民主主義, 文部省

第九章 経済生活における民主主義


一 自由競争の利益

民主主義の精神は、政治生活や社会生活だけはなく、経済生活の中にも生かされなければならない。経済をはなれては人間の生存は不可能であり、経済の発達なくしては人間の真の幸福はありえない。経済の目的は、われわれの衣・食・住の生活を豊かにするにある。特に、経済活動における民主主義の使命は、お互が尊厳な人間として生きる権利を尊重し、公平な経済的配分を保障するとともに、すべての人々の生活水準をできるだけ高めて、暮らしよい社会を作りあげてゆくにある。

近代の経済は、資本主義もしくは自由企業とよばれる組織によって発達した。ごく簡単にいうと、資本主義とは、個人や会社や協同組合などが生産手段を私有して行われる経済のしくみである。たとえば、土地や鉱山や工場などは、物を作り出す力を持っている。そのような生産財をだれもが私有財産として所有することができ、それを利用していろいろな企業を経営してゆく経済のやり方が、資本主義である。だから、資本主義経済の普通の形では、一方には資本をもって企業を経営する資本家または経営者があり、他方にはそれに雇われて働く労働者がある。資本家は、自分の持っている財産を資本にして、思うとおりの事業をする。これに対して、労働者は、その事業に雇われ、賃金をもらって働く。そこで生産された品物は、商品として市場に集まり、それを買いたいと思い、かつ、それを買う力を持っている人々が自由にそれを購入する。資本主義の経済は、そういうふうにして運転される。

したがって、資本主義は、まず国家の統制を受けない、比較的に自由な形の経済として発達した。自由経済は、政治上の自由主義と深い関係がある。封建主義や専制主義の時代には、人民には政治上の自由はなかった。政治上の自由がない時代には、経済上の自由もほとんどなかった。封建時代の手工業者や農民は、領主の権力の下に圧迫されていた。それに続いて、近代国家の中央集権が専制主義の形で確立されてきた時代には、国民の経済生活に対して国家の強い干渉が加えられた。しかるに、国民の政治上の自覚が高まり、封建制度や専制主義が没落するにつれて、経済生活に対するこれらの圧迫や干渉も取り除かれ、経済上の活動は、それに比べるとずっと自由に個人や企業経営者の考えにゆだねられるにいたった。それが第十九世紀の経済上の自由主義の傾向である。近代の資本主義は、この経済上の自由主義を基礎として、その上に長足の発達を遂げた。

もちろん、生きた社会経済の組織としての資本主義は、時代とともに動いてゆく。第二十世紀の資本主義は、第十九世紀のそれと同じものではない。第十九世紀の自由放任の経済には、長所もあったが、短所も少なくなかった。そのような自由経済の短所は、適当な統制によって是正されなければならない。特に、無統制の資本主義が重大な弊害を生んだことは、確かである。その弊害を是正して、資本主義の経済活動を公共の福祉と合致させてゆくものが、経済生活における民主主義の諸原理にほかならない。しかし、それについては、のちにだんだんと述べることとして、ここではまず、第十九世紀的な自由経済を基礎とする資本主義が、どのような形で運営せられたか、また、それを経済学者がどういうふうに理論づけたかを考察することとしよう。

第十九世紀における経済上の自由主義の最も大きな表われは、「企業の自由」である。資本家は、自分のしたいと思う仕事、有利だと考える事業に投資し、それを自由に経営する。そうなると、有利な事業を経営する者が多くなるから、その間に競争が起る。競争が起れば、生産者は、なるべくよい品物をなるべく安く作って、それをたくさん売ろうとする。しかし生産が多すぎて、需要がそれに伴なわなければ、その品物は売れなくなる。そこで、資本家は、需要の多い別の品物をねらって事業を経営しようとする。このようにして、あたかも「見えない手」によって導かれているかのように、需要と生産とがぐあいよく調節され、資本家は利益を求めて生産するし、社会に生活する人々は、金さえあればなんでも必要なものを求めることができるようになる。そうして、生産は大いに向上し、国民の幸福は増進し、すべての人々の基本的な需要を満足させうるような高い生活水準を保ってゆくことが可能になる。アダム・スミスというイギリスの有名な経済学者は、経済上の自由主義における企業の自由の重要性をこのように主張し、特に「自由競争」の利益を力説した。

実際、自由競争は資本主義経済の原動力である。これがうまく行われるかどうかによって、資本主義のねうちと意義とが定まる。だから、今述べたアダム・スミスの自由経済の理論を基礎として、自由競争が円滑に行われる場合をもっと具体的に考えてみよう。

図 自由競争

ある人が、自分の持っている資本、または他人から借りた資本で労働者を雇い、設備を整え、原料を購入し、そして、自分が利益が多いと認める品物の生産にたずさわったとする。ところが、他の人もその品物を生産することの利益を認めて、同じような事業を経営するから、その間に自由競争が行われる。これに対して、消費者は自由に自分の好きな品物を選ぶことができるから、自然とよい品物、安い品物に向かって購買力が集中する。したがって、品質のよい、そして安い品物の生産者は、他の生産者よりもたくさんに自分の作った品物を売ることができ、結局それによって多くの利益を得る。これに反して、品質の悪い、そして高い品物の生産者は、消費者の気に入ることができないから、自分の品物を売ることができず、そのため、生産に要した費用を取り返すこともむずかしくなる。そこで、第二の生産者も、生産費を減らしたり、技術を改善したり、あるいは生産品に新しいくふうをこらしたりして、第一の生産者に負けないような品物を作ろうとする。これによって、一般社会にはよい品物が安く供給され、それだけ消費者の受ける利益が増大するわけである。

