地下室の手記 第一部 地下室, フョードル・ドストエフスキー

第九章


諸君、僕は、もちろん、冗談を言っているんだし、自分でも下手な冗談だとわかっている。しかしだからといって全部が全部冗談と取ってはいけない。僕は、ことによると歯軋りをしながら冗談を言っているのかもしれない。諸君、僕を苦しめている疑問がある。僕のためにそれらを解決してくれ。たとえばほら、君たちは人間に古い習慣を捨てさせ、その意志を正して、科学と健全な感覚の要求するところに一致させようと望んでいる。しかしどうして君たちに、人間をそのように作り変えることが可能なだけでなく必要でもあるとわかるのか? 人間の欲求が正されることがそのように絶対に必要であるとの結論をどこから下したのか? 要するに、どうして君たちに、そのように矯正することが本当に人間に利益をもたらすとわかるのか? そして、もうすっかり言ってしまうなら、理性の論理と算数に保証された真の正しい利益に逆らわないことが、本当に人間にとっていつでも有益であり、全人類のための法則である、と君たちがそこまでの確信を抱いているのはどうしてなのか? なんといってもこれはまだ今のところ単に君たちの推測にすぎない。これを論理学の法則と仮定してみるのもいいが、もしかしたら、まったく人間的な法則ではないかもしれない。君たちは、もしかしたら思っているんだろう、諸君、僕が気が狂っていると。説明のため、但し書きを入れさせてもらう。僕は同意しよう、人間は主として創造する動物であり、目的に向かって進むことを意識して工学技術を修める、すなわち永久にそして絶えることなく自分の道を開いていくよう運命づけられている。道がたとえどこへ向かうにせよ。しかし、ことによると、人間が時にわき道にそれたいと思うのはほかでもない、その道を切り開いていくべく運命づけられているからこそであり、さらに言えば、おそらく、一般に直情径行な実務家がどんなにばかでも、それにしても時には彼も考えるに至るだろうからだ、すなわち道というものは、どうやら、ほとんどいつでもどこへ向かうにせよどこかへ通ずるものであり、また肝心なことは、どこへ行くかではなく、とにかく行くことであり、育ちのよい子が工学技術を軽蔑して、すべての悪行の母と知られる無為に身を滅ぼさないようにすることであると。人間は創造することを、道を建設することを愛する、これは疑いない。しかしいったい何故破壊と混乱をもまた熱烈に愛するのか? それを教えていただきたいものだ! しかしこれについては僕自身、特に一言、言明したい。人間が破壊と混乱を愛するのは(とにかくこれには疑いはないし、ひどく愛する時があるのも確かなことだが)、もしかしたら、目的の達成や創造している建物の完成を自ら本能的に恐れるからではないのか? 君たちにわかるのか、もしかしたら、その建物を愛するのはただ遠くの方からで、決して近くからではないかもしれないじゃないか。もしかしたら、愛しているのはそれを創ることであって、そこに住むことではなく、できあがったらそれをaux animaux domestiques(家畜たちに)、蟻とか、羊とか、など、などにやってしまうのではないか。ほら、蟻はまったくスタイルが違う。彼らには一つ、この種の驚くべき建築物がある、永久に壊れることのない、蟻塚だ。

蟻塚から、尊敬に値する蟻たちは始め、蟻塚に、おそらく、また終わる、それは彼らの不変性と建設的なあり方に大きな栄誉をもたらすものだ。しかし人間は軽薄で嘆かわしい生き物であり、もしかしたら、チェスのプレイヤーのように、目的そのものではなく、ただ目的達成の過程だけを愛しているのかもしれない。そして誰にわかるものか、(保証などできるわけがない)、もしかしたら、人類が求めてやまない地上の目的一切とかも、ただこの達成の過程の連続の中にのみ、別の言い方をすると生きることそのものの中にあるので、目的自体の中にはないかもしれないじゃないか。もちろん、この目的とは二二が四、すなわち公式以外のものではありえないが、何と言っても二二が四はもはや生ではなく、諸君、死の始まりである。少なくとも人はいつもなぜかこの二二が四を恐れていたし、僕は今も恐れている。仮に、人間はこの二二が四を探し求めることばかりをして、大洋を渡り、この探求に命をなげうっているものとしてみよう、だが発見すること、本当に見つけること、それは、誓って、なぜか恐れている。だって彼は、発見したらもはやそのときには探し求めるものがない、と気づいている。労働者たちは、仕事を終え、少なくとも金を手にして、酒場へ行き、その後警察署へ転がり込み、―なに、そこでまた一週間は費やせる。だが人間はどこへ行く? 少なくともそのような目的の達成のたびに人間は居心地の悪さのようなものを見せる。達成することを彼は愛するが、達成してしまうとなるとまったく違う、で、これはもちろん、ひどくこっけいだ。要するに人間は喜劇的に創られている。この一切の中には、明らかに、駄洒落がある。しかし二二が四となると――やはりとても我慢がならないものだ。二二が四、とにかくこれは、僕に言わせれば、ただの生意気野郎だ。二二が四は気取って、両手を腰に君たちの前に立ちはだかり、つばを吐く。僕も同意する、二二が四はすばらしいものであると。しかし何もかも早いところほめるとあらば、二二が五もまた時にはとても素敵なものだ。

ところで何故君たちは唯一正常で建設的なもの、要するに、唯一繁栄だけが人間に有益であるとそんなに固く、そんなに誇らしげに確信しているのだろう? 理性ってやつは利益を取り違えないのか? だってもしかしたら、人間が愛するのは繁栄だけではないんじゃないか? もしかして、苦痛を同じように愛するのでは? もしかして、その苦痛が人間にとって、繁栄と同じようにまた有益なのでは? そして人間は時にはひどく苦痛を愛する、熱烈に愛する、これは事実だ。それはもう世界の歴史に問うまでもない。自分自身に尋ねてみたまえ、君たちが人間なら、そしてとにもかくにも生きてきたなら。僕個人の意見を言えば、ただ繁栄だけを愛するなんて何というか下品でさえもある。善いか悪いかはともかく、時には何かを壊すこともまた非常に愉快なことである。僕自身はだからといってそこで苦痛の側には立たないし、そしてまた繁栄の側にもだ。僕が支持するのは・・・自分の気まぐれと、それが必要な時に僕に保障されていることだ。苦痛は、たとえばボードビルなどにはふさわしくない、僕もそれは知っている。クリスタルパレスの中では考えられもしない。苦痛は疑惑であり、否定である、が、疑いが存在しうるクリスタルパレスとは何なんだ? 一方僕の確信するところ、人間は真の苦痛を、すなわち破壊と混乱を決して拒絶しない。苦痛は、なにしろただ一つの意識する理由だ。僕は初めに、意識は、僕の考えでは、人間にとって最大の不幸であると宣言したけれども、人間がそれを愛していてどのような満足とも取替えないことを僕は知っている。意識は、たとえば、二かける二より無限に高遠なものだ。二かける二の後にはもう、もちろん、何も残らず、することがないばかりか知るべきことすらない。そのときにできること、それは、自分の五感にふたをして黙想にふけることだけである。そう、だが意識においては、同じ結果になるにしても、すなわちやはりすることがないにしても、少なくとも時々自分自身を鞭打つことはできるし、それだって生き返れるというもんだ。反動的としても、何もないよりずっといい。


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