民主主義, 文部省

第六章 目ざめた有権者


一 民主主義と世論

民主主義は、単なる政治の形をさすものでもなければ、古い政治組織を進歩したしくみに改めることだけを意味するものでもない。それは、もっともっと大きな事柄を意味している。真の民主主義とは、われわれが日常生活を送るその方法なのである。世の中には、人間の個人としての力ではどうすることもできないいろいろな事柄がある。そのように、個人個人の努力ではとうてい実現できない仕事を、国民のお互の協力によって達成しうる方法が、民主主義であり、民主政治なのである。

民主国家では、すべての政治の源は国民の意志にある。言い換えれば、主権は国民に存する。しかし、国民がみんなで朝から晩まで政治のことを考えているわけにはいかないから、自分たちに代わって政治を行ってくれる代表者を選ぶことになっている。これは、前に述べたとおりである。そこで選挙民は、村長・市長・知事・市会議員・国会議員などのような代表者を、自分たちの中から選び出すことになる。これらの代表者が、国民の支持と協力とを基礎として、国民の個々別々の力では実行しえないようなたいせつな事業、たとえば、学校を作ったり、道路を開いたり、水利を図ったり、疫病や火災や犯罪を防止したりするような仕事を行うのである。だから、国民の代表者は、国民の大多数が何を求めているか、国民にとって何がいちばんたいせつであるかをつかむことに、絶えず努力してゆかなければならない。

ところで、国民の数は非常に多い。だから、国民のひとりひとりが、何を考え、何を望んでいるかを、いちいち聞いて歩くわけにはいかない。といって、国民の代表者が一部の人々の意見だけを聞いて、それで政治のやり方を決めるというのはきわめて危険である。そこで、国民は、広く一般に知れわたるようなしかたで、その希望や意見を言い表わそうと努める。政治を行う代表者たちは、そういうふうにして表明された国民の気持を公平に判断し、できるだけ国民の意志にかなうように、実際の政策を決めてゆかねばならない。このように、世の中の注目をひいている問題について、たとえば新聞やラジオへの投書とか、雑誌や書物への寄稿とか、国民大会その他の会議での発言とかいう方法によって、一般的なしかたで表明された国民の声を、世論という。

今日の社会には世論を伝える道筋がいろいろと発達している。自分で新聞や雑誌に書いたり、講演をしたり、ラジオの街頭録音に出かけて行って意見を述べたりしないでも、ある問題について論じている雑誌がどれくらい売れたか、ある人の講演にどんな人々が集まり、どれだけ熱心に拍手したか、どんな映画や芝居に人気があるか、というようなことを通じても、ある程度まで世論を知ることができる。それは、国民に対して、現在どういうことが問題となり、どんな点に関心が持たれているかを知らせる道であると同時に、国民の代表者たちに世論の傾向を判断させる有力な材料ともなるのである。

しかし、新聞や雑誌やラジオや講演会などは、用い方のいかんによっては、世論を正しく伝える代わりに、ありもしない世論をあるように作りあげたり、ある一つの立場だけに有利なように世論を曲げていったりする非常に有力な手段ともなりうる。もしも、自分たちだけの利益を図り、社会の利益を省みない少数の人々が、巨額の金を投じて新聞や雑誌を買収し、一方的な意見や、ありもしない事実を書きたてさせるならば、国民大衆が実際には反対である事柄を、あたかもそれを欲しているように見せかけることができる。そうして、国民の代表者がそれにだまされるだけでなく、国民自身すらもが、いつのまにかそれをそうだと思いこんでしまうこともまれではない。人々は、その場合、「宣伝」にのせられているのである。

報道機関を通じて行われる宣伝は、何も悪い働きだけをするわけではない。偽らない事実、国民が知らなければならない事柄を、新聞やラジオや講演会によって広く国民に伝えるのは、ぜひしなければならない宣伝である。そういう正確な事実や情報を基礎にして、良識のある国民が、これはこうでなければならないと判断したことが、ほんとうの世論なのである。しかし、宣伝は、悪用されると、とんでもない方向に向かって、国民の判断を誤らせることになる。小人数だけの計画していることが、金と組織の力を通じて議会を動かし、国民に大きな不利益をもたらすような法律を制定させてしまうこともありうる。

