ポツダム宣言を受諾したのちの日本では、まず、政治の民主主義化が思いきって行われた。憲法ができ、国会を中心とする政治の組織が確立され、天皇の権威をかさにきた軍閥や特権階級の勢力は一掃された。前には役所の権力を握って国民をあごでさしずしていた官僚は、国民の公僕とよばれるようになった。地方自治制も改革され、地方の政治のおもだった地位につく人は、選挙で決まることになった。制度のうえからみれば、今日の日本はまさにりっぱな民主国家である。政治の形だけについていえば、もうこのうえ民主主義化する余地は、あまり残っていないといってもよい。
しかし、民主主義は決して単なる政治上の制度ではない。それは、その根本において社会生活のあり方であり、社会生活を営むすべての人々の心のもち方である。政治上の制度だけならば、それを民主化することはかならずしも困難なことではない。もちろん、民主政治の制度を、今日みるような形にまで発達させるために、人類の長い苦闘と努力の歴史が必要であったことは、第二章で概観したとおりである。けれども、日本のように、敗戦によって過去の政治組織がいっぺんにくずれ、そのあとに、西洋の進んだ国々の政治形態の大きな影響を受けつつ、新たな制度を採用するという場合には、既にたくさんの模範や先例があるのだから、事は比較的に容易なのである。これに反して、社会生活の根本から民主主義化するということになると、これは一朝一夕にできる事柄ではない。長い間、人の心にしみこんできた民主主義的でない気持をぬぐいさり、日常生活のすみずみまで民主主義の精神を行きわたらせるには、なみなみならぬ覚悟と修練とがいる。しかも、それが行われなければ、政治の形のうえでの民主主義も決してほんものにはなりえないのである。
民主主義の発達する前には、西洋にも封建制度が行われていた。諸侯や貴族が広い土地の領主となって、その土地の人民を支配していた。領主にはおおぜいの家来がいて、それらの家来は、領主には忠節を励むが、人民に対しては大きな顔をして権力をふるっていた。そういうふうに、人間の間に身分の差別があって、身分によって人間のねうちに大きなへだたりをつけるのが、封建制度の特色である。日本にも、武家政治の時代を通じて、長い間封建制度が続いた。中央には絶大の権力を持つ将軍があり、地方には大名があって、どんなばか殿様でも、人民は土下座してこれを迎えなければならなかった。将軍や大名の家来は武士で、武士にもいろいろな階級があり、しかも、その武士はすべて一般人民の上に位していた。士農工商といって、社会生活の階層がはっきりと身分で決まり、両刀を帯びた武士は、ちょっとしたことで人民を殺しても、「切りすて御免」といって涼しい顔をしていた。そういう封建制度は、明治維新によって廃止されたけれども、そのなごりは最近まで存在していた。華族という特権階級が尊ばれたり、士族とか平民とかいう無意味な族籍を履歴書に書いたりすることは、ついこの間まで行われた。
なるほど、それらのことも、今はまったくなくなった。しかし、日本人の心の中には、まだまだ封建的な気持が残っている。人間のほんとうのねうちを見ないで、家柄によって人を敬ったり、さげすんだりするのは、封建思想である。上役が下役にいばりちらしたり、気に入った子分だけをひきたてたりするのも、封建的である。親の威光で子供の人格を無視したり、夫が妻を一段低いもののように見下すのも、封建時代のなごりである。人と人との間に、人格的な価値とは無関係な上下の差別をつけてみたがるのは、日本人の封建性の表われである。そういうくせを取り除かないかぎり、社会生活の真の民主化は行われない。
もちろん、人間の間には、才能の違いもあるし、経験の大小もあるし、人格の高下もある。人格・識見の高い人が世の中の尊敬を受けるのはあたりまえである。すぐれた才能を持ち、深い経験を積んだ人が、高い月給で重い地位につくのも、当然である。社会生活の民主化とは、そういうことを無視する意味では決してない。同じ仕事をして、十の成績をあげる人と、一の能率しか示さない人とを、まったく同じように待遇するのは悪平等であって、決してほんとうの平等ではない。しかし、そういう地位や待遇の違いは、人間の真価によって定まるべきものである。高い地位についているから偉いのではなくて、りっぱな人だから重要な仕事を受け持つのでなければならぬ。たとえば、学校でも、先生は先生だからなんでも敬われなければならないのではなく、先生は学問もあり、人格も高く、世の中の経験を数多く積んでいればこそ、生徒を監督したり、指導したりする責任の立場に立つのでなければならぬ。
