グレイト・ギャツビー, フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルド

第九章


あの日のそれから、あの日の夜、その翌日を、二年経ったいまにして思い出してみると、ギャツビーの屋敷の玄関を出たり入ったりする警察やカメラマンや新聞記者たちがどこまでもつづくかと思われるほどの列をなしていたのだけが思い出されてくる。正面門にはロープが張られ、警官がひとりそのそばに立って野次馬たちを締め出していたけれど、子供たちはすぐにぼくの家の庭から入りこめることに気づいて、そうした子供たちが、いつも何人か一塊ひとかたまりになってプールのそばでぽかんと口をあけていた。きびきびした態度の人物が、おそらくは刑事だったのだろうが、あの午後、ウィルソンの死体に屈みこみながら「気違い」という表現を使った。なんとなしの権威がその口ぶりに備わっていたせいで、翌朝の新聞記事はみなそういった調子で書かれることになった。

そうした記事の大部分は悪夢だった――グロテスクで、回りくどく、熱狂的で、しかも真実をついていない。検死に際し、ウィルソンが妻に疑惑を抱いていたという証言をマイカリスがしたと聞き、ぼくはきわどい諷刺ふうしに包まれて話全体が暴露ばくろされるのもすぐのことだろうと思った――けれどもキャサリンは、なんでも言い出しかねないと思っていたところが、一言も口外しなかった。それどころか、ことに前後して彼女は驚くべき性格を周囲に明かした――書きなおされた眉の下から検死官をまっすぐ見据え、彼女の姉はギャツビーに会ったことがないということ、彼女の姉が夫と一緒にいてこよなく幸せだったこと、彼女の姉がいかなる悪戯もやったことがないということを、言明した。彼女はそう言い切ると、ハンカチに顔を埋めて泣きじゃくりだした。疑いを持たれるなんて我慢の限度を超えているとでも言うように。だから、ウィルソンは「悲しみのあまり発狂した」男にまで格を落とし、事件はもっとも単純な形に落としこまれた。事件はそこで収まったのだ。

けれどもそれらはみな遠い、どうでもいいできごとのように思えた。気がつくと、ぼくはひとりでギャツビーの側に立っていた。悲報をウェスト・エッグ・ビレッジに電話した時点から、ギャツビーにまつわる推測や現実的な質問のすべてが、ぼくに向けられるようになっていた。最初は驚きもしたし混乱もした。それから、屋敷の中のギャツビーが、一時間、また一時間と、動くことも息をすることも話すこともなく横たわっている間に、ぼくの中で責任感が芽生えてきた。というのも、だれも関心をもっていないのだから――関心というのは、つまり、だれもが最後の瞬間に受け取ってしかるべきはずの、熱意あふれる関心、一個人としての関心のことだ。

遺体発見から三十分後、ぼくは、本能的に、ためらうことなく、デイジーに電話をかけていた。けれども、デイジーもトムもその午後早くから、荷物を持ってどこかにでかけてしまっていた。

「連絡先は聞いてないのかな?」

「はい」

「いつもどるのか、分かる?」

「いいえ」

「どこに行ったのかな? こっちから連絡する方法を知りたいんだけど?」

「わかりかねます。なんとも申し上げられません」

ぼくはギャツビーのためにだれかをつかまえてやりたかった。ぼくはギャツビーがされている部屋に行って、こう言って安心させてやりたかった。「だれかをつかまえてやるからね、ギャツビー。心配ないよ。ぼくを信じてくれ、必ずだれかをつかまえてあげるから――」

メイヤー・ウルフシェイムという名前は電話帳には載っていなかった。執事が教えてくれた、ブロードウェイにあるウルフシェイムの事務所の住所を手がかりに番号案内に問い合わせたのだけど、結局、電話番号が分かったときにはもう五時をずいぶん回ってしまっていて、だれも電話に出なかった。

「もう一回電話したいんだけど?」

「もうすでに三回呼び出してみてるんですよ」

「重要なことなんだ」

「申し訳ありません。どなたもおられないのではないでしょうか」

客間に引きかえしたぼくは、一瞬、こうして仕事柄屋敷に詰めている人々もみな予期せぬ弔問客ちょうもんきゃくなのだと思った。けれど、かれらがシーツをめくってはショックを受けた目でギャツビーを見やるそのさなかにも、ギャツビーの抗議が頭の中で鳴り響いてやまなかった。

「あのですね、尊公、私のために誰かをつかまえてこなきゃなりませんよ。一生懸命いっしょうけんめいやってもらわないと。今度ばかりは、私ひとりではとても切り抜けられませんからね」

