グレイト・ギャツビー, フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルド

第二章


ウェスト・エッグからニューヨークに至る道のほぼ中間にあたるところで、自動車道路があせったように鉄道と肩を並べ、そこから四百メートルいっしょに走る。まるである種のうらぶれた地域から身を遠ざけるみたいに。ここは灰の谷――灰が麦のように生育し、尾根や丘やグロテスクな庭にまで広がっている。そこで灰は家となり、煙突となり、もくもくと上がる煙となり、やがて途方もない苦労のすえに、灰色の人間となる。かれらの動きは緩慢かんまんで、そもそも粉っぽい空気のせいで何がどうなっているのかわかりづらい。ときには灰色の車の行列が目に見えない道に沿っていずるようにやってくる。悪寒を走らせるようなきしを立てて止まると、そこから即座に灰色の人間の群れが手に手に鉛のすきを持って降り立ち、そこら中をひっかきまわしたあげく、一面が雲に覆われ、他人の視界からはなんの作業をやっているのかわからなくなってしまう。

だが、この灰色の土地、終わりなく立ちこめる荒涼こうりょうとした塵の向こうを見透かそうとしてみたならば、やがて、高みから見下ろすT・J・エクルバーグ博士の瞳が見えてくることだろう。T・J・エクルバーグ博士の瞳は青く、並外れて大きい――網膜もうまくは縦一メートル近くもある。それが乗るべき顔面はなく、その代わりに、実在しない鼻をまたいで繋がっている巨大な黄色い眼鏡をかけている。あきらかに、でたらめな道化者どうけものの眼科医が、クイーンズ区あたりの自分の診療所をにぎわそうとして設置したに違いない。そして、その医者自身が不治ふじ無明むみょうに沈んでいったか、あるいは、忘れたまま引っ越してしまったのだろう。けれどもその瞳は、ずっとペンキを塗りなおされておらず少し色褪いろあせてはいたけれど、晴れの日も雨の日も、このごみ捨て場みたいな土地に目を光らせていた。

灰の谷の片側には、境界線を兼ねる汚い小川が流れていて、この川にかかる跳橋が荷船を通すために上げられていると、橋が降りるのを待つ列車の乗客たちは、最大三十分、そこの陰鬱いんうつな景色を見ることができた。最低でも一分はきまって停車する。そしてそれが、ぼくをトム・ブキャナンの女に会わせることになった。

トムに女がいるという事実は、トムを知る人ならば誰だって知っていることだった。トムの知り合いたちは憤慨ふんがいしていたけど、トムはその女を連れて有名なカフェに立ち寄り、彼女をテーブルに残したまま、あちこち歩き回って、知り合いと見ればだれにでも話しかけるらしい。好奇心から一度その女を見てみたいとは思っていたにしても、別にぜひ会ってみたかったわけではない――それなのに、ぼくはこの女と会うことになったのだ。ぼくはある日の午後、トムと一緒にニューヨーク行きの列車に乗っていた。この灰の山のかたわらで列車が停まると、トムは席から立ちあがり、ぼくの肘をつかんで文字どおり無理やりにぼくを車両から追いたてた。

「降りるぞ」とかれは言いはった。「おれの女と会わせておきたい」

思えば、トムは昼食の席でかなり飲んでいた。ぼくをつれていこうという決意は無茶苦茶なものだった。横柄にも、ぼくが日曜の午後にすべきことなど他にあるはずがないと決めつけたのだ。

ぼくはかれを追って鉄道の低い白塗りのフェンスを乗り越え、そしてエクルバーグ博士の監視を受けながら道に沿って一キロメートルほどひきかえす。目の届くかぎり、建物と言えばこの荒れはてた土地のはずれにある黄色い煉瓦れんがのこじんまりとした塊だけだった。メインストリートのミニチュアみたいなところで、隣接するものはなにもなかった。その建物内は三つの店舗が入れるようになっていて、ひとつはテナント募集中、もうひとつは終夜営業のレストランで、この店へは灰の小道がひかれている。そして三軒めはリペアガレージだった――修理.ジョージ・B・ウィルソン.自動車売買――そこに入っていったトムを、ぼくも後から追った。

