ぼくは一晩中眠れずにいた。海峡からは霧笛がひっきりなしに聞こえてきて、ぼくは、グロテスクな現実と粗暴でおぞましい夢との間で、寝返りをうちつづけた。夜も明けきらないころ、ギャツビー邸の私道に入りこむタクシーの走行音を耳にしたぼくは、ベッドから跳ね起き、身支度を整えはじめた――なにか、かれに伝えるべきことが、かれに警告すべきことがあって、しかも、朝を待てば手遅れになるというような気がしていた。
芝生を横切って行ってみると、玄関のドアが開けっぱなしになっている。ギャツビーは、大広間のテーブルにもたれかかって、落胆のためか眠気のためか、ひどく気重なようすでいた。
「何も起きませんでしたよ」と、かれは弱々しく言った。「私はあのまま待っていました。四時ごろ、あのひとは窓のところに来てしばらくそこに立っていたかと思うと、明かりを消してしまいました」
この夜、葉巻を探して家中をさまよったときほどにかれの家をだだっ広く感じたことはなかった。天幕みたいなカーテンを二人で開け広げ、電灯のスイッチを求めて、暗中の壁を何メートルも何メートルも手探りしていった――一度など、つまずいた拍子に、亡霊じみたピアノの鍵打音みたいな音を立ててしまったくらいだ。どこもかしこも、説明に耐えないほどの量の埃が散り積もっていて、もう何日も空気を入れ替えていないのだろうか、かびくさい匂いがした。見なれないテーブルの上に葉巻入れが見えた。中には、古びて乾いた葉巻が二本、収められていた。ぼくらは応接室の窓を開け放ち、暗い部屋の中で一服しはじめた。
「ここを離れるべきですよ」とぼくは言った。「連中はあなたの車を突き止めてしまうに決まってます」
「尊公は今すぐに行けと言うのですか?」
「一週間ほど、アトランティック・シティにでもお行きなさい。それかモントリオールに」
かれはぼくの提案を一顧だにしなかった。デイジーがこれからどうするつもりなのか知るまでは、デイジーを置いていくわけにはいかないというのだ。かれは、最後の希望とでもいうべきものにすがりついている状態にあって、ぼくとしても、そこからかれを引き離すのは忍びなかった。
ぼくが、ダン・コーディーと過ごしたかれの青春時代の奇妙な物語を聞かされたのは、この夜のことだ――かれが話したわけは、「ジェイ・ギャツビー」がトムの堅硬な悪意にぶつかってガラスのように砕けてしまったからで、長らく秘密にしてきた狂劇に幕が降ろされたからでもある。いま思えば、あのときのギャツビーならば、なにを聞かれてもまったく保留をつけずに話してくれたのだろうけど、それでもやはりギャツビーが話したかったのはデイジーのことだった。
かれにとって、デイジーははじめて見知った「洗練された」少女だった。具体的には不明ながら、さまざまな資格でそういった人々と接触してきたギャツビーだったのだけど、かれらはいつもギャツビーとの間に有棘鉄線を築いて対応していた。そのギャツビーにとって、デイジーは心騒がせるほどに好ましかった。かれはデイジーの家を訪ねた。最初は、キャンプ・テイラーの将校たちと一緒に。それからひとりで。かれは驚嘆した――あれほどまでに美しい屋敷を見たことがなかったのだ。でも、そこに固唾をのませるほどに熱中させるような雰囲気があったのは、デイジーがそこに暮らしていたためだった――かれにとってのキャンプのテントと同じく、デイジーはその屋敷に何気なく暮らしていた。そこには円熟した神秘があった。階上の寝室はほかのどんな寝室よりも美しく涼やか。廊下でまきおこる陽気で華やかな動き。恋、といってもとうにラベンダーの中に寝かされているようなかび臭い恋などではなく、今年の輝くばかりの自動車や、まだその花々のしおれるには至っていない舞踏会のような、生き生きとして香しい恋。多くの人々がデイジーに恋をしたということもまた、かれを興奮させた――かれの目にはそのことがデイジーの価値をさらに高めるように思えたのだ。かれらの存在は家中に感じられた。いまだ華やかさを失わない感情の影と残響とともに。
