ライオンと一角獣:社会主義とイギリスの特質 第三部「イギリス革命」, ジョージ・オーウェル

第二章


私たちが戦時にあるという事実は社会主義を教科書の言葉から実現可能な政策へと変えた。

私的資本主義の非効率性はヨーロッパのいたるところで証明されている。その不公正さはロンドンのイースト・エンドで証明されている。社会主義者が長い間、戦いを続けてきた愛国心は彼らが使うことのできる大きな手段へと変わった。他の時であれば自身のみすぼらしい特権の残骸に貼りついて離れようとしない人々も自分の国が危機に瀕しているとなれば速やかに諦めるだろう。戦争とは変化をもたらす最大のものなのだ。戦争はあらゆる変化を早め、ささいな違いを拭い去り、目に見える現実的変化をもたらす。とりわけ戦争は完全に独立した個人などいないことをそれぞれの個人に思い知らせる。人間が戦場で死ぬのだと気がつくからこそそれを思い知るのだ。とはいえ今のところは命を諦めるかどうかというよりは娯楽や安楽、経済的自由、社会的特権を諦めるかどうかという問題である。自分の国がドイツに征服されるところを本当に目にしたいと思っている人間はイングランドにはほとんどいない。ヒトラーを打ち負かせば階級的特権が一掃されることを明確にできれば普通の人々、つまり週給六ポンドから年収二千ポンドまでの階級の人々の大部分は味方になってくれるだろう。こうした人々は絶対に欠くことができない。技術的専門家のほとんどはこの層に含まれているのだ。パイロットや海軍将校といった人々の俗物根性と政治的無知が非常に大きな困難をもたらすであろうことは確かだ。しかしそうしたパイロットや駆逐艦の艦長といった人々無しでは私たちは一週間も持ちこたえられないだろう。彼らに近づく唯一の方法はその愛国心を通してなのだ。賢明な社会主義運動は愛国心を利用したものになるだろう。従来のようにそれをただ批判することは止めなければならない。

しかしそれでは敵対する者がいなくなるのだろうか? もちろん違う。そうした期待はまったく子供じみている。

さらに熾烈な政治闘争、そして無意識か、あまり自覚的でない妨害活動があらゆる場所で起きるだろう。どこかの時点で暴力を使う必要が出てくるかも知れない。親ファシスト的な反乱が例えばインドで起きることは容易に想像できる。私たちは汚職、無知、俗物根性と戦わなければならなくなるだろう。銀行家や大企業経営者、地主や配当振出人、腰の重い役人は自身の利益のために妨害をおこなうことだろう。中流階級でさえ慣れ親しんだ生活が脅かされれば動揺すると思う。しかし多数派の意志が勝る可能性は十分にある。なぜならイギリスの国家的連帯感は決して崩壊せず、また最終的には愛国心が階級憎悪に勝るためだ。国家の分断を引き起こさずに根本的な変化を成し遂げられると想像するのは無益なことだが、信用できない少数派は戦時にはそうでない時よりもずっと少なくなるはずだ。

世論の転換ははっきりと起きているが放っておいてもそれが十分な早さで進むかはわからない。今回の戦争はヒトラーの帝国の安定化と民主意識の成長との競争なのだ。イングランドのいたるところで騒々しい戦いがあちらこちらへと広がっていることは見て取れるだろう……国会や政府で、工場や軍隊で、パブや防空壕で、新聞やラジオでそれは起きている。毎日のようにささやかな敗北と勝利が繰り返されているのだ。モリソンモリソン:ハーバート・モリソン。イギリス労働党の政治家。が国家保安大臣に就任……数ヤード前進。プリーストリープリーストリー:ジョン・ボイントン・プリーストリー。第二次世界大戦中にBBCの番組で司会者を努めていたが左派的すぎるとして番組を降ろされた。が番組から外される……数ヤード後退。それは探求する者と学ばない者との間の、若者と老人との間の、生者と死者との間の戦いである。しかし間違いなく存在する不満がたんに妨害で満足するのではなく明確な目的を持つことが是非とも必要なのである。人々が自らの戦争目的を定義する時が来たのだ。求められているのはシンプルで確固とした行動計画である。できるだけ広く周知できて、世論を団結させられるものだ。 

