前稿で筆者は、目の前にある皿が四十代にそなえて注文しておいた料理と違っていることに、いかにして気づいたかを話した。実際のところ――筆者とその皿とは同一なのだから、著者は自分のことを割れた皿、とっておく意味があるかどうか怪しみたくなるような皿だ、と表現した。編集者は、この原稿があまりに多くの思いつきレベルの要素をふくみすぎている、と思ったし、たぶん、読者の感想もそんなところだろう――そして、“不屈の魂”を神に感謝する、という形で結ばれないかぎり、あらゆる自己啓示を軽蔑する人は、どこにでもいるものだ。
だけど、ぼくはずっとずっと神に感謝してきた。なにはなくても感謝してきた。華をそえてくれるエウガニアの丘を背景にできなくとも、ぼくは悲嘆を記録に残したかった。ぼくの目には、エウガニアの丘が一切見えなかった。
といっても、割れた皿も食器棚に保管され、家事に一役かうことだってある。コンロで加熱したり、他の皿と一緒に洗ったりするわけにはいかない。友達の前に出すわけにもいかないけれど、夜食のクラッカーを盛ったり、残り物をのせて冷蔵庫にしまったりするのはかまわない……
そこでこうして続きを書くことにした――割れた皿のそれからのお話だ。
さて、うち沈んだときの治療法としてスタンダードなものは、貧困や病気に苦しむ本物の人間のことを考えることだ――これは鬱全般に対する特効薬であり、昼なら、多少天気が悪かろうが、どんな人にでも至福を与える。けれど、午前三時になると、忘れてきた荷物も死の宣告と同じくらい悲劇的重要性をもつようになり、手当ての甲斐もなくなる――そして魂の暗夜では、くる日もくる日も、時刻はいつも午前三時なのだ。その刻限には、子どもじみた夢に逃げることで、現実と直面するのを可能なかぎり先送りしようとすることが多い――が、俗世とのさまざまな接触に、絶えず起こされる。これらの事態を、できるだけ手早く、できるだけ無造作にさばいて、物質的・精神的大変革によってものごとがおのずと改善されるのを期待しながら、いまひとたび夢の世界に逃げこむ。しかし、こうした逃避をくりかえすほどに変革のチャンスは失われていき――ひとつの悲しみが消え果てるのを待つどころか、自己の解体という処刑にいやいやながらにたちあわされるはめになる。
狂気やドラッグや酒にでも走らないかぎり、この道は結局のところ袋小路で、空虚な静寂へと進む。ここで、みなさんは、何が失われ、何が残されたかを見極めることができるだろう。ぼくの場合、この静寂の中ではじめて、同じことを二回も経験してきたことに気がついた。
初回は二十年前、プリンストンの三年生だったときのことで、このときぼくはマラリア罹患を告知され、大学を離れた。十年ほど後にレントゲンを撮ってもらったら、それが結核だったとわかってすっきりした――症状は軽く、ほんの何ヶ月か休んだあと復学した。しかし、トライアングル・クラブの部長をはじめとするいくつかの地位とミュージカル・コメディーの構想を失い、留年もした。大学生活はもう以前のようにはいかなかった。名誉のバッジも、数々のメダルも、結局は無縁になってしまった。三月のある日、ぼくは欲しかったものがすべて失われたように思った――その日の夜、はじめてぼくは女性の影を追い、しばらくの間は、他のことがすべてどうでもよく思えた。
数年経って、大学で大物になりそこねたのはよいことだったと気づいた――委員を務める代わりに、英詩にとりくんだ。英詩とはなにかという概念をつかむと、書き方を学んだ。ショーの信条にしたがえば「欲しいものが手に入らないのならば、手に入るものを欲しがるに越したことはない」のだから、あれはかっこうの息抜きだったと思う――あの頃は、自分がみんなのリーダーになる資格を失ったのを認めるのは、つらく、苦しい仕事だった。