だれかがぼくに質問を切り出したが、ぼくはそれを受け流して、二階に上がり、ギャツビーのデスクの鍵が掛かっていない引出しを矢継やつばやに調べはじめた――かれは、自分の両親が死んだとは明言めいげんしたことがなかったのだ。けれどもそこには何もなかった――ただ、忘れ去られた暴力の象徴、ダン・コーディーの肖像画が、壁から室内を睥睨へいげいするばかり。

翌朝ぼくは、執事にウルフシェイム宛ての手紙を持たせてニューヨークに行ってもらった。情報を求めると同時に、次の列車でこちらにくるようにと促す手紙だった。この要求は、書いたときは、余計なことだと思っていた。新聞でことを知ったウルフシェイムがこちらに向かっているのは確実だとぼくは思っていたから。そして、昼前にデイジーから連絡が入るということも、同じように確実視していた――が、デイジーからの連絡はなく、ウルフシェイムもこなかった。警官、カメラマン、新聞記者といった連中以外にはだれひとりやってこなかった。執事がウルフシェイムからの返事をもって帰ってきたときは、ぼくの中に反発感がうごめきはじめ、ギャツビーとぼくとで、かれら全員を軽蔑しつくしてやるという盟約を結びたいくらいだった。

親愛なるミスター・キャラウェイ。このたびのことを知り、私はこの人生においてもっともひどい衝撃を受け、本当のことなのかまったく信じられそうにない思いです。あの男がとったああいう気の狂った行為は、私たちみなに何事かを思わせずにはいられません。重要なビジネスにかかわっており、このたびの事件に巻き込まれるわけにはいかない今現在の私でありますれば、そちらに出向くことはできそうにありません。事後、何か私にできることがありましたら、エドガーに手紙を持たせてこちらにお寄越しください。このようなことを耳にすると、私はまったく打ちのめされてしまい、自分がどこにいるのかさえよくわからなくなってしまいます。

Yours truly

メイヤー・ウルフシェイム

それから、下部に慌てたように書き加えられた補遺ほいがあって、

葬儀などについてお知らせください、家族についてはなにも存じておりません。

午後、電話が鳴って、長距離電話交換局がシカゴからの電話がかかってきていると知らせてきたとき、ぼくはようやくデイジーから連絡がきたか、と思った。けれども、回線を伝って流れてきた声は、男の、細くて遠い声だった。

「もしもし、スラッグルだが……」

「はい?」聞き覚えのない名前だった。

「とんでもない話だぜ、だろ? おれの電報は届いたか?」

「電報などひとつもきておりませんが」

「パークの青二才がしくじりやがってよ」と、男は早口でしゃべりはじめた。「あの証券を窓口に出したとたん、あいつ、捕まっちまった。ニューヨークからやつらのところにナンバーがいったのが五分前ってんだぜ。んなもんわかりっこねえじゃねえか、なあ? まさかこんなど田舎いなかでだな――」

「もしもし!」ぼくは息せき切って割りこんだ。「あのですね――ぼくはミスター・ギャツビーではありません。ミスター・ギャツビーは亡くなりました」

電話の相手は長い沈黙の後、驚きの声を発した……それからがちゃんという音がして、電話は切れた。


ミネソタのとある町からヘンリー・C・ギャッツとサインされた電報が届いたのは、たしか、三日めのことだったと思う。送信者はすぐさま出発する、到着まで葬儀を延期されたし、という内容だった。

ギャツビーの父親だった。生真面目そうな老人で、ひどく力を落としてうろたえており、九月のなまぬるい気候の中、ぞろっとした安っぽいアルスター外套がいとうに身を包んでいた。その瞳はずっと興奮を押し隠せずにいて、ぼくがかれのバッグと傘とを預かると、白いものがまじった顎鬚あごひげをひっきりなしにひっぱりはじめたので、コートを脱がせるのは難しいだろうと断念した。いまにも倒れそうなようすだったから、ぼくはかれを音楽室に案内して椅子をすすめ、その一方で、使用人に食事を用意するように言った。けれども食事には手がつけられず、コップの牛乳も震える手からこぼれおちていった。

「シカゴの新聞で見ました」とかれは言った。「シカゴの新聞に全部書いてありましたよ。私はすぐにこちらに向かいました」

「連絡する方法がわかりませんでしたので」

かれの、なにも見るでもない瞳が、絶え間なく部屋中をさまよっていた。

「気違いの仕業だったそうですね。気が違っていたに違いない」

「コーヒーをお持ちしましょうか?」とぼくはすすめた。

「なにもいりません。すっかり大丈夫になりましたから、ミスター・――」

「キャラウェイです」

「そう、私はもうすっかり大丈夫です。ジミーはどこに?」

ぼくはかれをギャツビーが横たわっている客間に連れていき、それから席を外した。どこかの少年たちがステップから広間を覗きこんでいた。ぼくがやってきたのがだれかを教えてやると、しぶしぶ帰っていった。