そればかりではない。今述べたような競争が激しく行われ、同じ品物が社会の需要以上に生産されるようになれば、劣った地位にある生産者は、その品物の生産を続けても利益を得ることができなくなる。そうなると、その生産者は最初やっていた品物の生産をやめて、なにか別の品物の生産に着手するであろう。そこで、第一の品物の需要と供給が自然に一致し、むだな原料や労働力を使用することがよほど少なくなる。一方、第二の品物の生産についてみると、そこではひとり新しい競争者が現われたことになるから、それだけお互にますます仕事に励むようになり、粗悪な品物を作っていた者は、競争にやぶれて、よい品物だけが市場に迎えられる。こういうことをくり返すうちに、社会全体の資金や、労働力や、設備や、原料は、最も有効にむだなく利用されるから、生産力は自然に最も高い水準にまで向上する。資本主義を支持する理論家は、このように自由競争の効用を力説するのである。

更にこれを消費者の側から考えてみると、経済上の自由主義は「消費の自由」を意味することになる。社会に生活する人々は、めいめい自由に品物を選ぶことができる。だから、だれしもが、自分の最も欲するものを、できるだけ安い値段で買おうとする。その結果、値段が高ければ売れゆきが悪くなるから、品物の価格は消費者が買いやすい程度におちつく傾きがある。したがって、消費の自由は自由競争を促し、自由競争によって消費者の満足するような品物が、消費者の需要を満たすだけ生産されることになるであろう。

自由競争が円滑に行われれば、このような利益がある。特に第十九世紀の経済上の自由主義は、自由競争のもたらす利益を最も高く評価し、かつ、その結果がかならずうまくゆくということを信じた。すなわち、社会に生活する人々がそれぞれ自分たちの利益を求めて行動すれば、その結果として自然におおぜいの人々の利益が調和して、経済は繁栄し、社会の幸福は増進すると考えた。そうして、資本主義はかくのごとき自由企業を地盤として、たくましく発達していったのである。

二 独占の弊害

確かに、自由経済にはいろいろな長所がある。健全な自由競争が社会の経済活動をかっぱつにする力を持っていることは、第十九世紀の自由主義の経済学者が考えたとおりである。しかし、各人がそれぞれ自分だけの利益を追求して営まれる経済の働きを、自然の成りゆきのままに放任しておいて、はたして社会全体の利益がうまく向上してゆくであろうか。実際の結果は、なかなかそううまくはゆかないことを示した。それはいったいどうしてであろうか。

歴史上の経験が示すところによると、全然統制を加えないで行われる経済は、いろいろな弊害を生み出す。それにはさまざまな理由があるが、いちばん重要な理由としては、「独占」の発生ということが考えられる。独占とは、互に競争している何人かの生産者が、最後まで競争を続ける代わりに、競争の途中で協定を結び、あるいは合併して、価格や生産量や市場を自分たちの都合がよいように決めることである。すなわち競争によって生産者たちが打撃を受けるのを避けるため、ほどよいところで競争をうちきり、話しあいで市場を独占的な支配のもとにおいてしまうわけである。独占の力は、競争をやめて、妥協によって市場を支配しようとする企業家の数が多ければ多いだけ、それだけ増大する。カルテルとかトラストなどとよばれるものは、企業独占のおもな形態である。

独占は非常に強い力を持っている。その力をよく利用することができさえすれば、社会の福祉を増進するのに役だつところが大きい。すなわち、独占がすすめば、企業の規模は概して大きくなる。しかるに、産業は、大規模に経営されればされるほど、原則として生産費の単価が安くつく。また、優秀な技術を採用したり、新しい発明を取り入れたり、独立の研究所を持ったりすることによって、よい品物を大量に生産することができる。それゆえに、独占による大量生産は、よい品物を安く消費者に供給することができるはずである。したがって資本主義であると社会主義であるとを問わず、産業はだんだんと大企業化されてゆく傾向がある。それに、独占がすすんでも、一つの国でのある種の商品の生産が単一の企業体の手で全部統制されてしまわないかぎり、自由競争のもたらす利益も失われない。幾つかの大企業が並んで、互によいものを安く提供しようと競争する場合には、社会生活はそれによって大きな福利を受けることができる。製鋼とか鉄道とかいうような、基礎的な、そうして、公益に関係の深い事業については、特にそうである。これらの事業においては、企業体の数が制限されていることが望ましい。

しかしながら、もしも独占企業家が、その力をこのように善用しないで、逆にそれを悪用するならば、そこからさまざまな弊害がかもし出される。たとえば、大量生産によって生産費はひきさげられているにもかかわらず、企業家が、独占的な地位を利用して、商品の価格を自分たちの間だけの話しあいで決めてしまうならば、消費者は依然として高い品物を買わされることになるであろう。また、競争者がないのをいいことにして、生産技術の改良を怠るような場合に、品質の向上も望まれないであろう。それに、独占企業家は、外部から新しい競争者がはいって来ようとすると、その強大な資力を武器として、一時だけ品物の安売りを行い、競争者を立ちゆかないようにしてしまうことも、やろうと思えばできる。そうなると、独占によって自由競争の利益は失われることにならざるを得ない。このような現象は、経済生活における民主主義の発達を妨げる重大な障害である。したがって、独占が避けがたい傾向であり、それにはそれの長所もあるとするならば、その反面において独占の力がこのように悪用されることを防ぎ、自由で公正な競争を行うことができるようにするのが、経済民主化の大きな課題になって来る。