だから、宣伝の正体をよくつかみ、それがほんものであるかにせものであるかを明らかに識別することは、民主国家の国民にとっての非常にたいせつな心がけであるといわねばならない。

二 宣伝とはどんなものか

宣伝のことをプロパガンダという。プロパガンダということばがはじめて用いられたのは、一六二二年であった。それは、ローマ法王の作った神学校の名まえで、キリスト教の信仰を異教徒に伝え広めるために、世界に送り出されるべき青年たちを、そこで教育した。それ以来、それが、組織的な宣伝を行う技術の名称となったのである。

しかし、人類が宣伝を行ったのは、もっとずっと古い時代からのことである。昔の日本でも、大名同士が戦ったとき、軍事上の作戦を有利に展開するために、耳から耳へ伝える私語宣伝が行われた。たとえば、人民たちに強い敵対心を植えつけるために、敵を、残酷非道なもののように言いふらしたり、大義名分は自分の方にあると思いこませる手だてが行われた。

このように、昔は、耳から耳へのことばによる宣伝がほとんど唯一の方法であったが、第十五世紀に印刷術が発明されてからは、文書による宣伝が長足の進歩を遂げた。特に第十九世紀にはいってから、世界の国々での教育の普及はめざましく、字の読める人の数が一躍増加し、広い読者を目あてにする新聞や雑誌などの印刷物が非常に多く刊行され、それを通じて宣伝がきわめて有力に行われるようになった。だから、印刷機械の進歩と一般教育の普及とは、宣伝技術を発達させる最も大きな要素となったといってよい。

広い意味でいえば、宣伝とは、ある事実や思想を、文書やラジオや講演などを通じて大衆に知らせる方法である。だから、一つの目的をもっておおぜいの人々を感化し、大衆をそれにかなったような行動に導くための報道は、すべて宣伝であるといってよい。しかし、前にも言ったように宣伝は、きわめてしばしば悪用される。そういう悪い意味での宣伝とは、利己的な目的をわざと隠して、都合のよいことだけをおおぜいの人々に伝え、それによって自分たちの目的を実現するための手段なのである。

たとえば、ある種の雑誌や新聞がある政党と特別の関係を持っているとする。それらの雑誌や新聞がその党から金を出してもらっているという事実を隠して、この党の主張に有利なような論説や記事を載せるとする。その場合、それらの新聞雑誌はこの党の宣伝の道具になっているのである。そのほか、おかかえの弁士が大衆の考えを変えさせるために派遣されることもある。多くの資金を投じて映画や芝居や小説を作らせ、それを見、それを読む国民が、しらずしらずのうちに一つの考えだけをほんとうだと思いこんでしまうこともある。

図 嘘ニュース

日本国民に大きな悲劇をもたらしたあの太平洋戦争でも、政府や軍部が権力と金とを使って宣伝したために、初めは戦争をしたくないと思っていた人々も、だんだんと戦争をしなければならないという気持になり、戦争に協力するのが国民の務めだ、と信ずるにいたった。実際には負け続けてばかりいたのに、まことしやかな大本営発表などというものにあざむかれて、勝ちいくさだと思いこんでしまった。戦争が済んで、これほどまでにだまされていたのかとわかっても、あとのまつりであった。宣伝の力の恐ろしさは、日本国民が骨身にしみるほどに知ったはずである。

民主主義の世の中になって、議会政治が発達すると、政党が重大な役割を演ずるようになる。政党人の多くは真剣であり、経済の再建や、産業の復興や、社会の改革のためにいろいろと考え、それに役だつような計画をたてているに相違ない。しかし、また、なるべく多くの当選者を出すために、そうして自分たちの政策どおりの立法を行い、政府の実権を握るために、パンフレットを出したり、党の大会や演説会を開いたり、ラジオによって国民に呼びかけたり、さまざまな活動をすることも、事実である。その中には、正々堂々たる宣伝もあるが、隠れた目的のための宣伝がまじっていることもある。そうなると、一般の有権者は、どれを信じてよいかわからなくなり、途方にくれ、健全な判断力を失い、まちがった主張を支持することになりやすい。それを冷静に判断しうるのが「目ざめた有権者」である。理想的な民主主義の国を築くためには、選挙に加わる国民のすべてが目ざめた有権者にならなければならない。