必要なのは以下に挙げる六点の計画だと私は提案したい。始めの三つはイングランドの国内政策に関するものであり、後のものは帝国と世界に関するものだ。

Ⅰ.土地、鉱山、鉄道、銀行、そして主要産業の国有化

Ⅱ.所得の制限。基準はイギリスにおける最高非課税所得が最低非課税所得に対して十対一の割合を超えないこと。

Ⅲ.民主的な方針に沿った教育制度の改革

Ⅳ.終戦時に離脱の権限を持たせて、ただちにインドを自治領とすること

Ⅴ.帝国総協議会を設立し、そこに有色人種の人々の議員を参加させること

Ⅵ.中国、アビシニア、および他の全てのファシスト国家の犠牲国との公式な同盟の宣言

この計画の全体的な方向性は間違っていないはずだ。率直に言って目標は今回の戦争を革命戦争へと変えてイングランドを社会主義的民主主義体制にすることである。最も単純な人間が理解できなかったり、理由を了解できなかったりするものを私は入念に取り除いた。ここに挙げた形であればデイリー・ミラー紙の一面に載せることだってできるはずだ。しかしこの本の目的のためにはいくらかの追加説明が必要である。

Ⅰ.国有化。産業の「国有化」を文字で書くことは容易だが、その実際の過程はゆっくりとした複雑なものになる。必要なのは全ての主要産業の所有権を、一般の人々を代表する国家に公式に帰属させることだ。これがひとたび実行されれば何かを生み出すことではなく不動産権利証書や株券を持っているということで暮らすたんなる所有者階級は取り除かれるだろう。つまり国有化が意味するのは何人も働かずして暮らすことはできないということなのである。それによって産業活動にどれほど急激な変化が現れるかは定かではない。イングランドのような国ではその全体構造を打ち捨てて再び土台から作り直すことなどできない。戦時であればなおさらだ。産業関係者の大部分が以前とほとんど変わらない職を続けることになるのは避けられない。つまり、かつての所有者や取締役は自らの職務を国の雇われとしておこなうのだ。実際は小規模な資本家の多くがこうした配置転換を歓迎するだろう。そう考えられるだけの理由はある。抵抗するのは大規模な資本家、銀行家、土地貴族、地主、有閑階級、おおまかに言って年収二千ポンドを超える階級である……その扶養家族全員を含めてもこうした人々はイングランドには五十万人もいない。農地の国有化は地主と十分の一税で暮らす人々を切り捨てることを意味するが、必ずしも農業従事者の妨げにはならない。その構成単位として既存の農場の多くを雇わずにイギリスの農業を再編成することは少なくとも最初のうちは考えにくい。農業従事者は有能な場合には雇われ経営者としてそのまま事業を続けることになるだろう。実際のところ農業従事者はすでにそうした立場にいる。銀行からの恒久的な借金を背負って利益を上げなければならないという負担を負っているのだ。特定の種類の小商い、さらには小規模な土地所有であっても国家はおそらくその妨げにはまったくならないだろう。例えば開始時点で小自作農階級を犠牲にするのは大きな誤りだろうと思う。こうした人々は必要不可欠で、全体的には有能であり、その仕事量は自分たちが「自分自身の主人である」という感覚に依存している。しかし国家はまずまちがいなく土地所有の上限(せいぜい十五エーカーといったところだろう)を設けることになるだろうし、都市部では土地所有はまったく許されなくなるだろう。

