民主主義, 文部省

第七章 政治と国民


一 人任せの政治と自分たちの政治

民主主義が、単に選挙のときに投票をしたりする政治上の民主主義だけでなく、もっと広い、もっと大きな事柄であることは、前にも述べたとおりであるが、その政治上の民主主義を実現するには、各個人が政治に参与することが、不可欠の要件であることもまた、疑いのないことである。教育の普及にせよ、交通の発達にせよ、経済の繁栄にせよ、政治のよしあしによって影響されるところが非常に大きい。そのたいせつな政治を、人任せでなく、自分たちの仕事として行うという気持こそ、民主国家の国民の第一の心構えでなければならない。

日本人の間には、封建時代からのしきたりで、政治は自分たちの仕事ではないという考えがいまだに残っている。東洋では、昔から「らしむべし、知らしむべからず」ということがいわれてきた。政治をする者は、人々をその命令に従わせておけばよいのであって、政治の根本方針を知らせることは禁物だ、という意味である。政治の方針を知らせると、それをいろいろと批判する者が出てきて、かってな政治ができなくなるからである。わが国の政治家も、長い間そういう態度をとってきたために、国民は、自分たちは政治をされる立場にあるのであって、ほんとうに自分たちで「政治をする」という考えにはなかなかなれない。主権は国民にあるといっても、なんのことだかよくわからないという、とまどったような気持が抜けきれない。政治を人任せにするという態度も、そういうところからきている。

しかし、いったい、政治を人任せにしておいてよいものだろうか。国民の知らないうちに政治家たちによって戦争が計画され、夫やむすこを戦場に奪い去られ、あげくの果ては、家を焼かれ、財産を失い、食べるものにも窮するような悲惨な境遇におとしいれられたのは、ついこの間のことではなかったか。政治のやり方が悪いために、いちばんひどいめにあうのは、ほかならぬ国民自身である。反対に、よい政治が行われることによって、その利益を身にしみて感じる立場にある者も、また国民自身である。国民は政治を知らなければならない。政治に深い関心を持たなければならない。自分たちの力で政治をよくしてゆくという強い決意をいだかなければならない。政治のよしあしを身にしみてかみ分けることのできるのは国民であるから、その国民の手で政治を行うのが、政治をよくする唯一のたしかな方法である。民主主義の政治原理の根本は、まさにそこにある。国民が、政治を自分たちの仕事と思い、政治の急所をよく理解することは、政治の成果をあげるためにぜひとも必要である。政治は政府だけで行えるものではない。どんなによい政治の方針をたてても、国民がその気になって協力しなければ、決してよい結果は得られない。昭和二十二年の秋の初め、恐ろしい豪雨が関東地方を襲った。利根とね川を初め、幾つかの河川がはんらんして、大洪水となった。その少し前、東北地方も大水害にみまわれた。これらは天災には違いないが、どんな天災でも、ある程度まで人力で防げないことはない。政府がしっかりとした方針をたて、国民がそれを自分たちの仕事と思って協力すれば、天災をくい止めることも決して不可能ではない。東北や関東の水害の場合には、戦争中から水源地の森林をむやみに切り倒していたのがいけなかった。弱っている堤防を補強する代わりに、堤防の上まで耕して畑にしたのが、その決壊を早める原因となった。政府にも責任があるが、国民が治水や植林を自分たちの仕事と思って、それを真剣に考えることを怠っていたというそしりも免れないであろう。山や川が水の出やすい状態にあるときには、雨の少ない季節になると、今度は深刻な水不足にみまわれる。電力は低下し、水道も止まるようなことになる。どうすれば、そういう状態を改善することができるか。それを国民自らが考え、政府をして適切な方針をたてさせ、国民がすすんでこれに協力してゆくのが、「国民による、国民のための政治」にほかならない。