日本の社会の中でも、特に手近なところで民主化される必要があるのは、われわれの営んでいる家庭生活であろう。父親が父親なるがゆえに子供にむりなことを強制したり、夫が夫なるがゆえに妻に従属と一方的な奉仕とを要求したりするのは、まったく理由のないことである。弟も妹も同じ子供であるのに、特に長男だけをたいせつにするのも、個人を平等に尊重するという精神を妨げる不合理な風習である。親は親だから権威があるのではなく、親たる愛と年長者としての識見と経験とをもって子供を心から監護すればこそ、子供も自然の敬愛と信頼とをもってこれに従うのである。夫婦の間柄も兄弟姉妹の関係も、お互の人格を認めあってこそ、円満に平和に秩序づけられうる。家庭は社会縮図である。その意味で、社会生活における民主主義の実践は、まず家庭から始められなければならない。
社会生活における民主主義の根本の原理は、人間を個人として尊重するということである。尊重されるのは、だれだろう。それは、「わたし」であり、「あなた」である。人はよく、「わたしはこんなつまらない人間だから」などと言う。言うだけでなく、実際にそう思う。人間は、うぬぼれてはいけないから、そういう謙譲な気持もいちめんでは必要かもしれない。しかし、その謙譲な気持をよいことにして、そういう人々を思うようにあしらい、自分のかってな欲望を遂げようとする者があった場合、それでも黙っているのが正しいことであろうか。「あなた」の生活を踏みにじり、「わたし」の努力をだいなしにされても、「御むりごもっとも」と言って横車を押させてよいものだろうか。そうではあるまい。そうであってはならないと思うところに、人間の自覚がある。「わたし」であろうと「あなた」であろうと、人間としての存在は何よりも重んぜられなければならない。民主的な社会生活は、このような人間の自覚と個人の尊重とから始まる。
「泣く子と地頭には勝てない」ということばがある。「むりが通れば道理引っこむ」ということわざがある。日本人の心にしみこんだ封建的な気持を、これほどよく言い表わしていることばはない。自分の信念をも主張しえず、権勢の前に泣き寝入りをするのがあたりまえのような世の中が、どうして正しく明るくなってゆくみこみがあろうか。卑屈な、じめじめした、陰口ばかり言いあっている社会生活ほど、堪えられないものはあるまい。家庭の中にそういう空気はないだろうか。学校にはそんな気分が残っていないだろうか。役場や工場にそうした傾向がありはしないだろうか。もしもそういうところがあったならば、だれがその空気を払いのけるのか。その家庭の人々、その学校の先生や生徒たち、その役場や工場の勤務員以外に、それをやり遂げる者はない。みんなが人間としての自覚を持ち、「すべての人に為られんと思ふことは、人にもまたそのごとくする」以外に、明るく住みよい社会を作り上げてゆく方法はない。
すべての人間は、生きる権利がある。めいめいがその幸福な生活を築きあげてゆく権利を持っている。できるだけ多くの人々ができるだけ幸福になることは、人間社会の理想である。
封建社会では、少数の特権階級の幸福のために、大多数の人々の幸福が犠牲にされた。専制時代には、専制君主の虫の居どころ一つで、誠実な家来や善良な人民が、虫けらのように殺された。独裁政治の横行している場合には、独裁者の計画した戦争のために、幾百万という命が奪い去られた。人間の生命は何よりも尊い。人間の幸福は花園のように美しい。人はすべて、平等に幸福を分かちあいうるようにならなければならない。民主主義は、そのために封建制度を倒し、専制主義をくつがえし、独裁政治とたたかった。自ら血と汗と涙でたたかい取った精神的な財宝であるがゆえに、西洋の進んだ民主国家の国民は、人間の自由と個人の権利とを、あくまでも守り抜こうとする強い意志を持っている。日本人には、自由と権利とを自分たちでたたかい取った経験が少ないだけに、まだそれをほんとうに自分から尊く思う気持が出てこない傾きがある。しかし、それがこのうえもなく尊いものであることは、西洋と東洋とで変わるはずはない。恐るべき戦争の記憶がまだ生々しい今こそ、その尊さを真に心の中でかみしめるべき絶好の機会である。