全ての生産財が国家の所有物であると宣言されたその時から一般の人々は国家とは自分たち自身なのだという今は無い感覚を持つことだろう。そうなれば彼らは戦争だろうとなんだろうと行く手にある犠牲に耐える心構えができるはずだ。そして、たとえもしイングランドが表面上ほとんど変わらないように見えても、主要産業が公式に国有化されたとなればただひとつの階級による支配は打ち破られているはずなのだ。そうなった後は、重点は所有から管理へ、特権から能力へと移り変わるだろう。戦争の困難によってもたらされる社会変化に比べれば国有化それ自体による変化は少ない可能性が高い。しかしそれは必要不可欠な第一歩であり、現実的な改革無しには不可能なのである。

Ⅱ.所得。所得の制限が意味するのは最低賃金の固定である。これは利用可能な消費財の量にシンプルに基づいた、管理された国内通貨を意味している。さらにはこれは現在おこなわれているよりも厳格な配給方式を意味する。現段階においては、全ての人間が完全に等しい所得を得るべきであることを世界の歴史が示していると言っても無駄だ。何らかの金銭的な見返りが無ければ特定の職業を引き受ける動機づけが存在しないことは繰り返し証明されている。一方で金銭的な見返りはそれほど大きくなくともよい。実際のところは私が示したような厳格な範囲に賃金を留めることは不可能である。例外や回避策は常に存在するだろう。しかし十対一の割合が最大正常変動量として不適切である理由はない。そしてこの範囲内であれば一定の平等感が実現できる。週給三ポンドの人間と年収千五百ポンドの人間であれば自分たちを同類と感じられる。これはウェストミンスター公爵と土手のベンチで眠る者では不可能なことだ。

Ⅲ.教育。戦時においては必然的に教育改革は行動というよりも公約とならざるを得ない。今のところ、私たちは義務教育終了年齢を上げたり、小学校の教員を増やしたりできる状況にはない。しかし民主的な教育制度へ向かって今すぐ実行できる施策はいくつかある。まずは比較的古い大学とパブリックスクールの自治を廃し、シンプルに能力を基準として選ばれた、国から補助金を受けた子供たちでそこを満杯にすることから始めるといいだろう。現在のパブリックスクールの教育は、一部は階級的偏見の訓練、一部は特定の専門的職業へ入り込む権利を得るために中流階級が上流階級へ支払う税金の一種になっている。事態が変わりつつあることは間違いない。中流階級は高い教育費に反対し始めているし、戦争がさらに一、二年続けばパブリックスクールの大部分は破産するだろう。また疎開が一定のささやかな変化を生み出していることも確かだ。しかし長い財政的な嵐を乗り越えることができた比較的古い学校のいくつかがよりいっそうひどい俗物根性の中心地としてなんらかの形で生き残っていく危険はある。イングランドの擁する一万の「私立」学校に関して言えば、その大部分は禁止される他ない。それらはたんなる営利事業でしかなく、多くの場合、その教育水準は実のところ小学校よりも低いのだ。そうしたものが存在するのはたんに公共機関によって教育されるのは何かしら不名誉なところがあるという広く信じられている考えのためなのだ。国家が全ての教育に対して責任を負うと宣言すれば、始めはそれが形だけのものであろうとも、こうした考えを鎮めることはできるだろう。私たちは行動と同じくらい形式を必要としているのだ。そして才能ある子供がそれに見合った教育を受けられるかどうかがたんなる生まれによって決まる間は「民主主義の擁護」についての私たちの議論がたわ言に過ぎないこともまったく明白である。

Ⅳ.インド。私たちがインドに提案すべきは先に述べたような実現不可能な「自由」ではなく、同盟や相互関係……要するに平等である。しかしまた私たちはインド人たちに、もしそうしたければ離脱は自由であると告げなければならない。それがなければ平等な相互関係は存在し得ないし、有色人種の人々をファシズムから守るという私たちの主張は決して信用されないだろう。とはいえ、もし自身の離脱を自由に決められるならばインド人たちはただちにそうすると思うのは早計である。イギリス政府が無条件独立を提案しても彼らはそれを拒否するだろう。離脱する権限を得るやいないや、そのための最も大きな理由は消えてしまうのだ。