そこで、たくみな宣伝によって国民がどんなふうにだまされるかを、もう少したち入って考察してみることにしよう。

三 宣伝によって国民をあざむく方法

これは政治ではないが、商品の広告も宣伝の一種である。産業革命以来、商業が盛んになり、広告も非常に進歩した。じょうずに広告をするのとしないのとでは、比較にならない違いがある。どんなによい品を作っても、広告をしなければ売れない。悪い品物でも、きかない薬でも、うまく広告すると、飛ぶように売れる。そこで、広告のしかたを研究する専門家があったり、広告・宣伝を引き受ける業者ができたりするようになった。広告を信用して、とんでもないものをつかませられる場合があることはだれでも知っている。それにも、かかわらず。きれいな絵や、好奇心をそそることばなどにのせられて、ついまた買う気になる。政治の宣伝も、それとおなじようなものだ。

煽動せんどう政治家、特に煽動的共産主義者がきまって目をつけるのは、いつもふみにじられて、世の中に不平を持っている階級である。こういう階級の人たちは、言いたい不満を山ほど持っている。しかし、訴えるところもないし、自分たちには人を動かす力もない。それで、しかたなく黙っている。煽動政治家は、そこをねらって、その人たちの言いたいことを大声で叫ぶ。その人気を取る。もっともらしい公式論をふりまわして、こうすれば富の分配も公平にいき、細民階級の地位も向上するように思いこませる。自分をかつぎ出してくれれば、こうもする、ああもできると約束する。不満が爆発して動乱が起っても、それはかれらの思うつぼである。そこを利用して政権にありつく。公約を無視してかってな政治をする。結局、いちばん犠牲になるのは、政治の裏面を見ぬくことのできなかった民衆なのである。

煽動政治家が民衆を煽動することを、英語でデマゴギーという。日本では、略してデマという。日本語でデマをとばすといえば、いい加減な、でたらめなことを言いふらすという意味である。デマがデマだとわかっていれば、弊害はない。まことしやかなデマには、よほどしっかりしていないと、たいていの人はのせられる。自分に有利なデマ、相手に不利なデマ、それが入り乱れてとび、人々はそれを信ずるようになってしまう。

これをもう少し分析してみると、宣伝屋が民衆をあざむく方法には、次のような種類があるといいうるだろう。

第一に、宣伝屋は、競争相手やじゃまな勢力を追い払うために、それを悪名をもってよび、民衆にそれに対する反感を起させようとする。保守的反動主義者・右翼・ファッショ・国賊・左翼・赤・共産主義者など、いろいろな名称が利用される。今までの日本では、自由な考えを持った進歩的な人々が、「あれは赤だ」という一言で失脚させられた。民主主義がはやり出すと、「あれは反動主義者だ」と言って、穏健な考えの人々を葬ろうとするだろう。それに、あることないこと、取りまぜて言えば、いっそう効果があるに相違ない。

次は、それとは逆に、自分の立場にりっぱな看板を掲げ、自分のいうことに美しい着物を着せるという手である。真理・自由・正義・民主主義などということばは、そういう看板にはうってつけである。しかし、羊の皮を着たおおかみを仲間だと思いこんだ羊たちは、やすやすとおおかみのえじきになってしまうだろう。

三番めは、自分たちのかつぎあげようとする人物や、自分たちのやろうとする計画を、かねてから国民の尊敬しているものと結びつけて、民衆にその人物を偉い人だと思わせ、その計画をりっぱなものだと信じさせるやり方である。たとえばドイツ国民には、民族というものを大変に尊く思う気持があった。ナチス党は、そこを利用して、ヒトラーはドイツ民族の意志を示すことのできる唯一の人物であるように言いふらした。また、日本人には、昔から天皇をありがたいと思う気持がある。戦争を計画した連中は、そこをつかって、天皇の実際のお考えがどうであったかにかかわらず、自分たちの計画どおりにことを運ぶのが、天皇のお心にかなうところだと宣伝した。そうして、赤い紙の召集令状を「天皇のお召し」だといって、国民をいやおうなしに戦場に送った。