ややあって、ミスター・ギャッツはドアを開けて出てきた。口はだらしなく開き、やや顔が赤らみ、目からはともに流すもののない孤独でタイミング遅れの涙が溢れていた。かれは、死というものに不気味な驚きを感じるような年齢をとうに越えている。周囲を見まわしたかれの目に、大広間の壮麗さや天井の高さ、次から次へとつながる数々の部屋が飛びこんできて、その嘆きにも、畏敬いけいに似た誇りが入り混じりはじめた。ぼくはかれを二階の寝室に案内した。コートとベストを脱ぐのを見ながら、到着まですべての手配を延期していたと告げる。

「あなたがどうなさりたいか、わかりませんでしたのでね、ミスター・ギャツビー――」

「私はギャッツと申します」

「――ミスター・ギャッツ。かれを西部に連れて帰るのがご希望かなと思いまして」

かれは首を横にふった。

「あれはいつも東部のほうを好んでおりました。身を立てたのも東部ですから。あなたは息子の友人だったのですか、ミスター・――」

「親しい友人でした」

「あれの未来はすばらしいものでしたねえ。まだほんの若造にすぎませんでしたが、ここ、頭脳の力はたいしたものでした」

と言って、かれは自分の頭に手をやって見せた。ぼくはうなずいた。

「もし生きつづけていたとしたら、さぞ偉い男になっていたことでしょう。ジェイムズ・J・ヒルのような男に。この国の発展に役に立ったことでしょう」

「たしかに」ぼくは居心地悪く思いながらそう言った。

不器用に手を動かして刺繍ししゅうの入ったシーツをベッドからはがすと、かれは、ぎくしゃくと寝そべった――かと思うと、もう眠りに落ちていた。

その夜、明らかにおびえた人物から電話があり、自分の名前を言う前から、ぼくがだれだか言えと言ってきた。

「キャラウェイと申しますが」

「ああ!」と安堵あんどの声。「クリップスプリンガーです」

ぼくもまた安堵した。というのも、これでギャツビーの墓前に参列する友人がもうひとり増えることになるように思えたからだ。新聞に訃報ふほうをのせて野次馬を引き寄せるのはぼくの望むところではなかったから、少数の人々に一々電話してまわっていたのだ。そしてこれがまたなかなか捕まらない連中ばかりだった。

「葬儀は明日です」とぼくは言った。「三時に、ここの屋敷でやります。きてくれそうな方々への連絡をお願いしますね」

「ああ、わかりました」かれはあわてて答えた。「もちろんぼくはだれにも会わないように思いますが、もしものときはかならず」

その声にぼくは疑いをもった。

「もちろんあなたはおいでになりますよね」

「そうですね、なるべくそうしてみます。ぼくが電話したのは――」

「ちょっと待ってください」とぼくは話をさえぎった。「どうして、くる、と言わないんです?」

「それはですね、実は――ほんとうのところですね、いまぼくはグリーンウィッチにいるんですが、こっちの人たちは明日ぼくを連れだすつもりでいるみたいなんですよ。実際、ピクニックみたいなものじゃないかと思うんです。もちろんぼくはがんばって抜けだしてみるつもりでいますけど」

ぼくは思わず「はん!」と遠慮のない声を漏らしてしまった。それをかれも聞いたに違いなく、神経質な声で話をつづけた。

「ぼくが電話したのはですね、そっちに靴をおいていってしまってることに気づいたからなんです。執事にもってきてもらってもそう手間にはならないと思いまして。ええっと、テニスシューズなんです、あれがなくてちょっと困った感じなんですよ。いまぼくがいる家は、B・F・――」

ぼくはその名前を最後まで聞かなかった。受話器をもどしたからだ。

その後、ぼくはギャツビーに対して、ある意味、恥ずかしく思った――ぼくが電話をしたある紳士は、自業自得じごうじとくだと言わんばかりの返事を返してきた。といっても、間違っていたのはぼくのほうだ。なぜなら、その紳士はギャツビーの酒の力をかりてギャツビーをてひどくこきおろしていた連中のひとりだったのだから、ぼくも電話などするべきではなかったのだ。

葬儀の朝、ぼくはメイヤー・ウルフシェイムに会うため、ニューヨークに出た。それ以外に、かれと連絡をとる方法を思いつけなかったのだ。エレベーターボーイの案内にしたがって、「スワスティカ持株会社ホールディングス」とあるドアを押したところ、最初、中にはだれもいないように見えた。が、ぼくが「すみません」と何度かむなしく叫んでみると、背後のどこかで言い争う声がし、まもなく、きれいなユダヤ人の女が奥の扉から出てきて、黒い瞳に敵意をみなぎらせ、ぼくをじろじろと見た。

