地下室の手記 第一部 地下室, フョードル・ドストエフスキー

第三章


さて、自ら復讐のできる人、そして一般に自ら立ち上がる人の場合を例にとると、これはどうなるか? では、復讐の感情が彼らをとらえるとしよう、するとこの時、もはや彼らの全存在からそれ以外の感情が失われる。そのような紳士は猛り狂った雄牛のように、角を低く傾けて、ただ壁が彼を止めない限り、目標に向けてまっすぐに行く。(ところで、壁を前にするとこのような紳士、すなわち猪突猛進型の人や実務家たちは素直に降参する。彼らにとって壁は――我々のような考える人間、従って何もしない人間にとってのような方向転換点にはならない。我々ならたいてい自分でも信じないのにいつでも大喜びで道を引き返す口実にするのだが、彼らはそうしない。いいや、彼らは真っ正直に降参する。壁は彼らを静め、精神的な決まりをつける、最終的なものであり、おそらく神秘的なものでさえあり・・・だが壁のことはまた後に。)なにね、僕の考えでは、そういう真っ正直な人間こそ、本物の正常な人間であり、そんな姿を見たくて優しい母なる自然は、親切にも人間を地上に生み出したのだ。僕はこのような人間がねたましく、憎らしくてたまらない。そういう人は愚かであり、そのことで君らと議論はしないが、もしかすると、正常な人間はまた愚かでなければならないかもしれないし、それが君らにわかるはずもない。もしかすると、これはきわめて美しいこととさえ言えるかもしれない。そして僕が、言ってみればこういう推測をますます確信するのは、正常な人間の正反対、すなわち強烈な意識を持つ、自然の子宮からではなく蒸留装置から生まれたにちがいない人間(これはもうほとんど神秘主義だ、諸君、だが僕はそうじゃないかと思うんだ)を例に取り上げると、この蒸留人間が時々、自分の正反対の前に屈服したあげく、強烈な自意識のすべてをあげて自分自身はねずみであって人間ではない、と誠心誠意思いこむからである。これが強烈に意識するねずみであるとしても、やはりねずみであり、ところがあちらは人間で、従って・・・、などなど。そして、肝心なのは、彼自身が、自分で自分をねずみと考えることだ。誰が求めるわけでもない。これが重要な点だ。ではここで活動中のこのねずみを見てみよう。たとえば、彼もまた恨みを抱き(そして彼はほとんどいつも恨んでいるが)、やはり復讐を望んでいるとしてみよう。その憎しみが彼には、『自然と真理の人』よりずっとたくさん蓄積しているかもしれない。無礼者を同じ目に会わせてやろうという下劣で卑しい欲望が、『自然と真理の人』よりずっと醜く彼をえぐり傷つけているかもしれない。というのも『自然と真理の人』はその生来の愚かさから自分の復讐を単純に正義と考える。ところがねずみは、強烈な意識ゆえに、そこに正義を否定する。やっとのこと実行に、復讐の行為に至る。この間に不幸なねずみはもともと一つだった汚物のほかに、問題や疑惑の形でたくさんの汚物を自分のまわりに積み上げてしまっている。一つの問題に未解決の問題をたくさん引き寄せてしまうのだ。まわりには否応なしに一種の宿命的な汚水、一種の悪臭高き汚泥がたまる。すなわち、彼の疑惑、動揺がたまったところへ、裁判官か独裁者といった姿で勝ち誇ったようにまわりを囲み、思い切り高笑いを浴びせる猪突猛進の実務家たちの飛ばすつばが仕上げとなる。もちろん、彼としては、すっかりあきらめたとばかりに前足を振り、自信もないくせに軽蔑の笑みを装い、恥を忍んで自らの穴に滑り込むよりない。そこで、自分の不潔な悪臭高き地下室で、傷つけられ、打ちひしがれ、笑いものにされた我らのねずみは直ちに冷たい、毒のある、そして何よりもまず、永久に続く憎悪に沈むのだ。四十年の間、受けた侮辱を究極の、最も恥ずべき細部に至るまで思い出し続け、そしてそのたびに、この上なく恥ずかしい詳細を自分で付け加えては、自身の空想で意地悪く自らをからかったりいらだたせたりする。自ら自分の空想を恥じることになるのに、それでもすべてを思い起こし、すべてを思い返し、そんなことも起こりえたとはずだといって、次々とありもしない被害をでっち上げては、何一つ許さない。ことによると復讐を始めもするのだが、なんというか断片的で、ちまちました、ペチカの陰からの、匿名式のものであり、自らの復讐の権利も自らの仕返しの成功も信じることなく、自らの復讐の企てによりいつだって復讐の相手より百倍も自分が苦しむことになり、それであっちはおそらく痛くも痒くもないのをあらかじめ承知しながらなのだ。死の床についても再びすべてを思い出し、この間ずっと蓄積してきた利息もあり・・・しかしまさしくそこに、その冷たくいまわしい半ば絶望の、半信半疑の状態の中に、その、悲痛のあまり意識的に自分自身を地下室に四十年間生きながら埋葬したことの中に、その、どうしようもないと強く意識はしているもののそれもいくぶん疑わしい自分の立場の中に、その内向する満たされない欲望の毒すべての中に、その永遠のものとした決意とすぐにまた押し寄せる後悔とでぐらつく絶え間ない心の熱病の中に−−僕が言ったあの奇妙な快楽の果汁があるのだ。それはとても微妙で、時には意識に従わないものなので、少し鈍い人間にもただたんに神経の図太い人間にもひとかけらも理解できない。『あるいは、連中もまだわかってないかもしれないな、』君たちとしてはニヤニヤ笑いながら付け加えるところだ、『一度も平手打ちを受けたことが無い連中も』――そうやって、僕もまた我が人生において平手打ちを受けた経験があるのじゃないか、だから知ったようなことを言うんだろうと慇懃にほのめかす。賭けようか、君たちはそう思っているだろう。しかし落ち着きたまえ、諸君、僕は平手打ちを頂戴したことは無い。もっとも君たちがそれをどう考えようと僕にはまったく同じことだが。もしかしたら僕は、こっちこそこの人生で平手打ちを食わせたことが少ないのを後悔しているかもしれない。しかしたくさん、この非常に君たちにとって興味あるテーマについてはこれ以上一言だって。

