意味と検証, モーリッツ・シュリック

第Ⅴ節


ではここで、基礎的な重要性を持ち、最も深い哲学的関心の向けられる論点を取り上げよう。ルイス教授はそれを「自己中心的な困難」と呼び、これを真剣に取上げようとすることが、論理実証主義の最も特徴的な側面であると述べている。この困難はp.128の一文において「実際に与えられる経験は、一人称において与えられる」と定式化されており、論理実証主義の教義におけるその重要性は、カルナップが『世界の論理的構築』において「この本の方法は『方法論的独我論』と呼ぶことができる」と述べていることからも明らかである。ルイス教授が、自己中心的あるいは独我論的な原理は私たちの検証可能性の一般原理によって導かれるものではない、と考えているのは正しい。彼はこれを、検証可能性と並んでウィーン学団の哲学の主要な帰結を導く第二原理としてみなしている。

ここで一般的なコメントが許されるなら、私は、真の実証主義の最も重要な利点と魅力は、それを当初から特徴付ける反独我論的態度であろうと言いたい。いかなる「実在論」にもほとんど危険がないように、独我論にもほとんど危険はない。そして、観念論と実証主義の主な違いは、後者が自己中心的な困難を完全に明確に保つ点にあると、私には思われる。実証主義者の考えの中に、独我論への傾向や主観的観念論への親近性を見出すことは、甚だしい誤解である(自ら実証主義者を標榜する思想家でさえ、この誤解を頻繁にやっている)。ファイヒンガーの『かのようにの哲学』は、この手の間違いの典型例としてみなせるだろうし(彼は自分の本を「観念的実証主義の体系」と呼んでいる)、マッハとアヴェナリウスの哲学は、最も整合的に間違いを回避しようと努めた哲学の一つである。カルナップが、彼の言うところの「方法論的独我論」を提唱して、基本的与件から全ての概念を構築する際に、「自己の心における対象」(自分にとっての実体)を第一与件とし、物理的対象の構築のための基礎に据え、最終的にはそこから他人の心の概念を導いていることは、少々残念である。しかし、間違いがあるとしても、それは主に用語上のものであって、思想上のものではない。「方法論的独我論」は独我論の一種ではなく、概念を構築するための方法である。そして忘れてはならないが、カルナップが薦める構築の順序――「私にとっての実体」から始めるもの――だけが、唯一可能な順序であることが主張されているのではない。別の順序で構築する方が良いということもあるだろうが、カルナップも原理的には、基礎経験は「主観なし」のものであるという事実をよく承知している(ルイス教授のp.145の記述を参照)。

最も強調すべき点は、基礎経験は完全に中立的であるということ、あるいはウィトゲンシュタインも時として言うように、直接与件は「所有者を持たない」ということである。本物の実証主義者(例えばマッハなど)は、基礎経験が「『一人称的』という形容詞によって指示される、与えられた全ての経験が持つ性質や状態を持つこと」(p.145)を否定するがゆえに、「自己中心的な困難」を真剣に受け取ることができない。本物の実証主義者には、この困難は存在しないのである。基礎経験が一人称的な経験ではないことを理解することは、私が思うに、哲学がその最も深い諸問題を解明するための、極めて重要な前進の一つである。

「自己」の特異な立場は、全ての経験の基礎的性質ではなく、それ自身が経験という(他の事実同様)一つの事実である。観念論(バークリーの「存在するとは知覚されることである」やショーペンハウアーの「世界とは私の表象である」によって表現されるような)および自己中心的な傾向を持つ他の諸々の教義は、経験的な一事実である自我の特異な立場を、論理的真理またはア・プリオリな真理と取り違えたり、自我をそうした真理の代わりに用いるという重大な誤りを犯している。この問題を探究し、自己中心的な困難を表現すると思われる文を分析することは、価値ある仕事である。これは退行ではない。なぜなら、この点を解明しなくては、私たちの経験主義の基礎的な立場を理解することもできないであろうから。

観念論者や独我論者は、いかにして、私が知る限りの世界は「私の観念」であり、究極的に私が知っていることは「私の意識の内容」以外のものではない、という言明へ到達するのだろう?