四番めには、町の人気を集めるために、民衆の気に入るような記事を書き、人々が感心するような写真を新聞などに出すという手もある。たとえば、ふだんはりっぱな官邸に住んで、ぜいたくな生活をしている独裁者でも、労働者と同じように、スコップで土を掘っている映画を見せれば、人々はその独裁者を自分たちの味方だと思う。総理大臣が自動車で遠い郊外に出かけて、貧しい村の入口で馬に乗り替え、農家を訪問して慰労のことばを語っている写真を出せば、人々は、忙しい大臣が自動車にも乗らずに民情を視察しているのだと思って感心する。

五番めは、真実とうそをじょうずに織りまぜる方法である。いかなる宣伝も、うそだけではおそかれ早かれ国民に感づかれてしまう。そこで、ほんとうのことを言って人をひきつけ、自分の話を信用させておいて、だんだんとうそまでほんとうだと思わせることに成功する。あるいは、ほんとうの事実でも、その一つの点だけを取り出して示すと、言い表わし方次第では、まるで逆の印象を人々に与えることもできる。その一例として、次のようなおもしろい話がある。

印度洋を航海するある貨物船で、船長と一等運転士とが一日交替で船橋の指揮にあたり、当番の日の航海日誌を書くことになっていた。船長はまじめ一方の人物だが、一等運転士の方は老練な船乗りで、暇さえあれば酒を飲むことを楽しみにしていたために、ふたりの仲はよくなかった。ある日、船長が船橋に立っていると、一等運転士が、酔っぱらって、ウィスキィのあきびんを甲板の上にころがしているのが目についた。船長は、それをにがにがしく思ったので、その晩航海日誌を書くときに、そのことも記入しておいた。翌日、一等運転士が任務についてその日誌を読み、まっかに怒って、船長に抗議を申しこんだ。

「非番のときには、われわれは好きなことをしてよいはずです。私は、任務につきながら酒を飲んだのではありません。この日誌を会社の社長が読んだら、私のことをなんと思いますか」

「それは私も知っています」と船長は静かに答えた。「しかし、君がきのう酔っぱらっていたことにはまちがいはない。私は、ただその事実を書いただけです」

内心の不満を押さえて任務に服した一等運転士は、その晩の航海日誌に、「きょう、船長は一日じゅう酔っぱらっていなかった」と書いた。次の日にそれを見て怒ったのは、船長である。

「私が酔っていなかったなどと書くのは、けしからんではないか。まるで、私は他の日はいつも酔っぱらってでもいるようにみえる。私が酒を一滴も飲まないことは、君も知っているはずだ。君は、うその報告を書いて私を中傷しようとするのだ」

「さよう。あなたが酒を飲まないことは、私もよく知っています。しかし、あなたがきのう酔っていなかったことは事実です。私は、ただその事実を書いただけです」と一等運転士はひややかに答えた。

航海日誌に書かれたことは、どちらも事実である。しかし、言い表わし方のいかんによっては、事実とは反対の印象を読む人に与えることが、これでわかるであろう。

もう一つ、忘れてならない重要なことは、民衆がよほど注意しないと、宣伝戦ではいろいろな立場の党派が金を使って世論を支配しようと努め、いちばん多くの資金を持っている者が勝を制するということである。たとえば、ある党派が、企業の国家管理のように、企業家にとって不利な法案が議会を通過するのを妨げようとして運動し、それがうまくゆかないとみると、今度は、その法律をほとんど骨抜きにするような条文を入れようと努力する。もしも、そのような企てが金の力で成功したとするならば、民主主義は、それだけ金権政治に道をゆずったことになるのである。