内装は飾り気がなかった。一台だけある車はフォードのスクラップで、薄ぐらい片隅で埃をかぶっている。ふと、この陰気な店はただの目くらましで、頭上には贅沢でロマンティックな部屋があるにちがいない、と思いついた。そのとき、経営者そのひとが奥の事務所から、原型をとどめていない布切れで手をぬぐいつつ現れた。金髪の無気力そうな男だったが、顔立ちはハンサムといえないこともない。ぼくらを目にすると、きれいな碧眼へきがんに濁った希望の光が差した。

「やあ、ウィルソン」とトムは相手の肩を陽気に叩きながら言った。「景気はどうだ?」

「おかげさまで」とウィルソンは言葉をにごした。「あのお車、いつお売りいただけますか?」

「来週だ。いまうちのやつに手入れさせてる」

「えらく遅い仕事ぶりみたいですが、そうお思いになりませんか?」

「ぜんぜん」とトムの返事は冷たい。「そんなことを言うんだったら、結局、他の所で売ったほうがいいかもしれんな」

「いえ、そういうつもりじゃあ」とウィルソンがあわてて説明した。「ただつまり――」

そこから先は続かなかった。トムはガレージをいらだたしげに見まわした。と、階段を降りる足音が聞こえてきて、次の瞬間、事務所のドアからひとりの女が出てきた。三十代半ばといったところで、太っていると言えなくもなかったが、むしろその肉付きのよさは、一部の女にしかみられない類の魅力となっていた。ドレスは水玉模様の入ったダークブルーのクレープ・デ・シン。そこから飛び出している顔には輝くようなきらめくような美しさはなかったにしても、全身からすぐそれと分かるバイタリティが感じられた。全身の神経が絶えず煙をあげているような感じだ。女はかすかにほほえむと、まるで幽霊をつきぬけるみたいにして夫の前に出、トムの手をにぎりしめた。瞳がきらめいた。それから唇を湿らせると、振りかえらずに、物柔らかだけれども野卑な声で夫に言った。

「椅子くらい持ってきなさいよ、なにをしてるんだか。どなたかお座りになりたいかもしれないでしょ」

「おお、そうだな」とあわてて同意したウィルソンは、小さな事務所に向かい、そのまま鼠色ねずみいろの壁に溶けこむように消えた。この界隈かいわいのものはすべてそうなのだけど、かれの地味なスーツも、色の薄い髪もまた、灰で覆われていた――例外はこの妻だけだった。そして彼女が、トムに近づいた。

「会いたいんだ」とトムは熱っぽく言った。「次の列車に乗れよ」

「わかった」

「下の新聞の売店のところで待つから」

彼女はうなずいてトムのそばをはなれた。ちょうどそこでジョージ・ウィルソンが椅子をふたつ抱えて事務所のドアを開けた。

ぼくらは彼女が支度をすませ、道に出て視界から消えるまで待った。七月四日まであと何日もなかった。灰色のやせこけたイタリア人少年が、線路の上に癇癪玉かんしゃくだまを並べていた。

「ひどいところだろう?」と、エクルバーグ博士と眉をしかめあいながら言った。

「これはあんまりだね」

「抜け出すのはあいつにとってもいい」

「でもご主人は気づいてないのか?」

「ウィルソン? ニューヨークの妹のところに会いに行ってるんだと思ってるよ。あいつは鈍いんだ。自分が生きてるってことすら気づいてないかも」

というわけで、ぼくはトムとその女といっしょに、ニューヨーク行きの列車に乗っていた――いっしょにといっても、ミセス・ウィルソンは別の車両に座っていたが。これは、潔癖なイースト・エッグの住民と乗り合わせるかもしれないというトムの配慮による。