ご存知、快楽の微妙なところを理解しない、神経の図太い人たちについて静かに続けることにする。これらの諸君はたとえばある特別な場合には、牡牛のごとく声を限りに吠えるけれども、またこれが彼らに最高の名誉をもたらす、ということにしておくとしても、ところが、すでに僕が言ったように、彼らは不可能を前にすると直ちにあきらめてしまうのだ。不可能―石の壁の意味か? どんな石の壁か? なに、もちろん、自然の法則であり、自然科学の結論であり、数学である。たとえば自分が猿から生じたのだと証明された時には、眉をひそめてももうしょうがない、そうだと認めるよりない。実際、自分の脂肪の一滴は自分の同類のそれの十万滴より大事であるべきであり、いわゆる美徳とか義務とかその他のたわごととか偏見とかすべてが結局、その結論に落ち着くと証明された時には、それならもうその通りと認めるよりない、どうしようもないんだ、だから二二が四は数学なんだ。反論してみたまえ。

『これはしたり、』とどなられるだろう。『反抗は許されません。これは二二が四です! 自然はあなたの許可を求めません。自然はあなたの望みなど、あなたがその法則をお好きかお好きでないかなどかまったりしません。あなたはそれをあるがまま、従ってその結果もすべて受け入れなければなりません。壁は、そういうわけで、壁であり・・・云々』おやおや、だがどうして僕が自然法則や算術を気にするものですか、なぜか僕はその法則やら二二が四やらは好きでもないというのに? もちろん、実際そのような壁を額で突き破るだけの力がないとすれば僕はそれを突き破りやしないが、しかし僕の前に石の壁があり僕に充分な力がないからというだけで、僕はそれに甘んじることはしない。

そのような石の壁が、本当に安らぎであり、本当にそこに少なくとも一種の和解の言葉を含むかのように思えるのは、ただ単にそれが二二が四だからなのだ。ああ、ばかばかしいったってばかばかしいったって! それくらいなら、すべてを、すべての不可能や石の壁を理解し、意識してやろう。従うのがいやなら、この不可能やら石の壁やらに一つも甘んじることはない。その先は、まったく避けようがない論理の鎖をたどり、その石の壁だってどうやら何らかの責任が自分にある、というような永遠の問題の極めていまわしい結論に至ることになる。もっともこれもまたはっきり明らかなことだが責任なんかちっともないので、ま、そうなると、どうしようもないから黙って歯噛みしながら、官能のまま惰性に陥り、夢想すれば、どうやら腹を立てようにも相手がいないらしい、対象が見つからないし、もしかしたら決して現れない、ここにあるのはカードのすり替え、ごまかし、いかさまであり、ここにあるのは単なるごたまぜであり、――なんだかわからないし誰だかわからない、ところがこれが何から何まではっきりしないことでありペテンであるにもかかわらず、それでもやはり痛みがある、そしてわからなければわからないほど痛みは増すばかりなのだ!


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