独占の弊害を取り除いて、自由で公正な競争を行わせるための、一つの有効な方法は、法律による独占の禁止または制限である。国家が弊害の多い独占企業の解散を命じ、あるいは、その経営のしかたを監視して、不当な経営を禁止するようにすれば、独占の脅威はかなり防ぎうるであろう。これまで日本の経済で、大きな力をふるっていた財閥が解体されたのは、それがいちじるしく独占的な性格を帯びて、軍事的経済力の中心をなしてきたからである。それと同時に、新たに私的独占を禁止する法律が制定されたことも、公正な取引の制度を確立するのに役立つであろう。

三 資本主義と社会主義

資本主義が円滑に行われている社会においては、一方では経済上の自由主義による自由企業制度が発達しつつ、他方では自由企業制度の行き過ぎを戒める独占禁止の措置が採られる。それと並んで、中小商工業者や農民は協同組合を、消費者は消費組合を、労働者は労働組合を作ってそれぞれの地位の向上を図り、経済生活を安定せしめてゆくことができる。そのうえに、国家としてもいろいろな社会政策を実行することによって、失業や貧困や不安を防止し、もしくは少なくともそれを緩和する道がある。これらの事柄については、後にだんだんと述べることとするが、すすんだ資本主義の国では、このようにして、私企業の伸び伸びした活動をいたずらに押さえることを避けつつ、過度の自由経済に伴う弊害を是正し、政治を民主的に運用することによって、経済生活における民主主義を着々として実現している。アメリカ合衆国がこれまですすんできた道は、だいたいとしてこの方向であったということができよう。

資本主義は、このように時代とともに次第に進歩もし、改善もされ、資本主義の資本主義たる大筋のたてまえを変えることなしに、経済的民主主義の方向に向かって、発展しつつある。しかし、一方またヨーロッパの先進資本主義の国々、たとえば、イギリスなどでは、第十九世紀の終りごろになって自由経済のいきづまりがかなり強く現われ、その結果としてだんだんと資本主義から社会主義の方向への転換が行われるようになった。それでは、社会主義とはどのようなものであろうか。

資本主義の社会では、個人や会社が生産手段を私有し、資本家の経営する私企業が経済の中心となる。そうして資本を持たない人々の多くはこれに雇われて、労働によって得た賃金でその生活を維持してゆく。その場合、労働者は自由に職場を選ぶことができるのであって、封建社会のように、因襲や身分によって一定の仕事にしばりつけられていることはない。その意味では、経済上の自由主義の中には「労働の自由」が含まれている。したがって、資本主義は、その点でも自由を重んずる民主主義の要求に合致するものと考えられてきた。

しかし、それでは、労働者に真の自由があるであろうか。

資本主義のもとでは、労働者の生活費は労働によって得た賃金でまかなわれる。もっとも、広く労働者というと、農民や一般の給料生活者も含まれるが、ここでは主として工場などで働く労働者について考えてみることとする。それらの労働者は職にありつけなかったり、失業をしたりすると、たちまち生活に窮することになるから、何はともあれ仕事を与えてくれる所をさがして、そこで働く。働く場合に、賃金などについていろいろと言い分はあっても、そこで雇ってもらえないと生計を維持することができなくなるから、経営者側の申し出る条件に甘んぜざるを得ない。労働組合が発達するにつれて、労働者もだんだんと企業家と対等の立場で、労働条件についての約束を、とり結ぶことができるようになってきつつあるが、それ以前の状態では、職業の自由とか契約の自由とかいっても、名ばかりで、経済生活の自由は、主として資本家にとってのみ有利に用いられる傾きがあった。かくて資本主義は、生産力の増大によって、国民生活の水準を向上させるには役立ったが、そのもたらす利益は、一方的に資本家にかたよることを免れなかった。

もちろん、資本主義は企業の自由を保障するから、労働者に対しても、機会さえあれば、資本家になる道が閉ざされているわけではない。しかし、機会だけはあっても、資本がなければ資本家にはなれない。したがって、無統制の資本主義の下では、資本を私有する人々と、それに雇われて働くほかはない人々との間に、はっきりとした区別ができてしまう。これでは、経済上の不平等がますますはなはだしくなることを免れない。しかも、労働者階級は社会の大多数を占めているのであるから、自然のいきおいに放任された資本主義は、できるだけ多数の人々の幸福をできるだけ向上させてゆこうとする民主主義の根本精神と矛盾することになる。

資本主義に伴なうこのような欠陥を是正するためには、二つの方法が考えられる。

その一つは、資本主義のしくみそのものは変えないでおいて、資本家と労働者とのへだたりを緩和するための「社会政策」を実行するというやり方である。すなわち、賃金やその他の労働条件を、経営者と労働者の間の約束だけに任せておかないで、あらかじめ最低賃金を法律で定めたり、労働時間の最大限をかぎったりして、労働者が不当に不利な地位に立つことがないような措置を講ずる。しかし、それだけではもとより不十分である。そこで、労働者が団結して経営者側と団体的に交渉しうるような組織を作ることがくふうされる。働く手を持っているおおぜいの労働者が団結すれば、非常に大きな力になる。したがって、団体的に経営者と交渉するようにすれば、労働者の立場はよほど有利になる。だから、労働者が組合を作って、組合の力で生活の改善や失業の防止に努力できるようにする。戦後の日本でも、新憲法によって労働者の団結権や団体交渉権が保障され、労働組合法や労働関係調整法が制定されて、各種の労働組合が急に発達するようになった。また、労働基準法の制定や労働省の設置をみて、働く者の利益を保護するための施策が実行されると同時に、労働者災害補償保険法や失業保険法などが設けられて、労働者の生活に伴なう不安を取り除くための努力がなされつつある。一方では、これらの社会政策が徹底し、他方では、また後に述べるような協同組合や消費組合が発達して、中小商工業者や農民や消費者が、自らの力で自らの利益を守るようになれば、資本主義の大筋を変えることなしに、経済生活における民主主義の目的を達成することができるであろう。