ミセス・ウィルソンは茶色のモスリンに着替えていた。ヒップがちょっと苦しかったもので、ニューヨークのプラットフォームではトムが手を貸してやっていた。新聞の売店で、彼女は『タウン・タトル』と映画雑誌を一部買い求めた。それから、駅のドラッグストアでコールドクリームと香水の瓶を。階段を上って重苦しい音が響くタクシー待ち場に出ると、彼女は四台のタクシーをやりすごし、五台めの真新しいタクシーを選んだ。外装はラベンダー色で、中は灰色にまとめられていた。それに乗って、ぼくらは混み合う駅からぎらぎらと照りつける太陽の下へとすべりだした。が、発車後すぐにするどく窓を振りかえったミセス・ウィルソンが、前に身を乗り出して運転席との間を仕切るガラスをこんこんと叩いた。

「あの犬のどれか、欲しい」と熱心に言う。「あの部屋に一匹飼っておきたいのよ。すてきじゃない――犬を飼うって」

ぼくらは白髪頭しらがあたまの老人のところにひきかえした。老人の容貌ようぼうは、馬鹿げたことに、ジョン・D・ロックフェラーそっくりだった。首から吊るしているかごの中には、血統は不確かながら結構こぎれいな子犬たちが収まっている。

「種類はなに?」とミセス・ウィルソンは、男がタクシーの窓ぎわに寄ってきたところで、熱心にたずねた。

「なんでもございますよ。奥さまはどういう種類がお望みですか?」

「警察犬みたいなのが欲しいの。そういうのってないかもしれないけど」

男は自信なさそうに籠をのぞきこみ、手を差し入れて一匹の子犬の首根をつかんでひっぱりだしてきた。子犬はじたばたと暴れている。

「そいつは警察犬じゃない」とトム。

「そう、正確には警察犬とは言えません」とがっかりした声で言う。「エアデルといったほうがよろしいです」と言って、子犬の茶色い背中を、手ぬぐいで手を拭くみたいに撫で回した。「この毛並みをごらんください。ちょっとしたものですよ。この犬は風邪かぜをひいたりしてご心配をおかけするようなことがありませんよ」

「かわいい」とミセス・ウィルソンは熱っぽく言った。「いくら?」

「こいつですか?」と言うとたたえるような目つきで子犬を見る。「十ドルにしておきましょう」

そのエアデルは――足ははっとするほど白かったけれど、たしかに、どこかエアデルの血は引いているようだった――老人の手からミセス・ウィルソンの膝に移動し、主人を変えた。ミセス・ウィルソンがうっとりとした顔で、自分の膝の上にいる子犬の暖かそうな毛をなでる。

「これ、男の子、女の子?」デリカシーのある聞き方だった。

「そいつですか? それは男の子ですよ」

「そいつはメスだ」とトムが決めつけるように言う。「金はここにある。こいつで十匹でも仕入れてくるんだな」

ぼくらは五番街を疾走しっそうした。暖かく、優しく、牧歌的ぼっかてきとさえいえそうな夏の日曜の午後だった。角からひつじの大群が出てきたとしても、驚きはしなかっただろう。

「待って」とぼくは言った。「ここでお別れしないと」

「馬鹿言うんじゃない」とトムがすかさず言った。「アパートまできてくれないとマートルが傷つく。そうだろ、マートル?」

「おいでなさいよ」と彼女もしきりにすすめた。「妹のキャサリンにも電話する。あの子のことを知ってるひとみんな、とてもきれいだって誉めるんだから」

「いや、行きたいことは行きたいんですが、でも――」

ぼくらはそのまま走りつづけた。ふたたびパークを抜け、西区に向かう。百番代の通りにきてもまだ走りつづけたが、一五八番街、白の細長いケーキみたいなアパートの前でタクシーは停まった。王が帰ってきたときのような視線で近隣を睥睨へいげいしながら、ミセス・ウィルソンは犬を他の買い物荷物といっしょに抱え上げ、横柄な態度で中に入った。