四 宣伝機関

現代の発達した宣伝技術で、いちばん大きな役割を演じているのは、新聞と雑誌とラジオである。その他、ポスター・ビラ・映画・講演などもよく利用されるが、今言った三つは特に重要であり、中でも新聞の持つ力は最も大きい。新聞は、世論の忠実な反映でなければならない。むしろ新聞は確実な事実を基礎として、世論を正しく指導すべきである。しかし、逆にまた新聞によって世論が捏造ねつぞうされることも多い。

新聞が宣伝の道具として持つ価値が大きいだけに、これを利用しようとする者は、巨額な金を投じて新聞を買収しようとする、あるいは、自分の手で新聞を発行する。その新聞がどんな人物により、またはどの政党によって経営されているかがはっきりしていれば、読む人もそのつもりで読むから、たいした弊害はない。しかし、それをそうと見やぶりにくいような名まえの新聞でじょうずに宣伝をやると、国民の考えを大きく左右することができる。違った名まえの幾つもの新聞を買収すれば、いっそう効果がある。そのようにして、外形だけは民主主義の世の中にも金権政治が幅をきかせる。「地獄のさたも金次第」という。金が万能の力をもって世論を思うとおりに動かすようでは、ほんとうの民主主義は行われえない。

新聞の経営には金がかかる。その費用は、購読者が払う新聞代を集めた額よりもずっと多い。それなのに、どうして新聞の経営が成りたってゆくのだろうか。ほかでもない。その足りない部分は、広告の収入でまかなわれるのである。したがって、購読者も、それだけ安い新聞代でおもしろい新聞が読めることになる。ときには、新聞を発行する費用の半分以上が広告の収入でまかなわれることさえある。それでみても、新聞広告がどれほどききめがあるかということが、わかるであろう。広告がきくということは、新聞が宣伝機関として、それだけすばらしいねうちを持っていることを物語るのである。広告でさえそうなのだから、記事をじょうずに、おもしろく、人の目をひくように載せ、珍しい写真などを掲げれば、どんなに効果があるかは、想像にあまりがある。同じ事件を取り扱うにしても、大きな活字で見出しをつけるのと、小さくすみの方に掲げるのとでは、まるでききめが違う。無根の事実を書いて人を中傷すれば、あとで小さくとり消しを出しても、その人の信用は地に落ちてしまう。世論を動かす新聞の力は、このように大きい。それだけに、新聞を経営する人たちの持つ責任は、きわめて重大であるといわなければならない。

これと同じようなことが、雑誌その他の定期刊行物についてもいえる。雑誌も、発行部数の多い大雑誌になると、宣伝機関として大きな利用価値がある。したがって、雑誌社の経費のかなりの部分が広告の収入でまかなわれる。

それよりも、もっとおもしろいのはラジオである。今の日本では、すべての放送局が一つの放送協会によって経営され、その経費は聴取者の払う料金でまかなわれて、ラジオを広告につかうということは行われていない。ところが、アメリカでは、六百以上の私設放送局がある。東京の半分ぐらいの都会に幾つもの放送局があって、いろいろとおもしろい番組を作って競争している。しかも、聴取者からは、いっさい料金を取らない。放送の中に広告を組み入れ、その料金で経営しているのである。

このように、新聞や雑誌やラジオは広告にそのおもな財源を求めているから、なるべく多くの広告を得ようとして競争する。広告を得るために、特に努力しないでも、広告主の方から広告を頼みに来る大新聞や大雑誌ならば、わざと広告主のごきげんをとるようなことをする必要はないが、そうでない場合には、大広告主の気に入るような編集をしたり、その感情を害するような記事を載せることを恐れたりすることもありうる。そういう新聞や雑誌だと、広告主が集まってこれらの宣伝機関に圧力を加え、自分たちにとって不利な法律案が議会をとおることを妨げるように、論文や記事の書き方についていろいろと注文をつけることができる。その法律案の悪い点を大きく取りあげたり、その支持者の悪口を書いたりさせる。そういう技巧によって、何も知らない読者の気持を動かしてしまうことは決してむずかしいことではない。