これに対して、資本主義の欠陥を取り除くためのもう一つの方法は、社会主義を実行することである。この考えを主張する人々によれば、今述べたような社会政策を行っても、生産手段の私有を認める資本主義の原則を変えないかぎり、労働者の地位はとうてい根本からよくはならない。それはなまぬるいやり方であって、そんなことでは資本家と労働者の争いは容易に解決しえないであろう。そこで社会主義者は、経済上の平等をほんとうに実現するためには、生産手段の私有を許す資本主義を廃して、資本を国家または公共団体の所有に移すほかに道はないと主張する。つまり、それによって資本家と労働者の対立をなくするとともに、公企業の形で生産力の増大を図るべきだというのである。

このように、社会主義者は、経済上の配分を平等にするための最もすすんだ方法は、資本主義の経済組織を根本から変えてしまうにあると論ずる。しかし、資本主義の立場からいうならば、そのようにしてすべての生産が国営に移されると、資本家が自由競争によって利益の追求にいっしょうけんめいになっていたときのような刺激が失われるから、はたして資本主義の場合と同じように生産を高めてゆくことができるかどうかがあやぶまれる。生産がさがり、資源の高度の利用や費用の節減への熱意が減ると、配分は平等になっても、勤労大衆の生活水準が全体として低下するおそれがある。また、自由競争による経済の自動調節作用がうまくゆかないために、社会主義経済では何をどれだけ生産すればよいかを判断する確かな手がかりがなく、その結果として多くの生産力をむだにするおそれがある。その他、いわゆる官僚統制や国営事業にみられるような、実情にそぐわない企業の経営が行われやすいところに、この種の国家社会主義的ないき方の弱点がある。それが資本主義の側から社会主義に対して下される批判の要点であるといってよい。

これに対して、社会主義の論者は、そういう心配はないと言って、次のように説く。

なるほど、社会主義では利潤の追求という刺激は失われるが、労働者は国民に対する義務と責任とを感じて、大いに生産に努力するであろう。また、国営の生産事業の内部でも、いろいろの方法で競争をすすめることができるから、社会主義を実行したからといって競争がなくなり、生産を低下させるとはかぎらない。更に、社会主義経済では、資本主義経済の特色だといわれる需要と供給との間の自働的な調節作用に代わって、国家が全体の生産を総合的に計画し、それによって合理的に経済を運営してゆくから、むだや浪費を省いて、国民生活に必要なものを、必要な量だけ生産してゆくことができる。その点では、資本主義の自由競争の方がずっと生産力を浪費することになる。なぜならば、必需品よりもぜいたく品が生産され、競争のための広告費とか、品物の保管費などが大きくなり、それだけむだが行われる。それは、社会主義の計画経済によってのみ取り除かれるであろう、と。

資本主義がよいか、社会主義によるべきかについては、このように大きく議論が分かれている。しかし、この問題について判断する場合によく注意しなければならないのは、資本主義といい、社会主義といっても、決して普通に本に書いてあるように、また、実際問題から離れた議論の中に出てくるように、はっきりと二つに区別されてしまうようなものではなく、その間に幾つもの中間の形態があり、さまざまな程度の差があるということである。

すなわち、公式論的にいうならば、資本主義は、生産手段の私有を基礎として経営される経済組織であるのに対して、社会主義は生産手段の私有を認めない。しかし、生産手段の私有を認めないといっても、それはどのような種類の生産財を意味するか。すべての生産手段の私有を禁じ、すべての産業を公企業化してしまえば、それはもちろん完全な社会主義に相違ない。しかし、たとえば単に土地を国有とし、鉱山その他二、三の重要産業を国営としただけでも、じゅうぶんに社会主義的な政策であると認められうる。けれども、そのときには、依然としてその他の生産財の私有が認められているのであり、したがって、社会主義的だといわれる経済の中でも、それらについては資本主義の、または資本主義に近いしかたでの生産が行われているのである。逆に、全体として資本主義的な経済組織が行われている社会であっても、特に国民の福祉に関係の深い幾つかの企業に統制を加え、これに対する国家の管理を実施した場合には、既にそれだけ社会主義的な要素が加味されているのであるということができる。それなのに、第十九世紀的な無統制の資本主義と極端な社会主義とだけを比べて、どちらがよい、どちらが悪いと議論してみたところで、実際には何の役にもたたない。

だから、実際問題としてたいせつなのは、このようなさまざまな社会経済の運営のしかたの中で、どういう方針を採用し、どの程度に二つの要素を結びつけてゆくのが、国民経済の民主化のために、ほんとうに適当であるかを考えることである。それには、自分たちの社会がどのような経済条件の下にあるか、自分たちの国が現在どんな国際環境のもとにおかれているかを、じゅうぶんに考えあわせてみなければならない。現実の具体的な条件を度外視して、空な理論だけで事を決めるぐらいむだな、いやむしろ危険なことはない。また、今日のような複雑な世界において、外国との関係を無視して経済の再建や国民生活の向上を図りうるはずはない。