両国の完璧な分離はイングランドにとってよりもインドにとっての惨事になるだろう。知識階級のインド人はそれをわかっている。現在のところ、インドは自身の身を守ることができないというだけでなく自給自足する力さえほとんど無いのだ。この国の全ての統治は圧倒的にイギリス人が多い専門家(エンジニア、森林官、鉄道員、兵士、医師)という枠組みに依存していて、それは五年や十年では置き換えられないものだ。さらに言えば英語が主要共通語であり、インドの知識人のほとんど全ては深くイギリス化されている。他国による統治への移行は……イギリスがインドから退場すれば日本やその他の大国がただちに入場してくるだろう……とてつもない転換を意味することだろう。それが日本人だろうと、ロシア人だろうと、あるいはドイツ人やイタリア人だろうと、イギリス人による低い効率の統治程度のものさえ実現できないはずだ。彼らには必要な技術者のあてや言語の知識、地の利も無いし、おそらくユーラシア人といった欠かざる仲介者の信頼を勝ち取ることもできない。もしインドがただ「解放」されれば、つまりイギリスによる軍事的保護を奪われれば、最初にもたらされる結果は新たな外国勢力による征服であり、次にもたらされるのは数年のうちに数百万の人々を死に至らしめる大規模な飢饉となることだろう。

インドが必要としているのは、軍事的保護や技術的助言のための相互関係を除いた、イギリスの干渉無しに独自の体制を築く力である。そしてそれはイングランドに社会主義政権が現れない限り考えられない。少なくとも八十年の間、イングランドは人為的にインドの発展を阻止してきた。一部はインドの産業が高度に発展し過ぎれば貿易競争が生まれるという恐れのためであり、一部は遅れた人々は文明化された人々よりも統治しやすいためだ。平均的なインド人はイギリス人よりもインドの同胞にずっとひどく苦しめられていることはよく知られている。けちなインド人資本家はそれ以上無い無慈悲さで都市労働者を搾取し、貧農は生まれてから死ぬまで金貸しの言いなりである。しかしこうした全てはインドの発展をできるだけ妨げることを半ば意図的に狙ったイギリスによる統治の間接的な結果なのだ。イギリスに最も忠実な階級は大公、地主、経済界……全体的に言って現状を維持することによって極めてうまくやっていける反動的な階級である。イングランドがインドに対して搾取的な関係をとることをやめた時には勢力図が変わるだろう。そうなればイギリスも飾り立てられた象と張りぼての軍隊を連れた滑稽なインドの大公をおだてて、インドの労働組合の成長を妨害させたり、イスラム教徒とヒンズー教徒を争わせたり、金貸しの無価値な生活を守らせたり、ご機嫌取りの小役人からの敬礼を受けさせたり、洗練されたベンガル人より半ば野蛮とも言えるグルカ人を好ませたりする必要もなくなる。インド人苦力の肉体から、ある面では高慢な無知さを持ち、ある面では嫉妬深い奴隷根性を持ったチェルトナムに住む老婦人やサーヒブ血縁集団全体の銀行口座へと流れる配当金の流れをひとたび遮断すればそれで終わりだ。インドの発展のために、そしてこれまでインド人が学ぶことを組織的に妨げられてきたあらゆる技術を彼らが学ぶためにイギリス人とインド人は肩を並べて働けるのだ。民間人であれ役人であれインドにいる既存のイギリス人職員の何人がこうした協定によって陥落するか……つまり「主君サーヒブ」たることを完全にやめるのか……はまた別の問題だ。しかしおおまかに言えば、年少の者たちと科学的教育を受けた役人たち(土木技師、林業と農業の専門家、医師、教育者)は有望である。高官や地方総督、長官、裁判官といった人々は望み薄だが、同時に彼らは最も簡単に置き換えられる者でもある。

社会主義政府によってインドに提案されるとしたら、おおまかにはこうしたものこそが実現される自治状態となるだろう。爆撃機によって支配される世界が終わりを告げる時までの対等な相互関係の申し出だ。しかし私たちはそれに無条件な離脱の権利を付け加えなければならない。これこそが私たちの言葉が本心であることを証明する唯一の方法である。そしてインドに当てはまることはビルマやマラヤ、イギリス領アフリカのほとんどについても準用される。