一方また、小さな雑誌や地方新聞の中には、土地の有力者を、不利な事実を書くぞと言って脅迫し、それを書かないことの代わりに多額の金を出させる者などもある。他方には、自分にとって有利な記事を載せさせるため、それらの雑誌や新聞にたくさんの金を注ぎこむ候補者もいる。そういう悪徳記者や、ずるい候補者がいると、有権者はそれにまどわされて、よい人に投票せず、不適任な人物を選んでしまうということになりがちだ。

新聞記事にはそんな事情でうその書かれることが多いとすれば、それをきびしく監督し、政府が前もって検閲して、そのような弊害を防止すればよいと思うかもしれない。しかし、それはなお悪い結果になる。なぜならば、そうすると、今度は政府がその権力を利用して、自分の政党のために不利なような論説や記事をさし止め、その立場にとって有利なことだけを書かせるようになるからである。それは、国民をめくらにし、権力者が宣伝機関を独占する最も危険なやり方である。言論機関に対する統制と検閲こそ、独裁者の用いるいちばん有力な武器なのである。

だから民主国家では、かならず言論・出版の自由を保障している。それによって国民は政府の政策を批判し、不正に対しては堂々と抗議することができる。その自由があるかぎり、政治上の不満が直接行動となって爆発する危険はない。政府が、危険と思う思想を抑圧すると、その思想はかならず地下にもぐってだんだんと不満や反抗の気持をつのらせ、ついには社会的・政治的不安を招くようになる。政府は国民の世論によって政治をしなければならないのに、その世論を政府が思うように動かそうとするようでは民主主義の精神は踏みにじられてしまう。

政治は真実に基づいて行われなければならない。しかも、その真実は自由な討論によって生み出されるということこそ、民主主義の根本の原則なのである。甲の主張と乙の立場とを自由に討議させる。甲は宣伝によって国民の心をひきつけ、選挙でも多数の投票を得て、乙に対する勝利を占める。しかし、もしも甲の宣伝が真実でなかったならば、その勝利はいつまでも続くだろうか。国民が真実を発見する能力を持たなければ、真実を言った乙の立場はいつまでも浮かぶ瀬はないであろう。これに反して、国民にその力さえあれば、甲の人気はやがて地に落ちる。そうして、少数だった乙の立場の方が有力になってくる。いや、もしも国民がほんとうに賢明であるならば、初めから甲の宣伝にのせられて判断をあやまることもないであろう。

図 目ざめた有権者こそ嘘発見器

だから、自由な言論のもとで真実を発見する道は、国民が「目ざめた有権者」になる以外にはない。目ざめた有権者は、最も確かなうそ発見器である。国民さえ賢明ならば、新聞がうそを書いても売れないから、真実を報道するようになる。国民の正しい批判には勝てないから、新聞や、雑誌のような宣伝機関は真の世論を反映するようになる。それによって政治が常に正しい方向に向けられてゆくのだ。

五 報道に対する科学的考察

真実を探求するのは、科学の任務である。だから、うそと誠、まちがった宣伝と真実とを区別するには、科学が真理を探求するのと同じようなしかたで、新聞や雑誌やパンフレットを通じて与えられる報道を、冷静に考察しなければならない。乱れとぶ宣伝を科学的に考察して、その中から真実を見つけ出す習慣をつけなければならない。

一、科学的考察をするにあたって、まず心がけなければならないのは、先入観念を取り除くということである。われわれは、長い間の経験や、小さい時から教えられ、言い聞かされたことや、最初に感心して読んだ本や、その他いろいろな原因によって、ある一つの考え方に慣らされ、何ごともまずその立場から判断しようとするくせがついている。それは、よいことである場合もある。しかし、まちがいであることもある。そういう先入観念を反省しないでものごとを考えてゆくことは、とんでもないかたよった判断にとらわれてしまうもとになる。昔の人は、風の神が風をおこし、地下のなまずがあばれると地震になると思っていた。そういう迷信や先入観念を取り除くことが、科学の発達する第一歩であった。近ごろでも、日本人は、苦しい戦争のときには「神風」が吹くと信じていた。大本営の発表ならばほんとうだと思いこんでいた。そういう先入観念ぐらい恐ろしいものはない。政治上の判断からそのような先入観念を除き去ることは、科学的考察の第一歩である。