民主主義の政治が行われているところでは、われわれは、多数決の原理にしたがって、資本主義の長所を発揮してゆくこともできるし、大なり小なり社会主義的な政策を行うこともできるし、両方を併用してゆくこともできる。自由競争の利益に重きをおく政党が政治の中心勢力となれば、資本主義の根本の組織は動かさずに、経済の民主化を図ろうとするであろうし、国会の多数を占めた政党が、重要産業の国有法案を通過させたとすれば、それだけ社会主義の線に近づくことになる。ゆえに、われわれは、日本のおかれている内外の情勢を冷静に見きわめ、各政党の動きをよく注視して、どういう政策を支持すべきかを判断しなければならない。

ただ、その場合に特に注意を要するのは、全体主義的な方法によって社会主義を実現しようとする共産主義の態度である。共産主義は、まず社会主義を徹底させることを目ざしているのであるが、その特色は、資本主義を最初から根本的に悪いもの、もしくは、歴史とともにまもなく滅びてしまうものと決めてかかっている点にある。したがって、多数決の方法によってその時々の具体的な事情に適した政策を採ることに飽きたらず、暴力革命や、いわゆるプロレタリアの独裁などという非民主的な方向に走ろうとする傾きがある。われわれは、民主主義の根本の政治原理たる多数決によって、自由企業制度の長所を生かすこともできるし、自由経済の弊害を除き、行き過ぎを是正して、高度の経済的民主主義を実現してゆくこともできる。ゆえに、この弾力性に富んだ政治のやり方に疑惑をいだき、暴力や独裁によって少数の意志を貫こうとする全体主義の誤りに、陥ることがないように、深く戒める必要がある。

四 統制の必要とその民主化

資本主義のたてまえを変えずに、しかも経済生活における民主主義を実現するためには、前に述べたような社会政策のほかにも、なおいろいろとなすべきことがある。その中で、特に心がけなければならないことは、適正な経済統制を考え、かつその統制を民主的に行うということである。

資本主義の社会でも、国民経済に対するある程度の国家の統制や干渉を行う必要がある。もちろん、資本主義の下では、企業の自由は、原則として尊重されなければならない。しかし、さればといって、それは決して無制限の自由を約束するものではない。自由企業制度に伴う弊害を防ぎ、社会一般の福利を守るためには、私企業に対して統制のわくをはめなければならない場合が起る。統制は経済上の自由に制限を加える。しかし、前にも述べたように、民主主義の重んずる自由は、決して各人のかって気ままを許すことではない。したがって、公共の利益のために自由経済に統制を加えたからといって、それが民主主義の原則に反することはない。問題は、ただ、その統制をどういう目的のために行い、それをどこまで民主的に運営するかにある。

日本でも、戦時中盛んに経済統制が行われた。それは、一般国民の需要に応ずる生産を極端に切りつめて、戦争のための軍需物資を増産することが目的であった。そういう目的のための統制がもはや行われるはずのないことは、もとより言うまでもない。現在も、今後も、経済統制が行われるとすれば、それはもっぱら国民生活を安定させ、生活水準を向上させるためでなければならない。その中でも、一般に必要と認められているのは、社会福祉を目的とする統制と、景気対策を目的とする統制との二つであろう。

経済生活における民主主義を実現するために、労働者の地位を向上させることを目的として、いろいろな社会政策が行われるということは、前にも述べた。そのうち、国家の法律によって労働賃金その他の労働条件の最低の基準を公定することなどは、それらの事柄を、雇う者と雇われる者との自由な約束だけに任せないという意味で、やはり経済生活に対する一種の統制である。そのほか、国家は、多くの財産収入のある者には重い税金をかけるとか、公債を発行するとかいうような方法によって財源を作り、それで、失業手当・社会保険・救貧扶助などの施設を行って、恵まれない人々を救済する必要がある。経済組織の欠陥のために貧富のへだたりが大きくなればなるほど、このような社会政策の必要は大きくなり、その使命は重くなる。それだけ、経済に対する国家の統制も増大することにならざるを得ない。

これに対して、もう一つの景気対策のための統制は、資本主義経済に伴ないやすい景気の変動をおさえ、特に不況によって生ずる失業その他の民衆の生活難を取り除くために行われる。無統制な自由経済だと、生産が多すぎたり、需要が減退したり、内外の景気変動の影響を受けたりして、急に不景気に見まわれることがある。その結果として、一度にたくさんの失業者が出て、民衆の生活が窮迫した状態におとしいれられる。企業家の協定による独占は、景気に応じて一つの産業を伸ばしたりちぢめたりすることによって、ある点までこれを防ぐ役には立つが、そういう自治統制では、前にいったような独占の弊害がつきまとうから、これに国家による統制を加えて、公益を主とする立場から景気に応じて産業を調節することが必要になる。それとともに、不景気のときには、国家が公共の土木工事などを起して、失業者をその方面の仕事にふりむけたり、金利を引き下げて産業界に活を入れたりする。アメリカで行われたニュー・ディール政策などは、この種の統制の模範を示したものといってよい。ともかく、失業は、国民から勤労の権利を奪い、生きる権利をさえおびやかすものであるから、国家は常にその対策を考えて、いわゆる「完全雇傭こよう」を目標として、あらゆる努力をしてゆかなければならない。