ⅤとⅥは自明だ。私たちがこの戦争を戦っているのは平和を愛する人々をファシストの武力侵略から守るためだと主張するのであればこれらは必要不可欠な前提である。

こうした政策がイングランドで支持されると考えるのはあり得ないほど楽観的だろうか? 一年前、いや六ヶ月前でさえそうだっただろうが、今は違う。さらに言えば……これは今この時期に特有の好機なのだが……それに必要不可欠な注目も得られるだろう。現在では数百万の発行部数を持つ注目に値する週刊誌が存在し、世に広める準備を整えている……私が先に描いてみせた計画と完全には一致しないかもしれないが、いずれにせよ政策のいくつかはそうした方向性に沿っているはずだ。こうした話に好意的に耳を傾けるであろう日刊紙さえ三つ、四つある。これが私たちが過去六ヶ月進んできた道のりなのである。

しかしこうした政策は実現可能なものなのだろうか? それは完全に私たち次第だ。

私が示した提案のいくつかは今すぐにでも実行できるものだが、他は数年か数十年はかかって、それでもなお完璧には達成できないだろう。完全に実現される政治計画などというものは決して存在しないのだ。しかし大事なのはこうしたものこそが私たちの表明する政策であるべきだということである。重視されるのは常にこうした方向性であるべきだ。もちろん、この戦争を革命戦争へと変える政策を現在の政府が約束するとはまったく期待できない。せいぜいサーカスの曲芸のように二頭の馬に乗ったチャーチルによる譲歩的な政権ができる程度だろう。所得の制限といった手段を議論の俎上に載せるのにさえ古い支配階級を追い払う、権力の完全な移行が必要となるはずだ。今年の冬の間にこの戦争がまた停滞状態に陥れば総選挙を要求するべきだと私は考えている。保守党組織は邪魔しようと死に物狂いになるだろう。しかしどうしても緊急に必要ということなら選挙無しで私たちの望む政府を手に入れることも可能だ。下から強く突き上げてやればそれを達成できるだろう。実現されたときに誰がその政府の一員となるのかについては推測できない。私にわかるのは人々が本当に望めば正当な人々が現れるだろうということだけだ。なぜならそれは指導者が生み出す運動ではなく、指導者を生み出す運動なのだから。

私たちがまだ征服されていなければ一年、いやおそらくは六ヶ月のうちに、これまで決して存在しなかったもの、具体的に言えばイギリスにおける社会主義運動が高まっていくのを目にすることだろう。これまで存在したのは労働者階級の創造物ではあるが根本的な変化を目指さない労働党か、ロシア人によって解釈されたドイツ人の理論でありイングランドへの移入に失敗したマルクス主義だけだった。イギリスの人々の心に真に響いたものは無かったのだ。その全ての歴史を通じてイギリスの社会主義運動が人の心を捉える歌……例えばラ・マルセイエーズやラ・クカラーチャに類したもの……を生み出すことは無かった。イギリス固有の社会主義運動が現れればマルクス主義者や過去に既得権を手にした他の全員がその手厳しい敵対者となることだろう。彼らは必ずやそれを「ファシズム」と非難する。すでに軟弱な左派知識人の間では、ナチスと戦えば私たち自身が「ナチになる」と断言することが普通になっている。彼らは黒人と戦えば私たち自身が黒くなるとでも言うつもりなのだろう。「ナチになる」には私たちはドイツの歴史を背負わなければならない。ただ革命を起こすだけでは国家は自身の過去から逃れられない。イギリスの社会主義運動はこの国を上から下まで作り変えるだろうがそれでもなお見間違いようのない私たちの文明の特徴、つまり私がこの本の最初の方で議論した固有の文明があらゆる場所に留まることだろう。

