閉ざされたドア, イーディス・ウォートン

第五章


グラニスはうらぶれた通りを絶望的に端から端まで見やった。隣には、突き出した目が光る若い男が立っている。滑らかな肌をしていたが、ひげそりは滑らかとはいかなかったらしい顔が、にこやかに微笑んでいた。青年の機敏な目がグラニスの視線の先を追いかける。

「番地はおわかりですね?」と、元気のいい声で聞いた。

「ああ――104だった」

「それじゃ新しい建物が立ったから、その番地はなくなったんです。きっとそういうことなんでしょう」

青年は頭をうしろにそらして、半分出来上がったレンガと石灰岩づくりのアパートメントの正面を見上げた。いまにも倒れそうな安アパートと厩舎の家並みにつづいて、薄っぺらな気品を張りつけた建物が立とうとしている。

「その番地でまちがいはないんですね」

「そうだ」グラニスは落胆して答えた。「万が一、ちがっていたとしても、その駐車場はそこのレフラーの店の真向かいにあったんだ」そう言って、向かいの朽ちかけた厩舎を指さした。染みだらけの看板には『馬の貸し出しと預かり』と書いてあるのがかろうじて読める。

青年は通りを走って渡った。「そうですね、あそこでその駐車場の手がかりが、なにか見つかるかもしれません。レフラーの店――あそこと同じ名前だ。駐車場の名前は覚えてるんでしょ」

「もちろん、はっきりと」

グラニスはエクスプローラー誌の「もっとも頭の切れる」記者の協力を得てから、ふたたび自信を取り戻していた。自分で自分の話が信じられないかぎり、だれもが信じずにはいられないような話でも、信じない人間は出てくる。

ピーター・マッカランが目を凝らして耳を傾け、質問し、手早くメモを取るのを見ていると、安堵の気持ちで胸がいっぱいになった。すぐさまこの事件に「ヒルのように」――とは、彼自身の弁である――飛びついたマッカランは、喜び勇んで話に応じ、興奮気味に本気で取り組む、「ここから事実の最後のひとしずくまで搾り取るつもりです。それが終わるまでどこにも行かせやしませんからね」と約束するのだった。

いままでグラニスの話を聞いても、だれもこんな態度は取らなかった。アーロンビーから寄越された刑事も、メモさえ取らなかったのだ。しかも刑事が来て一週間が経っても、検事局からは何の音沙汰もない。どう見ても、アーロンビーもこの件から手を引いてしまったのだ。

けれどもマッカランは手を引かないと言う――彼だけは! 嬉々としてついてきたマッカランと、昨日は丸一日一緒に過ごし、いったん別れた後、ふたたび証拠を追うためにやってきたのだった。

だがレフラーの店では結局、何も得られなかった。そこはもう貸し馬屋を営んではいなかった。取り壊しが裁判所命令で決まっており、判決から施行までの間、雑多な物置場、壊れた台車やカートの隔離所になっていたのだ。そこの管理をしている耄碌しかけた老婆は、向かいのフラッド駐車場のことなど何も知らない――いま建築中のアパートの前に、何が建っていたかさえ、記憶にはないようだった。

「まあそのうちどこかでレフラーも捕まえられると思いますよ。もっと大変な仕事だってやったことがあるんですから」いささかも気落ちすることなく、マッカランは明るく言った。

六番街に向かって通りを戻りながら、少しだけ自信のなさそうな口ぶりでつけ加えた。「そのシアン化物の入手経路を教えてもらえれば、そこからつきとめていくのは、ぼくが引き受けるんですがね」

グラニスの気持ちは沈んだ。そう――そこが弱点なのだ。自分でも最初からわかっていた。だがいまだに、毒物のことがなくてもこの事件をマッカランに納得させることができるのではないか、と考えてもいたので、もういちど家へ戻っていっしょにわかったことをまとめてみないか、と熱っぽく誘った。

「すいません、グラニスさん、オフィスでやらなけりゃならないことがあるんです。それに、取りかかる新しい材料もないのに、そんなことしても仕方がないでしょう。明日か明後日、おうかがいしますよ」

マッカランは路面電車に飛び乗ると、わびしげに見送るグラニスをそこに残して去っていった。

二日後、ふたたびアパートメントにマッカランはやってきたが、溌剌とした表情はいくぶん翳っていた。

「さて、グラニスさん、詩人のことばを借りれば、“星のめぐりは汝が身に良からず”です。フラッド駐車場の足跡が消えちゃってるんです。おまけにフラッドを通じて、車も売っちゃったんでしたよね?」