自然の災害を防いだり、天然資源を利用したりするにも、国民の協力が必要である。まして、人間の世の中のことをよくしてゆくためには、国民がその気になることが、絶対に必要な条件である。インフレーションが恐ろしいことは、だれでも知っている。生産を高めなければならないことは、みんな承知している。しかし、そのためにどんな政策を行っても、国民がその気にならなければ、決して効果はあがらない。人任せの政治では、国民は陰で政府の悪口を言うだけで、自分で責任をもつという気持にならない。結局、ずるい人間が得をして、正直者がばかをみることになる。それでは、世の中は悪くなるばかりである。政治をよくしてゆくには、国民のひとりひとりが責任を持たなければならない。無責任な人間の乗ずるすきのない政治を行わなければならない。だれがそれを行うか。国民がそれを行うのである。だから政治は、国民にとって「自分たちの仕事」なのだ。だから民主政治は「国民の政治」でなければならないのである。

二 地方自治

国民が政治を「自分たちの仕事」と思わなければならないわけは、これでわかる。ただ、国の政治となると、範囲も広いし、問題も複雑だし、なりゆきの見とおしも困難だし、それをどう「自分たちの仕事」とするかは、なかなか見当がつかないと思うかもしれない。しかし、政治は国の政治だけとはかぎらない。もっとせまい、もっと手近なところにも政治がある。町にも政治があり、村にも政治がある。国民は、同時に市民であり、町民であり、村民である。国の政治はむずかしくてわからない場合でも、町の政治や村の政治ならば、だれにもわかりやすい。それを「自分たちの仕事」と考えるのが、民主政治の第一歩である。

日本の国は、一つの都、一つの道、二つの府、四十二の県に分かれている。その中にまた、市があり、区があり、町があり、村がある。それらを地方自治団体という。明治憲法のもとでは、中央政府の支配者たちが天下りの命令を出し、地方の政治を動かし、町や村の事情にそぐわないことをも強制した。しかし、今度の憲法のもとでは、そういうことはできない。地方自治団体には、それぞれ自分たちの議決機関と執行機関とがあって、地方民がその任にあたる人々を選挙することになっている。県議会議員・市議会議員・村議会議員などを選挙するのはもとよりのこと、県議会・市議会・村議会などで議決した事柄を執行してゆく知事や市長や村長なども、みな選挙で決める。だれを代表者に選挙するか。選挙した代表者にどういう政治をしてもらうか。代表者たちが、県民・市民・村民などの期待するとおりの政治をしているかどうか。そういうことを自分からすすんで考えてゆくことによって、それらの政治がみんなにとっての「自分たちの仕事」になっていく。それは、決してむずかしいことでもなく、わからないことでもないはずである。

たとえば、ある村に荒地がある。水はけが悪いので耕作に適さない。そこを耕すには、費用もかかるし、労力もたいへんだ。そのために、昔からそのままになっている。しかし、それでよいのか。なんとか金の融通をつけ、みんなの協力でそこを開墾するくふうはないか。川の上流をせき止め、水はけをよくすれば、数町歩の水田が得られるだろう。せき止めた水はかんがいの用水に役だつだろう。それを村民がくふうし、実行力のある人を村議会議員や村長に選び、その計画を実行したとする。二年や三年は、村の財政は、赤字になるだろう。しかし、四年めには少しは収穫があるだろう。五年めの秋には、ふさふさとした黄金のみのりが見られるだろう。もちろん、ものごとすべてそううまくゆくとはかぎらない。だから、反対もあろうし、反対にも理由があろう。そこをみんなで考える。そうして、多数の賛成者が得られたならば、やってみる。村は進歩し、村民の生活はらくになる。それが村の政治だ。学校を建てるのでも、公民館をりっぱにするのでも、道路を改修するのでも、みな同じことだ。村民にとって、どうしてそれが「人任せの仕事」であってよいであろうか。一家協同で耕すのら仕事が、家族にとって「自分たちの仕事」であるのと同じように、それらはみんな、村人たちの「自分たちの仕事」でなければならない。

今の世の中では、国にも、地方にも、町にも、村にも、困難な問題が山のようにある。しかし、日本の問題を日本人が解決しようとしないで、だれがそれを解決してくれるか。それと同じく、地方の問題、町の問題、村の問題は、まずその地方の住民が、その町民が、その村民が、自分で考え、自分で解決に努力してゆかなければならない。「天は自ら助くるものを助く」という。村が県の援助を受け、地方が国の補助を受けるのは、それから先のことである。国民全体が努力に努力を重ねて、それでも力の及ばないところがあってはじめて、外国の援助や協力を期待することができるのと同じである。