経験は私たちに、全ての直接与件は何らかの仕方で、私が「私の体」と呼ぶものを構成する与件に依存しているということを教える。この体の眼が閉じられれば、全ての視覚的与件が消失する。耳が塞がれれば、全ての音が止む、といった具合だ。この体は、それが常に特異な視点において見えるという事実によって、「他の生物の体」から区別される(例えば、鏡を見るのでなければ、背中や眼球は決して見えない)。しかしこのことは、もう一つの事実、つまり全ての与件はこの特異な体の器官の状態によって条件付けられているという事実ほど重要ではない。この体が「私の体」と呼ばれる唯一の理由を形成するのが、この二つの事実――それも恐らく大元は前者の事実であろう――であることは明らかである。[「私の」という]所有格名詞が、この体を他の体から区別する。この語は、今述べたような唯一性を表示する形容詞なのである。

全ての与件が「私の」体(特に「感覚器官」と呼ばれる一部分)に依存しているという事実は、「知覚」という概念を形成することへ私たちを導く。この概念は、洗練されていない、未開人の言語には見出されない。彼らは「私は木を知覚する」とは言わず、単に「木がある」と言う。「知覚」という語は、知覚する主体と知覚される対象の違いを含意する。元々、知覚者は感覚器官またはそれが属する体であるが、体自身もまた――神経系統を含む――知覚対象の一つであるから、知覚者を「自我」、「心」、「意識」と呼ばれる新しい主体で置き換えることによって、元々の視点はすぐに「修正」される。こうした主体は、たいてい何らかの形で体の中に宿るものとして考えられているが、その理由は、感覚器官が体の表面にあるものだからである。意識や心を体の内部(「頭の中」)に位置付けることの誤りは、R.アヴェナリウスによって「投入作用(introjection)」の名で呼ばれている。これがいわゆる「心身問題」の諸困難の主要な源泉である。投入作用の誤りを避けることによって、同時に、独我論へと通じる観念論的な誤りも避けることができる。投入作用が誤りであることを示すのは容易い。私が緑の草地を見るとき、「緑」は私の意識の内容であることが言明されている。しかし、それは間違いなく私の頭の中にあるものではない。私の頭蓋骨の中には、脳以外は何もない。もし私の脳に緑色の点が現れたとしても、それは明らかに草地の緑ではなく脳の緑である。

しかし私たちの目的のためには、こうした一連の思考を追う必要はない。事実を明確に述べ直すだけで十分である。全ての与件が何らかの形で、(鏡を使わない限り)その眼や背中を見ることができないという特異性を持つ特定の体の状態に依存するということは、経験的事実である。この体が通常「私の体」と呼ばれる。しかしここで、間違いを避けるために、私はこの身体を「M」と呼ぶことにしたい。今さっき述べた、与件がMに依存するということの個別的な事例は、「体Mが作用を受けない限り、私は何も知覚しない」という文によって表現される。あるいはもっと特殊な事例の場合、私は下のような言明を行なうことができる。

体Mが傷ついた場合に限り、私は痛みを感じる。(P)

私はこの言明を「命題P」と呼ぼう。

さて、次に別の命題(Q)を考えてみたい。

私は私の痛みだけを感じることができる。(Q)

文Qは様々な仕方で解釈できる。第一に、Pと同値であり、PとQは同一の経験的事実の異なる二つの表現方法に過ぎないと見なすことができる。[その場合]Qに現れる「できる」という語は、私たちが「経験的可能性」と呼ぶものを表示するだろうし、「私は」と「私の」という語は、体Mを指示するだろう。最も重要なことは、この第一の解釈では、Qは経験的事実、すなわち、私たちがそうではない事態を想像できる事実の記述であるという点を認識することである。

私たちは、友人の体が傷つく度に私が痛みを感じ、彼が喜びの表情をすると私が陽気になり、彼が長く歩くと私が疲れを感じ、彼が目を閉じると私は何も見えなくなる、などといった事態を、容易に想像することができる(私はここで、ほぼウィトゲンシュタイン氏が述べた考えに従っている)。(Pと同値であると解釈された場合の)命題Qは、これらの事態が起こりうるということを否定する。もし仮にこれらの事態が起こったなら、Qは偽となるだろう。従って私たちは、Qを真にする諸事実、およびQを偽にする諸事実を記述することによって、Q(またはP)の意味を指示する。もし後者の種類の事実が起こったなら、私たちの世界は、私たちが実際に生きている世界と少し異なるものになるだろう。その世界では、「与件」の性質は、体Mだけでなく他人(恐らくはその中の一人)の体にも依存することになるだろう。