「そのとおりだ」グラニスはうんざりして言った。

「だれがそれを買ったんでしょう、ご存じですか」

グラニスは眉をひそめた。「ああ、フラッドだ――そうだ、フラッドが自分で買い戻したんだ。私が三ヶ月使ったあとで、もういちどフラッドに売ったんだ」

「フラッド? またあの野郎か。ぼくはフラッドを、街中捜し回ったんですよ。ああした業種っていうのは、それこそ地面に呑み込まれでもしたみたいに消えちまうんだ」

意気消沈したグラニスは、ことばもなかった。

「これで毒物に戻ることになりましたね」マッカランはそうことばを続けて、ノートを取り出した。「もういちど、話してもらえますか」

グラニスは話を繰り返した。

当時、毒物を手に入れることはとてもたやすいことだった。おまけに自分はその痕跡をうまく闇に葬ったのだ。

毒殺することに決めると、すぐに知り合いのなかに、だれか化学薬品の製造に携わっている者がないか探した。ジム・ドーズというハーヴァードの同級生が染色業界にいた。おあつらえむきにね。だが、土壇場になって、どう考えても容疑は条件をすべて備えている自分に、まっさきに向かうだろうということが頭に浮かんで、もう少しあからさまではない方法をとることにした。

友人の中に、キャリック・ヴェンという医学生がいた。不治の病に冒されていたために、仕事に就けずにいたんだ。趣味というのが物理学の実験で、簡単な実験室を持っていた。当時、日曜日の午後はそこを訪ねて葉巻を吹かすことにしていたのだが、ヴェンはいつも、ストイフェサント・スクウェアの古い屋敷の裏に建てた実験室に腰を落ち着けていたよ。実験室の端には中味の詰まった薬品棚があり、劇薬の棚もあった。

キャリック・ヴェンは風変わりな男で、その好奇心は休む暇もなかった。だからヴェンのところには、日曜日ともなると、訪れた人でよくごったがえしていたね。ジャーナリストや三文文士、画家のような、さまざまな表現形式を実験している人々の愉快な集まりだったんだ。

出入りする人間があまりに多いので、気がつかれないうちに部屋を移るのなんて簡単だった。ある日の午後、ヴェンがまだ戻っておらず、ほかの人間もいなかったのを幸いに、戸棚からこっそりと薬品を取り出し、ポケットにしまい込んだのだ。

だがそれも十年前のこと。気の毒なヴェンが長引く病気で亡くなってからずいぶんになる。ヴェンの父親もまた亡くなって、ストイフェサント・スクウェアの屋敷は下宿屋に変わってしまった。移り変わるニューヨークのなかで、名もない人々のささやかな歴史など、スポンジが水を吸うように跡形もなく吸い取られてしまったのだった。楽天的なマッカランでさえ、薬物から証拠をつかむのが絶望的だということは理解したようだった。

「これで三番目のドアまで目の前で閉まっちゃいましたね」ノートをぱたんと閉じると、のびをして、明るく好奇心に満ちた目を、グラニスのしかめ面から離して休ませた。

「失礼だけど、グラニスさん――お話の弱点はおわかりでしょうね?」

グラニスはがっくりと肩を落とした。「ありすぎるほどだ」

「そうですね。でも、なによりも弱い点がある。何でまたこんなことを明るみにしたいんです? なんでまた自分から進んで縛り首の輪の中に頭を入れようとするんですかね」

グラニスは絶望的な目を向けた。この頭の回転が速く、軽妙で不遜なマッカランを、どうしたら納得させることができるだろう。元気のいい獣のような生命力に満ちあふれている者はだれも、死への渇望が動機だ、などと言われても信じはしないだろう。頭をしぼってもっと説得力のある説明を考えようとしたとき突然、マッカランの表情が和らぎ、うぶな感じやすさが表れた。

「グラニスさん……これまでずっとその記憶に苛まれてきたんですか」

一瞬、目を見張ったグラニスは、すぐにそのことばに飛びついた。「そうなんだ……その記憶が……」

マッカランは、熱心にうなずいた。「自分のやったことがどこまでもつきまとってくるんですね? 夜も眠れなかった? 告白すべきときが来たと思ったんですね?」

「告白しなければいけないと思ったのだ。わかってくれるかね?」

記者は握り拳でテーブルをドンと叩いた。「当然です。暖かい血が一滴でも通う人間ならだれだって、身を苛む怖ろしいまでの後悔を想像できないはずがありません」

マッカランのケルト民族としての想像力に火がついた。グラニスは胸の内で彼のことばに感謝する。アスカムもデンヴァーも、このアイルランド人記者が飛びついた動機に納得などしなかった。確かにマッカランが言うように、ひとたびなるほどと思わせる動機を見つければ、事件が困難であればあるほどそれが刺激になって、がんばろうという気になるものなのだ。