地方自治の問題は、地方民の力で解決する。しかし、町民や村民は、それぞれ自分の職業を持っているから、町の政治、村の政治だけにかかりきりになっていることはできない。そこで、自分たちの中から代表者を選んで、もっぱらその方面の仕事をしてもらう。けれども、代表者を選んだから、あとはその人たちに任せておけばよいという態度であってはならない。町長や村長は何をしているか。町議会議員や村議会議員は何を議論しているか。感情問題にとらわれたり、党派の争いに気をとられたりしているようなことはないか。町民や村民は、いつもそのようなことに注意し、自分たちの代表者のすることを激励批判し、いうべき意見は筋をたてて申しでて、みんなで正しく明るい町の政治、村の政治をもりたててゆかなければならない。

政治は、だれにとっても「自分たちの仕事」であるべきだ。しかし、なんといっても、実際の仕事にたずさわってもらう代表者にその人を得るということは、最もたいせつである。だから、われと思う者は、町長や村議会議員にうって出るがよい。自分が代表者にならない場合にも、自分でうって出るのに劣らない熱心さをもって、自分たちの代表者をまじめに選挙すべきである。

しかし、選挙に熱中しすぎて、冷静な判断を失うようなことになっても困る。アメリカなどでは、選挙は国民の最も力こぶを入れる行事だから、ときにはそれが文字どおり鳴りもの入りで行われることもある。人目をひいて選挙戦を有利に導くために、楽隊を雇って大がかりな宣伝をする候補者もある。浮き立つ景気に心を奪われて、いかもの候補者に投票し、じみなまじめな人を落選させてしまう場合もあるそうだ。日本では、まだブラス・バンドで選挙戦に繰り出す者はないようだが、うわべの宣伝につられて、選ぶべき人を選ばない結果になることは少なくない。政治は神頼みでは解決しない。よい政治は、りっぱな人の力に頼まなければならない。だから、鎮守のお祭り以上に選挙に力こぶを入れるようになるのは結構なことだが、それだけ、から宣伝に乗せられないように注意することが、くれぐれもたいせつであろう。

三 国の政治

村の政治は村民の力で、町の政治は町民の意志で、地方の政治は地方民の協力でやってゆくのが、民主的な地方自治の原則である。しかし、村の政治は村だけでは解決しない。地方の問題には、地方だけではどうすることもできないことがたくさんある。だから、村のことを考えるには、地方全体のことに心を配らなければならない。地方の問題を解決するには、国全体の政治を考えてゆかなければならない。初めのうちは、国の政治は複雑で、広すぎて、わからないように思われるが、こうして地方地方のことを真剣に考えてゆくうちに、大きな国全体の政治問題についても、だんだんと理解ができ、識見を養うことができるようになってくる。

今の日本でいちばんたいせつな問題の一つが食糧問題であることは、いうまでもない。その食糧の生産を受け持つ農村は、年じゅう休む暇もない重労働に従事している。アメリカのような国では農村の工業化が大規模に行われていて、畑を耕すのも、種をまくのも、収穫をするのも、脱穀を行うのも、大部分機械の力でやる。飛行機で空から種をまくことすら行われている。日本のように土地が狭く、水田の多い国で、そのまねをすることはできないが、せめて電力や畜力だけでももっと豊富に、有効に使うようになれば、どのくらい農業生産の能率があがるかわからない。そうなれば、農村でも文化や教養にもっともっと力を注ぐ暇ができてくるであろう。しかし、それには、水力電気をもっと開発しなければならない。石炭も増産しなければならないし、畜産を奨励し、農業機械の改良・復旧も図らなければならない。そういうことは、一村・一町・一地方の問題ではなくて、国全体の政治がこれに協力することによってはじめて解決される。

これはほんの一例であるが、この一例でもわかるように、地方の政治は、すべて国全体の政治と密接に結びついている。だから、村の政治を真剣に考える人々は、地方の政治にも熱心にならざるを得ない。地方の問題に熱心な人々は、国全体の政治に深く心を配らないではいられない。村の政治を自分の仕事と思う気持は、そのまま、国の政治を自分の仕事と考える態度となってくるはずなのである。