爾来、ぼくは使えない従業員を解雇できたためしがなく、それができる人を見ると仰天し、感動してしまう。他人を支配しようという昔の欲望は壊れ、消滅した。毎日の暮らしはぼくにとって形ある夢であり、ぼくは違う街に住む女の子に手紙を書いて毎日を送った。男というものはこの手の衝撃から立ち直ることがない――かれは違う人間に変わり、やがて、新しい人間として新しい関心事を見つける。
いまのぼくの状況とおなじ場面がもうひとつ、戦争の後に訪れた。また背伸びしすぎていたのだ。経済的事情から破局を迎えるおきまりの悲恋で、ある日、彼女が常識に基づいて関係を終わらせた。長い絶望の夏を、手紙の代わりに小説を書いて過ごし、結果それでよかったわけだが、別の人にとってもそれでよかった。彼女と結婚したポケット一杯に銭を蓄えた男は、常に、有閑階級に対する根強い不信感、敵意を抱いていた――革命家の信念なんてものではなく、農夫のくすぶった憎悪だ。それ以来、ぼくの友人たちの金はどこから湧いて出てきているのかと不思議に思わずにはいられなくなり、いつかぼくの恋人に対して“領主の特権”が行使されるのではないかと考えるのを押しとどめきれなくなった。
十六年間、ぼくはまさに前述のような気持ちで生きてきた。金持ちを軽蔑し、それでいて金のために働き、その金でもって一部の金持ちにみられた身の軽さや雅さをかれらと分かち合おうとした。この時期に何頭もの馬を買った――まだ名前を言えるものも何頭かいる――“穴の空いたプライド”“断ち切られた望み”“不実”“目立ちたがり”“痛恨の一撃”“二度とふたたび”。ややあってぼくは二十五になり、やがて三十五になったけれど、何一つとしてたいしてよくはならなかった。とはいえこの時期、一度も挫折したりはしなかった。誠実な男たちが絶望的な憂鬱にとりつかれるのを見た――諦めて死ぬものもいたし、うまく自分との折り合いをつけてぼくよりもっと大きな成功をおさめたものもいる。ぼくのモラルが、見るにたえないことをやってきたものだという自嘲のレベルよりも低下することはまったくなかった。トラブルがかならずしも挫折につながるわけではない――挫折の原因は挫折の原因であって、関節炎と関節不随とが異なるように、トラブルとは異なるものなのだ。
去年の春に太陽が空から消えたとき、最初、ぼくはそれが十五年前か、あるいは二十年前に起きたものと関連付けようとはしなかった。だんだんと、ある種の同族的類似性が見えてきたにすぎない――背伸びのしすぎ、蝋燭の両端への灯火。銀行から残高以上の金をおろそうとするような、意に反する体力の使役。衝撃は以前の二者よりも暴猛だったが、同じ種類のものだった――黄昏の射撃場に立つようなものだ。手ににぎったライフルは空、的も片付けられている。問題はなにもない――自分が呼吸する音以外になにも聞こえない静寂が広がっているだけ。
この静寂には、義務というものに対するすさまじい不信、ぼくの全価値観の減退が待ちかまえていた。秩序を情熱的に信仰し、動機や結果は軽視すべきものであり、技術と勤勉はどんな世界でも通用する――こうした信念の数々が、ひとつひとつ、消え去っていった。小説とは、ぼくが円熟期にあったころには、一個の人間から他の人間に思想や感情を伝えるのにもっとも強靭な媒体だった。それがやがて、ハリウッドの商人やロシアの理想屋の手によって、新鮮味のかけらもない思想や、明々白々な感情ぐらいしか盛りこめない、多数相手の機械的手段に従属するようになってしまった。そこでは言葉は映像に従属し、個性はコラボレーションという低級なギアにもまれて摩滅せざるをえない。ぼくは一九三〇年あたりから、トーキーは、ベストセラー作家たちでさえをも、無声映画とおなじくらい古くさいものにしてしまうだろうという予感を覚えている。本はまだ読まれている、キャンディー教授が選ぶ今月の一冊ならば――好奇心の強い子どもたちはドラッグストアの書籍コーナーでミスター・ティファニー・セイヤーの下品な本に熱中する――いや、屈折したくもなるじゃないか、文章というものの力が他の力、粉飾まみれの力や野卑な力に従属しているのを見せつけられるのでは、いやになるほど冷遇されているものだと……