「中にはだれもいません」と女は言った。「ミスター・ウルフシェイムはシカゴに行っておられます」この発言の前半は明らかに嘘だった。というのも、奥で調子はずれの口笛くちぶえが『ロザリー』を演りはじめたから。

「キャラウェイがお会いしたがっているとお伝え願えませんか」

「シカゴから連れもどしてこれるわけないでしょう?」このとき、ウルフシェイムに他ならない声で、奥のドアから「ステラ!」という呼びかけがあった。

「そこの机に名刺を置いていってください」と女はあわてて言った。「おもどりになり次第お渡ししておきますので」

「でもかれがそこにいるのはわかってるんですが」

女はぼくのほうに一歩踏み出し、腰に手をあて憤然ふんぜんと立ちふさがった。

「あなたがた若い人たちは、ここにきたときも、いつでも強引にいけばなんとかなるとお思いのようですけどね」と女は叱るように言った。「こっちだってそんなのにはもう慣れっこなんですから。シカゴにいると言えば、シカゴにいるんです」

ぼくはギャツビーの名をだした。

「あ、ああ!」女はふたたびぼくを眺めた。「ちょっと――お名前はなんと言いましたか?」

女は消えうせた。と、メイヤー・ウルフシェイムがしゃちほこばって戸口に立ち、両手を差し出していた。ぼくをオフィスに招じ入れると、真面目くさった声で悲しいことになったと言って、葉巻をぼくに差しだした。

「あいつにはじめて会ったころのことを思い出す」とかれは言った。「軍を除隊じょたいしたての若い少佐でな、軍服の一面に戦争でもらった勲章をはりつけていた。ひどく金に困っていて普通の服も買えず、軍服を着たきりだったのさ。はじめて会ったのは四十三番街のワインブレナーのビリヤード場でのことだった。仕事の口をさがしてた。もう二日なにも食べていなかったらしい。『一緒に昼でも食おう』とおれは言った。あいつは三十分で四ドル以上食ったな」

「で、かれのために仕事を作ったということですか?」とぼくは訊ねた。

「仕事を? 違うね、わしはあいつを作ったのさ」

「なるほど」

「わしはあいつを無から育て上げた。それこそ、どん底からよ。あいつの容貌がいかにも紳士らしい若者だったのにすぐさま気づいた。それでオッグスフォードの出だと聞かされたときは、これは使えると思った。在郷軍人会に加入させてみると、うまく地位を得てくれてな。すぐに、オールバニーのわしのお得意のためにちょっとした仕事をやってくれたもんだ。なんにつけても、わしたちはそういうぐあいに緊密きんみつだった」――かれは二個のボタンを指で摘みあげた――「いつも一緒だった」

ふと、そのパートナーシップの中に一九一九年のワールドシリーズ買収も含まれていたのだろうかと思ったりした。

「そのかれが亡くなりました」ぼくはちょっと間をおいてから言った。「もっとも親しい友人として、午後の葬儀にも参列したいとお思いだろうと」

「行きたいと思っている」

「ではおいでください」

鼻毛を少しだけ震わせ、目に涙をためて首を横に振った。

「そういうわけにはいかんのだ――巻きこまれるわけにはいかん」とかれは言った。

「巻きこまれるようなことなどありませんよ。すべて終わりました」

「殺された、となるとな、わしは決してどんな形でも巻きこまれたくないのさ。距離をとることにしている。若いころには違ったんだがな――うちのやつが死んだとなると、どんな事情であれ、最後まで面倒を見てやったもんだ。感傷にすぎんと言うかもしれんが、実際そうさ――最後の最後までな」

かれにはかれなりの理由があってこないと決意しているのだとぼくは見たから、腰を上げた。

「あんたは大学の出で?」とかれは不意に訊ねた。

そのとき、ぼくはかれが「ゴネグション」作りを提案してくる気だと思ったけど、かれはただうなずいてぼくの手をにぎっただけだった。

「ひとつ学ぼうや。友情は相手が生きているうちに示すべきもんで、死んだ後のもんじゃないんだ」とかれは言い出した。「後は、なにもかもそっとしておくというのがわしの決め事でね」

ぼくがかれのオフィスを出たとたん空模様があやしくなり、霧雨の中をウェスト・エッグにもどるはめになった。服を着替えてから隣家におもむくと、ミスター・ギャッツが興奮したようすで大広間を歩き回っていた。息子と息子の財産に対するかれの誇りは時を追うごとに高まっていた。そして、かれはなにかをぼくに見せようとしていた。