この作り話は、現実の自然法則と適合しないため――そのことについて私たちは完全には確信できないとはいえ――経験的には不可能である。しかし、論理的には可能である。なぜなら、私たちはそれを記述することができるから。そこでしばらくの間、この作り話の世界が現実であると仮定してみよう。すると、私たちの言語はいかにしてこの世界に適用されるだろうか? そこには、私たちの問題にとって興味深い二つの異なる適用の仕方がある。

命題Pは偽になるだろうが、Qに関しては、二つの可能性がある。第一の可能性は、Qの意味はやはりPと同じであると主張するものである。この場合、Qは偽となり、代わりに次の真な命題によって置き換えられるだろう。

私は自分の痛みだけなく、他人の痛みも感じることができる。(R)

Rが述べるのは、「痛み」という与件は、Mが傷ついたときだけではなく、他の体、例えばQが傷ついたときにも生じるという経験的事実である(当面の間、この言明を真とみなそう)。

私たちがこのような仮定の事態を命題Rによって表現する場合、「独我論的な」言明を行ないたくなる誘惑や理屈が存在しないことは明白である。私の体は――今の場合、それが意味しうるのは「体M」以外のものではないだろう――それが特異な視点(背中が見えないなど)において現れるという点において、確かに他の体と区別される特有のものである。しかし、それが特有である理由はもはや、他の全ての与件の性質が依存する体がMだけだからではない。そして、自己中心的な見解を生み出す唯一の源泉が、この特徴だったのである。「外的世界の実在」に関する哲学的懐疑の源泉は、私が知覚、すなわち私の体の感覚器官による以外に、この世界の知識を持っていないという考えであった。もしこれがもはや真ではないのであれば、つまり、与件が他の体O(Mとは特定の経験的視点において異なるが、原理的には異ならない)にも依存するのであれば、その与件を「私自身の」与件と呼ぶ正当な理由は、もはやなくなるであろう。他の個人Oが、Mと同様、与件の所有者として認められる権利を持つことになるであろう。懐疑論者はかつて、次のような心配を抱いた。他の体Oとは、体Mに属する「心」によって所有される像でしかないのではないか、なぜなら、全ては体Mの状態に依存すると思われるから。しかし上で記述した状況下では、OとMの間には完全な対称性が存在する。すなわち、自己中心的な困難は消滅したのである。

恐らく、上で記述したような状況は作り話であり、現実の世界では起こらないのだから、残念ながらこの世界では相変わらず自己中心的な困難が幅を利かせている、という指摘を受けるだろう。これに対して私は、私の議論は、PとRの相違は単に経験的なものであるという事実、すなわち、命題Pは私たちの経験の限りで、たまたま現実世界において真であるという事実にだけ基づいているのだと答えたい。命題Pが既知の自然法則と適合不可能であるとは到底思われないが、これらの法則がPを偽にする可能性もゼロではない。

さて、私たちが依然として、命題QはPと同一と見なされる(つまり「私の」という語はMを指示すると定義される)ということを認めるなら、Qにおける「できる」は、経験的可能性を意味する。結果として、哲学者がQをある種の独我論の基礎として用いようとするなら、彼は自らの構築物全体が、未来の経験によって反証されることを覚悟しなければならないであろう。だがこれこそ、本物の独我論者が拒むことである。独我論者はいかなる経験も彼と相反しえないことを断固として主張する。その理由は、経験が常に特異な「私にとっての」性格を持つからである。これが、自己中心的な困難と言うことによって述べられる事態である。換言すると、独我論者は、QがPの別の表現でしかないと定義される限り、独我論をQに基礎付けられないことを十分承知しているのである。実際、独我論者がQを述べるとき、彼は同じ言葉に異なる意味を付与している。彼は単純にPを主張したいのではなく、全く別のことを言おうとしているのである。違いは「私の」という語にある。独我論者は体Mを指示することによって人称代名詞を定義したいのではなく、もっと一般的な使い方をする。彼は文Qにいかなる意味を与えているのだろうか?