けれどかれは、自分がデイジーの屋敷の中にいるのは途方もない偶然のおかげだということを熟知していた。ジェイ・ギャツビーとしての未来にどれほどの栄光が約束されていたとしても、金も経歴もない一青年であり、軍服という隠れ蓑がいつ肩から滑り落ちるか分かったものではなかった。だからかれはそのきっかけを最大限に利用した。得られるものはなんでも、貪婪に、無節操に奪った――そして最終的には、十月のある静かな夜、デイジーをも奪ったのだ。デイジーを奪ったそのわけは、彼女の手に触れる正当な権利を持たなかったからなのだ。
かれが自分を軽蔑したとしてもおかしくはない。うわべを偽ってデイジーを奪ったと言われれば確かにそうだ。といってもありもしない財産を騙ったというわけではないのだろう。ただデイジーにある種の安心感を与えるための作為があったのは間違いない。かれは自分がデイジーと同じ階層の出であると信じこませ――自分がデイジーの面倒を完璧に見てやれる男だということを信じこませたのだ。事実はといえば、かれにそんな能のあるはずはない――裕福な家系という後ろ盾があるわけでもなく、官僚的な政府の気まぐれで世界のどこに飛ばされるかわかったものではない身だった。
けれども、かれは自分を軽蔑しなかったし、また、事態もかれの想像どおりには進行しなかった。かれの意図としては、おそらく、手にできるだけのものを奪った上で去るつもりだったのだろう――が、いつのまにか、かれは自分があの聖杯探求の誓いを立てているのに気がついた。かれはデイジーの奇矯さは知っていたけれど、「洗練された」娘がどれほど奇矯になれるものなのかについては気づきもしなかった。デイジーは、その豊かな屋敷の中へ、豊かで充実した生活の中へと消え去った。ギャツビーは取り残された――なにひとつ残されないままに。ただ、デイジーと結婚したという気分、それですべてだった。
二日後、二人は再会した。息を切らしていたのはギャツビーのほうで、なんとなく、裏切られたような感じがした。屋敷のポーチでは金のかかっている贅沢品が綺羅星のように輝いていた。デイジーがギャツビーに体を向け、ギャツビーがデイジーの愛らしくも不思議な唇に口づけすると、籐椅子が軽やかに軋んだ。デイジーは風邪を引いていて、そのため、彼女の声はそれまでなかったほどにかすれた魅力的な声になっていた。そしてギャツビーは圧倒されるような想いで認識した。富が若さと神秘性を繋ぎとめ、護りつづけるということを。衣服の数と新鮮さが比例するということを。そしてデイジーが、銀のように輝きながら、貧乏人の悪戦苦闘を見下ろす形で、安全に、誇り高く生きているということを。
「デイジーへの愛情を自覚した時にどんなに驚いたことか、説明できないくらいですよ、尊公。しばらくの間は、デイジーが私を捨ててくれるのを期待してさえいましたが、そうはなりませんでした。デイジーもまた私のことを愛していたのですから。私はデイジーが知らないようなことを知っておりましたもので、デイジーは私のことを大変な物知りだと思ったのです……さて、それから私は、己の野望を捨て、ただただ愛を深めていきました。そしてふと気が付くと、もうどうでもよくなっていたのです。これから何をするつもりかをデイジーに語るだけで心地よい時間を過ごせるのです。それなのに、偉業を成したところでなんになるというのです?」
海外に赴く前の日の午後、かれはデイジーをその腕に抱いて、長いこと一言もなく座っていた。肌寒い秋の一日。暖炉の火がデイジーの頬を紅く照らした。ときどきデイジーが身じろぎすると、ギャツビーもまたほんのすこし腕加減を変えた。一度などは鈍く輝く彼女の髪に口づけしたりもした。二人はしばらくの間平穏に包まれていた。その午後に、長い別れを翌日に控えた二人のために深い思い出を作ってやろうという意思でもあったのだろうか。それは、愛に満ちた一ヶ月中、二人がもっとも近しく、もっとも深く心を通わせた時間だった。たとえば、彼女が物言わぬ唇をかれの肩に押し当てたとき。かれが、眠っている相手にするように、そっと彼女の指先に触れたとき。