人間は、すべて平等に幸福を求める権利を有する。しかし、幸福は、天から降ってくるものでも、地からわいて出るものでもない。幸福は、人間の勤労と努力とによって築きあげられてゆくのである。だから、社会に生活するすべての人間は、営々と働かなければならぬ。自ら働くことの喜びを味わうとともに、他人の額に汗する勤労を尊ばなければならぬ。
もっとも、人間の世の中にはいろいろと矛盾があって、民主主義が行われるようになっても、働く者の暮らしがらくにならず、働かない者のふところに金がころがりこむ場合が少なくない。それは、主として経済生活における民主主義の問題であるから、次の章で考察することとしよう。けれども、経済の組織の問題は別としても、ほんとうに人間を個人として尊重する精神が行きわたれば、経済生活に伴う矛盾の多くは、それによって解決されるはずである。他人の勤労によって得られた利益を、働かない人間が絞り取るようなしくみは、結局は民主主義の根本精神を裏ぎる考え方が、社会の中に深く巣をくっている結果として現われてくるのである。哲学者カントは、「それが自分自身であろうと、どんな他人であろうと、人間を常に同時に目的として取り扱うべきであり、決して、それを単なる目的のための手段にのみ用いるようなことがあってはならない」と説いた。他人の目的のための単なる手段として利用される者は、奴隷である。他人を自分の利己心の道具として用いるのは、人間の尊厳なねうちをふみにじる罪悪である。民主主義は、社会生活からあらゆる意味での奴隷を駆逐しなければならない。他人の汗の結晶を、ぬれ手であわをつかむように、つかみ取る罪悪を追放してゆかなければならない。
人間を個人として尊重する立場は、個人主義である。だから、民主主義の根本精神は個人主義に立脚する。軍国主義の時代の日本の政治家や思想家たちは、民主主義を圧迫した。したがって、その根本にある個人主義を、いやしむべき利己主義であるとののしった。しかし、これほど大きなまちがいはない。個人主義は、個人こそあらゆる社会活動の単位であり、したがって、個人の完成こそいっさいの社会進歩の基礎であることを認める立場である。すべての個人が社会人としてりっぱになれば、世の中は自然とりっぱになる。個人個人の生活が向上すれば、おのずと明るい幸福な社会が作り上げられる。ゆえに、尊重さるべきものは、「一部の人間」ではなく、ましていわんや「おのれひとり」ではなく、生きとし生ける「すべての個人」である。その考え方のどこに、いやしむべき利己主義がひそんでいるのであろうか。
民主主義に反対するものは、独裁主義である。ゆえに、独裁主義は個人主義を排斥する。そうして、その代わりに、全体主義を主張する。
全体主義は、個人を尊重しないで、個人をこえた社会全体を尊重する。民族全体とか国家全体とかいうようなものを、いちばん尊いものと考える。民族や国家は、個人をこえた全体として、それ自身の生命を持ち、それ自身として発展してゆくにものであるとみる。そうして、すべての社会生活の目的は、そのような尊い全体を発展させ、繁栄させてゆくにあると説く。全体がまず尊ばれるということは、部分の価値をそれに従属させるということである。社会全体の部分をなしているものは、個人である。だから、全体主義は、個人の尊さを認めない。個人は、全体のための犠牲とならなければならないと教える。戦時中の日本では、滅私奉公ということがさかんに唱えられた。個人の幸福、否、個人の生命をも捨てて、国家のために殉じなければならないと言う意味である。国民に対しては、「命を鴻毛の軽きに比する」ということが要求された。イタリアのファシズムも、同じような極端な国家主義を採った。ドイツのナチズムは、国家の代わりに民族全体を至上・絶対の尊いものにまでまつりあげた。のみならず、今日のソ連その他の共産主義者の中にも、これに似かよった全体主義の考え方があるようにみえる。
なるほど、民族や国家はたいせつなものである。しかし、民族のひとりひとりが栄えないで、どこに民族全体の繁栄がありえようか。国民のすべてを犠牲にして、どうして国全体が発展する余地があるであろうか。民族や国家の繁栄といっても、その民族や国家に属するすべての個人の繁栄以外にはありえないはずなのである。それなのに個人の尊さを否定して、社会全体を絶対に尊いものだと教えこむのは、独裁主義のからくり以外の何ものでもない。
