君主にあっては、信義を守り、清廉のうちに奸計を弄さずに生きることが、どんなに称賛に値するかは、だれしも認めるところです。それにもかかわらず、私たちの経験では、偉大なことを為しとげた君主というのは、善き信義にはほとんど重きを置かず、奸計で人の思考を欺くやり方を知りぬいており、最後には、言葉に信を置く者たちを圧倒してきました。君主たるものは、覇を競う[38]には二つのやり方があり、一方は法によるもので、もう一方は力によるものであることを、心得ているべきです。最初の方法は人間にふさわしく、第二の方法は獣にふさわしいのですが、しかし、第一の方法だけでは不十分なので、第二の方法を頼みにすることも必要なのです。ですから、君主にとっては、獣の道も人の道も利用するやり方を理解することが必要です。このことは古代の著述家たちが君主に比喩的に教えてきたことです。その記述によれば、アキレウスやその他の古えの君主たちは、ケンタウロスのキロンに養育され、その教えのもとで育ったということですが、それが意味しているのは単に、彼らが半獣半人のものを教師としたように、君主はどちらの本性についても使い方を知っておく必要があり、どちらか一方を欠けば、永くは続かないということなのです。ですから、君主は承知の上で獣の道をとらざるをえないのであり、その際は狐と獅子の性質を選ばなくてはなりません。なぜなら、獅子は罠からは我が身を守れませんし、狐は狼から我が身を守れないからです。それだから、罠を見破る狐となり、狼を恐れさせる獅子となる必要があるのです。ただ単に獅子たることに頼る者は、それが何たるかは理解でません。だから、名君たる者は、信義を守ると自分に不利なとき、またその信義を担保にするべき理由がもはやなくなったときには、その信義を守ることはできず、また守るべきでもありません。人間が完全に善良だとしたら、この教えは成り立ちません。しかし人間は邪悪なもので、信義を守ろうとはしないのですから、君主のほうでも守ろうとせずともよいのです。それにまた、君主にとっては不履行の正当な理由は見つかるものなのです。このことの際限の無いほどの最近の事例を挙げ、どれほど多くの条約や約束が反古となり無効となったかを示すことができます。そして、狐の道の使い方をもっともよく知る者が、もっともうまく成功する者なのです。
しかし、この特徴を隠し、見事な詐称者で猫かぶりとなる方法を、よく知っておくことが必要です。それに、人間はとても単純で、目先の必要に左右されやすいので、騙そうとする者はいつだって騙される人間を見つけだすものです。近年の一つの実例を黙って見逃がすわけにはいきません。アレクサンデル六世は人を欺くことしかしなかった人で、常々それ以外のことは考えたこともありませんでしたが、いつも獲物は見つかったのです。というのは、この人ほど、力をこめて断言し、おおげさに誓いを立てとうけあいながら、それを守らなかった人はいなかったのです。それにもかかわらず、彼は人間のこうした面をよく理解していたので、その詐術はいつもその思いのままに[39]成功したのです。
ですから、君主にとっては、私が数え挙げた善い性質をすべてもっていることは必要ではありませんが、そうした性質をもっているように見せることは、非常に必要なことです。また思い切って言えば、こうした性質を持ち、それをずっと維持することは、有害であって、そうした性質を持っていると見せかけることが有益なのです。つまり、慈悲深く、誠実で、思いやりがあって、信仰にあつく、正直である等々と見せかけて、そうする必要がないと思えば、まるで反対のものに変ることができ、そのように変る方法を知っておいたほうがよいのです。
君主、特に新しく君主となった者は、人が重んじることをすべて守ることなどできないし、また国家を維持するためには、信義[40]や友情や人間性や宗教に反した行いをせざるをえないことも、多々あるのだということを、理解しておかなければなりません。それだから君主は、風向きや運の変化が強いるままに、いつでも心変りできるようにしておく必要があるのです。けれど、前に言ったように、善から逸脱しなくてすむのなら、逸脱すべきではありません。しかし、強いられたなら、善を逸脱する方法を知っておくことも必要なのです。
こういうわけで君主は、上に挙げた五つの性質を備えていないことを、その口から漏らすことのないよう、注意を払わなければなりません。彼のことを見聞きする人には、まるで慈悲深く、信義にあつく、人情があって、高潔で、信仰にあついと思わせておかなければならないのです。この中でも最後の性質を持っていると思わせることこそが一番肝要なのです。なぜなら、総じて人間は手に触れたものより目で見たことで判断するものですが、だれもが君主を見るけれど、君主に触れるのはごくわずかしかいないからです。君主がどんなふうかは、だれもが見ますが、君主が実際にどんなものか知るのはわずかですし、しかも、国家の権勢が庇護している多数派の意見にあえて異を唱えるものはいないのです。しかも、あらゆる人間の行動、わけても君主の行動に、疑いをさしはさむのは分別あることではなく、人はその結果を見て判断するのです。
こういうわけで、君主はその国家を勝ち取り、守るという栄誉をになえばよいのです。その手段はいつでも賞賛され、君主はだれからも褒め称えられることでしょう。なぜなら、大衆はいつだって、見えていることによって、またもたらされる結果によって判断するものですから。というのも、多数者が依りどころをもたぬところでしか、少数者には居場所がないのです。
名は挙げないが、現代のある君主[41]は、平和だとか固い信義というお題目を唱えるばかりですが、実際にはこの二つにはほとんど正反対であり、もしそのどちらかでも守っていたら、その声望も王国も、幾度となく奪い取られていることでしょう。
[37] 「この章はマキャヴェリの著作のどれよりも激しい攻撃を受けてきた」Burd, “Il Principe,” p. 297.
[38] 「覇を競う」とは、すなわち「支配権をめっぐて抗争する」ことである。Burd氏によれば、この一節はキケロの『義務論』をそのまま、まねている。「なぜなら、争うには二つのやり方がある。ひとつは論争によるのであり、もうひとつは戦闘によるものである。前者が人間を特徴づけ、後者は獣を特徴づけるものであって、前者をとることができないときにかぎり、後者を頼るしかないのだ。」
[39] 「思いのままに(ad votum)」という言葉は1550年のテスティナ版では欠落している。「アレクサンデルは言ったことを決してやらない。チェザーレはやったことを決して言わない。」---イタリアの諺
[40] 「信義に反し」“contro alla fede”と次の段落の「まるで信義にあつい」“tutto fede”という二つの句はテスティナ版では欠落していることに注意。この版は教皇の権限の裁可を得て公刊されたものである。おそらく、“fede”という言葉に付随する意味は「信仰」すなわちカソリック信条であって、ここで言っている「信義にあつい」ではなかったのだろう。テスティナ版のテキストでは“religione”という語は使うのを許されているが、この語は例えば「信仰」といったあらゆるニュアンスでの信念を区別なしに意味するのに使われ、必然的にユグノーの異端を示すのに使われる語句だった。Southはその「説教 第9巻」p.69(1843年編)でこの語句について次のように解説している。「この連中の大パトロンにして指導者であるニッコロ・マキャヴェリはその政治体系で支配的な規則として『信仰にあついという見かけは政治家には役に立つが、実際にそうであるのは有害で致命的である』と断言した」。
[41] アラゴンのフェルディナンド王。「マキャヴェリが『君主』を著述していた頃は、無礼をはたらかずにフェルディナンドの名を挙げることは、明かに不可能なことだった」Burd “Il Principe” p. 308.