「ジミーがこの写真を送ってきたのです」かれは震える指先で札入れを取り出した。

「ごらんなさい」屋敷の写真だった。四隅よすみはいたみ、何度も何度も手に触れられて、汚れていた。その写真の中をひとつひとつ熱心に指差しながらぼくに見せる。

「ごらんなさい!」と言ってから、ぼくの瞳に賞賛の色を探す。この写真をことあるごとに見せびらかしてきたこの父親にとって、いまや、写真のほうが屋敷そのものよりリアルなものとなっていたのだろう。

「ジミーが送ってよこしたのです。とてもきれいな写真だと思いますよ。これを見るとよくわかります……」

「なるほど。最近、かれとの連絡は?」

「二年前に私に会いにきて、いま住んでいる家を私に買ってくれました。あれが家を出ていったときはもちろん勘当かんどう同然でしたが、いまにして思えばそれにも理由があったのですな。あれは自分の目の前に大きな未来が開けているのを知っていた。身を立ててからというもの、あれは私にひどく寛容になって……」

かれはその写真をしまうのを拒むように、手に握ったそれをぼくの眼前でいじくりまわした。それから札入れにしまうと、ポケットから、古びたぼろぼろの冊子を取り出した。『ホパロング・キャシディ』という題字が見えた。

「これを。あれが子供のころに持っていた本です。これを見るとよくわかります」

かれは裏表紙うらびょうしを開き、ぼくのほうから読めるよう、さかさまにして差し出した。巻末の白紙のページに、活字体で SCHEDULE と書きこまれており、一九〇六年九月十二日付けとなっている。そしてその下に――

起床6.00A.M.
ダンベル体操および塀の昇降運動6.15-6.30
電気他の勉強7.15-8.15
仕事8.30-4.30P.M.
野球などスポーツ4.30-5.00
雄弁術およびその達成法の訓練、メンタルトレーニング5.00-6.00
自由研究7.00-9.00

決意

  • シャフターズおよび【名、判読不可】で時間を無駄にしないこと。
  • 煙草(かみ煙草含む)を絶つこと。
  • 一日おきに入浴すること。
  • ためになる本か雑誌を週一冊読むこと。
  • 週五ドル【バツをつけて抹消】三ドル貯めること。
  • 両親に孝行すること。

「たまたまこの本を見つけましてね」と老人は言った。「どうです、たいしたもんでしょう?」

「たいしたものですね」

「あれは、前へ前へとつきすすむ、そんな運命にあったのですよ。こういう感じの決意やなにやをいつもやっていましたからな。あれが自分の精神をきたえるためにどれほどのことをしていたか、お気づきでしたか? これについては、あれは常にグレイトでした。一度、私をつかまえて豚のように食うと言いおったことがありましてな、ぶったりしたものです」

かれは本を閉じるのを拒むように、項目一つ一つを読み上げ、顔を上げてぼくをじっと見つめた。ぼくがそのリストを自分用に使うために書き写すことを期待していたのだろう。

三時少し前、フラッシングからルーテル派の牧師が到着した。ぼくは、他の車がやってくるのを待ち望みながら窓の外に無意識に目を向けはじめた。ギャツビーの父親もまた同様だった。時間がたち、使用人たちが揃って大広間に立ち並ぶと、父親は心配げにまばたきをしながら、困惑した、くぐもった声音で、雨のことを話した。牧師が何度か自分の時計に目をやっているのを見たぼくは、かれを横に引っ張っていって、あと三十分待ってくれるように頼みこんだ。けれどもそれは無駄だった。だれひとりとしてやってきはしなかった。


五時ごろ、ぼくらを乗せた三台の車の列が墓場に到着し、しとしとと降る雨の中、門のそばに停まった――一台目はぞっとするほどに黒く、水に濡れている霊柩車れいきゅうしゃ、それからミスター・ギャッツと牧師とぼくとを乗せたリムジン、それに少し遅れてギャツビーのステーションワゴン。ワゴンには、四、五人の使用人とウェスト・エッグの郵便集配人が、みなびしょぬれになって乗っていた。ぼくらが順に門をくぐって墓場に入りはじめたところ、一台の車が停まる音につづき、だれかが水たまりを踏み散らす音を立てながらぼくらを追ってきた。ぼくは体ごと振りかえった。それは、ふくろうのような眼鏡をかけたあの男、三ヶ月前の夜のギャツビーの書斎で、ギャツビーの蔵書に驚嘆しているところにぼくと出くわした男だった。

ぼくはあれ以来この男に会っていなかった。どうして葬儀のことを知っていたのかはわからないし、そもそも、ぼくは名前すら知らない。かれの分厚い眼鏡にも雨が降り注いでいた。かれは、ギャツビーの墓から覆いの麻布が巻き取られるのを見ようと、眼鏡を外し、水滴をぬぐった。