かれは戦争では異常なほどうまく立ちまわった。前線に赴く前は大尉だったのが、アルゴンヌの戦いを経て少佐に任官され、機関銃部隊の指揮をとった。休戦後、かれはしゃにむに帰国を希望したものの、何かの手違いか勘違いかでオックスフォードにやられることになった。かれは不安になった――デイジーからの手紙には絶望的な調子がみられるようになった。デイジーはなぜギャツビーが帰ってこないのかがわからなかった。周囲からのプレッシャーを感じては、ギャツビーを見、ギャツビーの存在を感じ、結局のところ自分が正しいことをやっているのだと安心させてもらいたかった。
というのは、デイジーも若かったし、彼女の人工的な世界は蘭の香り立つ世界で、心地よくて陽気な気取りが溢れ、オーケストラはその年の流行曲を奏でては日々の悲しさや期待を真新しい響きで要約してみせるような、そんな世界だったからだ。夜な夜な、サキソフォンが『ビール・ストリート・ブルース』のよるべない調べを涙ながらに奏で、数百組にもなる金銀のスリッパがきらめく粉をかき乱す。薄暗いお茶の時間になると、この弱々しくも甘美な情熱にひっきりなしに脈動する部屋が常にあり、また、フロアに響き渡る悲しいホルンに吹かれては舞うバラの花びらのような、新鮮な顔があちらこちらをただよっていた。
この黄昏の世界を、社交シーズンがくるとともにデイジーはふたたび動き出した。とつぜん、いまふたたび一日に六人の男と六つのデートの約束をするようになり、夜明けには、消えゆく香りの染みついたイブニングドレスをベッドそばの床に放り、そのドレスを飾るビーズやシフォンと一緒に、浅い眠りについた。彼女の内にあるなにかが、決断を求めて泣き叫んでいた。自分の生活を、いますぐに、形作りたかった――その決断は、なにかの力による必要があった――愛の力、金の力、反問を許さない現実の力――それも手近なものによって。
その力は春の中ごろにトム・ブキャナンの到来という形をとった。かれ個人にもかれの身分にも健全な質感があって、デイジーは浮ついてしまった。そこに、ある種の苦悩とある種の安堵があったのは疑いない。手紙は、まだオックスフォードにいたギャツビーの元に届けられた。
ロング・アイランドの夜が明けようとしていた。ぼくらは一階に降りて残りの窓を開いてまわり、戸内を灰色から金色へと変調する光が満ちるにまかせた。いつの間にか朝露に覆いかぶさるように木陰が現れ、青々とした葉群の中からは、どこに隠れているのだろう、鳥たちの歌声が聞こえはじめる。空気の流れはゆったりと快適で、風もほとんどなく、涼しくて過ごしやすい一日になりそうだった。
「デイジーはあの方を愛したことなどないと思います」と窓から振りかえったギャツビーは、挑みかかるようにぼくを見つめた。「覚えておられますよね、尊公、あの午後、デイジーがひどく興奮していたことを。あの方がああいう伝え方をしたせいでデイジーは怖くなってしまったのです――あれでは、まるで私が安っぽい詐欺師みたいに聞こえてしまう。その結果、デイジーは自分が何を言っているのかすら分からなくなってしまった」
かれは憂鬱そうに腰を下ろした。
「勿論、デイジーもあの方のことを少しくらいの間は愛していたのかもしれません。結婚した時くらいは――それでも、その時にしても私のことをもっと愛していたのです、そうでしょう?」
ここでふとかれは不思議な発言をした。
「いずれにしても」とかれは言う。「個人的なことにすぎません」
みなさんならどうお考えになるだろうか? 一連の出来事にかける思いが桁外れに強いことを察することくらいはできるにせよ、しかし、これはきっとそれどころではない気もする。