資本主義の下で統制を行う目的には、このほかに、緊急の場合を切りぬけるための非常統制が考えられる。たとえば、激しいインフレーションが起ったり、戦争などによって生産が破壊されたりした場合には、生産力を回復させ、物価の安定を図り、国民生活の危機をきりぬけるために、かなり思いきった統制を加える必要がある。今日の日本の状態は、まさにそれである。それによって企業の自由が制限を受けても、その目的が国民生活の建て直しにおかれているかぎり、民主主義の精神には反しない。もしも企業の自由を重んずるのあまり、必要な統制が行われず、そのために国民がいっそうみじめな状態に陥るならば、それこそ民主主義の目的に反することになる。

これで、ある程度の統制が望ましいことはおよそわかったが、それでは、その統制をどういうふうに行っていけばよいか。どうすれば、統制を民主化することができるか。

この点は非常にむずかしい。なぜならば、統制を経営者の自治に任せておくと、先に述べた独占的経営の弊害を避けることができない。そこで、統制は国家の手で行うほかはないということになるが、そうすると、今度はいわゆる官僚統制の弊害に陥る。すなわち官吏が国民生活の実情と、産業の実際問題とをじゅうぶんに知らないで、法律一点ばりの融通のきかない統制をやる危険がある。また、統制に伴ないがちな公務員の不正や、統制の網をくぐるやみ取引が行われる。そうなっては、どんなに適切な統制の組織を作っても、とうていその目的を達することはできない。そういう欠点を除き去るためには、いろいろな方法が考えられる。第一に、統制を官庁だけに任せておかないで、国民の代表者である国会の監督と発言とを強くすることが必要であろう。それがよく行われれば、統制のいき過ぎや不徹底を除き去り、実情に適した統制が実施されるようになるであろう。第二には、官庁の組織の中に、民間のりっぱな人物や学識経験者をどしどし起用し、国民として実際に体験したところを、経済統制の上に活用してもらうこともたいせつである。更に、第三には、役所の統制事務がはたしてすみずみまでよく行われているかどうかを監視する組織を作って、それに、一般国民、特に消費者の代表を参加させるという方法も、適当であろう。このようにして、国民が統制の必要を理解すると同時に、統制の実行のうえに国民の目がよくとどくようにして、これを民主主義的に行うことが、これからの経済統制には何よりもたいせつである。

このことは、国家が自分の手で行う国営事業についても、あてはまる。資本主義の社会でも、鉄道や電信や電話などのように公益的な色彩の強い事業は、国家の手で経営される場合が多い。それが、社会主義の方向に近づいてゆくと、鉄鋼業や炭鉱や電気事業なども、次第に国営に移される傾向がある。それは、産業の中でも特に重要なものであるから、もしもそれが国家の独占に移された結果として、独占的経営と官僚統制との二重の弊害を生むようになったならば、その及ぼす悪影響は非常に大きくなるであろう。だから、この場合にも、すぐれた学識を持つ人々や、責任感の強い消費者の代表などが、じゅうぶんに意見を述べうるような組織を作って、国営事業が正しく経営されるように監視しなければならない。国民が国民自らの利益のために政治に参与するという民主主義の原則は、こういう点にも大いに生かされなければならない。

五 協同組合の発達

経済生活における民主主義を実現してゆくためには、大企業や大地主の経済力に、中小企業や農民が対抗できるようにする必要がある。そこで、多くの国では、中小企業や農民によって組織された協同組合が発達した。近代の資本主義社会では、大規模な企業は、たいてい株式組織にて経営されるが、それと並んで、それほど大きな資本を持たない、たくさんの中小商工業がある。中小商工業にも会社経営があるが、その多くは個人経営である。今日の日本では、財閥を解体し、資本の集中を排除することによって、中小商工業の地位はそれだけ重要になりつつあるが、それでも、大企業の圧迫を受けるおそれは依然としてあるし、仲間どうしの間でも、自由競争の結果として弱肉強食が行われることになりやすい。したがって、中小商工業者は、ますます従業員を安い給料でこき使うというような弊害をも生ずる。これらの欠陥を取り除くには、どうすればよいか。

これに対するいちばん有効な対策は、同じ種類の中小商工業者が集まって「協同組合」を作り、組合の力によって中小企業の弱点を補い、大企業の資本力に対抗すると同時に、企業の合理化を図るというやり方である。

図 大資本と中小工業協同組合

たとえば、同じような生産を行っている中小工業家が組合を作り、原料も共同で購入するし、製品も共同して販売する。個々の企業ではなかなかできない施設を行って、組合員が共同でそれを利用する。資金のやりくりがつかない場合には、組合の手で銀行から共同して金を借りる。もっとすすめば、組合員の持つ工場を共同で使って、集中的に生産を行い、損益の計算も共同でやって、その利益を分配する。こういうふうにしてゆけば、個々の業者に対して組合がかなりの統制権を持つことになり、自由企業のおもしろみが失われるおそれはあるが、それだけ大企業に対して相当の競争力を持つことができるようになるであろう。また、従来は、中小商工業は問屋に対して頭が上がらず、資金の融通をつけてもらうにも、原料を仕入れるにも、製品の提供および販売を行うにも、不利な条件に甘んじなければならなかったのが、よほど改善され、中小企業の健全な発展を促進しうることになるであろう。