では、その長い夜にぼくを苦しめつづけたものについて書こう――小さな店がチェーンストアのせいで立ちゆかなくなってしまうように、受け入れることもはねつけることも不可能だったもの、ぼくの努力すべてを無益にする傾向があるもの、外部からの暴力、けして打ち払うことのできないもの――
(なんだか、卓上の時計で残り時間を確認しながらの講演をやっているような気分がしてきた――)
さて、ぼくが例の静寂の時をむかえたとき、自発的に採用したがる者などいそうにもない手を用いることを強いられた:ぼくは否応なく考えさせられた。いやはや、それは困難なことだった! 大いなる秘密のつまった鞄のまわりをうろつきまわった。最初に足を止めたとき、ぼくは、自分がものを考えたことがあったのかどうか、疑問に思った。長考の末、ぼくは結論に達した。それをいま書き並べてみよう:
(一)ぼくは、小説家としての技術以外の問題について、ほとんどなにも考えてこなかった。二十年にわたって、ぼくの知的良心はある男のそれだった。その男とは、エドマンド・ウィルソンだ。
(二)「よい生き方」とは、という観点については、もう一人の男の主張によっていた。といっても、この男とは十年ほど前に一度会ったきりだが。そのときからずっとかれのことは心に残っている。このノースウエストの毛皮商は、ここに名前を挙げられるのをこころよしとしないだろう。でも、さまざまな場面で、ぼくは、かれならどう考え、どう行動するだろうかと考えてみたものだった。
(三)同世代にあたる三人めの男は、ぼくにとって芸術的良心だった――かれがまだ何も発表していないうちからぼくは自分の文体を確立していたから、かれの伝染性の強い文体を真似たことはなかったけれど、かれの世界には強く引きつけられるものがあった。
(四)第四の男は、うまく人と付き合えたときの指針となっていた。どうふるまい、何を言うべきか。どうすれば他人を一時的にであれ喜ばせることができるか(体系化された野卑さなどで他人を相当不快にするミセス・ポストの理論の対極に位置する)。これはぼくを常に混乱させるものだったけれど、この男はゲームを見つめつづけ、分析し、勝利した。かれの言葉は、ぼくにとってはじゅうぶんありがたいものだった。
(五)ぼくの政治的良心というものは、十年もの間、胸の奥にしまいこまれた皮肉の一要素として以外に存在していなかった。ぼくが生きているこの社会についての関心を甦らせ、熱気と新鮮さの入り混じった風をぼくに送りこんできたのは、ぼくよりずっと若い一人の男だった。
だから、「ぼく」というものはもはやどこにもなかった――自尊心を築く土台となるものがなかった――無尽蔵の労働力だけはまだあったが、しかし、これも自分のもののような気がしなかった。自己がないというのは奇妙なものだ――ちょうど、小さな子どもが広大な空家に一人残されて、なんでも好きにできると知ったとたん、なにもしたいことがないのを知ったというのと似ている。
(時計は予定の時刻を過ぎましたが、話はまだ本題に入っておりません。ぼくの話がみなさんの興味を引くようなものかどうかちょっと疑わしく思っているのですが、もしどなたか続きをご希望でしたら、たくさんお話したいことが残っておりますので、その旨、編集者の方にお伝えください。もうたくさんだというのでしたら、そうおっしゃってくださって結構です――でも、あまり大きくない声でお願いします。どうやら、どなたかはっきりとはわからないのですが、ぐっすり眠っておられるようですから――その方が力をかしてくだされば、ぼくも商売をつづけられたかもしれなかった、そういうお方です。それはレーニンでもなく、神でもありませんでした。)