かれがフランスからもどってきたとき、トムとデイジーはまだ新婚旅行の途上にあった。かれは軍人としての俸給の残りをはたき、ルイビル行きの旅にでた。みじめな旅だったが、行かずにいることはできなかった。そこに一週間滞在して、あの十一月の夜に二人で足音を響かせた通りを歩いたり、デイジーの白い車でドライブした人里離れた場所を再訪したりした。デイジーの屋敷は、以前のとおりに、他の家々よりも神秘的で快活に見えて、デイジーがいなくなった後であってさえも、街そのものにメランコリーな美しさが染みわたっているように思えた。
もっと一生懸命に探せばデイジーを見つけられるのではないかと感じながら、かれは去った――つまり、デイジーを置き去りにするように感じながら。普通客車は――かれは文無しになっていた――暑かった。オープンデッキにでて折りたたみ椅子に腰かけた。駅舎と見なれないビルの後背が流れていった。やがて列車は、春の野原にでた。路面電車が一便、しばらく平行して走っていた。電車の人々も、かつて、いきずりの通りで彼女の青白い顔にあった魔力を目のあたりにしたことがあったかもしれなかった。
線路はカーブして太陽から遠ざかっていく。その太陽はといえば、沈むにつれ、かつては彼女がひっそりと存在していた消えゆく街に、じんわりと恩寵を与えていくかのようだった。かれは必死に手を伸ばし、その空気のかけらを一握りつかんで、彼女がいてこそ魅力のあったその場所を、断片だけでも手に入れようとした。けれども、かれの潤んだ目にはなにもかもがあまりにも速く通り過ぎていき、そのときかれは、そこに息づいていた、もっとも溌剌としていてもっともすばらしい部分を、永遠に失ってしまったのだと思い知らされたのだ。
ぼくらが朝食を終えてポーチに出たのは九時のことだった。一晩で気候はすっかり変わってしまい、空気にも秋の香りが感じられた。以前からギャツビーが雇っていた使用人の中では最後のひとりになっていた庭師が、ステップの前までやってきた。
「今日はプールの水を抜いてしまおうと思っております、ミスター・ギャツビー。もうすぐ落ち葉が散りはじめますし、そうなりますとパイプが詰まってしまいますもので」
「今日はよしておいてくれ」とギャツビーは答えた。それから、詫びるようにぼくのほうに向き直った。「お分かりでしょう、尊公? 私はこの夏というものずっとあのプールを使わなかったものですから」
ぼくは自分の時計を確認し、立ちあがった。
「列車まであと十二分」
ぼくはニューヨークに出たくなかった。仕事に立ち向かう気力がまったく残っていなかったというのもあるけれど、それだけではなかった――ぼくはギャツビーを置いていきたくなかった。乗るつもりだった列車を見送り、その次の列車もパスし、それからようやくぼくはこの場から自分を引き離すことができた。
「電話しますね」ぼくはとうとう言った。
「どうぞ、尊公」
「お昼ごろ、電話しますね」
ぼくらはゆっくりとステップを降りていった。
「デイジーも電話してくると思います」かれはぼくを不安そうに見つめた。そうなるようにぼくにも協力してほしいとでも言いたかったのだろうか。
「ぼくもそう思います」
「では、さようなら」
かれと握手を交わして、ぼくは歩きはじめた。生垣の寸前でぼくは忘れていたことを思いだし、くるりとふりかえった。
「あいつらはみんな腐ってる」とぼくは芝生ごしに叫んだ。「きみにはあの連中をみんな足し合わせたくらい価値がある」
ぼくはこれを言ったことを思い出すたびに嬉しくなる。ぼくは最初から最後までかれのことを認めなかったから、かれを誉めてやったのはこのときだけになってしまった。最初、かれは礼儀正しくうなずいた。それからあの理解を思わせる晴れやかなほほえみを満面に浮かべた。その顔さえあればぼくらはずっと天にも昇る心地でたばかっていけるのだと思った。かれの華美なピンク色のスーツが白いステップに異彩を放っていた。かれの歴史ある土地に、ぼくがはじめて足を踏み入れた夜、あの三ヶ月前の夜を想った。芝生も私道も、ギャツビーの堕落をいい加減に推しはかる人々の顔で埋めつくされていた――ギャツビーはやはりステップに立ち、堕ちるはずない夢を胸に、かれらに向かってさようならと手を振っていた。