「マッキーさんも家族そろって呼ぶつもり」と、彼女はエレベーターの中でアナウンスした。「それからもちろん、妹にも電話する」

部屋は最上階だった――こじんまりとしたリビング、こじんまりとしたダイニング、こじんまりとしたベッドルーム、それから浴室。リビングは四面ドアだらけ、タペストリーをかけられた家具一式はあまりに大きすぎて、ちょっと歩くたびにベルサイユの庭のブランコに貴婦人たちが揺れるシーンにつまづくありさまだった。一枚だけかけられている額縁がくぶちには無理に拡大された写真が収められている。どうやらかすんだ岩に休む雌鶏めんどりを撮ったものらしく見える。が、遠くからみると雌鶏は婦人帽と化し、老婦人の顔が部屋を見下ろしている、という案配あんばい。テーブルの上にあるのは、『タウン・タトル』のバックナンバーが何部か、そのそばに『ペテロと呼ばれしシモン』が一部、それからブロードウェイ関係の小さなゴシップ誌が何部か。ミセス・ウィルソンがまず気がけたのは、犬のことだった。いやいやながらに箱一杯のわらとミルクをいくらかとりにやらされたエレベーターボーイは、その他独断で、大きくて堅い犬用ビスケットのブリキ缶を運んできた――そこからとりだされた一枚が、その日の午後ずっとミルク皿に浸され、けだるそうに崩れていくことになる。トムはといえば施錠せじょうされていたドレッサーからウイスキーを一本取り出してきた。

ぼくが酔っ払ったのは一生に二度しかない。二度めはこの午後のことだ。だから、見ることすべてが霧がかかっているみたいにおぼつかなかった。八時すぎてもなお太陽が燦々さんさんと室内を照らしていたというのにだ。トムの膝に座ったミセス・ウィルソンは何人かに電話をかけていた。煙草がなかったものだから、ぼくが角のドラッグストアまで買いに行った。もどってきてみるとふたりは連れだって姿を消していたため、ぼくはおとなしくリビングに腰を落ちつけ、『ペテロと呼ばれしシモン』を一くぎり読んでいった。小説がひどい代物だったためか、ウイスキーがよく回る代物だったためか。どちらにせよ、ぼくにはこの小説が何を言いたいのかさっぱりわからなかった。

トムとマートル(飲みはじめたとたん、ぼくとミセス・ウィルソンはおたがいをファーストネームで呼びあうようになった)が帰ってきたちょうどそのとき、客たちがやってきた。

問題の妹キャサリンは、ほっそりとした世俗的な女で、年のころは三十ほど。量が多くて重苦しそうな赤毛をばっさりショートにしている。顔はパウダーで乳白色になっていた。眉毛まゆげは引きぬかれて前より粋な角度に描きなおされていたけれど、もとの形を取りもどそうとする自然治癒能力のせいで顔全体がぼやけた感じだ。動き回るたびに腕に数えきれないほどはめた陶器の腕輪が上下し、涼しげな音をたてた。ここにきたとき、まるで自分の部屋に帰ってきたみたいな態度だったから、ぼくはここに住んでいる人なんだろうかと思ったりした。けれども、実際にそうたずねてみると、彼女は遠慮なく笑ってぼくの質問を大きな声でくりかえすと、女友達とホテルに住んでいると言った。