独裁者は、国民にそういうことを教えこんで、国民が犠牲をいとわないようにしむける。そうして、これは民族のためだ、国家のためだといって、「滅私奉公」の政策を強要する。その間に、戦争を計画し、戦争を準備する。戦争ほど個人の犠牲を大量に必要とするものはない。だから、戦争という大ばくちをやろうとする者は、国民に、国家のために命をささげるのが尊いことだと思いこませる。道徳も、宗教も、教育も、すべてそういう政策の道具に使われる。
全体主義者は、民主主義をけなすために、民主主義は個人主義だから、民主国家の国民は国家観念がうすく、愛国心に乏しいという。愛国心に乏しいから、いくら軍艦や飛行機をたくさん持っていても、戦争には弱いという。それがどんなに大きなまちがいであるかは、今度の戦争でよく証明された。
民主主義者は、国家の重んずべきことを心得ている。祖国の愛すべきことを知っている。しかし、国家のためということを名として、国民の個人としての尊厳な自由や権利を踏みにじることに対しては、あくまでも反対する。国家は、社会生活の秩序を維持し、国民の幸福を増進するために必要な制度であってこそ、重んぜられるべきである。国民がともに働き、ともどもに助けあい、一致団結して築きあげた祖国であればこそ、愛するに値する。民主主義が最も尊ぶものは、個人生活の完成であり、すべての個人の連帯・協力によって発達してゆくところの社会生活である。国家は、そのような社会生活の向上・発展を保護し、促進するために存在する政治上の組織にほかならない。
全体主義の考え方が危険であるのは、内に向かって国民の個人としての基本的権利や生活を踏みにじるためばかりではない。それはまた、外に向かっては他の国家の利益を侵害してはばからない態度となる。全体主義は、すべての国々の主権と安全を等しく尊重するのではなくて、「わが国」だけが世界でいちばんすぐれた、いちばん尊い国家であると考える。したがって、他の国々はどうなっても、自分の国さえ強大になればよいと思う。そこから導き出される結論は、自分の国を強くするためには手段を選ばないという国家的な利己主義であり、外国を武力でおどしたり、力ずくで隣国の領土を奪ったりする侵略主義である。全体主義は戦争の危険を招きやすい。だから、恐るべき戦争を繰り返さないためには、再び全体主義の誤りに陥ってはならない。
これに反して、民主主義は個人の価値と尊厳とに対する深い尊敬を基礎としている。自国の国民を尊重するばかりでなく、外国の国民も等しく人間として尊重する。だから、自分の国が栄えるとともに、他の国々もともに栄えることを願う。そこから出てくるものは、偽りのない国際協力の態度であり、崇高な世界平和擁護の精神である。民主主義によってこそ、世界はだんだんと一つになる。おのおのの国がその特色を生かし、その任務を果たすことによって、生きとし生けるすべての人間に平安と幸福とをもたらすべき、ただ一つの世界が次第に築き上げられていく。
個人主義は、自分であると他人であるとを問わずに、すべての人間を個人として尊重する。自分を尊重するのは、自分の人格をたいせつにすることであり、自己の正当な権利を擁護することである。人格を重んずる者は、自分の人格をみがくことに努めなければならない。自己の正当な権利を主張する者は、同様に、他人の正当な権利を重んじなければならない。自分の人格がいやしいのに、どうして他人から尊敬されることを期待しえようか。他人の立場を重んじないで、どうして自分の立場だけを認めさせる資格があろうか。だから、個人主義は、個人の権利を重んずると同時に、個人の責任を重んずる。個人個人がその責任を自覚することによって、すべての社会活動が円滑に行われるようになることを期待する。
民主主義の社会生活では、すべての人々が、自分のいっさいの行動について責任を持たなければならない。何か仕事をやってみて、うまくいったときには大いにその権利を主張する代わりに、失敗すればすぐ他人のせいにするというようなやり方は、最も卑怯な態度である。すべての人がそれぞれその持場を守り、その個性を発揮し、責任をもってその任務を遂行するのでなければ、社会生活の向上は望まれない。