ぼくはかれの手厚いもてなしに感謝した。ぼくらはいつもかれの手厚いもてなしに感謝していた――ぼくだってそう、だれだってそうだった。
「さようなら」ぼくは呼びかけた。「楽しい朝食だったよ、ギャツビー」
街に出て、果てしなく続く株の出来高をまとめたリストを作っていると、いつのまにか自席の回転椅子に座ったまま眠りに落ちていた。昼前、電話の呼出音に目を覚ましたぼくは、飛びあがって額の汗をぬぐった。ジョーダン・ベイカーからだった。ジョーダンはこの時間に電話してくることが多かったが、それはホテルやクラブや知人の家々を渡り歩く彼女にとって、それ以外の方法を見繕うのが困難だったからだ。ふだん、受話器から聞こえてくるジョーダンの声は溌剌として涼やかで、緑豊かなゴルフコースからクラブのひとふりに跳ね飛ばされた芝生が会社の窓から飛びこんでくるみたいだったけれども、その日はとげとげしく乾いた調子だった。
「デイジーのところを出たの。いまヘンプステッド。午後のうちにサウザンプトンまで行こうと思ってる」
おそらく、デイジーの家を出るという処置は機転の利いたものだったのだろうが、ぼくはその行為を不快に感じた。そして次のジョーダンの発言を聞いて、頑なになってしまった。
「昨日はちょっとひどかったんじゃない」
「あの状態でそんな余裕があると思う?」
一瞬、沈黙があった。
「それでも――わたし、あなたに会いたい」
「ぼくだって会いたい」
「サウザンプトン行きはとりやめて、午後はニューヨークに出てきてもいいんだけど」
「いや、今日の午後はちょっと――」
「わかりました」
「今日の午後は無理なんだ。いろいろと――」
ぼくらはこんな調子でしばらく話しつづけ、ふと気がつくと、どちらも何も話さなくなっていた。がちゃんと受話器を置いたのはどちらだったのか分からないけど、ぼくがもはやどうでもいいという気分でいたのは分かっている。その日を境にこの世界でジョーダンと話す機会が永遠に失われるとしても、テーブル越しにお茶を飲みながら話し合うことなどできそうになかった。
数分後、ぼくはギャツビーに電話してみたけれど、先方は話し中だった。四回試してみた。結局は、苛立った交換手からデトロイトからの長距離電話がかかってきているのだと言われた。時刻表を取り出し、三時五十分の列車に小さく丸をつけた。それからぼくは椅子にもたれかかって考えようとした。それがちょうど正午。
あの朝、ぼくを乗せた列車が灰の山を通りすぎる際、ぼくは意図的に車両の反対側に移動した。ぼくはこう考えていた。物見高い連中があたりに一日中うろうろしていて、子供たちといっしょに塵の中の暗点を探し、どこかのおしゃべりな男があれやこれやとその出来事について語っていたけれど、やがてその話もどんどん現実から乖離、終いにはもはや語ることすらなくなってしまい、そしてマートル・ウィルソンを襲った悲劇も忘れ去られていくのだろう、と。ここですこし話をさかのぼり、あの夜ぼくらが去った後のガレージで起きたことを話しておきたい。
マートルの妹、キャサリンを捕まえるのは人々にとって困難なことだった。あの夜彼女は飲酒について自らに課したルールを破っていたに違いない。やってきた彼女は馬鹿みたいに酔っていて、救急車はもうすでにフラッシングに行ってしまったということを理解しようとしなかった。それをよってたかって納得させられたとたん、その事件がまさに耐えがたいことであったのか、彼女は気絶してしまった。だれかが、親切心からか好奇心からか、キャサリンを自分の車に乗せ、姉の遺体が臥されているところまで運んでやった。