しかし、町や村の政治から府や県の政治へ、地方の政治から国全体の政治へと範囲が広がってくるにつれて、問題が複雑の度をましてくることは確かである。国の政治といえども、国民が「自分たちの仕事」と考えなければならないことに変わりはないが、一町一村の事柄と違って、国全体の政治となると、一般の国民には、細かいところにまでたち入って、問題の要点をつかむことはむずかしい場合が多い。それに、町や村ならば、自分でその代表者にうって出る機会も多いが、国全体の政治だと、国会議員や大臣になって自分で政治をつかさどる立場に立つということは、ごく少数の人々にかぎられる。したがって、大多数の国民にとっては、できるだけよい代表者を国会議員に選出することが、国の政治に関与する最もたいせつな筋道だということになる。

ところで、同じく代表者を選ぶにしても、町議会議員や村議会議員ならば、選挙民は候補者の経歴や性質や意見をよく知っているから、だれを選ぶかを容易に決めることができる、これに反して国会議員となると、候補者の公報を見て、はじめて名まえや職業などを知るような場合が少なくない。その中から品定めをするのだから、いわば写真結婚のようなもので、なかなかどれがよいかを決めかねる。政見発表の演説やラジオを聞いても、それをそのままに受け取ってよいかどうかがあやぶまれる。それでは、選ぶ方も不安心だし、選ばれる方からみても、投票が偶然によって支配されることになってぐあいが悪い。また、選挙された何百人かの国会議員が、各個ばらばらの意見を主張し、各個別々の判断によって行動するというのであっては、政治の方針のしめくくりがつかない。そういう不都合は、どういう方法によって取り除かれうるであろうか。

四 政党

今述べたような不都合を取り除くために、民主政治の発達とともに発達してきたものは、政党である。民主政治は、政党を本位として行われる。国民にとっては、「人」を選ぶことはむずかしくても、どの「党」の主義主張に賛成すべきかを決めることはたやすい。代議士にとっては、個人としてではなく、政党の一員として行動することによって、その抱負を国政の上に強く押し進めてゆくことができる。政党は、地方の政治の場合にもいろいろな役割を演ずるが、特に、国全体の政治は政党によらないでは民主的に運用することはできない。それだけに、よい場合には非常によい働きをするし、悪い場合にはいろいろと弊害を伴なうのが、政党政治だといわなければならない。

政党は、政治について、同じような主義主張を有する人々によって作られる団体である。政治上の見解は、人によって大なり小なり違うのがあたりまえであるが、共通な点を取りまとめてゆけばだいたいとして幾つかの色彩に区分することができる。そうすれば、その共通の政策をはっきりと理論づけ、その原理を高く掲げ、一定の方針のもとに正々堂々と進退しうるようになる。そこに政党の意義がある。政治家はどれかの政党に属して選挙戦に臨む。国民は、どの政党の政策を支持すべきかを判断し、あわせて候補者の人柄を考え、これはと思う人に投票する。おのおのの政党が、国民の支持に応じて、あるいは多数の、あるいは少数の代議士を国会に送りこむ。そうして、反対の政党と議論をたたかわせたり、似かよった考え方の政党同士が協力したりして、国の政治の方針を決めてゆく。国民は、それを激励したり、批判したりして、自分たちの期待する政治が行われるようにかじを取る。国の政治もまた、そういうしかたで、国民にとって「自分たちの仕事」となっていく。

国の政治は複雑でむずかしい。複雑でむずかしいから、どういう政策を実行するのが正しいかについては、いろいろと意見が分かれる。だから、二つも三つも、ときには五つも六つも違った政党ができてくる。政党が幾つかに分かれるのは、当然のことである。それなのに、一つの政党の立場だけを正しいとし、他の立場の政党を認めないというのは、民主主義ではない。それは独裁主義である。