二、次にたいせつなのは、情報がどういうところから出ているかを知ることである。読んだり、聞いたりしたことを、そのまま信じこむことは、ただに愚かなことであるばかりでなく、また非常に危険である。だから、いつも自分自身に次のようなことを質問してみるがよい。すなわち、だれがそれを書き、それを言ったか。それはどんな連中だろうか。かれらにはそういうことを言う資格があるのか。どこで、どうしてその情報を得たか。かれらは先入観念を持ってはいないか、ほんとうに公平無私な人たちか。あるいは、まことしやかなその発表の裏に、何か利己的な動機が隠されてはいないか。こういった質問を自分自身でやってみることは、確かに科学的考察の役にたつであろう。

三、新聞や雑誌などを読むときに、次のような点に注意する。

イ、社説を読んで、その新聞や雑誌のだいたいの傾向、たとえば、保守か、急進かをできるだけ早くつかむこと。

ロ、それがわかったならば、それとは反対の立場の刊行物も読んで、どちらの言っていることが正しいかを判断すること。

ハ、低級な記事を掲げたり、異常な興味をそそるような書き方をしたり、ことさらに人を中傷したりしているかどうかを見ること。

ニ、論説や記事の見出しと、そこに書かれている内容とを比べてみること。記事の内容にはだいたいほんとうのことが書いてあっても、それにふさわしくない標題を大きく掲げ、読者にまるで違った印象を与えようとすることがあるから、標題を見ただけで早合点してはいけない。

ホ、新聞や雑誌の経営者がどんな人たちか、その背後にどんな後援者がいるかに注意すること。政府の権力に迎合する新聞を御用新聞というが、政府でなく、金権階級におもねるような新聞も、御用新聞であることに変わりはない。

四、毎日の新聞やラジオは国際問題でにぎわっている。今日では、国の内部の政治は国際問題と切り離すことのできない関係があるから、国際事情には絶えず気をつけて、その動きを正しく理解することが必要である。戦争前の日本国民は、世界じゅうが日本のやることをどう見ているかを少しも考えずに、ひとりよがりの優越感にひたっていた。これからも、日本が国際関係の中でどういう立場におかれているかを、絶えずしっかりと頭に入れて、そのうえで国内の問題を考えてゆかなければならない。国際間の宣伝は、国内におけるよりももっと激しく、もっとじょうずに行われるから、いろいろなことを主張し、論争している国々の、ほんとうの目的を察知するように努めなければならない。特に、言論や出版が政府の手で厳重に統制されている国に対しては、そういう注意がたいせつである。

図 情報の科学的考察

五、世の中の問題は複雑である。問題の一つの面だけ取りあげて、それで議論をすることは、きわめて危険である。だから、ある主張をする者に対しては、問題の他の反面についてどう思うか聞いてみるがよい。宣伝を読み、かつ聞くだけでなく、逆にこちらからもいろいろと疑問をいだいて、それを問いただす機会を持たなければならない。それには、討論会などをさかんに開くことが有益である。学校などでも、クラスごとに時事問題についての討論会を行うがよい。研究グループを作る時には、反対の考えの人々をも仲間に入れなければならない。それは、科学者の行う実験のようなものである。いろいろな場合をためしてみ、いろいろな人の研究の結果を聞くことによって、誤りはだんだんと取り除かれ、共通の一つの真実が見いだされる。そういうふうにして、ものごとを科学的に考察する習慣をつけておけば、それが民主主義の社会で責任のある行動をする場合に、どんなに役にたつかしれない。

要するに、有権者のひとりひとりが賢明にならなければ、民主主義はうまくゆかない。国民が賢明で、ものごとを科学的に考えるようになれば、うその宣伝はたちまち見破られてしまうから、だれも無責任なことを言いふらすことはできなくなる。高い知性と、真実を愛する心と、発見された真実を守ろうとする意志と、正しい方針を責任を持って貫く実行力と、そういう人々の間のお互の尊敬と協力と――りっぱな民主国家を建設する原動力はそこにある。そこにだけあって、それ以外にはない。