ではQに与えることのできる第二の解釈を検討しよう。

観念論者や独我論者は、「私は私自身の痛みだけを感じることができる」とか、もっと一般的に「私は私自身の意識の与件だけを感じることができる」と言うことによって、自分が必然的で自明な真理、いかなる経験によっても傷つけられない真理を述べているのだと信じている。もちろん彼は、私たちが記述した架空の世界のような状況がありうることを認めなければならない。しかしそれでもなお、彼はこう言うだろう。たとえ別の体Oが傷つくたびに私が痛みを感じるとしても、私は決して「私はOの痛みを感じる」とは言わない――常に「私の痛みがOの体の中にある」と言うであろう、と。

観念論者のこの言明がであると決め付けることはできない。これはただ、私たちの言語を想像上の新しい状況に適用する異なる仕方であるに過ぎない。そして言語の規則は、原則として恣意的である。だがもちろん、使用方法のあるものは実際的でうまく適用されるものとして推奨できるし、あるものは誤解を招きやすいものとして批判できる。この観点から観念論者の見解を検討してみよう。

彼は私たちの命題Rを拒否し、代わりに次の命題で置き換える。

私は自分の体の中だけでなく、他の体の中にも痛みを感じることができる。(S)

彼は、自分が感じるいかなる痛みも「私の痛み」と呼ばれなければならず、痛みが感じられる場所は関係ないと主張しようとする。そしてこのことを主張するために、彼はさらに次のように言う。

私は私の痛みだけを感じることができる。(T)

文Tは、文面だけ見ればQと同じである。ただし、「私の」と「できる」を斜体で表記することで、Qとは少し異なる記号を使った。その理由は、独我論者が使うときは、この二つの語は、私たちがPと同義だと解釈するときのQにおける意味とは異なることを示すためである。Tにおいては、「私の痛み」は、もはや「体Mにおける痛み」を意味しない。なぜなら、独我論者の説明によれば、「私の痛み」は別の体Oの中にもありうるからである。そこで私たちはこう問わなければならない。この場合、「私の」という代名詞は何を意味するのか?

これが何も意味しないことは容易に理解できる。「私の」は、省略可能な余計な語なのである。独我論者の定義によれば、「私は痛みを感じる」と「私は私の痛みを感じる」は同一の意味を持つ。従って、「私の」という語は文中で何の役割も果たしていない。独我論者が「私が感じる痛みは私の痛みである」と言うとき、それはただのトートロジーである。なぜなら、彼が述べたのは、経験的状況がどうであれ、「私は痛みを感じる」という文との関係では常に「私の」という代名詞を使うということであり、「あなたの」や「彼の」を使うことは許さない、ということだからである。この規約は経験的事実から独立の論理的規則であり、それに従えばTはトートロジーとなる。Tにおける「できる」という語は(「だけ(only)」も同様だが)、経験的不可能性ではなく論理的不可能性を表示する。言い換えると、「私は他人の痛みを感じることができる」と言うことは、偽ではなくナンセンス(文法的に禁止されている)である。トートロジーはナンセンスの否定であり、何も主張しないという意味において、それ自身は意味を欠いている。それはただ、語の使用についての規則を示すだけである。

私たちの推論によれば、独我論者が採用するのはQの第二解釈としてのTであり、これが独我論の基礎を成すわけだが、Tは厳密には無意味である。Tは全く何も語らず、世界についてのいかなる解釈も、いかなる見解も表現しない。ただ、「私の」(あるいは「私の意識内容」)という指標詞を、例外なく全てのものに付与するための奇妙な語り方、不器用な種類の言語を導入するだけである。独我論は、その核心である自己中心的な困難が無意味であるがゆえに、ナンセンスである。

「私は」とか「私の」という語は、独我論者の規約に従えば、完全に空虚で、ただの言葉の装飾である。「私は私の痛みを感じる」、「私は痛みを感じる」、「痛みがある」という三つの表現の間に意味の違いはないことになる。18世紀の偉大な物理学者にして哲学者であるリヒテンベルクは、デカルトは「われ思う」という命題から哲学を始める権利などなく、代わりに「考えがある(it thinks)」から始めるべきである、と主張した。ちょうど、馬が白いことが論理的に可能でなければ、白い馬について語ることがナンセンスであるように、「私は」や「私の」という語を含むいかなる文も、文をナンセンスにすることなく「彼は」や「彼の」で置き換えることができなければ、有意味ではないだろう。しかし、自己中心的な困難や独我論的哲学を表現すると思われる文においては、こうした置換は不可能である。

