近年になって、昔ながらの自由放任な資本主義が終わりを告げることがますます明確になってきている。
十九世紀の遠く昔からこの事実は先見の明あるさまざまな人物たちに理解されてきたが、一九一四年から一九一八年の戦争の惨事、ロシア革命の成功、ファシスト体制の勃興によってさらに何百万の人にとっても明瞭になった。こうしたファシスト体制は厳密な資本主義をとらず、イギリスや合衆国といった昔ながらの民主主義国では手の施しようがなかった問題を解決できるかに思えたのだ。
ここ六年間の出来事はまさに強調すべき教訓である。間違いなくあらゆる場所において流れは計画経済へ向かい、所有権を絶対視して金儲けが最大の動機であるような個人主義的社会から離れていっている。
しかしこの展開と同時に知識人の反抗が起きている。これは自分たちの特権が脅かされていることを理解した資産家のたんなる不安ではない。大多数とは言わないまでも、現代における最高の知性の持ち主たちの大きな割合が事態の変化に動揺し、経済的安全だけが価値ある目標なのかどうかを疑っている。
ロシアにおける社会主義形態への失望が広まり、さらに根深いことに文明的機械の全てとそれが暗に目指しているものへの不信が生じているのだ。当然のようにこの知識人の反抗は個々の思想家と同じくらいさまざまな形態をとるが、そこにはある大きな傾向があってそれは以下のように分類できる。
一、悲観主義者――計画的社会によって幸福や真の進歩へ導かれることを否定する者たち
二、左派社会主義者――計画の原則は受け入れるが、それが個人の自由と結び付けられることを強く懸念する者たち
三、キリスト教的改革論者――革命的社会変化をキリスト教の教義への信奉と結びつけたいと願う者たち
四、平和主義者――中央集権国家を離れ、政府によるあらゆる強制的な原則から逃れたいと願う者たち
もちろんこれらの異なる思想派閥の間には重なっている部分があるし、また、これらの一部は一方では通常の保守主義と、他方では伝統的な社会主義と重なっている。
しかし、著名で代表的な思想家の大多数はこれらの分類名の下で正確に分類可能なのだ。今回の四つのエッセーの最初のもので私は、私が「悲観主義者」と分類した者たちについて取り上げる。
少なくとも近年に英語で書かれたものの中で悲観主義者の立場を最もよく表しているのはおそらくF・A・ボイトの「カエサルへ」で、これは一九三八年に出版されている。この長大な書籍はその大部分が共産主義とナチズムの調査であり、「地上の楽園」を実現させようとした社会は最後は常に暴政へとたどり着くという主張を中心に書かれている。
ボイトがその本全体を通して前提としているのはロシアの共産主義とドイツのファシズムは実際的目的に関して言えば同じものであり、ほとんど変わらない目標を持っていることである。これは確かに単純化が過ぎるし、これでは全ての既知の事実を説明することはできない。それにも関わらず、政治的範囲を狭め、政治活動に多くを期待しないことに関してボイトは非常に強力な賛成論を展開している。
その基本的な要旨は実にシンプルなものだ。完全を目指す政治家、そしてそこに到達する方法を知る思想家たちは他の者たちを同じ道に沿って走らせるためならば手段を選ばないだろう、そしてその政治的理想は権力維持の欲望と分かちがたく絡み合っている。実際やってみると完全は決して達成されず、それを追求するために使われたテロリズムはたんに新たなテロリズムの必要性を育むだけである。結果として自由と平等を実現させようという試みは決まって警察国家に終わる。しかし一方で人間の本性は邪悪に満ちているという認識に基づいた、もっと限定的な目標であればそれは実にまっとうな社会へと通じているのだ。
これとおおよそ同じ路線はアメリカの作家で「経済人の終わり」「産業人の未来」の著者であるピーター・ドラッカーによっても取られている。ドラッカーは一九三九年の独ソ不可侵条約を予言した極めて数少ない時事評論家のひとりである。とりわけ上記書籍の後者で彼は彼が「保守主義革命」と呼ぶものの必要性を説いている。それは資本主義に立ち戻るという意味ではなく、共同体のどこか一部に全権力を握らせないための抑制と均衡のシステムがある「混成社会」の理想の復活を意味する。