「後悔――後悔」そのことばを舌先で転がしながら、心理学研究の端緒ともなった大衆演劇のアクセントで繰り返してみる。その一方でひねくれた気持ちで独り言ちた。「もしこの発音だけで人を感動させることができるのなら、すぐにでも六つの劇場を満員にできるだろうに」

このときからグラニスには、マッカランの好奇心を感情の側から満たしてやれば、仕事にもいっそう熱を入れることがわかった。そのうえ一緒に食事をしてからミュージックホールか劇場へ行くというおまけまで手に入れたのである。

自分が相手の関心の対象であると感じること、相手の心の中に映った自分の姿を確認することが、グラニスにとって必要になっていた。マッカランの注意を事件に釘付けにすることに、後ろめたい喜びを感じていたのである。さも道徳的に苦しんでいるかのような、苦悶の表情を浮かべてみせるのは、胸躍るゲームのようなところがあった。もう何ヶ月も劇場には足を踏み入れていない。だが、マッカランの視線の先にいたいという気持ちに支えられて、なんの意味も感じられない舞台を前に、しかつめらしく寛大な態度で最後まですわっていたのだった。

幕間にマッカランはグラニスを楽しませようと、観客の逸話を聞かせた。観客全員を知っていて、その外観に隠された秘密を教えてくれる。グラニスは辛抱強く耳を傾けていた。その種のことにはとうに興味はなくしていたが、マッカランの興味の中心にはグラニスがおり、どんな話も間接的に自分に関係してくることを知っていたのだ。

「向こうの人を見てください――三列目に小さくて干からびた感じの人がいるでしょう、口ひげを引っ張っている。あの人の回想録は、出版する価値があるでしょうね」マッカランは最後の幕間で急に言い出した。

視線の先を追ったグラニスは、それがアーロンビーのオフィスからやってきた刑事であることに気がついた。一瞬、目の前が真っ暗になるような、ゾッとするような感覚に襲われた。

「“シーザー、もし彼が話すことができたなら――”」マッカランは語調を変えた。「どなたかもちろんご存じですよね、ジョン・B・ステル博士です。国内でも最大の精神鑑定医だ」

グラニスはハッとして、目の前に並ぶ頭の間から、もういちどよく見ようと身を乗り出した。「その男というのは――通路から四番目の? それはちがうんじゃないかな。あれはステル博士じゃないだろう」

マッカランは声をあげて笑った。「そりゃ法廷で何度も見てるんですから、顔を見ればわかります。精神鑑定が必要な大きな事件ともなると、ほとんどあの人が証言してるんですから」

身震いするような冷たいものがグラニスの背筋を伝ったが、グラニスは頑固に繰り返すばかりだ。「あれはステル博士なんかじゃない」

「博士じゃないって? おやおや、ぼくは知ってるって言ってるのに。こっちに来ますよ。もし博士じゃなかったら、ぼくなんかと話したりしないから」

小柄な干からびた男はゆっくりと通路をこちらに向かってやってきた。マッカランの側まで来ると、軽く目礼する。

「こんにちは、ステル先生。相変わらずガリガリですねぇ」マッカランは明るい調子で悪態をついた。J・B・ヒュースンは笑顔でそれに応え、歩み去った。

グラニスは痺れたようにすわっていた。まちがえようがない。アーロンビーが自分のところに寄越した男だ。精神科医が刑事に化けていたのだ。では、アーロンビーも正気を疑っていたのだ――自分の告白を狂人の繰り言と受け取ったほかの人間と同じように。これを知ったグラニスは、心底怖ろしくなった。精神病院が大口を開けて、自分を待ちかまえているのが見えるような気がした。

「あの人にたいそう似ている人間を知っているんだが――J・B・ヒュースンという名の刑事だよ」

だが聞く前からマッカランの答えはわかっていた。「ヒュースンですって? J・B・ヒュースン? そんな名前の人間は聞いたことがないなあ。だけどあれはJ・B・ステルでしたよ、名前を聞いてすぐに自分のことだとわかったし、それに応えたのをあなただって見たでしょう」


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