しかし、このようにして中小企業の地位が改善されても、経営の内部で従業員に対する封建的な支配が行われているようであっては、民主主義の目標へはまだ道は遠いといわなければならない。中小企業が、これまでいろいろ不利な点があったにもかかわらず、根強く存在を続けてくることができた大きな理由は、安い労働力を使って、利益をむさぼっていた場合が多かったからである。これからは、中小企業の労働者の地位を守るために、国家も一般社会もじゅうぶんな監視を加え、その労働条件を引き上げるようにしてゆかなければならない。人件費がかさめば、中小企業の経営はそれだけ困難になるが、その弱点は、協同組合の発達によって補ってゆけばよい。

協同組合の健全な発達を必要とするのは、商業や工業の部門ばかりではない。国民生活を直接にささえている農業においても、組合の組織によって経済の民主化を図ることがたいせつである。農業は国民経済の中でも、まったく特別な、そうして重要な地位を占めている。農業は、全国民に食糧を供給する立場にある。中でも、日本では、全人口の半数近くが農村で占められているから、農村問題は特に重大な関心の的になる。それに、工業にふりむけられる労働力は、主として農村から供給される。したがって、農村の生活水準が低いと、工場労働者の賃金もその影響を受けて、ある程度以上には引き上げることができない。だから、農民の生活を改善することは、間接に都市の労働者の地位を向上させることにもなる。

農村で最も問題になるのは、地主と小作農との関係である。少数の地主が大きな土地を所有して、自分ではほとんど働かずに高い小作料を取り、小作農は、厳しい労働に従事しながら、その収穫の多くの部分を小作料として、しかも現物で払い、貧困の生活に甘んじているという状態は、不自然きわまるものであった。それに、「所有の魔力は、砂を化して黄金にする」ということばもある通り、自作農になって、自分の土地を自分で耕すことになれば、農業に対する身の入れ方も自然に違ってくる。だから、農村民主化の根本は、小作農をできるだけ自作農にするにある。そこで、先に行われた農地制度の改革により、国家が地主の土地を買収して、これを小作農に買い取らせることにした。これは、日本の農村に大きな変革をもたらし、働く農民に対して生活の向上を約束するものであるに相違ない。

しかし、今度の農地改革にしても、約一町歩以下の小作地、北海道では四町歩以下の小作地は認められているから、それだけまだ小作農は残るわけである。それらの小作農の地位を安定させるためには、もっと自作農化を広く行うか、または、小作権をはっきりさせ、小作料を引き下げなければならない。ことに、わが国の小作料は、昔から物納の形で、しかも非常に高率であった。これは百姓が領主に年貢を納めていたしきたりの残りであって、農村の封建性の大きな要素をなしていたのである。これも、今後の農地制度の改革によって、金納に改められ、実質的にかなり引き下げられた。

このようにして農地制度は大いに改革されつつあるが、それだけでは、まだ日本の農業の根本の弱点は救われえない。なぜならば、今までの日本では一戸当たりの耕作面積は平均一町歩そこそこであり、全体として、五反歩から一町歩までの農家がいちばん多い。このように経営規模が小さいと、自作しても、農業生産力の発達にはどうしても限度があって、農業経営の安定はなかなか望めない。そこで、これらの小さな独立農民の地位を高めるために、どうしても「農業協同組合」を発達させることが必要になってくる。

農業協同組合は、勤労農民の自立的な組織である。したがって、個々の農家はそれぞれ独立に農業を経営しつつ、種や肥料や農具の購入にしても、資本の融通をつけるにしても、農産物を販売するにしても、みんなの力を合わせて共同に行うようにするのである。農家が孤立して、農業を経営していると、その利益はとかくに都市の工業や商業や金融業によって左右されやすい。農民は、高い工業製品を買わされ、商人からは農産物を値切られ、高利の借金に苦しめられることが少なくない。しかも小さな経営と、そこから生まれる乏しい利益では、機械設備をじゅうぶんに利用することなどは、思いもよらない。そこで、農民のばらばらな力を集めて、金融事業を自分で経営し、購買も販売も共同で行い、機械設備や水利施設などを共同で利用するようにすれば、農家の弱い地位も大いに強化されるであろう。これが協同組合の仕事である。協同組合は、それ自体が民主的な組織であるばかりでなく、農民の地位と生活を安定させるために果たす役割は、きわめて大きい。

しかし、なんといっても、日本の農村の悩みの種は、土地が狭くて人口が多すぎることである。もしも人口がこれまでのように農村にあふれているならば、耕地はもっと細分されるし、小作料も前のように高くなってゆくおそれがある。だから、農民の生活をほんとうにりっぱなものにするためには、農村のあり余る人口になんとかさばきをつけてゆかなければならない。それには、工業や鉱業を発達させて、農村の人口をその方面に吸収することも必要である。しかし、それと同時に、農村の内部にも、農産物に加工する農村工業を起して、余った人口をそれにふりむけてゆくくふうもしなければならない。それはなかなかむずかしいことであるが、健全な農業経済の発達を図るために、ぜひとも実行に努力すべきであろう。

六 消費者の保護

国民は、生産の方面では、資本家・労働者・商人・給料生活者・農民などというふうに、立場立場が分かれているが、消費の方面では、みな同じ消費者として共通の利害を持っている。このような消費者の利益を守ることは、国民生活を安定させ、その向上を図る上からいってきわめて重要な課題である。その重要性は、特に都会の場合に大きい。農村では、消費物資が自給される割合が多く、それに、既に農業組合がかなり発達して、必要な品物の共同購入を行っているから、購入物資についてもそれほど問題はない。