ミスター・マッキーは下の部屋に住む顔色の悪い優男やさおとこだった。ついさっき髭を剃ったばかりらしく、頬骨ほおぼねに白い石鹸せっけんの跡が一点しみついていた。たいそう礼儀正しく室内の全員に挨拶した。ぼくには「芸術関係の仕事」をしていると自己紹介した。後からいろいろ考えあわせてみるとかれは写真家で、壁に亡霊ぼうれいみたいに浮かんでいるミセス・ウィルソンの母親のぼやけた拡大写真を作ったのはかれなのだと気づいた。かれの妻は、甲高かんだかい声でしゃべり、けだるそうな態度の、顔立ちは端正たんせいだったけれど、ひどく嫌な感じのする女だった。彼女は、夫が結婚以来百二十七回自分を撮り下ろしたとぼくに自慢した。

ミセス・ウィルソンはいつのまにか服を変えていて、いまはクリーム色の絹を念入りに織り上げたアフターヌーン・ドレスをまとい、部屋の中を歩くたびに衣擦きぬずれの音をたてていた。ドレスの影響もあるのだろう、人格もまた変化の波をかぶっていた。あの激しいバイタリティはガレージではすぐそれと分かるほどだったのに、それが印象的な尊大さに作り変えられていた。その笑い方、その身振り、その言葉。すべてが時を追うにつれ乱暴になり、彼女が膨らんでいくにつれ、まわりの部屋は縮み上がり、やがて場のけむたい空気全体が彼女を中心に回っているように思えてきた。

「ねえキャサリン」と取り澄ました裏声で言う。「ああいうやつらって、たいていあんたをだまそうとしてるのよ。連中の頭の中には金のことしかないんだから。先週、足を診てもらおうと女をひとり呼んだんだけど、よこしてきた請求書ときたら、見せたかったな、盲腸でも切ったのかと思うくらいなんだから」

「その女、なんていう名前?」とミセス・マッキー。

「ミセス・エバハート。足を診に、頼まれれば家まで出かけていくひと」

「それ、いいドレスね」とミセス・マッキーが言った。「ほれぼれするくらい」

ミセス・ウィルソンは軽蔑したように眉を吊りあげてその賛辞さんじをはねのけた。

「ぜんぜんだめよ、こんなの。どう見えてもいいやってときだけ、これを引っかけるようにしてる」

「でもあんたが着ればぜんぜん違うみたい。つまりそういうこと」さらに追い討ちをかける。「もしチェスターにそのポーズを撮ってもらえば、ちょっとしたものができると思うんだ」

ぼくらは黙ってミセス・ウィルソンに注目した。彼女は目にかぶさっていた髪をかきあげると、きらきらした目でぼくらを見返した。ミスター・マッキーは片側から覗きこむようにして熱心に構図を見積もり、やがて手を自分の顔の前にかざし、ゆっくりと前後させた。

「光線を変えたほうがよさそうだ」と、しばらくしてから言う。「顔立ちのモデリングをはっきり出したいから。それから、後ろの黒い髪もぜんぶ捉えたいな」

「光線なんて変えなくていいじゃない」とミセス・マッキーが言った。「だからつまり――」

夫が「しっ」とさえぎった。ぼくらはふたたび題材を見つめたが、するとすぐトム・ブキャナンがあくびをしながら立ちあがった。

「マッキーたちも何か飲めよ。マートル、氷とミネラルウォーターをもうすこし持ってきてくれ、みんなが眠っちまうまえに」

「氷はさっきのボーイに言っといたんだけど」とマートルは注文が無視されていることに失望して眉を吊りあげた。「あの連中! ずっとうしろから監視してないとなんにもしないんだから」

そう言ってぼくを見、意味もなく笑い出した。それから犬のところに飛んでいくと、うっとりしたようすでキスし、何十人ものシェフが彼女の指示を待っているのだと思わせるような勢いでキッチンに駆けこんだ。

