モロー博士の島, ハーバート・ジョージ・ウェルズ

カタストロフィー


モローの恥ずべき実験に対する反感と嫌悪以外の感情を失ってから六週間ほどが経った。頭の中にあるのは我が造物主の作品の恐ろしいカリカチュアから遠く離れ、楽しく健全な人々との交わりに戻りたいという考えだけだった。遠く隔てられた仲間たちが記憶の中ですばらしい高潔さと美しさを兼ね備えた者たちに思え始めたのだ。モンゴメリーとの最初の友情が発展することは無かった。あまりにも長く彼が人と接していないことが、その密かな酒癖の悪さが、獣人たちに対するそのあからさまな共感が私に嫌悪の念を催させた。獣人たちの所へ一人で行く彼を見送ることもよくあった。私は出来るだけ彼らと関わり合いを持ちたくなかった。だんだんと浜辺で過ごす時間が増え、決して現れることのない私を自由へと救いだしてくれる帆船を探して過ごすようになった……あの恐ろしい事件が私たちに降りかかってきた日までは。その事件は私の置かれた奇妙な状況を一変させた。

私が上陸を果たしてから七週間か八週間が過ぎた頃だった……もしかしたらもっと経っていたかも知れない。時間を数えることなどしていなかったのだ……。破局が訪れたのは朝早くのことだった……六時ごろだったはずだ。私は目覚めて早い朝食をとっていた。三人の牛人間が囲い地に木材を運び込む物音に起こされたのだ。

朝食の後、囲い地の開かれた入り口まで行き、立ったままタバコを吸って早朝の爽快な空気を楽しんだ。しばらくするとモローが囲い地の角を曲って現れ、挨拶をした。彼は私の前を通りすぎ、背後で研究室の鍵を開けて扉を開く音が聞こえた。その頃にはその場所に対するあまりの嫌悪に感覚が硬直化し、拷問に苦しむピューマの叫びにも感情を動かされなくなっていた。ピューマは拷問人を金切り声で出迎えた。その声はまるで逆上してわめきちらす女そのものだった。

不意に何かが起きた……今になっても何が起きたのか私にはわからない。短く鋭い声が背後で聞こえ、何かが倒れたかと思うと恐ろしい顔が私に突進してきた……人間でも動物でもない悪夢のような茶色い顔で、そこら中に走る赤い傷跡から血が滴り落ちていた。まぶたのない瞳はぎらぎらと輝いている。私はものすごい勢いで私をなぎ倒そうとする一撃から身を守るために腕を上げ、腕がへし折られた。体に巻かれた血が滲む包帯をはためかせながらその巨大な怪物は私を飛び越えて走り去った。私は這うようにして浜辺へとたどり着き、なんとか起き上がろうとしたが折れた腕の上に倒れ込んでしまった。その時、モローが現れた。彼の大きな白い顔は額からわき出る血で恐ろしいことになっていた。手にはリボルバー拳銃を握っている。私の方には目もくれずにピューマを追って駆け出した。

私はもう片方の手でなんとか起き上がった。包帯で全身を巻かれた影がものすごい勢いで浜辺を走っていき、モローが彼女の後を追った。彼女が振り返って彼をにらんだかと思うと不意に茂みに進路を変えた。ぐんぐんと彼を引き離していく。彼女が茂みに潜りこむのが見えた。なんとか先回りしようと斜めに走っていたモローが拳銃を撃ったが彼女の姿はもう見えなかった。すぐに彼の姿も緑の影に消えて見えなくなった。私は彼らの後ろ姿を見つめていたがその時になって腕の痛みに気づき、うめき声を上げてよろめいた。戸口にモンゴメリーが現れた。装備を整え、リボルバー拳銃を手にしている。

「よかった、プレンディック!」私の傷に気がつかないまま彼は言った。「あの獣が逃げ出した! 檻の外で拘束具を引き裂いたんだ! 見かけなかったか?」それから私が腕を抑えているのを見て厳しい声で言った。「どうした?」

「扉の前に立っていたんだ」私は言った。

彼が近づいて私の腕をとった。「袖に血が付いている」そう言うと袖をまくり上げた。武器をポケットにしまうと私の腕の傷を診察してから部屋の中に連れて行った。「腕が折れている」そう言ってから続けた。「正確なところを教えてくれ……何が起きた?」

途中、痛みに喘ぎながら途切れとぎれに私は自分が見たことを話した。その合間に彼は器用に私の腕を固定していった。私の腕を肩に吊るすと彼は立ち上がって私を見た。

「さあ終わった」彼が言った。「さてどうしようか?」

彼は考えてから外に出て囲い地のゲートに鍵をかけてきた。彼のいない間、私は自分の腕のことで頭がいっぱいだった。今回の事件も今までのたくさんの恐ろしい出来事に一つ付け加わっただけのことだったのだ。デッキチェアに座りこんでこの島を罵り続けた。モンゴメリーが再び姿を現した時には怪我の最初の鈍い痛みは燃えるような痛みに変わっていた。彼の顔は真っ青で今までにないほど唇が下がって下の歯茎が見えていた。

「彼の姿が見えないし声も聞こえない」彼は言った。「私の助けがいるんじゃないかと思うんだ」彼は無表情な瞳で私を見つめた。「あれはかなり凶暴な獣なんだ」そう続けた。「拘束具をねじ切って逃げ出すほどだ」彼は窓に近づき、それからドアのところまで行ってまた私のところに戻ってきた。「彼を追わなければ」彼は言った。「リボルバーを一丁置いていくよ。何か嫌な予感がするんだ」