消費者の利益を考えるにあたって、最もたいせつなことは、できるだけ「消費の自由」を与えることである。何がいちばん必要か、まっさきに何を買いたいかは、原則としてその人が最もよく知っている。人にはそれぞれ好みがあり、また、生活上の必要も異なるから、これを一律におさえることはなるべく避けなければならない。もちろん、物資の少ない時には、消費の割当や制限を行うこともやむをえないが、それでも、消費の自由の精神はなるべく生かさるべきである。

消費の自由を最もよく認めるには、販売を商店の自由競争に任せて、国民はなんでも好きなものを好きな店から買えるようにしておくのがよい。しかし、商人が生産者と消費者との間にあって、中間で大きい利益を得るようなしくみでは、消費者の利益は侵されやすい。そこで、この場合、消費組合を発達させて、消費者の利益を直接に守るようにしてゆくことが望ましい。消費組合は営利団体ではないから、中間の手数料はわずかですむ。それに、消費組合が発達すれば、商人の方でもこれに対抗するために、費用を節約して、なるべく安く商品を提供するように努力するから、消費者の受ける利益は増大する。したがって、商店と消費組合とが両方並んで存在することは大いに結構で、これをどれか一方に限定する必要はない。

消費組合が、小さな地域単位から地方的・全国的な連合組織にまで発達すれば、非常に大きな力になる。イギリス・アメリカ・スウェーデンなどでは、消費組合が大きな工場を持ち、自分の汽船を動かして製品を運ぶまでになっている。そこまで成長するのはたいへんであるが、民主的な消費組合の発展は、国民の消費生活を明るくするのに大いに役立つであろう。

消費組合の機能は、生活必需品の共同購買だけにはかぎらない。大きな連合の組織を背景にすれば、理髪店・浴場・託児所などはもとより、病院を設けることもできるし、共同炊事なども経営してゆけるであろう。それに消費組合が発展すれば、各方面の会議に消費者代表を選ぶ場合、消費組合からそれを出すことができる。それは、強大な組織を基礎とする代表だから、消費者の意向を反映するのにはきわめて適しており、おのずから消費者の発言を重からしめるであろう。これも、これからの国民の経済生活の向上にとって、決して軽くない意味を持っている。国民が、個人個人ばらばらの消費者としてはどうすることもできないような事柄を、共同の力によって解決し、団結の力によって主張してゆくところに、消費者の利益を守る消費組合の重要な意味がある。

だが、消費生活をささえるものは、根本においては生産である。生産が向上してこないかぎり、どんなに完全に組合の組織が発達しても、消費生活の向上は望まれない。それでは、いったい、わが国の生産はどこまで発展するであろうか。それは、八千万の国民のすべてに仕事を与え、その生活を維持させることができるであろうか。日本の経済がはたしてじゅうぶんに民主化されるかどうかは、結局、すべてここにかかってくる。生産がふるわないために、国民の生活水準が低くなり、いたるところに失業者があふれるようでは、経済生活における民主主義はとうてい実現されえない。それどころではなく、経済の不振と混乱とは、やがて政治上の民主主義をも危うくし、民主国家としての歩みを困難ならしめる。そのたいせつな日本経済のこれらの見とおしは、どうであろうか。だれが考えても、その前途は決して安心していられない。

第一に、今日のわが国では、すべての人口が狭い四つの島に集中し、人工過剰の悩みはますます痛切である。第二に、国内の設備の破壊と工業技術の低下とのため、生産の回復はなかなか思うに任せない。それに戦災・賠償・インフレーションなどによってくずれた経済の骨組を建て直すことは、もとよりやさしい仕事ではない。第三に、これからは労働者の地位も改善され、農民の生活も向上してゆくであろうが、それが直ちに国民生活の向上を意味するかというと、そう簡単にはゆかない。なぜならば、これからの日本の経済は、前にもまして外国との貿易によってささえられなければならない。その場合、外国と競争して、わが国の品物を輸出するには、これまでよりもずっと大きな困難が予想される。というのは、労働者の賃金が高くなれば、それだけ生産費がかさんで来るから、欧米各国を生産品との競争もそれだけ困難になる。それに、日本の産物の重要な輸出先である東洋諸国にも、だんだんと工業が盛んになってゆくであろうから、販路がかぎられてくることも予想しなければならない。このようにして、輸出がふるわなくなれば、海外から原料を輸入できないことになり、資源の貧弱なわが国の産業をますます困難な立場に追いこむことにならざるを得ない。

このように考えてくると、八千万の日本人が働いて生活できるようになるのは、決して容易なことではない。だが、われわれは連合国の好意ある援助のもとに、この困難をのり越えることに全力をあげなければならない。それには、まず、経済統制の適切な運用によって、生産力の回復と経済生活の安定とを図らなければならない。続いて、科学を高度に実用化すること、日本国民固有の細かい技術を活用することとによって、平和産業の発達と貿易の向上とに努めなければならない。更に、窮迫した人口過剰と生活難とを解決するうえからいって、結婚年齢のひきあげや産児調節の問題も真剣に考慮されるべきであろう。日本国憲法は、その第二十五条をもって、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定している。この規定の精神をいかにして現実化し、そのいわゆる最低限度の生活をいかなる水準にまで高めうるかは、かかってわれわれ日本国民の今後の努力いかんにある。われわれの生活水準を向上せしめうるまでは、国民のすべては苦しい生活を送らなければならないが、これは敗戦国として、当然忍ばなければならないところであろう。このように経済生活がなかなからくにならないとすれば、経済民主主義は簡単に実現できないといわざるを得ない。しかし、それだからこそ、逆にまた、経済生活において民主主義を強く主張し、その実現に努力することがたいせつなのである。