ぼくは少しの間ギャツビーのことを考えてみようとしたけれど、かれはすでにもう遠い存在になってしまっていて、デイジーがメッセージも花も送ってこなかったことを、とくにうらめしく思うでもなく、ふと思いだせただけだった。かすかに、「幸いなるかな、死して雨にうたれる者」というだれかのつぶやくような声が聞こえてきた。それに続けて梟眼鏡が、物怖じしていない声で「アーメン」と言った。

ぼくらはもみあうようにして雨の中を車へと急いだ。梟目が門のところで話しかけてきた。

「屋敷のほうには出向けなかった」

「それはみなさんもご同様で」

「なんと!」とかれは驚いて言った。「ひどい話だな! 前は何百と押しかけてきていたというのに」

ふたたび眼鏡を外し、外側も内側もふきなおした。

「かわいそうな野郎だ」


ぼくの記憶のうち、もっとも生き生きとしているもののひとつは、クリスマス休みになって、高校から、後には大学から、西部にもどってきたときのことだ。シカゴよりも遠くに出かける人々は、十二月の日、夕刻六時になると、老朽化ろうきゅうかしたユニオン・ステーションの駅舎に集まってくる。シカゴの友人たちも一握りはいるけど、かれらの心はすでに楽しい休暇に飛んでいるものだから、別れの挨拶もあわただしい。ぼくは思い出す。ミス・だれそれのところからもどってきた女の子たちの毛皮のコート、白い息を吐き出しながらのおしゃべり、知人の顔を見つけるたびに頭上でうちふられる手、「オードウェイのところには行く? ハーシーのところには? シュルツのところには?」というふうな招待合戦、ぼくらの手袋をした手に握り締められた細長い緑の切符。おしまいに、クリスマスそのもののような陽気さをたたえて改札の脇の線路にたたずんでいる、シカゴ-ミルウォーキー-セント・ポール方面行きの暗黄色あんおうしょくの列車。

ぼくらが冬の夜に引き出され、本物の雪、ぼくらの雪が、車両の窓の外をきらきらと舞うようになり、小さなウィスコンシン駅のぼやけた光も遠ざかると、鋭い野性的な緊迫感がとつぜん空気に入り混じるようになる。夕食からもどってくる際、ぼくらはデッキでそれを深々と吸いこみ、口に言い表せないほど、この地方とともにあるぼくらのアイデンティティを知覚する。その、奇妙な一時間がすぎると、ぼくらはふたたび、分かちがたいほどに、この世界に溶けこんでしまう。

それがぼくの中西部だった──小麦畑でもなく、大草原でもなく、失われたスウェーデン人の街でもない。青春時代の心弾ませる帰省列車や、寒空の下の街灯とそりの鈴音、ひいらぎのリースが明かりの灯る窓から雪の上に落とす影。ぼくはそのひとかけらだ。ぼくは、ああいう長い冬に気分を通じるちっぽけな頑固者であり、幾世代にもわたって住人たちが個々の屋敷をファミリーネームで呼び合ってきたような街のキャラウェイ邸で育ったことをよしとするちっぽけな自己満足漢なのだ。結局、いまにしてみればこれは西部の物語なのだ――トムもギャツビーもデイジーもジョーダンもぼくも、みな西部人なのだから。そしてぼくらは、東部での暮らしにどこか適合できない、共通の欠点を抱えていたのだと思う。

ぼくが東部にいちばん心をふるい立たせていたときさえも、退屈で活気もなくぶざまに膨れ上がった、子供と極端な老人を除き際限さいげんのないさぐりあいがつづくオハイオ以西の街々を凌駕りょうがする東部のよさをいちばんはっきりと知覚していたときでさえも――その当時であってさえも、ぼくの目にはいつも、東部が抱えていた何かしらのゆがみが映っていた。とりわけウェスト・エッグは、奇想天外きそうてんがいな夢想以上のリアルさをもって、今もぼくにせまってくる。エル・グレコが描きそうな一夜の情景が見える。百の家々が、古臭さと不気味さを兼ね備えつつ、陰鬱いんうつにのしかかる空と光の冴えない月の下に、うずくまるような格好で並んでいる。前景では、四人の着飾った男たちが、担架たんかを抱え、歩道を歩いていく。担架の上に横たわるのは、白いイブニングドレスを着ている酔いつぶれた女。片手がだらりと担架からはみだし、そこから宝飾品が冷たいきらめきを放つ。大真面目なようすで男たちは一軒の家に向かう──お門違かどちがいの家に。けれどもだれひとりとしてその女の名を知らず、だれひとりとして気にかけてなどいない。

ギャツビーの死後、東部はそういう具合にぼくを悩ますようになった。ぼくの瞳が持つ矯正きょうせいの力を超えた歪みを見せはじめたのだ。だから、落ち葉が青白い煙を宙にたなびかせ、風が吹いては湿った洗濯物をロープに並べられたままこちこちに凍らせてしまうようになると、ぼくは故郷に帰ろうと決心した。