図 さまざまな政党

独裁主義は、反対党の存在を許さない。したがって、一国一党などといって、権力で思想を統制してしまう。これに反して、民主主義は言論の自由と政党を選ぶ自由とを尊ぶ。だから、多数党が政権を握っても、かならずその反対党があって、政府のやることを遠慮なく批判する。それによって、政府も多数党も自分の政策について反省することになるし、国民も、どういうところに問題があり、それについてどういう考え方がありうるかを知ることができる。少数党の意見は多数決によって否決されても、その見解が正しければ、だんだんと国民の支持を得て、少数党も多数党に成長する。このようにして運用されてゆくのが、民主主義の正しいあり方である。

しかし、さればといって、政党の数があまりに多くなることは、決して歓迎すべき状態ではない。政党が五つにも六つにも分かれると、その中のどれか一つが国会の過半数を占めるということは、非常に困難になる。したがって、国会の多数党が内閣を組織する場合、一つの政党だけでは力が足りないで、二つも三つもの政党の寄りあい世帯を作ることになる。二つ以上の政党が政策を協定して連立内閣を作ることが悪いというわけではないが、そういう政府は、ややもすれば政治力が弱くなるおそれがある。一つの信念をもってはっきりした政策を一貫させることができない。政府の中でおりあいが悪くなりやすい。一つの党が寝返りをうつと、与党が少数になって、内閣が立ちゆかなくなる。政府がいつも短命であったり、政府の政策が中途半端でぐらぐら変わったりすると、国民はだんだんと議会政治を信用しなくなる。そうして、反動的に、一筋道をまっしぐらに進む徹底した政治を求めて、独裁主義に走るおそれが生ずる。

だから、あまりに多くの政党に分裂するということはできるだけ避けなければならない。現在の日本のように、民主政治が行われてまもない状態では、ある党からうって出た代議士が、いつのまにかその党から脱退したり、無所属の議員や灰色の小会派をかり集めて新党を作ったりすることも、ある程度まではやむをえないにしても、早くそういう状態を精算することが望ましい。そうして、はっきりした主義を持つ二つか三つの大きな政党だけになって、小細工をする余地のない、堂々とした議会政治が行われるようになってゆかなければならない。

五 政党政治の弊害

民主主義は多数決によって行われる。選挙の場合にも、最も多くの投票を得た候補者が当選する。国会で法律を作るのも、内閣総理大臣を指名するのも、多数の決定するところによる。前の章で述べたように、この多数決原理を否定しては、民主政治は成りたたない。したがって、民主政治でものをいうのは数である。多数を得んがための公明正大な争いは、民主政治を推しすすめるための原動力である。しかし、その反面また、そこに政党政治に特有の弊害がかもし出されることには注意しなければならない。

政党政治に最もありがちな弊害は、「どろ試合」である。政党は、是が非でも多数を獲得しようとするから、とかくそのために手段を選ばないことになりやすい。そこで、選挙の際には、相手の政党の勢力をそぐために、単なる攻撃のための攻撃を行う。あることないことを並べたてて、政敵の立場を不利に導こうとする。果ては候補者の私生活までもあばいて、中傷や人身攻撃をやる。攻撃される方も黙ってはいられないから、「売りことばに買いことば」で、同じように公私の別を無視したそしりあいをする。そういうどろ試合は相手の顔にどろを塗るつもりで、実は自分の顔にもどろを塗ることになる。否、政党政治そのもの、民主主義そのものの顔にどろを塗ることになる。こうしたどろ試合は、総選挙が済んでもまだ終らないで、国会が成立したのちにまで持ち越されることがある。そうなると、一つの政党が他の政党の切りくずしをやる。政敵の信用を落とすような事実をさがし出して、ばくろ戦術を試みる。数ではかなわないとみると、政府の提出した法律案に対して長い反対演説をやる。賛成演説に対しては、やじをとばして議場を混乱させる。同じような質問をくり返して審議を長びかせる。議長が討論をうち切ろうとすれば、「横暴」と叫ぶ。果ては議長席につめよせたり、乱闘さわぎまで演ずる。そうして採決をおくらせて、審議未了ということに持ちこもうとする。審議未了のまま会期が終れば、多数党といえども法律案を通過させることができない。少数党は少数党で、そのような作戦を用いることがまれでない。

