私はこの本をドイツの爆撃の旋律で始めた。この第二部ではさらに弾幕砲火の轟音を付け加えよう。砲火の黄色い閃光が空を照らし、その破片が屋根の上を音を立てて転がる。ロンドン橋、落ちる、落ちる、落ちる。私たちが致命的な危機の中にあることは地図を読み解ける者であれば誰もが知っている。私たちが敗北するとか、敗北する必要があると言っているわけではない。勝敗の結果が私たち自身の意志にかかっていることはまず間違いない。しかし今現在のところ、私たちは五尋もの深さ五尋もの深さ:シェイクスピア「テンペスト」からの引用の窮地に陥っている。私たちをそこに引きずり込んだのは私たちがいまだに犯し続けている愚行であり、すばやく進路を修正しなければそいつは私たち全員を溺れ死にさせることになるだろう。
今回の戦争が証明しているのは私的資本主義……つまり土地や工場、鉱山、輸送機関が民間に所有され、収益のためだけに運営されているような経済体制……はうまくいかないということだ。それでは物品を生み出すことはできないのである。この事実は過去の長きにわたって大勢の人間に知られてきたが何も変わらなかった。それはこの体制を変えろという下からの真に迫った要求が無く、また上に立つ者たちはこの問題に関して鈍麻した愚かさを自分自身に教え込んでいたからだ。議論やプロパガンダではどこにも到達できなかった。資本家貴族たちは座り込んで、全ては最善の結果を得るためだと宣言した。しかしながらヒトラーによるヨーロッパ征服は荒々しく資本主義の偽りを暴いている。戦争はまったく邪悪なものだが、ともかくも握力計のように力の強さに対する反論の余地のないテストとなる。大きな力に対しては報酬が返ってくるが結果を偽る方法は無い。
船舶用スクリューが初めて発明された時にはスクリュー船と外輪船のどちらが優れているのかという何年にもわたる論争があった。廃れた他の全てのものと同様、外輪船には擁護者がついて巧妙な議論でそれを支持した。しかし最後にはある名高い提督が同じ馬力のスクリュー船と外輪船の船尾を結びつけてそれぞれを走らせた。こうして疑問に決定的な決着がつけられたのだ。ノルウェー、そしてフランダースの戦場フランダースの戦場:1940年5月の連合軍とドイツ軍の戦い、及びその後のイギリス海外派遣軍のダンケルクからの脱出を指すで起きたことはこれとよく似ている。決着はつけられ、計画経済は無計画なものよりも強靭なことが証明されたのだ。しかしここで誤用されることの非常に多い言葉、つまり社会主義とファシズムについていくらか定義しておくことが必要だろう。
社会主義は普通「生産手段の共有」と定義される。おおまかに言えば、国全体を代表する国家があらゆるものを所有し、全員が国家に雇われるのだ。これは衣服や家具といった私有財産が人々から剥ぎ取られるということではなく、土地や鉱山、船舶、機械類といったあらゆる生産的物品が国家の所有物になるということだ。国家は唯一の巨大な規模の生産者となる。社会主義があらゆる点で資本主義より優れているかどうかは定かでないが、資本主義とは違って社会主義が生産と消費の問題を解決できることは確かだ社会主義が生産と消費の問題を解決できることは確かだ:その後の数十年の歴史が示すように必ずしもそうとは言えない。平時において資本主義経済は決してその生産物全てを消費することはできず、常に余剰品を浪費し(焼却炉で燃やされる小麦、海に廃棄されるニシンなどなど)、失業が存在する。一方で戦時においては必要を満たすための全てを生産することは難しい。利益を生み出すと誰かが考えない限り何も生産されないからだ。社会主義経済ではこうした問題は存在しない。どの様な物品が必要とされるかをたんに国家が計算し、それを生産するために最善を尽くすだけだ。生産は労働力と素材の量によってのみ制約される。国内で使われる金銭は神秘的な全能性を失ってクーポンか配給券のようなものに変わり、その時点で利用可能な消費財の全てを購入するのに十分な量が発行されるのだ。
しかしながら近年になってわかったのは「生産手段の共有」はそれ自体では社会主義の十分な定義とはならないということだ。さらに次のようなものも付け加える必要があるのだ。すなわちおおまかな収入の平等(おおまかであれば十分である)、政治的民主主義、あらゆる世襲的特権の廃止……とりわけ教育における世襲的特権の廃止である。これらは階級制度が再び現れることを防ぐ、まさに必要不可欠な安全装置なのだ。人々の大多数がおおまかには同じ生活水準で暮らし、それと同時に政府に対するなんらかの統制力を持っていないのであれば、中央集権的所有はほとんど意味を持たない。「国家」はたんに自選の政党を意味する様になり、金銭でなく権力に基づいた少数独裁と特権が復活するだろう。
しかしそれではファシズムとは何なのだろう?