野球を見ても、投手はボールを投げ、捕手はボールを受ける。遊撃をゴロがおそえば、はっしとこれを取って二塁に投げ、二塁手は直ちに一塁に転送して、みごとにダブル・プレイを演ずる。ライト・センター間の大飛球をふたりの外野手がともに追っても、右翼手が一歩球に近ければ、中堅手は功名争いをやめて、捕球を右翼手にゆずる。九人がそれぞれ別々の行動をし、おのおのその特色を発揮しながら、ちょうどひとりの人が手足を動かすように全体の統一がとれ、みんなで共同の目的に向かって一糸乱れずに協力している。民主主義の社会生活も、一流チームの野球のようになればたいしたものだ。
しかし、社会生活は、えりすぐったわずか九人の選手だけでやる野球とは違う。村だけでも何千という村民がある。町には二万、三万の人が集まって生活している。国全体となると何千万という人口である。その中には、悪い人間もある。したいほうだいなことをして、他人に大きな迷惑をかける者もある。どろぼうもいれば、強盗もいる。それをそのままにしておいたのでは、社会生活は成りたたない。そこで、法律があって、犯罪を処罰する。悪い人間を取り締まる。良民の正当な権利を擁護してくれる。所有権を侵された場合には、それを取りもどしてくれる。不当の損害を受けたならば、裁判所に訴えて、賠償を求めることができる。法律といえば、こわいもののように思い、裁判ざたになるといえば、いまわしいことのように考えるのは、権力をびくびくと恐れていたころのくせが残っているからだ。民主国家の国民は、権利のうえに眠っていてはいけない。正しい権利は、堂々と国法に訴えて争うべきだ。法律と裁判所とは、国民によって作られた、国民のための味方でなければならない。
それと同時に、法律上の権利を主張することだけに急であって、義務を行うことをなおざりにするようであってはならないことは、いうまでもない。まして、法律をたてにとって弱い者をいじめ、非道な契約をおしつけて、不当な利益をむさぼるようなことは、はなはだしい法律の悪用である。
むかし、イタリアのヴェニスに、アントニオという善良な市民がいた。友人のために金を用立てる必要があって、高利貸のシャイロックから三千両を借りた。その証文には、返金できない場合には肉一ポンドを切り取ると書いてあった。アントニオは金を返すことができなかったために、シャイロックはこれを訴えて、約束通り肉一ポンドを切り取ると言って迫った。アントニオの恩を受けた友だちの妻ポーシャは、裁判官に変装して法廷に現われ、証文には肉一ポンドを切り取るとあって、血を取るとは書いていない、一滴の血も流さずに、しかも一ポンドかっきり狂いなく切り取ることができるか、できるものならばやってみよ、と判決し、とうとうシャイロックを恐れ入らせた。これは、シェークスピアの「ヴェニスの商人」の物語である。今の世の中に、こんなばかげた契約があるはずはない。しかし、財産というものは、用い方によっては、弱者を苦しめる強大な武器となる。財産家の利益だけを一方的に保護するような法律制度は、国民の意志によって改めてゆく必要がある。
財産は、人間の生活を維持するためになくてはならぬ意義を持つ。だから憲法は財産権を保障し、法律は所有権を保護する。しかし、社会に生活する人々の間の富の不平均が大きくなってくると、金持の利益はますます増大し、貧乏人はいよいよ不利な立場に追いこまれる。そうなっては、国民のすべてに幸福を分かとうとする民主主義の理想は、だいなしになってしまうことを免れない。この弊害を除き去るためには、経済生活を民主化することが何よりもたいせつである。しかも、それと同時に、社会生活を営む人々が、財産というものについて持つ考え方を変えてゆかなければならない。財産権は、財産家の利益だけのためにあるものであってはならない。財産を持つ者は、それが大きければ大きいだけ、それだけその財産を活用して世の中の福祉を増進してゆく責任がある。権利の保護が個人の社会的責任を伴うものであることは、このような現代社会的な財産権の観念の中にもはっきりと現われている。