東部を発つ前にやらなければならないことがひとつあった。気の進まないことで、ひょっとしたらそのままほったらかしにしておいたほうがよかったのかもしれない。でもぼくは発つにあたってけじめをつけておきたかったし、あの親切で無関心な海がぼくからの拒絶を洗い流してくれるのに頼りきるのは嫌だった。ぼくはジョーダン・ベイカーに会い、お互いの身に起きたことを話し、それからあの後ぼくの身に起こったことを話した。彼女は大きな椅子にもたれかかり、身じろぎもせずにぼくの話を聞いていた。

ゴルフウェアを着た彼女の姿を、よくできたイラストのように思ったのを覚えている。やや快活にそらされたあご、銀杏いちょう色の髪、膝の上に置かれた指なし手袋と同じ茶系色の顔。ぼくが話し終えると、ジョーダンは、別の男と婚約したとただ事実だけを告げた。ぼくはそれが本当かどうか疑わしく思った。うなずいてみせるだけで結婚に持ちこめる相手が何人かいたにしてもだ。とにかくぼくは驚いたふりをした。すこしの間ぼくは間違ったことをしているのではないかと思い、もう一度すべてをすばやく再検討し、そして別れを告げるために立ちあがった。

「でも結局あなたがわたしを捨てたのよ」とジョーダンがとつぜん口を開いた。「あの電話で、あなたはわたしを捨てたのよ。それを恨んでるわけじゃないの、ただ私にとってははじめての経験だったから、しばらくは呆然としちゃった」

ぼくらは握手した。

「そうだ、覚えてる? わたしたちが車で話したこと」

「ん――いや、正確には」

「下手な運転手でも、もうひとりの下手な運転手に会うまでは安全だって、そんな話をしたじゃない? それで、わたしはもうひとりの下手な運転手に出くわしちゃったってわけ。ね? つまり、とんでもない思い違いをしちゃったのは全部わたしの不注意のせいだったってこと。わたしね、あなたのこと正直でまっすぐな人だと思ってた。それがあなたの胸に秘めたプライドだと思ってたんだ」

「ぼくはもう三十だぜ。あと五つ若ければ、自分に嘘をついてそれを誇りとしたかもしれないけれど」

答えはなかった。ぼくは腹をたて、なかばいとおしく想い、そして心の底から申し訳なく感じながら、きびすをかえした。


十月のある夕暮れどき、五番街でトム・ブキャナンに出会った。かれはぼくの先を、いつもと同じきびきびした突っかかるような姿勢で歩いていた。まるで邪魔者を払いのけようとするかのように肩をいからせ、頭をきびきびと動かしながら、落ちつきなくあたりに目を配っている。追いついてしまわないよう歩みをゆるめると、かれは立ち止まり、眉をしかめながら宝石店のショーウィンドウをのぞきこんだ。そして不意にふりかえり、手を差し出しながらぼくのところにやってきた。

「何かあったのか、ニック? おれと握手するのが嫌なのか?」

「そうだ。ぼくがきみのことをどう思っているか、分かってるだろう」

「どうかしてるぜ、ニック」かれは間髪かんぱつをいれず言った。「ほんとうにどうかしてる。いったい何があったってのか、さっぱり分からんね」

「トム」ぼくはなじるように言った。「あの日の午後、ウィルソンに何を言ったんだ?」

かれは一言もいわずにぼくをにらんでいた。それで分かった。ぼくはあの空白の数時間について、正しく見当をつけていたのだ。ぼくがきびすをかえすと、トムは一歩足を踏み出し、後ろからぼくの腕をつかんだ。

「真相を教えてやったんだよ、あいつに。あいつ、おれたちが二階で出かける準備をしてるところにやってきて、留守だと伝えさせたら、力ずくで階段をあがってこようとしたんだ。すっかりどうかしちまってておれを殺さんばかりの勢いだったから、しかたなくあの車の持ち主を教えてやった。うちにいる間ずっとポケットの拳銃から手を離さないんだぞ」ここでかれは反抗的に言葉を切った。「で、教えてやったからどうだってんだ? あの野郎が自分でいた種じゃないか。おまえもデイジーみたいに目くらましを食らってしまったようだが、あいつは実際ひどい人間だぜ。マートルを犬ころみたいにはねとばしやがって、しかも停まろうとしなかったんだからな」

ぼくからは何も言うことができなかった。いや、ひとつだけ言えるとすればそれは真相じゃないということだが、その事実を口外こうがいするわけにはいかなかった。

「それに、もしおれだけがぜんぜん平気でいるんだなんて思ってんのなら――いいか、あの部屋を引き払いに行って、サイドボードの上に犬用ビスケットの缶のやつがのっかってるのを見たときなんか、おれも赤ん坊みたいに座りこんで泣いちまったんだぜ。まったく、やりきれなかった――」