ドラッカーによれば、これこそが十八世紀のアメリカ革命の指導者たちが真に目指していたものなのだ。完全主義に反対してさらに高度で非常によく似た議論を行っている他の作家にはマイケル・ロバーツ(T・E・ヒュームについての自著で論じている)やマルコム・マゲリッジ(「三十年代」)、「毒された王冠」のヒュー・キングスミルがいる。最後のものはエリザベス女王、クロムウェル、ナポレオン、エイブラハム・リンカーンについての四つの研究から成り立っている――おそらくはいくらか倒錯した書籍だが独裁権力についての鋭い意見がいくつか含まれている。
ユートピア主義者の目標についての問題全体、そして最終的に暴政へたどり着く傾向についてはバートランド・ラッセルの多くの書籍、とりわけ「科学の眼」「自由と組織」「権力:新たな分析」で論じられている。ラッセルはその人生の時々で非常に異なる政治的見解を抱いているがその未来のビジョンはほとんど一様に悲観的で、自由と効率はその性質からして共存不可能であるという考えに傾いている。
計画的な中央集権化された国家はまた、それ自体の目標という観点からさえも、うまくいかないという地上攻撃を受けている。おそらくこうした観点での最も聡明な議論はハイエク教授の「隷属への道」であり、これは一九四四年に出版されてとりわけ合衆国でおおいに議論を巻き起こした。
ハイエクが説くところによれば中央集権制と詳細な計画は自由を壊滅させるだけでなく、高度な生活水準を許容不可能にさせるという点で自由放任な資本主義と変わらない。ヒトラーが権力を握る前、そのために必要不可欠な仕事はドイツ社会民主党と共産党によって彼のために終えられていたとハイエクは主張する。こうした党が自由と独立に対する平均的ドイツ人の欲求を打ち壊すことに成功していたのだ。
その主な要旨は、中央集権化された経済は不可避に強大な権力を中央の官僚に与え、権力を理由に権力を欲する人々は重要な地位へと惹きつけられていくだろうというものだ。これと非常によく似た路線を取るのがマンチェスター大学のマイケル・ポランニー教授の「自由への軽蔑」である。彼はソビエト連邦の状況を長年研究し、ウェッブの有名な著作「ソビエト共産主義――新たな文明なのか?」に鋭い批評を加えている。生物学者であるジェイムズ・ベイカーもまた官僚組織の支配下では科学研究が花開くことはないと論じている(「科学と計画国家」)。
最後に「悲観主義者」に数えることができるのがジェーム・バーナムで、彼の著作「経営者革命」は五年前に出版された際に同じような動揺を引き起こした。次に出版された「マキャベリ主義者たち」ではさらに顕著だが、バーナムは社会主義も完全な民主政も達成不可能な目標であると論じ、私たちにできるのはせいぜい権力濫用に対する安全装置――例えば自治的な労働組合や自由な報道機関――を実現することだけだと主張している。
まっとうな政治的行動の実現可能性さえも否定し、途方も無い目標ではなく限定的な目標のために政治的策略を使うしかないとただ唱えるだけという点で、彼は私が名前を挙げた他の作家よりもずっと先を進んではいるが、その世界観は他の者たちのそれと多くの点で重なる。
「悲観主義者」という語はこうした作家たち全員に実によく当てはまる。彼らは地上のユートピアの実現可能性を信じることを拒絶するが、一方でまたそのほとんどはあるべきところに物事が収まる「来世」についても信じていない。既存の動向に反対するのではなくむしろそれを道しるべにしようと願っているドラッカーとバーナムはおそらく別だが、こうした者たち全員が持つ弱みは大きな支持を受ける可能性がある政策を何ら唱えられずにいることである。
例えばハイエクの能弁な資本主義擁護論は無益な労働である。昔ながらの資本主義に戻りたいと願う者などほとんどいないのだ。農奴制と経済的不安定のどちらを選択するか迫られれば、どこの大衆であろうがおそらくは無条件に農奴制を選ぶだろう。少なくともそれが何か別の名前で呼ばれていればそうするはずだ。他の者たちが提案しているもののほとんどは本質的には伝統宗教の慰めを取り除いた宗教的人生観である。
この一派の作家たちに政治的な標識を付けるよう求められれば、彼らのことは保守主義者と呼ばざるを得ないだろう――しかしほとんどの場合で彼らのそれはロマン主義的保守主義、不可逆な事実に戦いを挑むそれなのである。しかし彼らや似た傾向を持つ他の作家たちが全体主義の時代の愚劣さと邪悪さに対して実に有効な批判を口にしていることは否定できない。