彼は武器を取り出すとテーブルの上の私の手が届く所に置き、落ち着かない空気を残して出ていった。彼が去ると私はすぐに立ち上がってリボルバー拳銃をつかんで戸口まで行った。

死んだように静まり返った朝だった。風が吹く音も聞こえず、海は磨いた鏡の様だった。空には鳥の一羽も飛んでおらず、浜辺に人影は見えなかった。半ば興奮し、半ば熱を持ったような状態の私はこの静けさに沈み込んだ。口笛を吹いたがその音も静けさに飲み込まれて消えた。私は再び悪態をついた……今朝になって二度目だ。それから囲い地の角まで行ってモローとモンゴメリーを飲み込んでいった内陸の密林を見つめた。彼らはいつ、どういう風に戻ってくるだろうか? その時、浜辺の遠くの方に小さな灰色の獣人が姿を見せ、波打ち際まで駆けていったかと思うと水を蹴散らし始めた。私はぼんやりと戸口まで引き返してからまた角の所まで歩き、まるで任務中の歩哨のように行ったり来たりした。一度だけ遠くで「おーい、モロー!」と叫ぶモンゴメリーの声が聞こえて足を止めた。腕の痛みは引いてきたがまだ熱を持ったようだった。だんだんと熱が出てきたようになって喉が渇いた。影はどんどん短くなっていく。私は遠くの人影を相手が立ち去るまで見つめ続けた。モローとモンゴメリーは帰ってこないのではないか? 三羽の海鳥が浜辺に打ち上げられた獲物を探して飛び始めた。

その時、囲い地のはるか背後で銃声が聞こえた。長い静寂が続き、また一発聞こえた。それからもっと近くでわめくような叫び声が上がり、また陰鬱な静寂が戻ってきた。悪い想像が私を苦しめ始めた。不意に近くで銃声が聞こえた。角の所までいって見てみるとモンゴメリーが見えた……顔は血まみれで髪は乱れ、ズボンの片方の膝の部分が破れている。その顔にはひどい恐怖が浮かんでいた。彼の背後には前かがみになった獣人のミリングがいた。ミリングの顎の周りには奇妙な黒い汚れがついている。

「彼は戻ったか?」モンゴメリーが言った。

「モローか?」私は聞いた。「いいや」

「なんてことだ!」彼はまるですすり泣くかのように喘いだ。「中に戻るんだ」彼が私の腕をつかんで言った。「彼らは狂ってる。狂乱状態だ。何が起きたっていうんだ? 全くわからない。落ち着いたら君にも話そう。ブランデーはどこだ?」

モンゴメリーは足を引きずりながら私の前を行き、部屋に入るとデッキチェアに腰を下ろした。ミリングは戸口のすぐ外に倒れこみ、まるで犬のように荒い息をした。私はモンゴメリーにブランデーの水割りを渡した。彼は息を整えながら放心したように座っていた。しばらくして何が起きたのかを話し始めた。

彼は二人の足あとをたどって進んで行った。踏み分けられた茂みや折れた枝、ちぎれて取れたピューマの包帯、ときどき葉や低木に付いた血を追っていけば簡単なことだった。しかし私が水を飲んでいる獣人を見た小川のあたりの砂利道で足跡を見失い、そこからはモローの名前を叫びながらあてもなく西へ向かったのだった。その時になって小さな手斧を持ったミリングが彼に追いついた。ミリングはピューマの件は何も知らなかった。木を切り倒していて彼の声に気がついたのだ。二人は一緒に叫びながら進んだ。下生えの向こうで二人の獣人が屈み込んで彼らを見つめた。その仕草と持っていた物を隠したことがモンゴメリーに不審の念を抱かせた。声をかけると彼らは後ろめたそうに逃げ出した。その後、叫ぶのを止めてもうしばらくうろうろとさまよってからあの住処へ行くことを決めた。

峡谷に人影は無く、見捨てられたような状態だった。

不審の念がますます募る中、彼は来た道を戻った。そこで二人の豚人間に出くわした。この島に来た夜に踊っているのを私が見たやつらだ。口の周りを血で汚し、ひどく興奮していた。二人はシダを踏み荒らしながら歩いて来て、彼の顔を見た途端、凶暴な顔に変わって立ち止まった。彼は震えながら鞭を鳴らしたがすぐさま二人は彼に襲いかかった。獣人がそんな真似をしたことは今まで一度も無かった。一人は彼が頭を撃ち抜き、もう一人にはミリングが飛びかかった。二人はからまり合ったまま転げ回った。ミリングが相手の喉笛に食らいついて押し倒し、その隙にモンゴメリーが撃ち殺した。一緒に来るようにミリングを説得するのには多少手間取った。その後、二人で急いで私の所まで戻って来たのだ。途中、ミリングが突然、厚い茂みに駆け出してオセロットから作られた小柄な人間を狩り出した。そいつも血で汚れていた。足に怪我をしていて上手く歩けないようだった。少し逃げ回り、追い詰められると獰猛に向かってきたがモンゴメリーが……多少の気まぐれもあってのことだと私は思うのだが……撃ち殺した。

「いったいどういうことだ?」私は言った。

彼は首を振るとまたブランデーを飲んだ。


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