「ロング・アイランドはいい仕事のできる環境ですね」とミスター・マッキー。

トムは要領を得ないままかれの顔を見た。

「下にふたつ、そういうやつを飾ってあります」

「ふたつの、何を?」とトムが問う。

「習作をふたつ。ひとつは『モンターク岬――カモメ』といいまして、もうひとつは『モンターク岬――海』と呼んでいます」

長椅子に座っていたぼくの横に、キャサリンが腰を下ろした。

「あなたもロング・アイランドに住んでるの?」

「ウェスト・エッグにね」

「ほんと? 一ヶ月くらい前、そこのパーティーに行ったことある。ギャツビーってお名前のひとのところ。かれのこと、ご存知?」

「その人の隣に住んでるんだ、ぼくは」

「そう。みんなね、あのひとのことをウィルヘルム皇帝の甥か従弟かって言うのよ。そこからお金が出てるんだって」

「ほんとに?」

彼女はうなずいた。

「わたし、あのひとが恐くて。あんまりあのひとの目にとまりたくないな」

ぼくは隣人に関するこの新情報にすごく興味があったけれど、ミセス・マッキーが不意にキャサリンを指差してこの話の腰を折った。

「チェスター、あのひとでならちょっとしたものが作れそうじゃない?」とわめくように言った妻に、ミスター・マッキーはただうんざりしたようにうなずいてみせただけで、トムと話をつづけた。

「ロング・アイランドでもっと仕事したいんですよ。うまく入りこめさえすれば。つまり欲しいのはきっかけ、それだけなんです」

「マートルに頼めよ」とトムはトレイを持って入ってきたミセス・ウィルソンに向かって笑いかけた。「あれが紹介状を書いてくれる。やってくれるよな、マートル?」

「何をするって?」と彼女はとつぜんのことにたずねかえした。

「マッキーにウィルソンへの紹介状を書いてやれよ、そうすればあいつを題材に習作が作れるだろうから」それから言葉をさがすようにちょっと黙って、「『ガソリンポンプにつくジョージ・B・ウィルソン』とかいうようなのをな」

キャサリンがぼくにかがみこむようにして、耳打ちした。

「あのひとたち、どっちも自分たちの結婚相手に我慢できないのよ」

「できない?」

「我慢できないのよ」と答えてマートルを見、トムを見た。「だからね、なんであのひとたちは我慢できない相手と暮らしつづけてるんだろう、って言いたいのよ、わたしは。わたしだったら、離婚してお互いに再婚する。そうするべきよ」

「マートルもウィルソンを嫌ってるわけ?」

答えは意外なところから飛んできた。ぼくらの話が聞こえたのだろう、マートル自身がこの質問に乱暴で猥雑わいざつな答えを返してきたのだ。

「分かったでしょ?」とキャサリンは勝ち誇って叫んだ。それから声を落としてつづける。「トムの奥さんが問題なのよ、別れるにあたっては。あのひとカトリックでしょ、カトリックでは離婚が認められないから」

デイジーはカトリックではない。ぼくはその念の入った嘘に、多少ショックを受けた。

「再婚したとしたら」とキャサリンがつづける。「西部に行ってほとぼりをさますつもりみたい」

「ヨーロッパまで行ったほうがいいんじゃないかな」

「へえ、ヨーロッパが好きなの?」とびっくりしたようすで言う。「わたし、ついこないだモンテ・カルロからもどってきたところ」

「そうなんだ」

「まだ去年のことね。友だちといっしょに行ったの、女の友だち」

「長く?」

「ううん、モンテ・カルロに行ってもどってきただけ。マルセイユ経由よ。出かけるときは千二百ドル以上あったのに、カジノでぜんぶ巻き上げられちゃって。たった二日でよ。帰りは散々だったな、はっきり言って。まったくあの街ってほんとに最低!」

夕暮れ間際の空の輝きが窓にさあっと流れ込み、その青のうるおいに地中海ちちゅうかいを見る――そこにミセス・マッキーの金切り声が響いて、ぼくの意識は室内に呼びもどされた。