RとSは、私たちが記述したような特定の事態についての異なる説明や解釈ではなく、その記述を単に言葉を変えて定式化したものである。RとSが二つの命題ではなく、異なる二つの言語における同一の命題であることを理解することは、基礎的な重要性を持つ。独我論者は、Rの言語を拒否しSの言語を主張することによって、QをトートロジーとしてTに変換するような用語法を採用した。それによって彼は、自分の命題を検証することも反証することも不可能にしたのである。命題から意味を奪ったのは、独我論者自身である。「私は他人の痛みを感じることができる」という言明を有意味にする機会を(先ほど示したように)拒否したことによって、彼は同時に、「私は私自身の痛みだけを感じることができる」という文に意味を与える機会をも逸してしまったのである。

「私の」という代名詞は所有を意味する。私たちは、痛みの――それどころか他のいかなる与件についても――「所有者」について語ることはできない――「私の」という語が有意味に使われているのでなければ、すなわち、「私の」を「彼の」や「あなたの」で置き換えることで可能な事態の記述が得られるのでなければ。この条件は、「私の」が体Mを指示すると定義される場合や、痛みを感じる体ならどれでも「私の体」と呼ぶことに同意する場合に満たされる。現実世界では、この二つの定義はただ一つだけの体に適用されるが、しかしそれは経験的事実であるから、異なる事態も可能である。もし二つの定義が一致せず、かつ、私たちが第二の定義を採用するなら、体Mを、私が感覚を持ちうる別の体から区別するための新しい語が必要になるだろう。「私の」という語は、「Aは複数ある私の体の一つだが、Bはそうではない」という形式の文において意味を持つようになるだろう。だが「私は複数ある私の体の中だけに痛みを感じることができる」という文は、ただのトートロジーとなるため、無意味であろう。

「所有者」という語の文法は、「私の」という語の文法と似ている。この語が意味を持つのは、ある物の所有者が変わることが論理的に可能な場合に限られる。それはすなわち、所有者と所有物との関係が経験的関係であり、論理的関係ではない場合(「外的」であり、「内的」ではない場合)である。従って人は、「体Mはこの痛みの所有者である」とか「あの痛みは体MとOによって所有されている」と言うことができよう。二番目の命題は、(これが自然法則と適合不可能であるとは、私は思わないが)現実世界では決して真な命題として主張することはできないが、どちらも有意味ではある。両者の意味は、痛みと体の状態の間の特定の依存関係を表現することであり、そのような関係が実在するかどうかは、簡単にテストできよう。

独我論者は、「所有者」という語を、この実際的な用法で使うことを拒否する。彼は、与件の多くの性質が完全には人間の体の状態には依存しないこと、すなわち、与件の振る舞いを制限するものは「物理法則」と表現できることを知っている。それゆえ彼は、「私の体は全てのものの所有者である」と言うことが誤りであることを知っており、ゆえに彼は「自己」とか「自我」とか「意識」について語り、それが全ての所有者であると主張するのである。(ところで観念論者も、私たちは「現象」以外の何も知らないと主張するときに、同じ間違いを犯している。)これは誤りである。なぜなら、「所有者」という語は、このように使われる場合、その意味を失うからである。独我論的言明は検証も反証もできない。事実がどうあろうと、この言明は定義によって真になる。この言明は単に、「私によって所有される」という句を全対象の名前に付加するといった言語的規約において成立する言明に過ぎない。

それゆえ私たちは、私たちが自らの体を与件の所有者または担い手と呼ばない限り――これは若干誤解を招きやすい表現ではあるが――与件は一切の所有者も担い手も持たないということを見てきた。経験のこうした中立性は――観念論者が経験について主張する主観性に反して――本物の実証主義の最も基礎的な論点の一つである。「全ての経験は一人称の経験である」という文は、全ての与件は私の体Mの神経組織の状態に、ある特定の点で依存するという単純な事実を意味するか、さもなくば無意味である。この生理学的事実が発見されるまでは、経験は全く「私の」経験ではなく、自己充足的であり「誰にも属さない」ものである。「自我が世界の中心である」という命題も、同じ事実の表現とみなせよう。この命題が意味を持つのは、「自我」という語が体を指示する場合だけである。「自我」の概念も、同様の事実の上に構成されるものであり、私の内部にあるものと外部にあるものを遮断する絶壁という観念が存在せず、ゆえに「自我」の概念が形成されないような世界を想像することは容易であろう。そのような世界では、命題Rやそれに類似の命題に対応するような出来事が規則であり、「記憶」という事実も、現実世界とは異なるかたちで表明されるだろう。そうした状況下では、私たちが「自己中心的な困難」へ陥る誘惑を受けることはまずない。だがいかなる状況下でも、この困難を表現しようとする文は無意味であろう。