図 どろ試合

そういうどろ試合と並んで、政党政治につきまとう大きな弊害は、金の誘惑である。「地獄のさたも金次第」というが、政治の世界も金で動かされることが多い。公明な選挙であっても。多額の金がかかるのが普通である。まして選挙民に金をばらまいたり、新聞を買収したりすれば、ばくだいな費用がいる。選挙の費用の一部は党から出すにしても、政党は株式会社ではないから、自分で金をもうけることはできない。そこで、財閥から金を出してもらうということになれば、政権は金権によって左右されてしまう。以前の日本では、しばしばそういうことが行われた。政友会の黒幕は三井、民政党の金主は三菱ということは、国民の常識までになった。そんなありさまでは、公明な政治の行われるはずはない。またその金が流れて、選挙民がそれによって買収されるようなことになっては、民主政治もおしまいである。昭和の時代になって、軍を中心とする独裁政治が横行するにいたった大きな原因の一つは、こうした政党政治の腐敗にあった。

これらの弊害を取り除くにはどうしたらよいか。

その第一は、政党が公党としての自覚に徹底することである。政党は、国民を代表してその主張を政治のうえに実現してゆこうとするものであるから、はっきりした政策を掲げ、それを忠実に遂行するように努めなければならない。しかし政治は生きものであるから、はっきりした政策といっても、現実にあわない公式論では困る。そこで、移り変わる世の中に応じうるように、その政策に絶えず新味と弾力性とを持たせてゆくことが必要である。政党人はそういう政策を中心として公明正大に行動し、公表された政策に共鳴する国民は、その政党に信頼してこれを支持するようになれば、政党が金や情実によって動かされる危険は、よほど少なくなるに相違ない。

第二に、政党それ自身が民主主義的に組織されることである。政党にりっぱな人物を得ることがたいせつであるのは、いうまでもない。政党は、政策と人とによろしきを得ることによって発展する。特に、党の幹部がしっかりしていないでは、とうてい政党の団結を維持してゆくことはできない。しかし、幹部がしっかりしているということと、幹部の命令が独裁的に行われるということは、全然違う。政党が金で動くようになると、党の幹部のいちばん大事な仕事は金を集めることになってしまう。そうして、そうした点で最も有力な人間が総裁にたてまつられ、むずかしいことはすべて総裁一任ということになる。

政党は民主政治の中心であるから、その内部が民主的に組織されなければならないことは、あたりまえである。党の規律は重んぜられなければならないけれども、それと並んで党の中での公開討議が尊重され、指導的な人物が推されて幹部になるというふうでなければならない。それと同時に、党の経費は財閥や少数の金持からみつがれるのではなく、なるべく広い支持者の寄附金によってまかなわれるようにすべきである。

第三に、政党には、相手方の立場を理解する雅量が必要である。政党は、それぞれ違った主義や綱領によって立っているのであるから、その間に対立があり、政争が行われるのは当然である。しかし、いかに政党の間に対立があっても、それは結局、国の政治をよくし、国民生活を向上させるためなのであるから、互に主義主張を争うことそのことによって、すべての政党が同じ一つの目的に向かって協力しているはずでなければならない。だから、政党は、相手方の主張にもよく耳を傾け、正しい意見はすすんで採り入れるだけの寛容さを持たなければならぬ。特に、多数党は少数党の主張を重んじなければならぬ。多数によって少数を圧迫し、是非にかかわらず採決で勝利を獲得すれば、多数党の横暴となることを免れない。国民の禍福の分かれ道になる問題を、右からも左からも、上からも下からもよく見て、よく研究し、互の論議を重ねつつ、ただ一つの真理を発見してゆこうとする謙譲の精神があってこそ、花も実もある政党政治が行われうる。

しかし、これらのことの根本をなすのは、国民の良識である。政党は、国民の心の鏡のようなものである。国民の心が曲がっていれば、曲がった政党ができる。国民の気持がさもしければ、さもしい政党が並び立って、みにくい争いをするようになる。それを見て、政党の悪口を言うより先に、何よりもたいせつな国民の代表者に、ほんとうに信頼できるりっぱな人を選ぶことを心がけなければならない。国民がみんな「目ざめた有権者」になること、そうして、政治を「自分たちの仕事」として、それをよくするために絶えず努力してゆくこと、民主政治を栄えさせる道は、このほかにはない。