夜が更けてもなお野次馬たちが入れ代わり立ち代わりガレージの正面に押し寄せてきたが、ジョージ・ウィルソンはといえば中の寝椅子の上で体を前後に揺するばかりだった。しばらくの間は事務所のドアが開放されていたために、ガレージを訪れるものはみな、否応なく、かれの姿を目にするはめになった。やがてだれかが、ウィルソンの名誉をおもんばかってドアを閉めてやった。かれについていたのはマイカリスとその他数名。最初は四、五人ほどいたのが、後には二、三人になっていた。その後、マイカリスは最後に残った赤の他人に十五分余計に居残ってくれるよう頼みこまなければならなかった。その間にかれは自分の店にもどり、コーヒーを淹れてポットにつめた。それから夜明けまで、マイカリスひとりがウィルソンのそばに残った。
三時ごろ、ウィルソンの支離滅裂なつぶやきの内容に変化が生じた――だんだんおとなしくなったかれは、黄色い車について話しだした。その黄色い車の持ち主を突きとめる手を握っていると告げ、それから二ヶ月前にかれの妻が鼻をはらし、顔に痣をつくってニューヨークから帰ってきたことがあったなどと口走った。
が、自分が言った言葉を耳にしたとたんに怖気づいて、またふたたび唸るような声で「ああ、神さま!」をわめきだした。マイカリスはかれをなだめようと不器用ながら手を尽くした。
「結婚して何年になるんだ、ジョージ? ほら、しばらくそこにじっと座って、質問に答えてくれ。結婚して何年になる?」
「十二年」
「子供はいないのか? ほらジョージ、じっと座ってろ――質問してるんだぞ。子供はいなかったのか?」
鈍い光を放つ照明に、茶色の甲虫が音を立ててぶつかりつづけた。表の道路を車が走りすぎていくたび、マイカリスの耳にはそれがほんの数時間前に停まることなく走り抜けていったあの車の音のように思えた。作業台の遺体が寝かされていたところがしみになっていたため、マイカリスはガレージの中に入っていきたくなかった。それでかれは、事務所の中を居心地の悪い思いをしながら歩き回っていた――事務所に、今朝あったものが今もそっくり揃っているのは分かっていた――そして、時折ウィルソンの隣に腰を下ろしては、ウィルソンを落ち着かせようと試みた。
「ときどき顔を出したりする教会はなかったのか、ジョージ? 最後に顔を出したのがずいぶん前でもかまわないんだぞ? その教会の神父さんを電話で呼べば話も聞いてもらえるだろうし、どうだ?」
「どこにも入ってない」
「行きつけの教会くらい作っとくもんだぜ、ジョージ。こういうときのために。あんただって一度くらいは教会に行ってるはずだ。結婚式は教会で挙げたんじゃないのか? なあ、ジョージ、話を聞けよ。結婚式は教会で挙げたんじゃないのか?」
「もうずいぶん昔のことだ」
質問に答えようと努力したせいで、ウィルソンは体を揺するリズムを崩した――少しの間、かれは黙ったままでいた。それから、悟ったようでもあり、当惑したようでもあるようすが、かれの翳った瞳に浮かんだ。
「そこの引出しを見てみな」と、机を指差しながらウィルソンは言った。
「どっちの引出しを?」
「それだよ――そう、それだ」
マイカリスは手からいちばん近くにあった引出しを開けた。そこにあったのは、小さくて高価そうな犬用の首輪で、皮の部分から銀の鎖が伸びていた。新品らしい。
「これが?」と、マイカリスは首輪を持ち上げながら訊ねた。
ウィルソンはじっと見てうなずいた。
「昨日の午後、見つけたんだよ。そいつについて説明してくれたんだが、どうも妙な感じがした」
「奥さんがこれを買ったってわけか?」
「あれはそいつをティッシュペーパーにくるんでドレッサーの上に置いていた」
マイカリスはとりたてて変とも思わなかったから、マートルがその首輪を買った理由と思われるものをあれこれ話してみた。だが、ウィルソンはまったく同じ説明を、以前に、マートルから聞かされていたものと思われる。なぜなら、つぶやくような調子で「ああ、神さま!」を口にしはじめたからだ――かれを慰めようとしていたマイカリスは、他に考えついたいくつかの説明を口に出さずにおくことにした。