「あたしだってあぶなかったんだから」といやに元気よく宣言する。「もうすこしであたしを何年も追っかけつづけてたちゃちなユダヤ人と結婚するところでさ。あいつなんかあたしとはくらべものにならないちんけなやつだってわかってた。みんな口をそろえて言いつづけた、『ねえルシル、あんな男、あんたの足元にもおよばないじゃない!』 でももしチェスターに出会わなかったら、あの男のものになってたかもしれないんだから」

「そうね。でもさ」とマートル・ウィルソン、激しくうなずきながら言う。「あんたは結局そいつとは結婚しなかったんでしょ」

「もちろんそうよ」

「それがね、こっちは結婚したってわけ」と言葉を濁した。「それが、そっちとこっちとの違いなのよ」

「なんで結婚したんだっけ、マートル?」とキャサリンが絡む。「べつにだれかから強制されてってわけじゃないでしょ」

マートルはしばらく考えこんだ。

「あのひとが紳士だと思ったからね」とやがて言った。「家族を養うことくらいは知ってると思ってたんだけど、あたしの靴を舐める資格もない男だった」

「しばらくはあのひとに夢中だったじゃない」とキャサリン。

「なんだって?」信じられないといった口調で叫ぶ。「だれよ、あたしがあのひとに夢中だったことがあるなんて言ってるのは。わたしがあのひとに夢中だったことなんてぜんぜんありゃしない、それはそう、そこにいるひとが相手のときとおんなじこと」

と言ってマートルが不意にぼくを指さすと、全員の非難するような視線がぼくに集中した。それでぼくは、変な気なんてぜんぜんないのだというのを態度で示してみせた。

「そうね、夢中だったのは結婚したときだけよ。ちゃんと起きてたんならあんな真似まねしでかしたはずないもの。すぐ間違いだったと分かった。だってあのひと、だれかから一張羅いっちょうらを借りて式に出たのよ、私にはなんにも言わずにね。それで後からあのひとが出かけてるときにそのひとが自分のスーツをとりにきたわけ。わたし、思わずこう言った。『え、あなたのスーツだったんですか? それは初耳はつみみです』って。でもとにかくスーツを返して、その日の午後ずっと泣きまくった」

「ね、ほんとうの話、ご主人とは別れたほうがいいみたいでしょ」とキャサリンがぼくに向かって言った。「もう十一年もあのガレージに住んでるのね。それで、トムが生まれてはじめての恋人ってわけ」

ウイスキーのボトル――二本めの――はいまや出席者全員から手が出るようになっていた。といってもキャサリンは例外で、彼女は「なにも飲まなくてもいい気持ちで」いた。トムがベルを鳴らしてアパートの管理人を呼び、評判のサンドイッチを買いに行かせた。これでその日の晩餐ばんさんのメニューはおしまいだった。ぼくは黄昏たそがれどきの静かな戸外に出て東のほう、公園あたりまで散歩したかったのだけど、そうしようとするたびにぼくは声高に戦わされる無茶苦茶な議論に巻きこまれ、ロープで引っ張られるようにして椅子にもどされた。部屋の窓が描く黄色い帯は高いところにあったはずだけど、それでも暮れゆく通りから見上げるあの通行人の目には人類の秘密の一端を担うもののように思えたに違いない。ぼくもまたかれを見返し、それから天井を見、もの思いにふけった。人生の尽きることない多様性に魅了され、同時にまた反感も覚えながら、ぼくの心は室内と室外を行きつ戻りつした。

マートルが自分の椅子をぼくのそばまでひっぱってきて、急に、生温かい息に乗せてトムとの出会いをぼくに語りはじめた。

「その列車にはいつも最後まで空いてる席がふたつあってね。向かい合わせの席なんだけど、そこでかれとはじめて会ったのよ。あたしは妹に会いにニューヨークに行って、そのまま泊まってくる予定だった。かれは夜会服やかいふくをきて、エナメルの革靴をいてた。あたしの目はかれに釘づけだった。でもかれの目がこっちに向けられるたび、あたしは自分がかれの頭の上の広告を見てるふりをしたっけ。駅につくとかれはあたしの隣に座って、白いワイシャツの前をあたしの腕に押しつけてきた。それで警察を呼ぶって言ってやったんだけど、嘘だと分かってたのね。あたし、ぼうっとしちゃってかれといっしょにタクシーに乗ってしまった。地下鉄に乗るはずだったのにね。頭の中で繰り返し繰り返し考えてた。『永遠に生きることはできないんだぞ、永遠に生きることはできないんだぞ』」