ファシズム、少なくともドイツ版のファシズムは戦争目的に資する効率的な特徴を社会主義から借りてきた資本主義の一形態である。その国内においてドイツは社会主義国家とかなりの共通点を持っている。もちろん所有権はまったく廃止されていないし、いまだに資本家と労働者が存在し、そして……重要な点であり、これこそ世界中の裕福な人間がファシズムに同調しがちな本当の理由なのだが……一般的に言ってナチ革命以前と同じ人々が資本家で、同じ人々が労働者である。しかし同時に国家、つまり端的に言ってナチ党があらゆるものを統制している。国家が投資、原材料、金利、労働時間、賃金を統制しているのである。工場主はいまだに工場を所有してはいるが、実際のところ、その管理者としての地位は低下している。その給料が実に、実に、高いことは確かだが、全員が実質的には国家に雇われているのだ。こうした体制が高い効率性を持ち、浪費と障害が除去されていることは明らかである。七年のうちに、この体制はこれまで世界が目にした中で最も強力な戦争機械を作り上げたのである。
しかしファシズムの根底にある思想は社会主義の根底にあるそれとはまったく違っていて相容れることはない。社会主義は究極的には自由で平等な人間の世界を目指している。社会主義は人権の平等を当然のこととしているのだ。ナチズムの考えはそれと正反対である。ナチ運動の背後にある原動力は、人間は不平等であり、ドイツ人は他の全ての人種に優越し、ドイツ人の権利が世界を支配するという信念である。ドイツ国外では何ら拘束を受けないというのだ。著名なナチの教授陣が繰り返し「証明」しているところによれば、北方人種だけが完全な人間なのだという。さらに彼らは(私たちのような)非北方人種はゴリラと異種交配できるという理論さえ議論している! こうしたわけで戦争社会主義の一種がドイツ国内に存在している限り、国家征服へと向かうその姿勢は端的に言って搾取者のそれとなる。チェコ人やポーランド人、フランス人などの果たす役割はたんにドイツ人が必要とするであろう物品を生産し、公然の反乱が起きない程度のわずか見返りを受け取ることなのだ。もし私たちが征服されれば私たちの仕事はロシアとアメリカに対するヒトラーの来たる戦争のための兵器を生産することになるだろう。実際のところナチスの目標は一種のカースト制度を作り上げることなのだ。そのカースト制度には大きく四つのカーストがあり、ヒンドゥー教のカースト制度と極めてよく似ている。頂点にいるのはナチ党で、二番目はドイツ人一般大衆、三番目は征服されたヨーロッパの人々だ。最後の四番目はヒトラーが「猿もどき」と呼ぶ有色人種で、彼らはまったくあからさまに奴隷扱いされる。
こうした体制は実に恐ろしいものに思われるが、機能する。なぜ機能するかと言えば、それは世界征服という明確な目的に合わせて計画された体制であり、その行く手を阻む私的利益を資本家にも労働者にもまったく許していないからだ。イギリスの資本主義は機能しない。なぜなら私的利益が主な目的であり、またそうでなくてはならない競争的な体制だからだ。あらゆる力が反対向きに拮抗し、個人の利益がしばしば国家の利益と完全に背反する体制なのだ。
危機にある歳月の間ずっと、巨大な工業施設と他の追随を許さない熟練労働者の供給を兼ね揃えたイギリスの資本主義は戦争準備の重圧に適応できないままだった。現代的な規模の戦争に備えるためには国民所得のより大きな部分を軍備へ向けなければならない。つまり消費財を切り詰めなければならないのだ。例えば爆撃機は軽自動車五十台やシルクの靴下八万足、あるいはパン百万斤と同じ価格だ。国民の生活水準を低下させなければ多くの爆撃機を持てないことは明らかである。ゲーリング元帥の言うように銃か、バターか、なのだ。しかしチェンバレンのイングランドではこうした変化は起きるはずもなかった。裕福な者は必要な課税に向き合わないだろうし、裕福な者が目に見えて裕福である間は貧しい者にだけ重い税金を課すことは不可能だ。さらに言えば利益が主な目的である限り、製造業者には消費財から軍備への変更をおこなう動機は生まれない。ビジネスマンは何よりもまず株主に責務を負っているのだ。イングランドは戦車を必要としているかもしれないが、自動車を製造したほうが利益は大きいだろう。戦争を防ぐためには敵に原材料を入手させてはいけないことは常識だが、より高値で売れる市場で売ることは経営義務だ。一九三九年の八月がちょうど終わる頃、イギリスの販売業者は我先にと殺到して錫やゴム、銅、シェラックをドイツに売りつけていた……一、二週間のうちに戦争が勃発するという確かな情報を明らかに手にしていたというのにである。ちょうど自分の喉を切り裂くためのカミソリを誰かに売るのと同じくらい無思慮なことだ。しかしそれは「良いビジネス」だったのだ。
さて今度はその結果を見よう。一九三四年以降、ドイツが再軍備を進めていることはよく知られている。一九三六年を過ぎた頃になると思慮ある者は誰もが戦争が近づいているとわかっていた。ミュンヘン会談の後はたんにいつ戦争が始まるかの問題となった。一九三九年九月、戦争が始まった。その八ヶ月後にわかったのは、装備に関して言えばイギリス軍は一九一八年の水準をかろうじて超える程度でしかないことだった。味方の兵士が海岸へ向かって絶望的な戦いを繰り広げているのを私たちは目にした。彼らは飛行機一機で三機に立ち向かい、ライフルで戦車を迎え撃ち、銃剣でトンプソン・サブマシンガンに抗っていた。全ての将校に行き渡るだけの十分な拳銃さえ無かったのだ。戦争が始まって一年が過ぎても常備軍ではヘルメットがいまだ三十万個足りていなかった。さらに、それ以前には軍服さえ足りていなかった……世界で最もウール生産量の多い国のひとつでそれが起こったのだ!