「それからやつに殺された」とウィルソンは言った。ふいに、口を大きく開け広げる。
「だれに?」
「そいつを探り出すにはどうすればいいか、わかってるんだ」
「疲れてるんだよ、あんたは」とウィルソンの友人は言った。「あんたにとってはつらいことだったろう、自分がなにを言っているのかわからんくなるくらいにな。朝までじっと座って休んだほうがいい」
「やつがあれを殺した」
「あれは事故だったんだ、ジョージ」
ウィルソンは首を横にふった。目を細め、口を若干前より大きく開いて、「はん!」と不気味な響きを漏らす。
「もちろん」と、ウィルソンははっきりと語りだした。「俺は人を信用するたちだし、だれかを傷つけたりしたいとも思わん。それでも、教えられれば知らずにいるわけにはいかない。あの車に乗っていた男。あれは、あの男に話があって飛び出して行ったのに、あの男は車を停めようとしなかったんだ」
マイカリスもその光景を見てはいたが、そこになにか事情があるだなんて思いつきもしなかった。ミセス・ウィルソンは、特定の車を停めようとしていたというよりも、むしろ夫から逃げ出そうとしていたのだと、マイカリスは思いこんでいた。
「あの奥さんがそんなことをするはずはなかろうが?」
「あいつは腹のわからんやつだからな」とウィルソンは言った。それで質問の答えになるとでもいうかのように。「ああああ――」
ウィルソンはふたたび体を揺らしはじめた。マイカリスは首輪をひねくりまわしながら立っていた。
「ひょっとしたら、俺から電話して呼んでやれるような友だちがいたりしないか?」
それは無茶振りといってよかった――ウィルソンには友だちがいないということを、マイカリスはほぼ確信していた。かれの妻にとってみれば夫だけでは物足りなかったわけだ。間もなく、窓に青味がさして部屋のようすが変化したのに気づいたマイカリスは、夜明けがそれほど遠くないということを悟って嬉しく思った。五時前後には、灯りを消してもいいくらいに外も青みわたった。
ウィルソンのぎらつく瞳が灰の山に向けられた。そこでは小さな灰色の雲が、奇怪な形を得、かすかな黎明の風を受けては右往左往していた。
「おれはマートルに言ってやったんだ」長い沈黙を経て、かれはそうつぶやいた。「おれをだますことはできても、神さまをだますことはできんということを。それから窓のところに引っ張っていって――」かれは大儀そうに立ちあがり、腰をかがめて窓に顔を近づけた。「――言ってやった。『神さまはおまえの行いを見ておられる。行いすべてをお見通しなのだ。おれをだますことはできても、神さまをだますことはできん!』」
ウィルソンの背後に立ったマイカリスは目を見はった。そこに見えたのは、T・J・エクルバーグ博士の瞳だった。青白い巨眼が、朝ぼらけの中に浮かんでいる。
「神さまはすべてをお見通しだ」ウィルソンがくりかえす。
「あれは広告じゃないか」とマイカリスは言った。思わず振りかえって背後を確かめた。しかしウィルソンはそこに立ち、窓ガラスにじっと顔を近づけたまま、薄明に向かってうなずきつづけた。
六時になるとマイカリスもくたびれてしまい、表に車の停まったのをありがたく思った。車に乗っていたのはあの晩の野次馬のひとりで、もどってくるからとあらかじめ約束していたのだ。マイカリスは三人分の朝食を作り、マイカリスともうひとりで食べた。ウィルソンはもう静かになっていたから、マイカリスも家に帰って眠ることにした。四時間後に目をさましたかれがガレージに急いでもどったとき、ウィルソンはもういなかった。
