検証可能性しだいである。この言明は、検証可能性を超えては、いかなる意味も持たない。この仮説を反証するような否定的な結果をもたらす実験を、科学が行うことができないことが認められねばならないとすれば、この言明は、類似の構造を持つその他多くの言明――とりわけ、この仮説に高い蓋然性を与えると見なされるべき多くの経験的事実についての知識以外の原因から生じた言明――が真であるのと同じ意味においてのみ、真である。
次節では「外的世界の実在」に関する問題が論じられる。