かれを許す気にも、好きにもなれなかった。だが、かれがやったことは、かれにとっては、全面的に正当なものだったわけだ。なにもかもがとても不注意で、とても混乱していた。不注意な人々、トムとデイジー――物も命も粉々に打ち砕いておいて、さっさと身を引き、金だか底無しの不注意さだか、とにかく二人を結びつけているものの中にたてこもった。そして、自分たちが生み出した残骸スクラップの後始末を他人におしつける……。

ぼくはかれの手を握った。そうしないのが馬鹿らしく思えた。というのは、突然、まるで自分が子供と話しているような気がしてきたからだ。それからかれは真珠しんじゅの首飾りを――いや、ただのカフスボタンだったかもしれないけれど――求めて宝石店に入って行き、ぼくという狭量きょうりょう堅物かたぶつの前から去って、二度と姿を見せなかった。


ギャツビーの屋敷はぼくが越していくときも空家のままだった――芝生は、ぼくのところの芝生と変わらないくらい伸びていた。村のタクシー運転手のひとりは運賃も取らずにギャツビー邸の門前まで車を走らせ、停まることなく内部を指で示したりしていた。ひょっとしたら、かれこそがあの事故の夜にデイジーとギャツビーをイースト・エッグに運んだ運転手なのかもしれない。そしてひょっとしたら、それにまつわる物語を自分勝手にこしらえていたりしたのかもしれない。ぼくはそれを聞きたくなかった。列車から降りるときはかれのタクシーに乗りあわせないようにした。

土曜の夜は決まってニューヨークで過ごした。さもないと、かれの絢爛けんらんなパーティーはとても生き生きとぼくの胸に刻みこまれていたから、いまだぼくの耳には、かれの庭からかすかながらも消えることのない音楽や笑い声が、かれの私道からは自動車が出入りする騒音が、聞こえてきたのだ。ある晩、ぼくは一台の本物の車が屋敷までやってきて、その灯りが門前で停まったのを、ほんとうに見た。だけどぼくは詮索せんさくしなかった。たぶん、それは最後のゲストで、地の果てにでもいたせいでパーティーが終わったことをご存じなかったのだろう。

最後の晩、トランクもパックし終わり、車も雑貨店に売り払った後、ぼくは矛盾むじゅんの果てに敗北した屋敷をもう一度見ようと表に出た。白いステップの上に、どこかの子供が煉瓦れんがで書きつけたのだろう、けしからぬ言葉が月光の下はっきりと照らしだされていた。ぼくはそこの石材を靴でごしごし踏みにじり、それを消した。それからふらりとビーチに下り、砂浜に大の字になった。

広大なビーチの大部分はいまや閉鎖されてしまい、ひどく薄暗かった。明かりといえばただ、海峡を渡るフェリーの留まることを知らない光があるだけ。月が高く高く昇るにつれ、無用の館は溶けはじめ、やがてぼくはこの島のかつての姿を徐々に意識するようになった。オランダの船乗ふなのりたちの目には、この島が、緑鮮やかな新たな陸地として花開いただろう。いまはない木立、ギャツビーの屋敷に場所をゆずった木立が、そのとき、あらゆる人類の夢のうち最後にして最大の夢を歌いさざめいた。魔法が解けるまでの束の間、男はこの大陸の存在を前に息をすることも忘れ、理解も望みもしない詩的考察を強いられたに違いない。それは人類が、胸が高鳴れば高鳴るほどに大きくなってゆく何物かと対面した、史上最後の瞬間だった。

ぼくは体を起こして、その遠い、知る由もない世界に思いを馳せた。そしてぼくはギャツビーのことを考えた。ギャツビーは、デイジーの屋敷の桟橋さんばしの先端にあった緑色の光をはじめて見つけたとき、どれほど胸を高鳴らせただろう。長い旅路を経てこの青い芝生にやってきたかれには、自分の夢がつかみそこないようのないほど近くにあるように思えたに違いない。かれは、それがとうに過去のものになったことを知らなかった。それがあるべきところは、あの都市が茫漠ぼうばくとして形もなかったいつかのどこか、この共和国がいまだ夜のとばりの下にうねり広がっていたころの闇深やみぶかき原野だったのだ。

ギャツビーは信じていた。あの緑色の光を、年々ぼくらから遠ざかっていく、うっとりするような未来を。あのときはぼくらの手をすりぬけていったけれど、大丈夫――明日のぼくらはもっと速く走り、もっと遠くまで腕を伸ばす……そしていつかきっと夜明けの光を浴びながら――

だからぼくらは流れにさからい、止むことなく過去へと押し流されながらも、力をふりしぼり、漕いでゆく。


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