その運動は教条主義的なものではないし、論理的なものでさえないだろう。貴族院は廃止されるだろうが、まず間違いなく君主制は廃止されない。時代錯誤と不徹底をあらゆる場所に残したままにするだろう。おかしな馬毛製のかつらを着けた裁判官や兵士のボタンに彫られたライオンと一角獣はそのままだ。明確な階級による専制は打ち立てられないだろう。古くからの労働党を中心に組織され、その支持者の大多数は労働組合の一員だろうが、中流階級やブルジョアジーの若い子弟の多くの中に浸透しているはずだ。その指導的首脳のほとんどは熟練労働者や技術者、パイロット、科学者、建築士、ジャーナリストからなる新しい明確に区切ることのできない階級の出身者で、ラジオや鉄筋コンクリートの時代を熟知した人々だろう。しかし歩み寄りの伝統と、法は国家に勝るという信念が途絶えることは決して無いはずだ。背信者を銃殺することはあるだろうが、その前には厳粛な裁判の機会を与えるだろうし、時にはそこで無罪判決が言い渡される。あからさまな暴動はすぐさま冷徹に鎮圧されるだろうが、言論に対してはごくわずかな干渉しかしない。さまざまな名の政党が存続し続けるし、革命的分派は自分たちの新聞を発行し続け、あいかわらずわずかな影響力しか持たないだろう。国教制度は廃止されるだろうが、宗教を迫害することはない。キリスト教的道徳律へのぼんやりとした敬意は持ち続け、ときにはイングランドは「キリスト教国」であると発言することもあるだろう。カトリック教会は戦いを挑むだろうが、非国教徒の分派とイギリス国教会の大部分は折り合いをつけることができるだろう。それが見せる過去を取り込む力は外国の観察者に衝撃を与え、時には革命など起きたのだろうかと疑問を抱かせることだろう。

しかし、それでもやはりそれは本質的な変化をもたらすだろう。国営産業、所得差の減少、階級無き教育制度の確立を成し遂げるはずだ。その本質は、生き残った世界中の裕福な人々がそれに感じるであろう嫌悪からも明確になるだろう。目標とするのは帝国を崩壊させることだけでなく、それを社会主義国の連邦へと変え、イギリス国旗というよりは金貸しや配当振出人、愚かなイギリスの役人から解放することなのだ。その戦争戦略は資本支配国家のそれとはまったく異なるはずだ。なぜなら既存体制が倒された時の革命的な影響を恐れないでよいからだ。敵対的な中立国への攻撃や敵国植民地での原住民の反乱の扇動にも少しも罪悪感を持たずに済む。こうしたやり方で戦えば、もし仮に敗北したとしてもその記憶は征服者にとって危険なものになるだろう。フランス革命の記憶がメッテルニヒのヨーロッパメッテルニヒのヨーロッパ:クレメンス・フォン・メッテルニヒが議長を務めたウィーン会議以降の体制(ウィーン体制)を指すにとって危険なものだったの同じことだ。今のイギリスの体制に対しては感じないような恐怖を独裁者たちは感じることだろう。たとえ十倍の軍事力を持っていようともそれは変わらない。

しかしイングランドの無気力な生活がほとんど変わらずに続き、嫌悪を抱かせる貧富の対比がいまだいたるところに存在し、さらには爆撃に囲まれた今この瞬間に、どうして私はこれらの事態が起きる「だろう」と言えるのだろうか?

なぜなら「さもなくば」の言葉で未来を予測できる時が来たからだ。この戦争を革命戦争に変えるか(私が示したものと完全に一致した政策をとるということではない……ただそうした全体的な方針に沿ったものということだ)、さもなくば敗北して、さらに大きな結果を背負うかだ。どちらの道に踏み出すのかについてはまもなく確かなことが言えるようになるだろう。しかしいずれにせよ、私たちの現在の社会構造では勝利できないことは確かだ。それでは物理的なものであれ、道徳的なものであれ、あるいは知性的なものであれ、私たちが真に持つ力を結集することはできないのだ。


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