知識人の反抗, ジョージ・オーウェル

社会主義とは何か


二十世紀、実に一九三〇年代に至るまで、あらゆる社会主義思想はある意味でユートピア的だった。社会主義は現実世界でも、それに敵対する者を含めたほとんど全ての者の頭の中でも、吟味されることなく自由と平等の理想と固く結びついていた。

経済的な不公正に終止符を打つことさえすれば他の専制体制はすべて消えてしまうだろう。人類愛の時代が始まり、戦争や犯罪、退廃、貧困、過酷な労働は過去のものになるだろう。中にはこの目標を嫌う者もいるし、決してそんなことは達成できないと考える者も大勢いるが、少なくともそれこそが目標だった。

カール・マルクスやウィリアム・モリス、アナトール・フランス、ジャック・ロンドンといったそれぞれ遠くかけ離れた思想家たち全員が、その最良の実現方法については激しく異なるにせよ、おおまかにはよく似通った社会主義の未来を描いている。

一九三〇年を過ぎると社会主義運動にイデオロギー的分裂が見られ始める。この頃には「社会主義」はもはやたんに夢想を思い起こさせる言葉ではなくなっていた。巨大で強力な国であるソビエト・ロシアが社会主義経済を採用してその国民生活を急速に再構築し、ほとんど全ての国で国有化と大規模計画への転換が間違いなく起きていた。それと同時に「社会主義」という言葉によってナチズムの怪物がドイツで成長していった。それは社会主義を自称し、確かに一定程度は外見上の社会主義的特徴を持ってはいたが、これまで世界に現れた中で最も残酷で冷笑的な体制のひとつとしてそれらを具現化したものだった。

社会主義とは何か? 自由無しに、平等無しに、国際主義無しに社会主義はあり得るのだろうか? 私たちはいまだ普遍的な人類愛を目指しているのだろうか、それとも経済的安全のために個人の権利を諦めて新しい種類のカースト社会で満足すべきなのだろうか?

最近の書籍の中では一年ほど前に出版されたアーサー・ケストラーの著作「ヨガ行者と人民委員」の中にこうした疑問についてのおそらく最も優れた議論を見つけられる。

ケストラーによれば今必要なものは「聖人と革命家の合成」である。言い換えればこうだ――革命は起きなければならない、劇的な経済の変化が無ければ道徳的進歩はあり得ない、しかしまた、ごく普通の人間としての慎みから離れれば革命家は自身の労働を無に帰すことになる。目的と手段におけるこのジレンマをどうにかして解決しなければならないのだ。私たちは行動し、さらには暴力に訴えることさえできなければならないが、しかしまた行動によって腐敗してはならない。特定の政治的期間においてこれは一方でロシア共産主義を、他方でフェビアン的漸進主義を拒絶することを意味する。

似た傾向を持つほとんどの作家と同様にケストラーはかつて共産主義者だった。必然的なことだが一九三〇年ごろからソビエトの政策に現れ始めた動きに対して彼は熾烈な反応を示す。彼の最高傑作はモスクワ・サボタージュ裁判を題材とした小説「真昼の暗黒」である。

おおまかには同じ分類に当てはまる他の作家にはイニャツィオ・シローネ、アンドレ・マルロー、またアメリカ人であるジョン・ドス・パソスやジェイムズ・ファレルがいる。

ここにアンドレ・ジッドを付け加えてもいいだろう。彼が共産主義、あるいは政治意識にたどり着いたのは晩年のことだが、そうした後でほとんど一瞬にしてそこを通り過ぎて反抗者の一団へと加わった。さらにフランスのトロツキストであるヴィクトル・セルジュやイタリアのファシズム史学者であるガエターノ・サルヴェミニを加えることもできるだろう。サルヴェミニは社会主義者というよりは自由主義者だが、反全体主義に重点をおいている点で他の者と似ていて、左派の内部闘争に深く巻き込まれている。

ときおり見られる外見上の類似に反して、ケストラーやシローネといった反体制的社会主義者とボイトやドラッカーといった進歩的保守主義者の間には実のところ親和性は無い。政治的対話を描いたシローネの「独裁者の学校」は表面上は「カエサルへ」と同じくらい悲観的で既存の左派政党を批判するものだが、その根底にある世界観はまったく異なる。

重要なのはこうした社会主義者や共産主義者は――そしておそらくは教義上で自身の党と絶縁した者ほとんど全員が当てはまるだろうが――「地上の楽園」を実現可能と信じている人間であるということだ。つまるところ社会主義とは楽観的信条であり、原罪という教義を容易には受け入れないものなのである。

社会主義者だからといって人間社会は本当は完璧になり得ると信じる義務があるわけではないが、ほとんど全ての社会主義者は人間社会を現在よりも大きく改善でき、人間がなす邪悪のほとんどは不公正と不平等によって歪められた結果であると強く信じている。社会主義の土台はヒューマニズムなのである。それは宗教的信念とは共存できるが、人間は機会あるごとに決まって不正をおこなう劣った生き物であるという信念とは共存できない。