社会に生活する人々が、それぞれ責任を重んじ、本分を守り、互に協力しあうのは、人間の踏み行う道徳である。道徳と法律とは、社会の秩序を保つためにどちらも欠くことのできないものであるが、同じ内容の責任にしても、強制的にこれを守らせるのが法律であるのに対して、道徳上の責任となると、自分でそれを自覚し、自らすすんでそれを実行してゆくところにねうちがある。しかも、法律上の責任も、国家から強制されるまでもなく、国民がすすんで行うようになることが必要であり、道徳上の責任も、どうしてもそれを守らない者があれば、法律的な強制に訴えるほかなくなる。だから、法律も道徳によって基礎づけられなければじゅうぶんに行われないし、道徳も法律が伴わないと力が弱い。
たとえば、電車の運転手は、いつも信号に注意し、責任をもって運転に従事しなければならない。友だちとの話に気を取られて事故を起したり、不注意で人をひいたりすると、法律によって罰せられる。しかし、多くの運転手は、法律上の処罰を恐れてではなく、たくさんの人命をあずかる責任の重大さを感じて、自らすすんで注意に注意を重ね、いやしくもあやまちが起らないように気をつけて電車を運転しているだろう。それらの運転手は、法律上の責任を道徳的に守っているのである。また、たとえば、人から借りたものを返すのは、道徳上の義務である。友だちから本を借りたならば、忘れずに返そうと思うであろう。困ったときに金を用だててもらったならば、さいそくされないでも都合のつき次第に返済するだろう。けれども、中には、言を左右にして借財を踏み倒す者もある。そういう場合には、法律によって弁済を強制する必要がある。すなわち、道徳上の義務を法律的に強く行わしめることが必要になってくる。
このように、道徳と法律とは、車の両輪のように密接に結びついて、秩序正しい人間の共同生活を維持しているのである。しかし、日常の社会生活では、法律に訴えるまでもなく、道徳の力によって正しい秩序が保たれているに越したことはない。
ところで、日本では、昔から人間の間の「縦の道徳」が非常に重んぜられてきた。下は上を敬い、上は下をいつくしむ、というようなことが、縦の道徳である。特に、君に対する忠と、親に対する孝とが、国民道徳の根本であるとされてきた。これに対して国民相互の対等の関係を規律する「横の道徳」は、その割にいっこう発達していなかった。「旅の恥はかき捨て」などと言って、だれも知っている人のいない所へ行けば、不道徳な行いをしても平気だというような態度があった。「免れて恥なし」と言って、法律で罰せられる心配がなければ、どんな悪いことでもやってのけるといった連中もあった。そのために、日本人は、ややもすれば、見ず知らずの人にぶあいそで、非社交的で、公衆道徳を守らないという不評判をとるきらいがあった。
このように、縦の道徳だけが重んぜられて横の道徳が軽んぜられたというのは、日本の社会にまだ封建的な要素が残存していることの一つの証拠である。民主主義の社会では、何よりもまず、だれもが同じ対等の人間として尊敬しあうという気持を養わなければならない。個人の自由の尊さを認識せず、個人の尊厳を自覚しない者は、他人の自由を侵し、他人の人格を傷つけることを、意に介しない。日本人には、特にそういう欠点が多い。他人の私生活に不必要に干渉し、それを悪いことと思わないばかりか、どうかすると、かえってそれがしんせつででもあるかのように勘違いしている。むやみに他人のことを気にしたがるくせがあり、人の悪口に興じあったり、人をけなしてむなしい優越感を味わったりする傾きがある。こんなありさまでは、政治や法律が民主化されても、民主国家の国民たるにふさわしい社会道徳を備えているとは、とうてい言えない。
人間として生まれてきた以上、何人といえども、ひとりだけで生きてゆけるものではない。人間はお互に持ちつ持たれつの世の中に生まれ、お互のために働き、他人の勤労のおかげで不自由のない生活をすることができるのである。それゆえ、みんなの住む社会をできるだけ住みよい、気持のいいものにしてゆくことは、お互の義務である。そのためには、各人がお互の個性を認めあい、自分も他人から不当に自由を束縛されることがないようにすると同時に、自分も他人の自由を尊重しなければならない。そうして、常に真実を語り、真実を実行する誠意と、正義のためには断乎として譲らぬ勇気とを持ち続けなければならない。社会生活における民主主義の成否は、そのように、社会公共の福祉のために尽そうとする誠意と勇気を持った人々が、多いか少ないかによって決まるのである。