その足取りについては――最初から最後まで徒歩だった――ポート・ルーズベルトにきていたことが後にわかった。それからガッズ・ヒルでサンドイッチを買ったがこれには手をつけず、コーヒーだけを飲んだ。ガッズ・ヒルに正午前につかなかったということは、疲れてゆっくり歩くようになっていたに違いない。ここまでは難なくかれの姿を追い求められる――「気違いみたいにふるまう」一人の男が三人の少年に目撃されているし、自動車に乗っていたところ道端からわけもなくにらみつけられた者も複数いる。それから三時間、かれの姿は見当たらなくなる。警察は、ウィルソンがマイカリスに「手がかり」の話をしたことを重要視し、それを追って近辺のガレージに立ち寄っては黄色い車について尋ねまわっていたのだろうと考えた。ところがその一方、どこのガレージからもウィルソンを見たという話は聞けなかった。ウィルソンには、それを知るにあたって、もっと簡単で、もっと確実な方法があったのかもしれない。二時半にはウェスト・エッグに姿を現し、通行人にギャツビーの屋敷への道を尋ねている。ということは、このときもうギャツビーの名を知っていたわけだ。
二時、ギャツビーは水着に着替え、電話がかかってきたらプールにいるから、と執事に言いつけた。途中、車庫に立ち寄って、この夏訪客たちを楽しませてきた、空気を入れて膨らませるタイプのマットレスを出し、運転手に手伝わせて膨らませた。それから、そこのオープンカーについてどんな理由があっても外に出してはならないと指示――右前輪のフェンダーを修理する必要があったから、これは奇妙な指示と言えた。
マットレスを担いだギャツビーはプールに向かって歩きはじめた。一度、立ち止まってマットレスをほんの少しずりあげた。運転手は手伝いを申し出たが、ギャツビーはかぶりを振り、間もなく、黄色づきゆく木々の間に消えた。
電話はかかってこなかったものの、それでも執事は、四時までは眠らずに待ちつづけた――そのときすでに、仮にかかってきたとしても、つなぐべき相手はいなくなっていたのだけれど。ぼくの考えでは、ギャツビー自身、かかってくるなんて信じていなかったのだろう。もうそれがどうでもよく思えているのを自覚していたのではないだろうか。もしそのとおりであるならば、昔ながらの温かい世界を失ったこと、単一の夢を抱いて長生きするために払った代償があまりに高くついたことを感じていたに違いない。ぎょっとさせるような葉群を通して馴染めない空を見上げ、薔薇がいかにグロテスクか、かろうじて創られたみたいな芝生に突き刺さる日の光がいかに生々しいことか、それを見取って、かれは身震いしたことだろう。新しい世界、現実味のない物質。そこでは哀れな幽霊が、夢を空気みたいに呼吸しながら、行き当たりばったりにただよいつづける……形の定まらない木立を抜けてかれの懐へと滑りこんできた、あの、灰じみた奇怪な人影のように。
運転手――ウルフシェイムの子分のひとり――は、銃声を聞いていた――後になってかれに言えたのは、ただ、聞くには聞いたがたいして考えてみなかったということだけだった。ぼくは駅からまっすぐ車を飛ばし、心配のあまり玄関前のステップを駈けあがった。だれかが急を悟ったとしたら、これが最初のきっかけだったと思う。けれど、それからはかれらも事態を理解したはず、そうぼくは固く信じている。ほとんど言葉を交わすこともなく、ぼくら四人、運転手に執事に庭師、それからぼくは、プールへと急いだ。
片端にある給水口からもう片端の排水口へと向かうかすかな水の流れは、ほとんど感じられないほどのものだった。波の影とも思えないほどかすかな波紋をたてながら、マットレスは下手へと不規則に動いていた。かすかな風が水面を波だてるだけで、偶発的な荷を乗せたそのマットレスの偶発的な進路を妨げるには十分だった。枝葉のかたまりに触れられるとそれはゆっくりと旋回し、転鏡儀の脚みたいに、水面に細い赤い輪を描きだした。
ぼくらがギャツビーを抱えて屋敷にもどりはじめた後のことだった。庭師が少し離れた草むらにウィルソンの死体を見つけた。惨劇は完成された。