「真昼の暗黒」やジッドの「ソビエト旅行記」、ユージーン・ライオンズの「ユートピアでの任務」、あるいは類似の傾向を持つその他の書籍の背後にある感情は、期待した楽園がそれほどすばやくは実現しないことによるたんなる失望だけではない。そこにはまた社会主義運動の本来の目標がぼやけてゆくことへの恐れもあるのだ。

それが改革主義的なものであれ、革命的なものであれ、正統な社会主義思想が三十年前には持っていた救世主的な性質のいくらかを失っていることはまず間違いない。これは増大する産業的生活の複雑さ、ファシズムに対する戦いによる日々の必要、ソビエト・ロシアが示した実例の結果である。生き残るためにロシアの共産主義者たちは始めに持っていた夢のいくらかを、一時的にせよ、捨て去ることを強いられたのだ。

厳格な経済的平等は実行不可能であることがわかった。内戦のさなかの途上国においては言論の自由はあまりに危険であり、国際主義は資本主義大国の敵意によって抹殺された。

一九二五年頃以来、ロシアの政策は内政的にも外交的にも厳しさを増して理想主義の程度を減らし、その新しい精神はさまざまな国の共産党によって国外へ輸出された。こうした共産党の歴史についてはフランツ・ボルケナウの「世界共産党史」で容易に学ぶことができる。

多くの勇気と献身にも関わらず、西ヨーロッパにおける共産主義の主な影響は民主主義の精神を蝕み、社会主義運動全体にマキャベリズムの色合いを帯びさせるものだった。こうした傾向に抵抗しているのは私が名前を挙げた作家だけではない。同様の発展をたどった者が大なり小なり他にも大勢いる。わずかだがその名前をあげれば、フリーダ・アトリー、マックス・イーストマン、ラルフ・ベイツ、スティーブン・スペンダー、フィリップ・トインビー、ルイス・フィッシャーといった者たちだ。

おそらくマックス・イーストマンを別にすれば、こうした作家の中で保守主義に立ち戻ったと言える者はひとりもいない。彼らは全員、計画社会や高度な産業発展の必要性に気がついている。しかし彼らが欲しているのは自由と平等に重点を置き、人類愛の信念から啓示を受けた、より古い社会主義観が生き延びることなのだ。

彼らが述べるこうした見方はあらゆる場所、あるいは少なくとも高い生活水準が当然となっている先進的な国々の社会主義運動に関わる左派の中には存在している。もっと未発達な国々では政治的過激主義は無政府主義の形態をとることが多い。人類の進歩の可能性を信じるこうした人々の中ではマキャベリズム、官僚主義、ユートピア主義の間で常に三つ巴の戦いが続いている。

現在のところ、ユートピア主義がはっきりとした政治的運動の形を取ることは難しい。どこであろうが大衆は平等よりも身の安全をずっと強く求めていて、言論や報道の自由が自分たちにとって喫緊の重要性を持つとは概して実感していない。しかし現世を完璧にすることへの欲求はその背後にとてつもなく長い歴史を持っている。

ケストラーやシローネのような作家が基礎としている考えの系譜を研究すれば、ウィリアム・モリスのようなユートピア夢想家、ウォルト・ホイットマンのような神秘主義的民主主義者をたどって、ルソー、イギリスの真正水平派ディガーズ水平派レベラーズ、中世の農民反乱中世の農民反乱:ワット・タイラーの乱を指すを経由して初期キリスト教徒と古代の奴隷反乱へとたどり着くことがわかるだろう。

ジェラード・ウィンスタンリのパンフレット「ウィガンの真正水平派ディガーズ」、クロムウェルによって潰えた彼の原始共産主義の実験はどこか奇妙に現代の左派文学に似ている。

「地上の楽園」はこれまで一度も実現したことは無いが、あらゆる種類の実務的政治家によって容易に反証されているにも関わらず理想としてのそれは決して滅びないように見える。

その根底には人間の本性は本来は実にまっとうなものであり、無限の進歩を可能にするものであるという信念が横たわっているのである。この信念こそがロシア革命への道を準備した地下セクトを含む社会主義運動の主要な原動力であり、現在では点在するだけの少数派であるユートピア主義者こそが社会主義の伝統の真の支持者であると言えるだろう。

フリーダ・アトリー「私たちの失った夢」、マックス・イーストマン「レーニン死後」「制服を着た芸術家」、ルイス・フィッシャー「人と政治」、アーサー・ケストラー「剣闘士たち」「地上の屑」、イニャツィオ・シローネ「フォンタマーラ」「パンと葡萄酒」「雪の下の種」、アンドレ・マルロー「上海の嵐」「希望の日々」、ガエターノ・サルヴェミニ「ファシズムの斧の下で」、ジェラード・ウィンスタンリ「選別」

1946年1月31日
Manchester Evening News

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