彼女はミセス・マッキーをふりかえると、不自然な笑い声を室内にとどろかせた。

「ねえ、このドレス、脱いだらあんたにあげる。あたしは明日新しいの買わなきゃだめだから。揃えておかなきゃだめなの、リストしとこう。まず、マッサージを受けて、ウェーブをかけて、それから犬の首輪に、あのスプリング式のかわいい灰皿ね。それから一夏ひとなつもちそうな黒い花束を、母のお墓に。やらなきゃだめなことを忘れないうちにリストしとかないと」

九時――その後すぐに自分の時計を見たはずなのに、針は十時をさしていた。ミスター・マッキーは椅子に座り、拳を膝の上に乗せたまま眠っていた。写真の中の活動家のように。ぼくは自分のハンカチを取り出し、ずっと気になっていた、頬に残っていた石鹸の乾いた跡をぬぐった。

子犬はテーブルの上に座って、まだよく見えてない目で、煙がもうもうとたちこめる部屋にじっと目を凝らし、ときどきかすかにうなった。人々は消え、ふたたび現れ、どこかへ行こうと計画し、それからおたがいを見失い、おたがいを捜し、数十センチはなれたところにおたがいを見出す。深夜になろうとしているころ、いつのまにかトム・ブキャナンとミセス・ウィルソンとが立ちあがって顔と顔とをつきあわせ、ミセス・ウィルソンにデイジーの名前を呼ぶ権利があるのかないのか言いあっていた。

「デイジー! デイジー! デイジー!」とミセス・ウィルソンが叫んだ。「言いたいときはいつだって言いますとも! デイジー! デイ――」

無駄のない動きでトム・ブキャナンは彼女の鼻に平手打ひらてうちをくれた。

血染ちぞめのタオルがバスルームの床に放り出され、騒々しい女たちの声が飛び交い、それを吹き飛ばすような泣きわめきが余計に部屋の混乱をかきたてる。ミスター・マッキーが目を覚まし、なかば寝ぼけたままドアへと向かった。ドアまであと半分というところでくるりとふりかえって室内を見まわした。自分の妻とキャサリンが救急用品を手に部屋中の家具に何度もけつまずく。そして寝椅子に弱々しく横たわるミセス・ウィルソンはだらだらと血を流しながら、『タウン・タトル』をタペストリーに織りこまれたベルサイユの情景に広げようとしている。ミスター・マッキーはふりかえり、そのままドアから出ていった。シャンデリアから帽子をとったぼくもそのうしろに続いた。

「そのうちランチにおいでください」と、かれは、ぼくらが乗るエレベーターがうめく中、提案した。

「どちらで?」

「どこででも」

「レバーから手をお放しください」とエレベーターボーイが鋭い口調で言った。

「失礼」とミスター・マッキーは威厳をもって受け答える。「触っているとは思いもしなかった」

「かまいませんよ」とぼくは言った。「そのときはぜひ」

……ぼくはかれのベッドのそばに立ち、かれは下着姿でシーツの上に身を起こし、分厚ぶあつい写真集を両手で広げていた。

「『美女と野獣』……『孤独』……『オールド・グロッサリー・ホース』……『ブルックン・ブリッジ』……」

いつのまにか、ぼくはペンシルベニア駅の寒い地階に寝転がっていて、『トリビューン』の朝刊をうとうとながめながら、四時の列車を待っていた。


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