何が起きていたのかと言えば、自らの生活の変化に向き合おうとしない金満階級全体がファシズムや現代的戦争の性質に目を閉ざしていたのだ。そして低俗で扇情的な報道機関によって一般庶民には誤った楽観主義が給餌された。そうした報道機関は広告頼みで、それゆえに商業の状況を平穏に保つことに利害があった。ビーヴァーブルックビーヴァーブルック:マックス・エイトケン(初代ビーヴァーブルック男爵)。イギリスの実業家。電力、セメント、新聞などの事業を経営し、後には政治家としても活動した。の経営する報道機関は毎年のように大見出しで「戦争は起きない」と私たちに断言し、一九三九年初頭になってもロザミア卿ロザミア卿:ハロルド・ハームズワース(初代ロザミア子爵)。イギリスの新聞経営者、政治家。はヒトラーを「偉大な紳士」と評していた。危機にあったイングランドでは船舶を除くあらゆる軍需物資が明らかに不足していたにも関わらず、自動車や毛皮のコート、蓄音機、口紅、チョコレート、シルクの靴下が少しでも不足したという記録は残されていない。いったい誰が私的な利益と公的な必要の間の綱引きがいまだ続いているふりをしようというのか? イングランドはその命運を賭けて戦っているが、ビジネスは利益を賭けて戦わねばならないのだ。新聞を開けば二つの矛盾する過程が隣り合って起きているのを目にせずには済ませられない。節約を説く政府と浪費を説く無駄な高級品の販売業者をまさに同じ紙面で目にすることだろう。防衛に協力しよう、だけどギネスビールは最高。スピットファイアを購入しよう、だけどヘイグ&ヘイグとポンズのフェイスクリームとブラック・マジック・チョコレートも購入しよう。
しかしひとつだけ希望がある……世論が目に見えて方向を変えていることだ。もし私たちが今回の戦争を生き延びられれば、フランダースでの敗北がイギリスの歴史における最大の転機のひとつであったことがわかるだろう。この目を見張る大惨事の中で労働者階級、中流階級、さらには経済界の一部さえもが私的資本主義の完全な腐敗を理解したのだ。これ以前には資本主義に反対する主張はまったく相手にされていなかった。唯一の明確な社会主義国であるロシアは発展が遅れ、はるか遠くにあった。あらゆる批判が銀行家の薄汚い顔と株式仲買人の厚かましい笑顔にぶつかって砕け散っていた。社会主義だって? ハッハッハ! どこから金が湧いてくるんだ? ハッハッハ! 資本家貴族の地位は盤石で、彼らもそれをわかっていた。しかしフランスが崩壊すると笑い飛ばせないものが現れた。小切手帳も警官も役に立たないもの……爆撃だ。ヒュー、ドカーン! 何事だ? なあに、証券取引所が爆撃されただけさ。ヒュー、ドカーン! また誰かの投資先の汚い賃貸物件が駄目になった。いずれにせよ、歴史的にはヒトラーはシティ・オブ・ロンドンに吠え面をかかせた男とされることだろう。彼らの人生で初めて安逸が居心地の悪いものになり、職業的楽観主義者も何か悪いことが起きていると認めざるを得なくなったのだ。これは大きな前進の一歩だった。最悪の人間が勝利する自由競争よりも計画経済の方がおそらくはましだと、人為的に麻痺させられた人々を説得するぞっとする作業……そうした作業もこれから先はこれまでよりずっと容易になるだろう。