最後の考察を終えた今、いわゆる外的世界の実在についての問題を処理することは容易である。ルイス教授に従って(p.143)、「実在論的」仮説を「仮に宇宙から全ての心が消え去っても、星々は運行を変えないだろう」という主張によって定式化するなら、私たちはそれが検証不可能であることを認めなければならない。だがその不可能性は単に経験的なものである。そしてこの仮説が述べるのが経験的状況である以上、この仮説が真であると信じる十分な理由がある。私たちはこの仮説の正しさを、科学が発見した物理法則の上に立てられた最良の仮説と同じぐらい確信している。

実際、世界には、地球上の人間に起こることから完全に独立な特定の規則性が存在することは、既に指摘した通りである。[例えば]天体の運行法則を定式化するために人間の体を指示する必要はない。そしてこの理由によって、私たちが天体は人類の滅亡後も運行を続けると主張することが正当化される。経験は、この二種類の事実の間の何の関係も明らかにしない。私たちは、火山の噴火や中国における政権交代が天体の運行に変化をもたらさないのと同様、人間の死も天体の運行に変化をもたらさないと言う。地球上の全ての生物や、あるいはもっと大胆に、宇宙内のあらゆる生物が消滅したと仮定した場合でも、僅かでも異なる点があるだろうか? 経験的証拠をもとにした生物の実在は、世界の他の部分が実在することの必要条件ではないという点に、全く疑念はありえない。

「私の死後も世界は存続するか?」という問いは、「星々の実在は人間の生存または死に依存するか?」と解釈するのでない限り、無意味である。そしてこの問いは経験によって否定的に答えられる。独我論者や観念論者の誤りは、この問いを経験的に解釈することを拒否し、その背後に形而上学的問題を探そうとすることにある。しかしこの問いに新しい意味を与えようとする彼らの努力は、結局、最初の問いから意味を奪う結果に終わるだけである。

お気づきだろうが、私は「仮に宇宙から全てのが消えたなら」という句を「仮に宇宙から全ての生物が消えたなら」という句で勝手に置き換えていた。この置換によって私が問題の意味を変えてしまった、とは取られないことを期待する。「心」という語を避けたのは、私がそれを「自我」や「意識」など、私たちが曖昧で危険だとみなした語と同義であると考えたからである。生物という語で私が意味するのは、知覚能力を持つ生き物であり、知覚の概念は生物の、つまり身体的器官を指示するだけで定義できる。それゆえ、私が「心の消滅」を「生物の死」で置き換えたことは正当化される。しかしこの議論は、「心」という語を定義するために採用しうる任意の経験的定義に対して通用する。私が指摘すべき点はただ、経験によれば天体の運行はあらゆる「心的」現象――喜びや悲しみを感じる、瞑想する、夢を見る、等々――から独立である、ということだけである。こうして私たちは、これらの心的現象が存在しなくなったとしても、星々の運行に影響はないと推論することができる。

しかし、この推論が経験によって検証できるというのは正しいのだろうか? 経験的には、これは不可能だと思われる。しかし周知のように、求められているのは論理的可能性だけである。そして「心」がなくともこの検証は論理的に可能である。なぜなら、私たちが主張してきたように、経験は「中立」であり、特定の人間に依存しない性格を持っているからである。原始的経験、つまり順序づけられた与件が単に実在することは、「主観」、「自我」、「私」、「心」などの存在を前提としない。原始的与件の生起には、これらの概念を形成することに通じるいかなる事実も必要としない。原始的与件は誰の経験でもない。植物も動物も人間(体 M も含む)も上述の心的現象も存在しない宇宙は、容易に想像できる。それはまさに「心のない世界」であろう(他にどんな名前がふさわしいというのか?)。しかしその世界でも、自然法則は現実世界と全く同じであろう。私たちはその宇宙を、現実の経験の用語を使って記述することができる。(ただ、人間の体と感情を指示する全ての用語を除外すればいいのだ。)そうすれば、その世界を可能な経験の世界として語ることは十分できる。

この最後の考察は、本物の実証主義の主要なテーゼの一例を提供してくれる。それはすなわち、街角で見られる世界の素朴な表象は完全に正当であり、重大な哲学的問題の解決は、厄介な問題は全て誤った言語による世界の不適切な記述だけから生じたものであることを示した後に、原点の世界観へ返ることにある、というテーゼである。


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