閉ざされたドア, イーディス・ウォートン

第四章


玉のような汗がグラニスの額からしたたり落ちる。数分ごとにハンカチを出して拭かなければならなかった。

地方検事にこの事件を訴え出てからすでに一時間半、落ち着いて話を進めてきていた。幸いアーロンビー検事とは、会えば挨拶を交わすぐらいの面識はあったので、ロバート・デンヴァーと話をしたその日のうちに、さしたる苦労もなく個人的に会うことができたのだった。

家へ帰って服を着替えると、朝まだき、早々に家を後にした。アスカムが精神科医を連れて来たらどうしよう、と、いても立ってもいられなかったのだ。差し迫る危険をかわす唯一の方法は、良識があり公平な人物に、自分の有罪を立証してもらうことだけだ。たとえこれほど人生に絶望していなかったとしても、いまや電気椅子だけが拘束衣を逃れる唯一の道であるような気がした。

額の汗をぬぐうためにことばを切ったグラニスは、アーロンビー検事が腕時計に目を走らせたのを見逃さなかった。仕草の意味を悟ったグラニスは、訴えるように片手をあげた。

「なにもいま、信じていただけるとは思っていません。けれど私を逮捕して、事件を調査してもらえないでしょうか」

アーロンビーは白髪まじりの濃い口ひげの下で、微かに笑った。血色が良い顔は、活気にあふれてはいたが、専門家の鋭い目も、ひとの気持ちを察することにかけては、厳正なプロとは言いがたいようだ。

「ともかく、あなたをいますぐに収監する必要があるとは思いません。もちろんあなたの陳述を検討することはお約束しますが……」

助かった、という思いが、急激に胸にこみあげてきた。自分を信じていなかったら、そんなことは絶対に言うまい。

「わかりました。もうお引き留めはしません。いつでも私は自分のアパートメントにおりますから」そう言うと住所を渡した。

地方検事はこんどはさっきより親しげな顔になって微笑んだ。

「今夜、一時間か二時間、お出かけになる気はありませんか? レクターでちょっとした夕食会を開くんです。ほんのささやかな集まりですよ。ミス・メルローズもお出でだ。ミス・メルローズはご存じですよね、あとは友人がひとりかふたり。もしいらっしゃるのでしたら……」

自分がどんな回答をしたかもはっきりとは意識しないまま、グラニスはよろめくように部屋をあとにした。

四日間待った。恐怖に満ちた四日間だった。最初の二十四時間、アスカムの精神科医が来たらどうしよう、という懸念が片時も離れることがなかった。それが過ぎると、こんどは自分の告白を聞いても何も感じなかった地方検事のことが、腹立たしくてたまらなくなってきた。もし捜査するつもりなら、どう見積もっても、もっと前に聞きに来ているはずだ……。おまけに夕食会に誘うなど、自分の話をいかに何とも思ってないか、はっきりと示しているではないか。

有罪になろうとこれ以上続けても意味がないのではないか、と、無力感が襲う。自分は生きることに鎖でつながれてしまった――「意識の囚人」。この文句をどこで読んだのだったか。ともあれ、彼はその意味するところを学んだのだった。

まんじりともできない夜、燃えるような頭に、これが自分だという強烈な意識、これ以上削りようのない、確固とした「自我」が、いままで感じたことがないほどはっきりと感じられる。しかもその意識は、いつの間にか現れて、逃れることもできないのだ。心というものがこれほどまでに、自己を認識したり、暗く曲がりくねった自身の奥底を見通したり、という込み入ったことをやってのけるとは、いままで考えたこともなかった。しばしば、なにものかにまとわりつかれている、手や顔や喉の奥に何かがしがみついている、という感覚に、短い眠りを破られた――頭がはっきりしてくるにしたがって、それは自分自身の大嫌いな部分、分厚い粘着性の物質のように、自分に張りついている性格の一部だったことがわかるのだった。

朝のまだ早い時間、窓際に立ったグラニスは、通りが目覚めるのを見ていた――道路を掃除する者、ゴミ集めの荷車を引いていく者、黄ばんだ冬の朝の陽のなかを、せかせかと脚を運んでいくみすぼらしい労働者たち。あのなかのひとりだったら――だれでもいい、あのなかのだれかになって、自分のチャンスに賭けてみることができるなら。みんな労働者、哀れな運命を抱えている人々だ。利他主義者や経済学者が言う、嘆き悲しみ、不満をくすぶらせる犠牲者だ。だが、もし自分自身の重荷を振り落として、その代わりにあのなかのだれかの重荷を背負うことができたら、どんなにうれしいことだろう。だが、そんなことはできないのだ……彼らもまた強固な自意識を抱えている。だれもが自分の醜いエゴと手錠でつながれているのだ。だれかほかの者になりたいなどと願ってなんになろう。ただひとつ、絶対的に正しいのは、存在をやめることだ……。

そこにフリントが風呂に湯を満たすために入ってきてたずねた。朝食はスクランブル・エッグになさいますか、それともポーチド・エッグになさいますか? 

五日目にグラニスはアーロンビーに宛てて、緊急の用件であることを告げる長い手紙を書いた。つづく二日間は、もっぱらその返事を待って過ごした。手紙が届いたそのときを逸するのが怖くて、自宅からほとんど出ることもないほどだった。 地方検事は手紙を寄越すだろうか。それとも、その代理の者、警官や「秘密捜査員」、あるいは想像もつかないような法の密使を送ってくるのだろうか。

三日目の朝、フリントがそっと――まるで主人が病気ででもあるかのように――読みもしない新聞を広げていたグラニスのいる書斎に入ってきた。フリントは名刺が載ったトレイを差しだす。

名前を見ると、J.B.ヒュースンとあり、その下に鉛筆書きで「地方検事局より」と走り書きがある。胸を高鳴らせて立ち上がり、通すよう、身ぶりで命じた。

ヒュースン氏は華奢で顔色の悪い、目立たない感じの五十がらみの男だった。人ごみのなかで、かならずひとりはいる見本のような人物である。

「刑事として成功するタイプだな」グラニスは握手しながらそう思った。

ヒュースン氏はその外見にふさわしい簡単な自己紹介をした。地方検事に言われて「内密の話」をグラニスさんとしに来たんです、レンマン殺害の件で出した陳述を、もういちどお話していただけませんか。

ヒュースンの態度が非常に落ち着いており、合理的かつ柔軟なものだったので、グラニスの自信はふたたびよみがえってきた。仕事を知っている男だ――あのバカバカしいアリバイを見破るぐらい、わけはないだろう。グラニスはヒュースンに葉巻を勧め、自分でも一本火をつけた――自分の冷静さを証明するために。そうしてもういちど話を始めたのである。

先へ行くにつれて、これまでよりずっとうまく話していることをはっきりと感じた。まちがいなく、練習が功を奏したのだ。さらに、聞き手が距離を置いた公平中立な態度を取ってくれたこともありがたかった。ヒュースンは少なくとも、頭からグラニスの言うことを信じまいと決めてかかってはいないようだったし、信用されていることが伝わってきたおかげで、これまでより明晰で、首尾一貫して話すことができた。そう、今回のグラニスの話は、確かに説得力があったのである……。


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